もう、少しだけ。
――と、期待して、一週間。
「来ない……!!」
昼休みの屋上をひとりで占拠している日数を、今日もまた更新してしまった。まったくもってうれしくない。
はしごはのぼらず、扉を監視するようにフェンスに寄りかかりながら待ち続けた。あの分厚い鉄の塊が、押し開かれる気配はない。
おいしさの半減したお弁当はとうに平らげ、オレンジジュースは三パック分も飲み干した。おかげで胃の中は水分で満たされ、ちゃぷちゃぷだ。
待つこと自体は、別に問題ない。得意分野だ。
だけど、あれだけ屋上でひなたぼっこをしていた木本くんを見てきた手前、さすがに違和感をおぼえる。
たまには顔を出すかなと予想していたが、大はずれだった。ちっとも現れてくれない。
このまま一学期が終わり、夏休みに入ってしまう未来が見える……。そんなかなしすぎる結末はぜったいいやだ。一度くらいは顔を拝みたい。
テストが近いから勉強をしているのだろうか。試しに教室で過ごしたら案外居心地がよかったとか……?
だとしても。
ちょっとくらい会ってくれたっていいじゃんか。
「……あ。さては、飽きられた!?」
大いにあり得る。木本くんは猫系だし、猫みたいに気分屋だから、わたしという未知の存在に慣れ、冷められちゃったのかも……。
となると、この状況はつまり、「待っている」というより、「放置されている」といったほうが正しいことになる。一度そう考えるとそうとしか考えられなくなってくる。
「放置……放置、かあ……」
言葉にしてみると、ダメージが倍になってのしかかる。せめて一言くらい言ってくれたら……いや、それはそれでダメージが大きくなるおそれがある。
来るかもしれないと期待して待つのは楽しさがあるけれど、来ないとわかっていて待つのはくるしいだけ。
夏祭りに一緒に行こうって約束した仲なのに。
もう会ってくれないのかな。
ねぇ。あの約束はどうしてくれるの。
渋々重いこしを上げ、屋上を出た。とぼとぼと階段を下りていく足取りは、これまた重い。
木本くんが来たとき用に買っておいた『オレンジ100%』から、やけくそ気味にストローを抜いた。4杯目だ。
放置されているとわかっていて、何もしないわたしではない。せっかく関わりを持てたんだ。ここで終わらせたくない。待っていても意味がないのなら行動あるのみ。
明日の昼休みは、2-1に行ってみよう。木本くんに自分から会いに行く。わたしはあきらめがわるいんだよ。知っているでしょう?
そこで、もし、木本くんが木本らしく居たら。
しょうがない。
特別にあの約束をなかったことにしてもいいよ。
いいんだよ。
「あっ、田中まひるだ」
「はい?」
ふと名前を呼ばれた。しかもフルネーム。
つられて疑問符付きで返事をしてしまった。廊下の数メートル先で女子ふたりが立ち止まっていた。見覚えのない人たちだ。
左のセミロングの子が「ちょっと……!」と、ひじで右のボブの子をつつく。「あ」と、ボブの子は口を手で覆った。こころなしか顔色がわるい。
あのふたりも例のうわさを聞いたのだろう。わたしも有名になったものだ。不名誉ではあるけれど。
どうしたものか……。
返事をしちゃったし、フレンドリーにあいさつでもしとく? それとも素通りするのが正しいの? わからぬ。こういうとき、気まずい空気感の切り抜け方に困り果てて、もっと気まずくなっちゃうんだよなあ。早く教室に戻って、ひよりんにいやされたい。
「……ねね、聞いちゃえば?」
「えっ」
「田中まひるなら知ってそうじゃん」
「ええ……」
「デキてるってうわさだし」
「……え、本気?」
「まじまじ」
なにやらコソコソと話を始めた女子たち。わたしのほうをチラチラと見ては、百面相している。
なんだ、なんだ。気になるな。わたしの名前が聞こえてきたぞ。またうわさ話か? わたしは不良じゃないよ?
おっと。あっちから近づいてきた。
ボブの子に押されながら、セミロングの子がおそるおそるといった様子でうかがってくる。緊張がこちらにまで伝わってきた。ごくんっとオレンジジュースを味わうひまなく流しこむ。
「あ、あのう……」
「は、はい……?」
「えっと……その……」
「ほら。聞いちゃえって」
「もう。わかってるって!」
「わ、わたしに何か……?」
「あ、あのですね、初対面でこんなことを聞くのはどうかと思うんですが……木本朱里くんと仲がいいんですよね?」
これはなんて答えればいいんだろう。うわさみたく「デキているのか」と訊かれたら、迷わず「NO」と首を振ったけれど、この訊き方は絶妙にむずかしい。
仲……いい、のか?
