突然、ダニーが足を止めた。目を見開き、身体が少し硬くなっている。

 向こうからどことなくだるそうに男の人が歩いてきた。背広姿でなで肩の肩を揺らしながら歩いてくる。

「透けゆく人だ」 ダニーが言った。

 透けゆく人?

 私たちの方に近づいてくる。ダニーは足を止めたままだ。男は私たちから数メートル離れたところまで来ていた。

 透けゆく人…。ほんとだ…。

 その人は少しだけ透けて見えた。そう、少しだけ。

 よく透明感のある肌、なんていうけど、そういうのとはもちろん違ってて、顔も手も、そして服も透けている。向こうがはっきり見えるほどの透け方ではないけれど確かに透けている。ガラスのコップに入った水のようにクリアに透けているわけではないけど…。

 鈍い透け方だ。きれいに透けてはいない。どこか濁った透け方だ。

「きっとマスターのとこに行きたいんだ」 ダニーは少し焦ったように言った。

「え? なぜ? 」

 そう言ったときには、その人と私たちはほとんど向かい合って立っていた。私たちを見る目は穏やかだけど悲しそうで、穏やかだけど焦りのようなものがあって…。

「君たち知ってるかな? こっちの方だって聞いて来たんだ。ハーヴィって名前のカフェだって」

「誰に聞いたんですか?」

「アルパカのような顔をした人だった。事故の後、僕を囲んでた人の一人だよ。ほとんどアルパカに見えた。彼女が、言い忘れたことがあるなら、ハーヴィのマスターの所に言って伝えなきゃねって言ったんだ。消えゆく前に伝えたいことあるならねって」

 消えゆくって死ぬ?の?

「突然曲がって来たんだ。青いバンがね。逃げる暇なかったね。頭を打ったらしい。気がついたら、歩き始めてた。僕の身体はまだ道路上に残っててなんとも不思議だった…。その時、あまり時間はないんですってアルパカさんが言ったんだ。とにかくその店に行きなさいって」

「その店なら…こっちです」

 ダニーは手招きしながら、今来た線路沿いの道をマスターの店に向かって小走りし始めた。すると、その人も小走り風に歩き始めた。

 その人の後ろ姿は確かにすこうし透けていた。

ダニーは時々振り返りながら、マスターの店に向かった。私は透けゆく人の後ろをついて歩いた。

 その人がどんどん透けて行ってしまっちゃうんじゃないかって、ちょっと怖かったけれど、角度によってはほとんど透けてるようには見えなかったし、少なくともみるみる間に消えていってしまいそうには見えなかった。

 ハーヴィの店に入ると、ドアベルが例のビブラートのかかったようなガランガランという音をたてた。

「あら、ダニーちゃん、戻って来たの? お腹減ったんじゃない? 何かマスターに作ってもらう?」

 ユカリさんが明るい声をあげた。どうやらユカリさんには「透けゆく人」は見えないようだった。ゆっくりと店に入ってきた透けゆく人はかなり大柄で、透けつつあるにしてもかなりの存在感だから見えているなら無視するはずはない。

 フェルルでない人には透けゆく人は見えないんだ…。

「ちょっと足りない食材買ってくるけど、今度戻る時はもう帰っちゃってるかな。いつでも遊びに来てね。コウイチも喜ぶわ」

 ユカリさんさんはヨウイチさんに共通する大きな身振りで店を出ていった。

 ヨウイチさんはもう店内にはいなくて、コウちゃんは角のテーブルでスケッチブックを抱えて足をぶらぶらさせていた。店内のお客は一人だった。見事な角の雄鹿風レイヤー族が、威厳のある風情でカウンターに近いところのテーブルに一人で座っていて、入ってきた私たちを静かに見つめていた。

 マスターが奥から出てきたが、私たちを見てすぐに状況を把握したようだった。

 マスターは、透けゆく人に手招きしてカウンターの一番すみの席に座らせた。

「命が絶たれるといろんなものが見えてくるんですね」

 透けゆく人はマスターに静かな声で言った。マスターは柔らかい微笑みを浮かべた。

「そうですね。今まで見えなかったものが見えてるでしょうね、今は」

「私は長くはこのままでいられないんですよね」

「そうですね。数分の人もいれば数日の人もいます。でもほとんどの人は命の火が消えると冷たくなりつつある肉体のみを残し、心や魂は一瞬にして消えていくんです。けれど、たまに、命亡き後、このレイヤーの中では姿がしばらく残る人がいる。あなたもその一人です。しばらくすると透けていき、やがて消えゆく人になるんです」

「ここは冥土との中間の場所ですか?」

「いいえ、今まであなたがいた場所です。ただちょっとレイヤー、層が違うっていうのか、ものの見え方が少し違うんです。だから、少しずつ透けていくあなたがこのレイヤーでは見えるんです。でも残念ながら、それも長くはないでしょう。透けていくあなたの姿は消えていくあなたのスピリットの余韻なのです」

