教師を辞めてからは。
ミュージックカフェをオープンするまでの間。
美輝さんのジュエリーショップで働かせてもらえる、とのこと。
これは美輝さんが提案してくれたそうだ。
ミュージックカフェをオープンするまではそうすればいい、と。
美輝さんの心遣いに。
隼理くんはとても感謝していた。
私も隼理くんと同じ。
美輝さんに感謝の気持ちでいっぱいになった。
隼理くんは言った。
ミュージックカフェの準備は。
私が高校を卒業してから一緒にやりたいと。
そして再来年。
私の二十歳の誕生日のときに。
ミュージックカフェをオープンしたい、と。
隼理くんからその話を聞いたとき。
ものすごく嬉しくて幸せな気持ちになった。
こんなにも真剣に。
隼理くんが将来のことを考えてくれている。
隼理くんの真剣な気持ちに触れることができて。
これ以上、何を心配することがあるのだろうか。
そして何を言う必要があるのだろうか。
全く不安にならない。
そう言えば噓になる。
けれど。
隼理くんと一緒なら。
ある程度の困難は乗り越えることができる。
隼理くんと協力し合いながら。
共に過ごす。
そんな未来を。
心のスケッチブックに。
一ページずつ。
筆を滑らせ彩り良く描く。
隼理くんと過ごす大切な日々。
一ページ、また一ページ。
苦しいことも辛いことも。
楽しいことも嬉しいことも。
全て心のスケッチブックに。
想い出の全てを。
たくさん描いて一冊のスケッチブックでは足りないくらいに。
隼理くんとの想い出をたくさん描きたい。
そう思い、願い……。
覚悟と決意。
その思いを胸に。
私も隼理くんと共に。
同じ道を歩いて行く。
そう決めた――。
こうして。
私と隼理くんは。
生徒たちに私と隼理くんのことを伝えることを決意し、今に至る。
緊張してパフォーマンスをすることが楽しめないかもしれない。
そう思ったのは、この為。
けれど。
なぜ生徒たちに私と隼理くんのことを伝える必要があったのか。
私と隼理くんが共に未来を歩いて行くのみなら。
わざわざ生徒たちに伝える必要はない。
そうすることになったのは。
私のため。
『私は大丈夫だから』
隼理くんにそう言ったのだけど。
隼理くんは伝えるべきだと言った。
その理由は。
私のことを守るため。
そして。
警告するため。
『俺がどこにいても。
夕鶴は俺が守る。
だから誰にも何もさせない』
と、間接的に伝えたかったから。
隼理くんが生徒たちに伝えたこと。
それは午前の部にパフォーマンスを観覧した生徒たちは聞いていない。
だけど。
たぶん午後の部の生徒たちが午前の部の生徒たちに広めるだろう。
そう想定している。
私と隼理くんは。
覚悟を決め。
生徒たちに伝えた。
そのことに全く悔いはない。
「行こう、夕鶴」
隼理くんは私の手を握り。
「悪いな、夕鶴のこと、連れていく」
バンドメンバーにそう言って。
その中の一人にマイクを渡した。
そして――。
私と隼理くんは。
体育館の舞台を降り。
シンと静まり返ったままの生徒たちの横を通り体育館から出た。
そのとき。
夏の強い日差しが。
一気に視界に入り込んできた。
それは、とても眩しく。
一瞬、目を開けることが難しかった。
目が少し慣れた頃。
そのときには校舎に入っていた。
そのまま向かった先は。
校長室。
校長室に入ったのが。
隼理くんだけではなく私も一緒だから。
校長先生はとても驚いていた。
……それに。
まだ手は握り合ったままだったから。
私も隼理くんも、それに気付き。
そっと手を離した。
そのあと。
隼理くんはすぐに本題に入り。
私とのこと。
教師を辞めること。
それらのことを校長先生に伝えた。
隼理くんの話を聞いた校長先生は。
