◇◇
土日明けの学校は、睡魔に負けやすい。
寝ぼけ眼で登校すると、ひよりんが駆け寄ってきた。もはや突進に近い。2日会えなかっただけでこんなにも熱烈なお出迎えをされるとは思っていなかった。
席に着いたとたん寝落ちしてしまいそうなわたしとは対照的に、ひよりんは睡魔に圧勝だったらしく、眼光がぎんぎんに光っている。
「お、おはよう、ひよりん……」
「うわさ聞いた!?」
「へ? うわさ?」
開口一番、あいさつもなしに切り出された。
朝から高いテンションに連動しているかのように、栗色の三つ編みがぴょんっと跳ね上がる。
本日のひよりんのヘアアレンジは、ざっくりめなおさげ。ベストの胸元には丸メガネがかけられていた。おさげにメガネは相性がいい。あとでメガネを付けてるところをぜひとも写真におさめたい。
それにしても、英語のテストがあるときのテンションとは大違いだ。今日の授業に英語は含まれていないのも要因のひとつかもしれない。本題がうわさであることも引っかかる。
ひよりんがここまで騒ぐうわさって、一体どんな……。
「あー……」
「聞いたの!?」
うわさといえば、ひとつ、思い当たる節があった。アレだ。例のやつだ。むしろアレしかない。
「アレでしょ? わたしが不良だっていう」
「まひるんと木本朱里がデキてるって!」
ん?
「「……えっ?」」
ほぼ同時に発表したうわさは、てんで噛み合わなかった。寝耳に水だ。今ので眠気はきれいさっぱり抹消された。
聞きまちがいでなければ、目玉が飛び出そうな内容を言っていなかっただろうか。わたしと木本くんが……どうとか、こうとか。
おどろきを通り越して混乱している。内心パニックだ。恋愛に免疫のない人間に、その手の誤報はやめていただきたい。心臓に悪い。
「な、なに、そのうわさ……」
「そっちこそ! そのうわさ、いつ知ったの!?」
「わたしは、その……このあいだ……」
「なぬぅ!? まひるんが傷つくかと思って、まひるんの耳には届かないよう、あの手この手を使ってひた隠しにしてたのに……」
ひよりんは三つ編みの髪の毛をきつく握りしめた。むうっと右のほっぺをふくらまし、悔しさと歯がゆさをほのめかす。
……気づかなかった。
人知れず守ってくれていたんだね。だからわたしは、のんきに過ごしていられたんだ。
ひよりんのおかげで、なんとかなっていた。
うなだれた栗色の頭を撫で、ありがとうと言うと、しょぼくれていたひよりんのテンションが一瞬にして戻った。
「ひよりんは、その……で、デキてるってうわさは、いつ、どこで、誰が言ってたの?」
「今朝だよ。靴を履き替えてたとき、女子が話してるのを聞いたの。最近、あの孤高のプリンスと一緒にごはんを食べて、下校デートして、いちゃついてる子がいるらしい~って」
「それが、わたしだと……」
「そゆこと!」
むずかしい問題だ。テストよりよっぽど難易度が高い。
すべてまちがいじゃないところが、よけいに複雑なんだよなあ。木本くんとランチしているし、先週の金曜日は途中まで一緒に帰った。そう、事実無根とは言いがたいんだよ。
だけど……いちゃついてはないよ?
一緒に帰ったけど、あれはデートとは言えない。はたからそう見えるようなことをした覚えもない。いちゃつくとは何なのか。誰か、模範解答を教えてほしい。
「まあ、うわさにもなるよね。みーんな、ゴシップ好きだし。渦中の人物が木本朱里ならなおさら! 彼をついに陥落させた美少女は誰だ!? ってね」
「いやいや。美少女て」
「お似合いだもん。まひるんと木本朱里。なんてゆうの? 絵になるっていうかさ~」
「えっ!? 朱里と田中、付き合ってんの!?」
素っ頓狂な叫びとともに、ななめうしろの席に、どす、と重たい音が落ちた。
うわさに動じる者がここにもひとり。
ちょうど教室にやってきた小野寺くんは、手荷物を机に落っことしたきり、ぎょっとして目を白黒させている。
どっしりとしたどでかいリュックに、うすっぺらい学校指定のスクバが倒れかかる。朝練を終え、汗をしっかり吸収したタオルが、まめだらけの手元からすり抜けた。ひらりと舞い、リュックの上にかぶさる。
「そっか。あいつ、やっと……」
「ないない! 付き合ってないよ!」
「今は、ね~?」
なぜかよろこんでいるところ申しわけないけど、ちがいます。鵜呑みにしないでください。カレカノじゃないですよ。
大きく両うでを交差させてバツ印を作る。浮かれた表情を冷ましていく小野寺くんとは反対に、ひよりんは期待を高まらせている。
今後はどうなるかわからないけど、とにかく現時点では付き合ってないし、その予兆もありませんー!