わたしは今放置されているし、心を開いてくれていると思ったら閉ざされたようだし。他の人よりは距離は、近い、とは思う。仲良くなくは、ない。仲良しだと断言もできない。
わたしと木本くんって、今、どういう関係なんだろう。
目を泳がせながら沈黙していると、女子ふたりはそれを肯定と受け取ったらしく、「やっぱり」「ほんとだったね」と嬉々としてアイコンタクトをした。
「あたしたち、木本くんと同じクラスで、仲良くなりたいって思ってはいるんですが、なかなか……こう……近づきにくいといいますか」
「美男子のクールなオーラに、みんなやられちゃってて。女子も男子も圧倒されちゃってるんですよ。1年以上経っても、遠巻きにして見とれてるだけでいっぱいいっぱいで。イケメンは3日で飽きるって、あれ、うそですようそ」
「どうしたら木本くんと仲良くなれるかが、クラスみんなの悩みなんです。なんとか話しかけても避けられてしまいますし……。よければ何かアドバイスをいただけたらいいな、と……お、思いまして……」
同学年相手に尊敬語を徹底していることには、この際触れないでおこう。
そんなことよりも、今はよろこびのほうが勝っている。恐縮しきっている女子ふたりに、わたしはこっそり胸をなでおろした。
木本くんは、一匹狼ぶっている。
壁を作って、自己完結して、うそを重ねて。
独りが好きなふりをする。
いつしか“みんなの目の保養”になっていた。クールでかっこいいともてはやされ、安易に近づく人はいなくなった。
そんな彼をなりふりかまわず追いかけ回す物好きは、今ではわたしと小野寺くんくらい――かと思っていた。
でも、いた。ここにいたよ。
“みんなの目の保養”で終わらせていない。あきらめていない。追いかけたくてくすぶっている人が、こんなにいた。
木本くん。木本くん。
仲良くなりたいんだって。
みんな、独りにさせたくないんだよ。
木本くん。
みんなの気持ちに、気づいてる?
わたしの気持ちにも気づいて。
「――あ、」
廊下の突き当たりから、ぺらぺらな靴音がやけに耳孔を叩いた。女子ふたりのちょうど真ん中に、黒のベストを視界に捉える。
今どんな表情をしているのか、遠くてはっきりとは見えない。それでも誰なのかを当てるには、十分な距離だった。
どれほど離れていたってわかるよ。会いたかったんだもん。
彼が、来た。
わたしの待ち人。
数拍遅れて、女子ふたりもうしろを振り返った。黒のベスト、整った色白な顔、ダークブラウンの短髪。徐々にのぼっていった視線を、ふたり同時にお互いの上履きへ転がした。
「えっ。木本くん? あれ、木本くん!?」
「そうだよ! 現実逃避やめよ!」
「ど、どど、どうしよううう! 本人来ちゃったよ!」
「作戦失敗!」
「本人の前で聞けないし」
「木本くんに聞くのも無理」
仲良くなれるアドバイスどころではなくなった。
再び、赤色ラインの入った靴が、音を鳴らし始める。何を思ってか、木本くんがこちらに近づいてきた。こちら方面に何か用事でもあるのだろうか。しかし方向は明らかに、廊下の脇に固まっているわたしたちのいるところだ。
さらに女子ふたりはうろたえる。会話を聞かれているはずもないのに、「聞かれた!?」「うざがられる!?」と要らぬ心配をしている。
木本くんが接近するにつれて、表情が見えてきた。なぜか仏頂面。女子ふたりが取り越し苦労するだけある。あれでは機嫌を損ねたのではないかと不安になる。
本当に会話が聞こえたの? いやいや、まさか。超のつく地獄耳じゃあるまいし。万が一聞こえたとしても、仏頂面になる内容じゃなかった。だったら、どうして。
木本くんがやきもきしてる理由が、見当たらない。
「き、きもと、く……」
「…………」
「え、あ、ちょっ」
一週間ぶりに目が合った――のもつかの間、すっと真横に通り過ぎる。わざわざ女子ふたりの間に割って入り、足を止めずに歩いていく。
わたしを横切ったタイミングで、オレンジジュースを持っているほうの手首をつかまれた。目を逸らした方向にわたしを引っ張っていく。
「木本くん……!?」
呆然とした女子ふたりを置いてけぼりにし、木本くんは黙々と階段を上がっていった。わたしの手首をつかんだまま。
な、何が、どうなっているの?