ものすごく驚いていた。
隼理くんが教師を辞めること。
それは考え直してほしい。
校長先生はそう言った。
校長先生の言葉を聞いた隼理くんは。
『大変ありがたいお言葉ですが』と言い。
でも、やっぱり意思は変わらないということを伝えた。
隼理くんの意志の強さを感じた校長先生は。
隼理くんの願いを受け入れた。
校長室を出た、私と隼理くん。
その瞬間から。
私と隼理くんは。
新たな未来へ向かって歩き始めていた。
七月の下旬。
梅雨が明け。
それと入れ替わりに。
蝉の鳴き声が活発になってきた。
その鳴き声は。
夏本番になる合図のよう。
その合図に合わせるように。
今日から夏休みに入った。
せっかくの夏休み。
少しくらい遅くなってもいいと思っていたのに。
結局いつも通り……ううん、それよりも早く目が覚めてしまった。
それなら。
二度寝をすればいい。
そう思った。
けれど。
夏休みの初日。
そんな日に早起き。
それも、ありかな。
そう思いながら。
ベッドから起き上がり。
窓の方へ。
朝起きたとき最初にすること。
それは窓のカーテンを開けること。
そのあと窓を開ける。
ただ、冬や寒い日は窓を開けない日が多い。
今日もいつものように窓を開けた。
その瞬間、夏の香りを含んだ朝の空気がスッと部屋の中に入り込んでくる。
それは、とても心地良く。
やさしさに包まれているよう。
その空間の中で。
全身を思いきり伸ばし。
早朝の澄んだ空気をたっぷりと身体中に取り入れた。
心地良さとやさしさが。
全身に行き渡っていくことがわかる。
それにしても。
まだ早朝なのに。
すでに暑い。
午後からは相当暑くなるだろう。
そう思いながら。
ゆっくりと窓を閉めた。
やっぱり。
今日は早く起きて良かった。
そのおかげで。
たっぷりと時間がある。
だから支度も余裕を持ってすることができる。
今日は。
久しぶりに隼理くんと会える。
だから時間に余裕を持って落ち着いた気持ちで会いたい。
あの日。
隼理くんとのことが学校中に広まってしまってから。
私と隼理くんは休みの日に一度も会っていなかった。
だけど。
本当なら。
私と隼理くんは少し前から会ってよかったのではないだろうか。
そう思ったりもする。
夏フェスの日。
隼理くんは生徒たちの前で伝えた。
私と隼理くんは恋人同士だということを。
だから。
もう何も恐れることはない。
正々堂々と隼理くんに会ってもいいはず。
と思ったのだけど。
やっぱり、そういう問題だけではない。
私も隼理くんも、そう思っていた。
だから。
隼理くんに会うのは。
隼理くんが教師を辞めてから。
隼理くんが教師を辞める日は。
来月の三十一日。
夏休みの最終日。
その日が過ぎるまでは。
会うことは控えよう。
隼理くんと話し合ってそう決めた。
ただ。
今日、隼理くんに会うことになったのは例外。
今日、隼理くんと会えることが決まったのは昨日。
昨日の夜、隼理くんから連絡があった。
『明日、会えない?』って。
もう会っても大丈夫なのかな。
そう思った。
だけど。
隼理くんに会いたい。
その気持ちの方が強かったから。
『会いたい』と言った。
私の返答を聞いた、隼理くん。
少しの沈黙の後。
『芦達先生が、
どうしても大事な話があるから
夕鶴と一緒に来てほしいと言われた』
そう言った。
隼理くんの話は続き。
『カフェとかで話をすると誰かに見られてしまうかもしれない。
だから芦達先生の部屋で、ということらしい。
……夕鶴は、大丈夫か?』と。
隼理くんの話を聞き。
少しだけ考えた。
隼理くん以外の男の人の部屋に入ること。
抵抗がないといえば噓になる。
それに。
大事な話。
