昇降口は森閑としていた。

有名なブランドで買ったお気に入りのスニーカーに履き替え、とんとんと靴先を地面に当てる。校舎を出ると夕日に照らされ、丸出しのうでにほどよい熱を感じた。

東屋に行き、読みかけの小説に没頭し、きりがいいところで家路につく。放課後の予定はこれで決まり。時間は押したが、予定に変更はない。脳内シミュレーションもばっちりだ。


校門を通り、グラウンドに沿うように道なりに歩いていく。グラウンドでは、部活に所属する生徒が精を出していた。

奥のほうは野球部が占拠している。コーチがバッド片手にボールを繰り出し、部員は果敢にキャッチしていく。小野寺くんは顔を泥だらけにしていた。


そういえば、明日、土曜日に練習試合があるって言ってたっけ。

だからか、グラウンドで練習しているどの部活よりも、野球部は一段と気合いが入っている。がんばれ、と心の中でエールを送った。



……あれ?



わたしの他にも、様子を見守っていた影があった。数メートル先で立ち止まり、フェンス越しにグラウンド側を見入っている。

見覚えのありすぎる姿だ。

あの、ダークブラウンの短髪。
あの、猫っぽい顔立ち。


まちがいなく、木本くんだ。


彼の視線をたどる。グラウンドの奥に固定されていた。念のためもう一度確認するが、終着点はやはり同じ。野球部の練習風景に目が釘付けになっている。


カン、と金属音が響いた。野球部のコーチが、本日何十球目かのボールを打った。カーブを描くことなく、ボールは地面に平行するように低く低く飛んでいく。


木本くんは気をもんでいた。力強く歯噛みしている。


パシ、と乾いた音が響いた。使い古されたグローブに、ボールがおさまっていた。捕ったのは、小野寺くんだ。茜色の日差しを一身に受け、泥でにごった汗をきれいに光らせている。


前方では、彫刻さながらの横顔が、やわくほぐれていた。唇はたしかに弧を描き、青臭い英姿をほこらしげに見つめている。


木本くん、もしかして……。


思わずわたしは笑みをもらすと、持ち前の敏感さで木本くんが振り向いた。にやけるわたしを捉えるやいなや、するどく目尻を吊り上げる。

一も二もなく逸らされた。彼はズボンのポケットに手をつっこみ、早歩きで立ち去ろうとする。




「あ、待ってよ、木本くん!」




駆け足で追いかけた。許可を得ることなく、隣に並ぶ。仏頂面を覗いてみたら、ふいとそっぽを向かれた。

ちょうど木本くんの耳が目に留まった。夕焼けを淡くうすめた彩りをしていて、またにやけてしまう。




「野球部、気になってたんだ?」


「……うざ」


「もしかして、たまに野球部見てたりする?」


「……別に。ちげえし。たまたまだし」


「たまたま、か。そっかあ」


「……あんたこそ、こんな時間まで何してたんだよ」


「わたしは日直。木本くんも遅くまで残ってたんだね?」


「……おれ、は……」




野球部のほうを一瞥した彼は、気まずそうにうつむいた。おおよそ、また野球部に勧誘されたとか、小野寺くんと話していたとか、そのへんだろう。


野球部を見守る彼は、いつになくやさしい表情をする。なつかしさにくらみ、いとしさをたたえ、一目見ただけで野球が好きなのだとありあまるほど伝わってくる。


その思いを小野寺くんも知っているから、遠ざかろうとする木本くんを、必死になってつなぎとめようとしているのだ。

それでも、きっと。




「逃げてたの?」


「っ、」




伸ばした手は、つながらない。


虚を衝かれたように木本くんの肩が震えた。おそれをにじませながらわたしをねめつける。微動だにせず真っ直ぐ見つめ返せば、彼はいたたまれずにまぶたを伏せた。長い足で石ころを蹴飛ばす。




「ああ、そうだよ。おれはずっと、逃げてる」




ちっぽけな石が、ぽちゃんと下水道に落っこちた。


投げやりな口ぶりだった。

安心感をおぼえた。うれしさを隠しきれずにほころんでいく。木本くんは気に食わなそうに顔をしかめた。


あの木本くんが、応えた。ごまかさなかった。

届けてくれた。


どんな思いで、どんな伝え方だろうと、うれしかった。だって、それが何であろうと、ずっと聴きたかった本心でしょう?