なんで連れ去られているの!?
木本くんの歩く速度は速く、手首をつかむ力は強い。1週間わたしを放置していたとは考えられないくらい、距離を近くして、我が物顔で触れてくる。
紙パックのオレンジジュースをえさにつられたんじゃないってことは、わかるよ。
教えて。
聴かせて。
きみの気持ちも。
「す、ストップ! 待って木本くん! ねぇってば!」
屋上へと続く重厚な扉の手前。階段のせまい踊り場で、ぐっと足を踏ん張る。
やっと止まってくれた。
木本くん、ずんずん先に進んで行っちゃうんだもんなあ。屋上のところまで戻ってきちゃったよ。昼休みが残りわずかなのを気にも留めてないんだろうね。別に、いいんだけど。
「木本くん、なんで……」
「大丈夫か!?」
「……え?」
急に木本くんの顔が近づいた。ドアップになる仏頂面に、畏れや憂いがわかりやすく渦巻いている。
大丈夫か? 大丈夫か、とは……?
もしかして……心配されている? なぜ? 木本くんに心配されることなんて何もなかったはずだ。疑問しか浮かばない。
状況を把握しきれず、ぽかんとすれば、彼は眉間を寄せた。
「大丈夫……なのか……?」
「……な、何が???」
何かが食いちがっている。それだけはなんとなく理解できた。
「やな思い、してたんじゃ……」
「してないよ?」
「…………なら、あんなとこで、何、してたんだよ」
「仲良し大作戦のご相談」
「はあ?」
あんなとこ、といっても、一年の教室からちょっと離れた階段の近くだ。購買がそばにあって、あんなとこ呼ばわりするような辺鄙な地じゃない。
昼休み終盤なだけあって、人気がほどんど無いに等しかったけれど、ちょっと話しかけられて、ちょっと相談に乗っちゃうなんてことはよくあるだろう。現にあり得たんだからしょうがない、うん。
仲良し大作戦の詳細は、あえて教えないでおく。女子ふたりの悩み、引いては2-1の課題だもの。仲良くしてやってと告げ口するのは、なんとなくお門違いな気がする。話したとて効果があるとは思えない。
木本くん自身で確かめてみてね。
「何だよそれ……」
「何だよって、何だよもう」
「全然大丈夫じゃねぇか」
「うん。大丈夫だよ。最初からそう言ってるじゃん」
意味わかんなそうにされましても。これが事実ですし。この状況のほうがよっぽど意味わかんないよ。
はあああ、と木本くんは息を吐きながら、脱力したようにしゃがみこんだ。依然としてごつごつとした大きな手は、わたしの手首に巻きついている。力は弱まったのに、いっこうに離れない。
飲みかけのオレンジジュースは、待ちぼうけを食らっている。
「木本くんは何を心配してたの」
「俺は、てっきり……」
「……?」
「また、おれのせいで……やな思いさせちまったのかと……」
わたしが、木本くんのことで。
やな思いをする、って。
それって。
――『朱里のファンとかに何かされたりしねぇの?』
もしかして。
わたしより小さくなった木本くんをひと目見れば、憶測が確信に変わる。わからないことがわかっても、ちっとも晴れやかな気分になれない。心音に重みが増した気がした。
柔らかそうな髪の真ん中に、つむじがひとつ。下へ下へ沈んでいる。そこに待ったをかけた。甘やかな拘束を受けていない左の手を、つむじの上に乗せる。消沈するのちょっと待った。
ひざを曲げ、木本くんと目線を同じにする。きれいな黒い瞳にうっすら濁りがほのめいていて、あいまいに苦笑するほかなかった。
「いじめ」
「っ、」
「られてるって、思ったんだ?」
「…………」
木本くんが心配していたのは。
小野寺くんが気にしていたのは。
過去に、あったんだ。やな思いをした『何か』が。
だから。
――『あれはおまえのせいじゃねぇって、何度言やわかんだ』
――『……俺のせいで、やな思いとか、するかもしれねぇじゃん』
きっと、それこそが、木本くんがうそをつく理由だった。
大丈夫じゃなくなるのがいやで、同じ思いをしたくないから、神経をとがらせて案じていた。「また」が起こり得ないように、独りでいた。逃げていた。そうやって保っていた。
