ここが空いてるわよ、いらっしゃいよ。
彼女の声は低かったが、その声にはスィートテンダネスがあった。心地よい優しさ。
彼女の声にバレンタインデー後まで売れ残っていた花束についていたカードを思い出した。スィートテンダネスをあなたに。
sweet tendernessをあなたに。
今年も終わりに近づいている。再びバレンタインの日がやってくる。
いらっしゃいよ。
彼女はしっかり私を見ているように見えたけれど、はっきりしなくて、えっ? あたし? と後ろを見た。
そう、あなたよ。空いてるわよ、いらっしゃいよ、ここに。彼女は手招きした。
混んだカフェだった。テーブルとテーブルの距離も近かった。
彼女が空いているわよ、と言ってくれた席は、要するに彼女と相席だった。
彼女が指差しているのは彼女と向かい合う席であり、テーブル自体がとても小さかったので、かなり顔を近づけてすわることになりそうだった。
さあ、どうぞ。
彼女の声には優しさがあふれていたので私は座った。甘さではなく優しさだった。
スゥィートテンダネス…sweet tenderness と名づけられたブーケは、華やかさがないわけではないが何より穏やかで優しくて柔らかくて心地よい、そんな小ぶりのブーケだった。
彼女は薄茶色の髪にスカーフをヘアバンドのようにして耳の横でリボンにして結んでいた。
あ、ありがとうございます。すみません、相席で。
構わないわよ。彼女は微笑むと広げていた大きめのファッション雑誌を見始めた。
助かった。別に話し相手がほしくて手招きしたわけじゃないんだ。疲れて茫然としている私に声をかけてくれただけなんだ。
メニューを広げてみた。テーブルの隅にあった小さいメニュー。
それはカクテルメニューだった。
あ、ここって普通のカフェじゃなくてアルコール専門? それにしては店内は明るい。
何か食べるものがほしいのね。
彼女が言った。その声にはやはりスィートテンダネスがあふれていて私はほっとした。本当に月並みな表現だけれど、砂漠で小さな水溜りを見つけた感じで、この騒がしさや、さきほどまで味わっていた負け犬感や喪失感が少し和らぐようなスゥィートテンダネスだった。
彼女のスカーフの模様は小さな動物だった。耳が短いからうさぎではない。クマか、ハムスターか…。カピパラ?
ここって食べるものもあるんでしょうか?
あるわよ。
彼女はそう言って、読んでいた雑誌の下に隠れていたメニューを差し出した。
えっ…。そこにあったんだ…。
ありがとう、私は少し微笑んだ。
それなんか悪くないわね、彼女は上から三番目を指した。
オージー牛のメキシカンサンド。
オージーであってメキシコ風か。
胃は受け付けそうになかった。でもおなかは空いていた。
結局タコスを頼んだ。メキシカンというところだけが同じだ。入っているひき肉はオージービーフなのかもしれない。ソフトタコスではなくパリパリのやつだ。タコスを齧りながら、私はしばし自分の世界に入りこんだ。パリパリという音がさきほどまでの喪失感を少し砕いてくれるような気がした。レタスが手の甲に落ちた。
前にいる彼女の存在やスカーフの小さな動物柄も忘れて食べた。食べ終わるころには喧騒の中に一人っきりだと感じていた。
自分の世界から引き戻されたのは、二杯目のコーヒーを半分飲んだころだった。
きっもちわれぇな、あいつ。ちっ、どうにかなんないのかよ。
嫌悪感でかさかさする言葉が横から聞こえた。
またか…と思った。私は、時々、いや小さい頃はしょっちゅう気持ち悪いと言われてきた。
顔が気持ちわるいのだそうだ。自分では毎日見ている顔なので特に気持ち悪いとは思わない。自分の顔だ。ただ、美のラインの滑り台があるとしたら、見事に下まで滑り切った顔をしているらしい。平べったさや、顔の大きさや、パーツのバランスや、いろいろの要因でだ。ただ、思春期を過ぎるころから、少しずつにしても滑り台を僅かによじ上った。背が伸び、首ができてきて少しましになった。周りにいるのも残酷なほど正直な子供たちから、高校生、大学生、社会人、と成長につれて変わっていった。
だから、きっもちわれぇな、と声を聞いたときは久しぶりだ、と思った。
そして、それが自分のことでないと気がつき、少し驚いた。
彼らが言っているのは、私の前にすわる動物柄のスカーフの彼女のことだった。
彼女は静かな視線で彼らを見ていた。その視線はやはり スゥィートテンダネスの名にふさわしいものだった。静かで優しくて穏やかだった。怒っているふうもなかった。
私はちょっと困ったように微笑んだ。
彼女も私にちょっと微笑んだ。
やっぱりオージー牛のメキシカンサンドにしておけばよかったです。パリパリタコス食べにくいし…。
でしょ。ここのメキシカンサンドはおいしいのよ。
そう言って親指でグーの形をした。
大きな親指だった。手全体も大きかった。肩幅もあり、胸幅もあった。もっともそれは平均的女性と比べたらで、男にしては普通のほうだろう。
彼女は生まれつきの性は男だったにしても、スゥィートテンダネスを纏っていた。それはとてもシンプルな事実だった。この込み合った店で相席するなら、彼女のsweet tenderness は貴重だった。
隣の声の主…声からは高校生か大学生くらいかと思ったら、一人は中年で、一人は年齢不詳だった。二人とも顔立ちは悪くないのだろうが、どこかくずれた感じがした。存在そのものがかもしれない。
もう二人とも何も言わないでくれ、と祈った。
幸いなことに二人は出て行き、すぐに買い物袋を三つずつ下げたご婦人二人が、よっこらしょという感じで、体をよじるように椅子の間に押し込んできた。
二杯目のコーヒーが空になったので、コーヒーのお代りお願いします、と近くのウエイターに言った。
ウエイターは私のカップに入れ、彼女にも聞いた。
おつぎしますか?
お願いね。
彼女はハスキーで低く、それでいてやはりスィートテンダネスにあふれた声で言い、私を見つめたが、少しだけ悲しそうだった。
そのスカーフってクマですか?
ムーミンよ。
ムーミン…だったんですね。輪郭だけだからわからなかったけれど、そういえばそうも見えますね。
少なくとも私はムーミンだと思ってるの。
しっぽがないしカピバラに似ている、とは言えなかった。
そのあと静かに彼女は二杯目のコーヒー、私は三杯目のコーヒーを飲んだ。
お先に失礼するわね。彼女が立ち上がったときあまりに長身なのに驚いた。180センチ以上優にある。でもそこまで不思議じゃないか。生来の性は男なのだから。足が長いのだろう。グリーンのワンピースのフレアが美しい。彼女は優雅にレジに向かった。相席嫌いで人見知りの私がすでに彼女を懐かしがっている。珍しいことだった。
あ、これ、と言い、彼女はカードを一枚渡した。時間があったら来てくれたら嬉しいわ。自分のために来てね。誰のためでもなく。金曜日は必ずいるわ。
ネイル May
ネールサロンのカードだった。
行きます。私はすぐに答えた。ネイルなど全く興味がなかったのにだ。
スィートテンダネスで接してくれた彼女の店に行き、彼女にネイルをしてもらいたい、心からそう思った。
何事にしてもこんなふうにはっきり思ったのは久しぶりだった。
こんなシュアなことはない。私は胸をはった。