 ダニーは透けゆく人を見たのは3回目だと言う。すっかり透明になって消えてしまうまでの僅かな間、このレイヤーで伝言を残したり、最後の思いを残された人に反映させる努力をすることができるらしい。

 残す思いが誰かにとって価値があるものなら…もっともそれを決めるのが難しいわけだけど、それを聞いたレイヤー族が責任をもってアクションを起こすことがあるらしい。

 ダニーと私はカウンターの近くのテーブル席に座り、マスターと男の人の会話に耳を澄ませる。男の人の透け具合が少し増したようにも見えた。

「伝えたいこと、伝えたい人があるんですね」

 マスターの言葉が凛として響いた。

「伝えて欲しいのは…まず…母に…」

 透けゆく人はゆっくりと話し始めた。特に焦っているようにも見えなかった。私とダニーはお互い少し体を硬くしてながら、次の言葉を待った。やはり、死にゆく人が伝えたいのは母親なのか…。

「これまで散々私の人生を掻き回して、チャンスを潰してくれて、自分らしく生きるのを邪魔してくれて、ありがとう。最後に皮肉を言わせてもらうね、母さん。でもそれが正直な気持ちなんだ。僕は母さんに精神的に縛られていて自分らしく生きることなく死んでいくよ。ただ、今まで貯めた貯金は母さんにじゃなくて、4年前に別れたミチコに渡して欲しい。僕は母さんに言われて別れてしまったことを本当に後悔しているんだ。だから僕の貯金は母さんにじゃなくてミチコに渡したい。彼女がすでに結婚していても何していても僕からの思いだからって僕の全財産を渡して欲しい」

 ダニーは目を大きく開いた。

 マスターは特に動揺しているようにも見えなかった。

 あなたの名前は? 住所は?

 マスターは、まるで交番に落し物がないかと来た人に聞くように淡々といくつかの質問をしていったが、少しだけトーンを変えるとこう聞いた。

「その気持ちはあなたが死ぬ前から思っていたことですか? それとも死んだ後、思ったことですか?」

 男は少し考えた。

「生きている時は、母さんが生活の全てだったと思います。母さんを喜ばせたい、母さんを悲しませることはしたくない、そう思ってきました」

「でも今のあなたの言葉はひどくお母さんを傷つけるでしょう。ミチコさんへの気持ちは亡くなってしまうまでずっと心の中で思っていたことですか?」

「いや…そういわれると…不思議なことに…ここに来て奇妙なあなたに聞かれるまで、狼人間ですか?あなたは? そう、あなたに聞かれるまで大して思い出しもしませんでした」

 どういうことなの? 死ぬまではさほど思ってないことを今、命が消えても心? というか思いが残っている今、口にしている。生きてる時にも思っていた潜在意識なのかな? でも生前の遺言とは意味合いが違うよね。

 車に撥ねられ亡くなったこの男の人は、レイヤー内でのみ、透けゆく人になっている。このレイヤーで男の人の言うことをどれだけ信じたらいいんだろう。生きてるときでも何が本心かって難しいのに、消えゆく人の言うことは、生前と違っても本心だっていえるのかな。

 だいたい死後の伝言なんておかしいよね。でもこの男の人は少しだけ透けているだけで、とても死んだ人とは思えない表情でマスターと普通に会話してる。これってどういうことなんだろう。どこまで生ある人間と同じなんだろう。

 それより、この伝言をマスターはどうするんだろう。

 透けゆく人はサトヤマさんといった。サトヤマさんは、透けゆく以外は凄く冷静に見えた。自分が死んでしまったことを嘆いているようにも、悲しんでいるようにも、パニックに陥っているようにも見えなかった。コーヒーを出されたら、ゆっくりとミルクを入れ、かき混ぜるだろう、そんな余裕さえ感じられた。

「ミチコさんというのはもと奥さんですか?」

「いいえ」

「付き合っていたんですね。恋人だったんですか? どれくらい付き合っていたんですか?」

「付き合っていたともいえないかもしれません。付き合おうとはしました。もちろん、母が反対しなければ、誘ってきちんとおつきあいをお願いしたと思います。僕は古風な人間ですから、カジュアルなおつきあいってのが苦手で付き合うからには結婚したいって思ってました。でも、母が反対したのです」