屋上で、わたしと会うまでは。
「それで、わたしを連れ去ったんだ。助けようとしてくれたんだね」
「…………」
「でもどうして? 最近わたしのこと避けてたよね?」
「……それも、だ」
「え?」
「うわさを、聞いたから」
わたしが不良だってやつじゃないほうの、あの、例の。とっくに木本くんの耳にも入っちゃってたか。
うわさってつくづく厄介だ。いつ、どこからか勝手に拡散される。中身をそこら中で足し引きされ、そして知らぬ間に収束していたりするのだ。どれだけ横暴に振り回しているのか、その影響力を知りもしないで。
「またおれのせいで、傷つけられるんじゃねぇかって……。だから……その前に、距離を置こうと思った」
放置されていたわけじゃなかったんだ。
木本くんなりに守ろうとしてくれていた。
「……なに笑ってんだよ」
黒ずんだ三白眼だけをじろりとよこして、ぶすっとしてる。原因は、明々白々。状況と不釣り合いな、わたしのにやけ具合。
うん、ごめんね。
不本意に地雷を踏んで、本気でへこんでるのは重々わかってる。その地雷が一朝一夕で片付けられるものではないことも、被害こうむった古傷がいまだに痛むことも。ちゃんと届いてるよ。
わたしだって、不謹慎だからにやけるな、にやけるなって、がんばって抑えた。でも、むりだった。自制の甲斐なく、へらりとだらしなく破顔してしまった。
うれしかったの。
木本くんにとって、わたしは守ろうと思える存在になってたんだって、そう思ったら胸が熱くなった。まるで大切にされているようで、くすぐったくて、いとおしくって。
どうしようもなく自惚れた。
「わたしのこと、思いやってくれてありがとう」
「……別に、おれは……」
「だけどね」
放置されてさみしかったよ、とか。ひとりきりの屋上でずっと待ってたよ、とか。そんなことはもはやどうだっていいんだ。
わたしが伝えなくちゃいけないことは、わたしの思いよりも優先したいこと。深い深い古傷の表面を撫でる程度だろうけれど、そこに温もりが宿るなら、それに意味がある。そう、信じたい。
わたしにも、きみを、大切にさせて。
「わるい方向に考えすぎないで。さっきの子たちも、わたしにいじわるなことをしようとしたんじゃないよ。大切なクラスメイトのために、不良だってうわさされてるわたしに勇気出して声をかけたんだよ」
「…………」
「やな思い、してないよ。いいことばっかりだったよ」
「……でも、っ」
受け止めきれずに開いた、乾いた唇。わたしは木本くんの手のひら付きの片腕をひょいと持ち上げ、噛み跡のついたストローの先端をそこに差しこんだ。
でも……そうだね。世の中、そう甘くない。オレンジジュースよりも酸っぱいことであふれている。明日はわが身だ。何が起こるかわからないし、『何か』が起こるかもしれない。
そのとき、わたしは。
「仮にいじめられたとしても、負けないよ。味方を集めて一緒に戦うから安心してよ」
「た、たたかう……」
「やられっぱなしはやだもん。真っ向から迎え撃つよ。あっ、もちろん木本くんも味方としてよろしくね。戦力は多いほうがいいし」
「戦力って……ふっ。かっけーな」
黙って守られているだけのお姫さまにはなれない。蚊帳の外に追いやられるくらいなら、戦場に立つことを選ぶ。
みんなと一緒ならきっと怖くない。
みかんの匂いが漂う。甘酸っぱい風味が、木本くんの口の中に注がれた。ひと口ぶんの量が減り、紙パックの厚みがなくなる。
手首を締め付けていた木本くんの手が、おもむろにわたしの手の甲をなぞった。そのままするりと『オレンジ100%』を奪い取る。すでにソレは木本くんのものだ。
チャイムが鳴った。昼休みが終わる。わたしは立ち上がり、ジュースを飲む木本くんに手を差し伸べた。
「木本くん」
「ん」
「たぶん、ここは、木本くんが思っているより何倍もやさしい場所だよ」
屋上の扉からもれでた、鮮明な光。黄みがかった白い光の線が、踊り場の穢れを祓うように神々しく照らす。正午を過ぎた空は、無垢な天使のようにごきげんだった。