「なんだ。付き合ってねぇのか」
「そうそう。根も葉もないデマだよ。……友だちになれてるかさえあやしいのに」
「それはなれてるんじゃない?」
「ええ……? そうかな?」
「だって、あの木本朱里にこんなうわさが立つんだよ? 木本朱里がまひるんに心を開いてる証拠じゃない?」
ひよりんは小野寺くんにあいさつがてら同意を求める。彼もうんうんとうなずきながら、タオルをリュックにしまいこんだ。
そう……だろうか。
目には見えない壁が、本当に失くなっていっているのか? 平日はほぼ一緒にいる……というか、つきまとっているから、自分ではいまいち計り知れない。
言われてみれば、木本くんから言葉をくれることが多くなった。気がする。
心の底に忍ばせられた深層部分には、まだあまり触れることはできていないけれど。それでも。木本くんの思いは、届くようになった。
自惚れてもいいのかな……。
「つうか、そんなうわさ立って大丈夫なのか?」
「と、いいますと?」
「朱里のファンとかに何かされたりしねぇの?」
やけに不穏な面持ちをしている。小野寺くんの考える『何か』が何なのか、手に取るようにわかった。
案ずるのもわかる。よく言うもの。女の争いは陰湿で、たちがわるい、って。そこに恋愛という厄介な問題まで上乗せされたら、陰湿どころじゃなくなる。どろどろでぐちゃぐちゃなド修羅場だ。想像するだけでぞっとする。
「今のところは何も……。でも、」
「だいじょーぶだよ。ねー?」
「うん。大丈夫な気がしてる。根拠はないけど」
「ないのかよ」
「あたしはあるよ! 今は木本朱里を本気で好きな子ってあんまりいないと思うんだよね。憧れ止まりってゆーか、アイドルみたく崇拝してるだけってゆーか。だからそこまで“ザ・ガチバトル!”みたいな危険な事態は起きないと思うよ?」
ひよりん調べは、あながち的を得ていると思う。木本くんの立ち位置が“みんなの目の保養”で定着しているのは、女子の反応から見て取れる。
本気で木本くんに恋をしている子もいるだろうが、小野寺くんの言う『何か』は、恋する気持ちだけでは起こり得ない。純白な好意にあれやこれや感情をごちゃまぜにして、はじめて汚れていくのだ。
人を好きになることが、わるいんじゃない。
「うわさが流れてても、今日も変わらず屋上でごはん食べるんでしょ?」
「うん! もちろん! 実はね、夏休みも会う約束しちゃったんだ」
「まじか!」
「かあいいねぇ」
うわさは、うわさ。わたし自身はこれまでどおりわたしらしくいる。うわさなんぞに左右されてたまるか!