「逃げられるうちはいいよ。でも……逃げきれなくなったら、わたしのところにおいで」


「え……?」


「ひだまりになってあげる」


「は? ひだまり?」


「そ。居場所になるよ。ぎゅうっと抱きしめてあげる」


「い、いらねぇよ!」


「あはは。照れなくていいよ」


「照れてねぇ!」





あ、からかってると思ってるでしょ。
ちがうよ。わたしのこれも本心だよ。


木本くんはわけもなく好きなものを捨てる人じゃない。何かあったんだ。捨てざるを得なくなるほどの何かが。



――『あれはおまえのせいじゃねぇって、何度言やわかんだ』



本来ならば苦しくならなくてもいいはずの、何かに、今もなお苦しんでいる。

好きなものを遠くからでしか眺められない。独りを選び、逃げ続ける。自分自身にうそをついてでも。


逃げて、逃げて、逃げて……いつか、逃げることに疲れてきたとき。

わたしを逃げ場にしてほしい。大丈夫。屋上のように温かく迎え、東屋のように落ち着いてひと休みできる、そんな場所になるよ。


わたしが、いるよ。





「……あ、ここ……」




学校から離れ、小道を抜けた。木本くんとは帰り道が同じだったようで、小山の近くまで来ていた。

山のふもとにかまえられた鳥居を前に、横のローファーが止まった。


鳥居から石畳の道が続いている。その奥には古びた神社が建つ。神社の脇に伸びた道を行くと、石畳の階段がある。そこをのぼった先が、わたしの目的地である東屋だ。


この辺りは電灯のひとつもなく、日が沈むと真っ暗になる。夕闇が迫っている現在時刻は、夕焼けの迫力が増し、燃え盛るような明るさがある。




「ここ、よく来るんだ」


「……そう。よく、来るんだ……」




複雑な感情に駆られる。


よく、来るのなら。それなら……!

訊くなら今だと思い立ち、感情を丸ごと問いかけに示した。のどが震える。




「ね、ねぇ、山の中にある、あずま――」



「そんでさー」

「ははっ!」

「まじかよ」




東屋という単語ひとつ言い切れなかった。

木本くんはわたしの声を聞いていない。小道に入っていく男子高生たちに、全神経を持っていかれている。


男子高生たちは近くの私立高校の制服を着ていた。肩には、大きめのエナメルバッグ。パンパンに詰まったバッグのチャックから、ユニフォームらしき袖がだらんと出ていた。


木本くんは彼らから顔を背け、身を縮こませる。楽しげな会話が遠ざかっていく。完全に聞こえなくなると、ようやっと彼は肩の力を抜いた。




「知り合い?」


「……元、チームメイト」




中学のころの。
小野寺くんと同じ、仲間だった人たち。


そのことも気になるけれど、今はそれよりも、木本くんが心配でたまらない。


葛藤を押し殺す、その背中にそうっと触れた。びくりと反ったが、拒まれはしなかった。夏の暑さのせいにでもできそうな荒れた息づかいを感じる。やさしくさすり、動揺が鎮まるのを待った。

黒のベストがなかったら、温度も鼓動もすべて、手のひらを伝って感じ取れたのだろうか。




「……もう、いい」




か弱げに手を払われた。木本くんはゆっくりと体の向きを変え、鳥居に背をつける。前髪でいともたやすく顔の上半分を陰らせた。きれいな瞳が輝かない。

平気だとは言わないんだね。


本能的に手が伸びていた。


さらり、と人差し指でダークブラウンの前髪をかき分ける。汗ばんだ額に指先をかすらせる。熱を測るように中指、薬指を順にくっつけ、汗を拭ってあげた。

冷たい。かと思えば、少しずつ熱くなっていく。


木本くんの顔がゆらりと持ち上がる。夕焼けに陰が飲み込まれていった。




「……な、何だよ」


「熱い?」


「ああ、まあ……暑い、かも?」


「……夏だね」


「……そう、だな」




人差し指を軽く上げた。同時に、木本くんの前髪も上がる。その黒い瞳がよく見える。目と目がばっちり合っている。


もう夏だよ。衣替えは済ませたし、日も長い。汗もかくし、暑くもなる。ねぇ。熱いね。夏だもんね。うそじゃない。




「近々夏祭りがあるらしいよ」


「夏だな」


「ね。気づいたら夏だ」




鳥居を入ってすぐのところに掲示板が設置されてある。一枚のポスターがでかでかと貼られていた。夜空に花火が打ち上がった写真に、筆文字のフォントで「夏祭り」と記されてある。

開催日は、8月1日。来月だ。夏休み真っただ中に行われるらしい。




「木本くん、一緒に行こうよ!」


「は? なんで」


「ごはんはひとりよりふたりでのほうがおいしい! ねっ!?」


「またそれか。花火が目的じゃねぇのかよ」


「屋台の焼きそばって格別だよね」


「話聞けよ」




強引に約束を取りつけ、小指を出す。木本くんはいやいやそうにしながらも、小指を一瞬ぎゅっと握ってくれた。小指同士でゆびきりげんまんはできなかったけれど、これはこれでありかもしれない。


今から浴衣を選んでおかないと。