それは一体どんな話だろう。
そう考えると。
少しだけ怖い気もする。
だけど。
隼理くんも一緒にいる。
それは、とても心強いし安心する。
だから。
『大丈夫だよ』
と返答した。
こうして。
今日、隼理くんと一緒に芦達先生の部屋に行くことになった。
* * *
隼理くんと会う約束の時間。
いつものように。
隼理くんが家の近くまで車で迎えに来てくれた。
「会うの、久しぶりだね」
そう言いながら車に乗り込む。
隼理くんの車で芦達先生が住んでいるマンションまで向かう。
場所は隼理くんの車のカーナビに登録してある。
隼理くんが言うには。
私が住んでいる家を基準にすると。
芦達先生が住んでいるマンションは。
隼理くんが住んでいるマンションよりも遠いそう。
私が住んでいる家から隼理くんが住んでいるマンションまで。
車で約三十分。
隼理くんが住んでいるマンションから芦達先生が住んでいるマンションまで。
車で約二十分。
私が住んでいる家の近くから出発すると。
芦達先生が住んでいるマンションは約五十分で到着する。
五十分。
それは長いような短いような。
その間。
浮かんでいた。
頭の中で。
やっぱり。
気にならないわけではない。
芦達先生の話。
わざわざ芦達先生の部屋で話をするということは。
ある程度、重い話。
そう思わざるを得ない。
それを私と隼理くんに話す。
ということは。
私と隼理くんに関する話。
芦達先生が話す、私と隼理くんに関すること。
それは、どんな話だろう。
そう思うと。
だんだんと不安になってくる。
「夕鶴?」
ルームミラー越し。
そこから窺うように。
隼理くんが私の顔を見ている。
ちょうど信号は赤。
運転していないから隼理くんの視線はルームミラーに映っている私に集中する。
「大丈夫か?
なんか元気ないように見えるけど」
私のことを気遣うように。
隼理くんはそう訊いてくれた。
隼理くんの気遣いに。
今の正直な気持ちを伝えた方がいいのか。
迷ったけれど。
「……緊張……してる……」
全ての気持ちではないけれど。
「芦達先生の話……」
ほんの少しだけ。
今の気持ちを伝えた。
「大丈夫」
伝えてよかった。
隼理くんに。
少しだけでも今の気持ちを。
不安を消してくれる。
隼理くんの包み込むような安心感のある声。
その声を聞くことができたから。
「ちゃんと夕鶴の傍にいる」
とても心強い。
隼理くんの言葉。
それは、ものすごく安心感を与えてくれる。
「ありがとう、隼理くん。
そう言ってもらえて、とても心強い」
隼理くんの気持ち。
とても嬉しく思った。
それからしばらくして。
芦達先生が住んでいるマンションに着いた。
十階建てのマンション。
芦達先生は五階の三号室に住んでいる、らしい。
エレベーターで五階まで上り。
三号室の芦達先生の部屋の前まで来た。
隼理くんがインターホンを押す。
インターホンのスピーカーから。
『すぐ行きます』
芦達先生の声が聞こえた。
言葉通り、すぐに玄関のドアが開き。
「飛鷹先生、神城さん、
わざわざお越しくださってありがとうございます」
ものすごく丁寧な対応をしてくれている芦達先生。
「どうぞ中へ」
芦達先生のその言葉で。
「失礼します」
私と隼理くんは部屋の中へ入り、リビングへ。
そしてリビングの中へ入ると―――。
……?
ソファーに誰か座っている。
その人は。
私と同じくらいの年齢の女の子。
俯いているからか。
大人しく見える。
髪は長めでサラサラのストレートヘア。
そしてアニメから出てきたような美少女。
そんな美少女が。
芦達先生の部屋にいる。
この美少女は。
芦達先生とどういう関係なのだろう。
もしかして。
芦達先生の彼女?