でも、とひよりんはつぶやく。わたしの机にひじをついた。いじらしくへそを曲げている。
「……たまにはあたしともごはん食べてね。さびしいよ」
「だから言ってるじゃん。ひよりんも一緒に食べようよって」
「あたしと、まひるんと、木本朱里で? 何その謎メン。やーだー。だったら朝也に英語教わりながら食べたほうがまし!」
「は、やだよ。昼休みまで勉強したくねぇ」
「えー! 朝也にもフラれたー!」
「今月の昼休みはほとんど部活のミーティングで埋まってっし」
「地区大会、近いもんね」
季節が夏になった。ということは、高校野球の大会が差し迫っているということだ。
かの有名な甲子園まで1か月を切った。朝と放課後の練習メニューが激しくなり、休日は練習試合が多くなると聞いた。野球部の本気度がわかる。
リュックにぶら下がる、手作りのお守りがみっつ。チャックの出発点から覗く、グローブとシューズについた傷。爽やかな柔軟剤に押し負けた汗のにおい。その頭をきれいに刈ったときも、きっと情熱を懸けていた。
この熱から逃げるのは、さぞ骨が折れることだろう。
きみも、難儀だね。
「そういえば、練習試合はどうだったの?」
「勝った!?」
土曜日の試合のために、金曜日の放課後に体を張ってボールを追いかけていたね。実はこっそり見ていたんだよ。
わたしも、木本くんも。
日に日に小野寺くんの肌が浅黒くなり、手のまめが育っていることを知っている。
そわそわと結果を待ち望めば、小野寺くんはためにためてブイサインを見せびらかした。努力が報われたのだ。
「ばっちし! 大差で圧勝!」
「おお! やったね! 幸先いいね! ホームラン打った!?」
「ホームランっつーのはな、ほいそれと打てるもんじゃねぇよ」
「なあんだ」
「なんだとはなんだよ。ひでえやつ」
「小野寺くんも試合に出たの?」
「ああ。1年ときから出てんのはおれだけなんだ!」
へへんっと小野寺くんは鼻高々に自慢する。リュックの中からユニフォームを引っ張り出して、証拠を見せてくれた。ユニフォームの背には大きく「3」の文字。ポジションは、三番ショートらしい。
入部したてのころからずっと選抜され続けるレギュラー。その肩書きは軽いものじゃない。期待の星だ。すごいなあ。かっこいい。
「朝也こそ、その才能をやっかんでチームメイトから何かされたりしてないの?」
「ねぇな」
即答だった。陽気な笑いまでセット。
ひよりんは意表をつかれたようにぱちくりとまばたきをした。
小野寺くんはじわじわとえくぼを深めながら、ていねいにユニフォームをたたんだ。袖を折り、ぱたんと生地を合わせる。ごつごつとした大きな手は、どこまでも繊細にユニフォームを扱っていた。
「おれ、別に、才能ねぇし。チームメイトもそのことを知ってるしな」
「え……!?」
「朝也、運動神経いいのに!?」
体育の授業で、小野寺くんが運動神経バツグンなのは把握済みだ。五十メートル走のタイムも、シャトルランの回数も、クラスでいちばんだった。筋肉のついた体格を思う存分に活かし、どんな授業内容でも人並み以上こなしている。
あれが才能ではないのなら、
「運動神経がいいだけじゃレギュラーにはなれねぇよ。ここに入学したのも、スポーツ推薦じゃなくて一般だったし」
どれだけの努力を重ねてきたのか。
人より何倍、何十倍……それ以上の熱量が必要だったはずだ。野球にくわしくない素人の想像をはるかに超える過酷な道だっただろうに。そもそも、それをできることこそが才能だと、自負してほしい。
けらけらと喉仏を転がしながら、彼は後頭部を掻いた。
「中学は、3年のときしか出場してないんだ。あいつ――朱里の代わりだった。あんときはボロボロだったな」
「そうだったんだ? なのに今は1年からスタメン入りって、ひかえめに言ってやばくない!? 下剋上じゃん!」
「だろ? けっこうがんばってきたから、レギュラーに選ばれたときは泣いたぜ」
「しかも練習試合は圧勝でしょ? すごいよ朝也! すんばらしいよ!!」
拍手喝采を浴び、小野寺くんの口から白い歯がのぞいた。
中学のころ、部活を引退したあとも、受験勉強と並行してトレーニングを続けていたらしい。けっこう、ではなく、そうとうな練習量を積んでいるにちがいない。
泣いたぜ。あの言葉は形容でもなんでもなく、事実なんだろう。
「うちの中学は、すげえやつがいっぱいいてさ。朱里も、そうだった。あんときは一緒に戦えなかったけど……今なら」
今なら。
もう代わりじゃない。
肩を並べられる。
背中をあずけられる。
強くなれた、今だからこそ。
だけど。
「だけどあいつはチームにいねぇし、無視しやがるし。……くそくやしかった。あいつのすごさを、俺は誰よりも知ってるのに……」
「小野寺くん……」
「朝也も木本朱里のファンなんだね」
「ファン……。はは、そうかもな。おれ、あいつのプレーが、好きだった」
苦笑いする彼の眼差しが、凛々しく光る。きらきら、と純粋無垢に表現するには少し、ほの暗く翳っていた。
「なあ、田中。あいつに伝えてくんね? おれだと避けられちまうからよ」
――大会を勝ち進んで、待ってっから。
わたしたちは、ずっと待っている。待つ側にはとうに慣れてしまった。ときおり急かしてしまいがちなじれったさは、心の一部になりかけているといっても過言ではない。いや、過言かも。
ここまできたら忍耐強く待っていようと思う。小野寺くんも同じ気持ちなんだろう。
いつまでも同じ場所に居るから、好きなだけ逃げておいで。