「どうしてですか?」

「背が低過ぎるっていうんです」

「それだけの理由ですか?」

「ええ、それだけの理由です。低いっていっても母よりは高いんですよ。数センチくらいは。いや、低いかな。彼女、いつもかなりの高さのハイヒールを履いてましたからね」

「ではおつきあいしたわけではないんですね」

「ええ、母が反対しましたから」

 マスターとサトヤマさんの会話に耳を澄ませていたダニーが目をパチパチさせ、首を傾げた。いったい何なんだ? とでもいうように。

 マスターも困ったようだった。こんな透けゆく人も珍しいのかもしれない。

「今、あなたの魂、あなた自身が消えて行こうとしてます。で、あなたの本当に伝えたいことは先ほどおっしゃったことなんですね」

「ええ、母に僕の人生の邪魔してくれてありがとうってちょっと皮肉の一つも言いたいんです。そして財産はミチコに残し、君と一緒になりたかったって、そう伝えたいんです」

 サトヤマさんの顔は険しくなり、透け加減も急に増した。サトヤマさんは透けゆく自分の手を見て、「僕は消えていくんですね。何だか、頭も心もすかすかになってしまいそうです」と言う。

 サトヤマさんの声は小さく、少し電子音に近くなったようにも感じた。

 コウちゃんがやってきて、サトヤマさんを見つめた。じっと見つめた。透けていく透け具合とかじゃなくって、透けていくものそのものを見つめているようだった。

「おじちゃんも君のような頃があったよ。君みたいに丸い顔をしてたよ。僕は気の利かない恥ずかしがり屋でね、母さんにずいぶん迷惑をかけたなあ。忙しい父さんの代わりに母さんがキャッチボールもしてくれたん…」

 サトヤマさんの声はみるみる小さくなり、数秒後にはサトヤマさんも声もすっかり消えてしまった。何なの、これ? あまりに中途半端じゃない?

 ダニーと私はカウンターに近づいた。サトヤマさんがさっきまで座っていたカウンターチェアには座る気になれなくって二つ離れたところにすわった。ダニーも腰かけた。

「ねえ、マスター、どうするの? 伝言、伝えるの?」

 マスターは目を閉じ、頭を2、3回振った。

「どうしたものかな。レイヤー族ってのは、時としてひどく責任を負うんだよ。自分の行動で物事が変わるからね。ある時は、恋人に殺された透けゆく人が来てね。このままでは事故として扱われるから、真実を伝えて欲しいって、恋人が犯人だって証拠のある場所を教えてくれた」

「その場合はすべきことがわかるから、迷わなかったんだよね」

 ダニーが言った。

「いや、そうでもない。物事はもっと複雑なんだ。捕まった恋人の母親がショックで自殺し、結婚式を数ヶ月後に控えていた恋人の姉は破談になり、心を病んで万引きで何度も捕まり、ほとんとホームレス状態になった」

「でも犯人が捕まったんですよね」私は言った。

「それ自体は正義がなされたって言えるだろうね。でも、レイヤー族がコモン族の歴史を変えてしまったわけでもあるんだ。このレイヤーで透けゆく人に頼まれてレイヤー族が対処したわけだからね」

 ダニーもコウちゃんも神妙な面持ちで聞いていた。

「ある時は、亡くなった母親が子供へ残した手紙の場所を伝えてくれってやってきた。子供、といってももう成人だったけど、彼はその手紙を読んで、それまで厳しかった母の本当の気持ちを知り、自分があまりに大変な子供だったと落ち込んでしまった。涙も止まらなくなり、社会的機能がとまったようになってしまった。これも悲しい結果だった」

マスターは眉根を寄せた。金色の目がそれは悲しそうだった。

「ねえ、マスター。サトヤマさんの言ってることってどれだけ本当なのかってわからないよね。透けゆく人は嘘をつかないとか、そういう保証ないわけだし。言っていることが全くの嘘ってこともあるのかな? 例えば、お母さんもミチコさんのことも事実と違ってて、本当は極々普通に結婚してて子供が二人いたりして。で、なぜか透けゆく人になって事実じゃない不思議な話をする…そういうことってないのかな?」

「そういえば」 ダニーが口を開く。

「そういえばさ、こんなことがあったな。夜、どんどんってドアを叩く音がして、パパがドアを開けるとさ、膝を擦りむいてハアハア息を切らせた女の人がいてね、男に追われているから助けて欲しいって言うんだ。パパが警察を呼んで、その時は女の人もすごく怖そうにいろいろ説明して、ちゃんと話の筋も通ってたんだけどね。その人、翌日お菓子を持って謝りに来たんだ。少しお酒が入るといつもとんでもない作り話をしてしまうんだって…。ありもしないこと思い込んじゃうらしいんだ。ねえ、透けゆく人って大変なことがあったわけだよね? つまり…死んじゃったわけだし、事故にあった人ははねられて頭を打ったりしたわけだし…だから、思うんだよね、透けゆく人の言ってることってどれくらい事実なのかな」