「栗原?」
そう思っていると。
隼理くんがその美少女のことをそう呼んだ。
え?
隼理くんの知っている人?
栗原さんって?
そう思いながら隼理くんの方を見ると。
「二年前、栗原が一年生のとき、担任だった」
私が思っていることを察してくれたのか。
隼理くんはすぐにそう言った。
ということは。
栗原さんは私と同じ学校。
そして同じ学年。
栗原さんとは同じクラスになったことがなく、話をしたこともない。
そのため今まで知る機会がなかった。
だけど、もしかしたら廊下ですれ違ったことはあったかもしれない。
「飛鷹先生には二年前、お世話になりました。
神城さんは、初めてだよね?」
そう思っていると。
芦達先生は栗原さんの隣に立ってそう言った。
そのすぐ後。
栗原さんがソファーから立ち上がり。
丁寧に会釈をした。
「紹介します。
僕の妹の雅姫です」
芦達先生はそう言った。
栗原さんのことを『妹』と。
それを聞いた瞬間。
驚き過ぎて声が出なかった。
芦達先生と栗原さんが兄妹。
二人は名字が違う。
そして兄妹で同じ学校の教師と生徒。
だから二人が兄妹だなんて。
全くわからなかった。
というか。
今日、初めて栗原さんのことを知ったのだから。
わからないのも無理はない、かな。
「僕と雅姫が兄妹だということは
学校内だと校長先生以外、誰にも話していませんでした」
そんな大事な話。
芦達先生は私と隼理くんに……。
今日、芦達先生が話すであろう大事な話。
その話と何か関係があるのだろうか。
「お待たせしました。
まず本題に入らせていただく前に
話の続きを少しだけ」
ソファーに私と隼理くん、向かい側には芦達先生と栗原さんが座り。
芦達先生が用意してくださった飲み物がテーブルに並んだところで話が再開した。
芦達先生と栗原さんの御両親は。
栗原さんが中学校を卒業した春休みに離婚をしたらしい。
そのとき御両親は芦達先生や栗原さんが、どちらの姓にするか強制はしなかった。
芦達先生は成人しているし、栗原さんも中学校を卒業している。
そして芦達先生には妹の栗原さん以外にもう一人、七歳離れた弟さんがいる。
その弟さんも高校を卒業した。
三人とも自分の判断で行動できる年齢。
だから自分たちの判断に任せたそうだ。
芦達先生は栗原さんや弟さんと話し合った。
三人は特にどちらの姓が良いというこだわりはなかった。
だから話し合いには少しだけ時間がかかった。
そうした結果。
栗原さんと弟さんは母親の姓を。
芦達先生は、そのまま父親の姓に。
ということになった。
芦達先生や栗原さんや弟さんが、どちらの姓にするのか迷っていたのも。
御両親の離婚の原因が深刻な理由なものではなかったから。
現に。
御両親は離婚してからも、ときどき会っているらしい。
離婚してからの方が離婚する前よりも仲が良くなったのだとか。
離婚の原因は深刻な理由ばかりではない。
いろいろあるのだな。
そう思った。
「この話は以上です。
……それでは本題の方に……」
芦達先生や栗原さんの御両親の話は終了した。
……いよいよ。
芦達先生が私と隼理くんに話さなければならないという大事な話。
その話が、始まる。
のだけど。
なんだか。
この部屋に漂う空気が。
緊迫、しているような。
なぜなら。
これから話そうとしている芦達先生の表情が。
強張っているように見える。
どのような話をするのかわからないけれど。
その表情を見ている限りでは。
よほどのことを話すのではないだろうか。
そう思えてしかたがない。
その空気を感じてしまって。
ものすごい緊張に襲われる。
それでも。
『落ち着いて』
心の中でそう自分に言い聞かせる。
そして。
「今日、飛鷹先生と神城さんに伝えさせていただく話というのは……」
ついに。
始まる。
芦達先生の話が。