「それが問題だね」 マスターは言った。「みんなが透けゆく人になるわけじゃない。百人に一人くらいかな。 とにかく、透けゆく人になるからには、すごく伝えたいことがあるんだろうな、真実なんだろうなって、思うだろ。でも、そうでもないんだ。気持ちが強いから、この世に未練が多すぎるから、言い残したいことがあるから、愛する人のそばを離れたくない気持ちが強すぎるから、そういう人が必ずしも透けゆく人になる、ってわけでもないんだよ」

「じゃ、どうしたらいいの? 何がほんとかってどうしたらわかるの?何をすべきかってどうしたらわかるの? 」

「判断に迷う時にはね、一番適性のある人に相談するのが一番なのかもしれないね」

 マスターはそう言い、入り口近くに座っていた見事な角を持っているお客さんに視線を移した。

「佐々木さん」

 私たちに「一緒においで」と言い、マスターはカウンターから出て、佐々木さんのところへ向かった。

 佐々木さんの角はそれは見事だった。黒と茶色の混ざった艶やかな角は小さな頃買ってほしくてたまらなかったつやつやした飴玉を思い出させた。佐々木さんは角はあるが顔はライオンに似ていた。薄茶色の毛が顔を覆っている。耳はライオンより鹿に似ている。そしてその耳にはピアスがついていた。小さなクリスタルがキラキラ綺麗な薄ピンクのハート型のピアスだ。

 佐々木さんはとても姿勢良く座っていた。両手を重ねて座る様子が、「威厳」と「奥ゆかしさ」ってちょっと矛盾にも思える二つの言葉を連想させた。ほんとに不思議なんだけど、佐々木さんはとっても奥ゆかしい感じだった。その重ねた両手は薄っすらとベージュがかった短い白い毛で覆われていて、爪には綺麗にマニュキュアがしてあった。パープルがかった優しいピンクのグラデーションのネイルアートだ。

 マスターは佐々木さんと向かい合って座った。それは二人がけの小さなテーブルだったので、私とダニーとコウちゃんはその隣の四人がけの丸テーブルにそろっと腰を下ろした。

「可愛いお客さんね」

 佐々木さんはかなりの低音を響かせた。優しい声だった。余韻ある声っていうのかな。

「三人の可愛いフェルルさん。これからの成長が楽しみね、マスター」

「心配もありますけどね。こんな世の中ですからね」

「ほんと。こんな世の中だから。悪いこと考えたらきりがないけど、良いこともそりゃ数えられないほどあるはずよね」

「そう願いますね」

「そうよ。願ってみましょうよ」

 佐々木さんは微笑みうなづいた。マスターも微笑みを浮かべた。

 佐々木さんとマスターの微笑みの本当の意味を知るのには何年もかかるのだろうなって思った。微笑みに深さがあるなら、すごく深い微笑みだった。その意味合いって分からずじまいかもしれないし…。いっぺんに瞬時にしていろいろ理解できたらどんなに楽だろう。

「コウイチとダニーは知ってますよね。こっちはロコちゃん。ヒロコちゃん」

「いい名前ね。海のような名前ね」

 佐々木さんは私を見た。一瞬にして私の名の由来や意味やいろんなこと理解してくれたって思った。佐々木さんの大きな瞳が私を見ていた。緑の中に金色が凝縮したような不思議な色合いで、一瞬にして相手を読んでしまう不思議な能力に満ちた目だった。

「佐々木ミユカっていうのよ。もともとは佐々木ケンジっていったんだけど、心は生まれた時から女だったから。わかるかしら」

「性同一性障害っていうんですよね」

 ダニーが言った。「性同一性障害」コウちゃんが繰り返した。

「そうよ。その通り」 佐々木さんは嬉しそうにうなづいた。

「フェルルにはね、どんなに頭が良くたってなれるもんじゃないのよ。心の知性が必要なの。あなたたちは心の知性の芽の勢いがよいのね。それを妨げるものが出てこないことを祈るわ。どんな世界でも成長するって難しいわね。たくさんの心の痛みも伴うわ」

 佐々木さんはハーブティーを口に運んだ。

「佐々木さんは透けゆく人の思いを誰より早く深く感じれる人でね。今日もそれで来てくれたんですよね」

 佐々木さんはうなづいた。

 透けゆく人が入った時にはすでに佐々木さんはここにいた。透けゆく人が来ることを予知していたのだろうか。



 結局カフェ・ハーヴィを出たのは暗くなってからだった。あのあと佐々木さんとマスターの話がどうなったのか私たちにはわからない。ダニーとコウちゃんと私は、一番大きなテーブルでカレーライスを食べさせてもらった。時折、佐々木さんとマスターの方を見ると、二人は真剣そのものの顔で何か話していた。

 暗くなった道を歩きながら、私は輪を初めてくぐった今日のことを、透けゆく人が消えゆく人になった今日のことを、決して決して忘れないだろうと思った。