「ロコ、ちょっとこれ見てごらん。すごいだろ」

 ダニーが言った。コウちゃんが描いたらしい。どこかの教会の内部のような絵。 細かいタッチがまるで写真のようだ。

「コウちゃん、って呼んでいい? コウちゃん、これ凄いね。コウちゃんが描いたの?」

コウちゃんは表情をほとんど変えず小さくうなづいた。

「どこにあるの、この建物」

「パレルモ大聖堂」

 パレルモってどこだっけ?

「コウイチは本当にすごいよな。フォトグラフィックメモリーっていうのかな。ほんとにテストの時にこいつの頭、借りていよ。俺なんか、10分前のこともう忘れてる。忘れてる〜忘れてる〜 忘れてれるぅぅぅぅ 〜」

 ヨウイチさんは長い手を指揮するように振った。ちょっと調子外れに歌いながら。

  コウちゃんはどこか意思の強そうな目をしてるけどそれ以外に表情があまりない。目だけが早く動く。普通の人…普通の人がどれくらいなのかもわからないけど、多分普通の人の1.5倍くらい早いと思う。2倍とはいかなくても。

 コウちゃんの目は大きくなくて離れてるけど黒目は大きい。だから丸くてくりっとした印象を与える。そこがウーパールーパーに似てるのかな。髪はさらっとしてて横にはねてて、口は薄くてキリッと一文字に結んでいる。

「コウちゃん、この聖堂の外見も描けるの?」

「もちろんだよ。どれだけうちに聖堂だか教会だかモスクだかの絵があると思ってんのさ。最初は外見からだったけどさ、飽きたから内部の絵に移った、そうだよな、コウイチ」

 黙ってるコウちゃんの代わりにヨウイチさんが手を大きく広げて言う。どうやら、話すときはこれが癖らしい。体の細いアニメのキャラみたいだなって思う。オーバーアクションのヨウイチさんと静かなコウちゃんは対照的な兄弟だ。

「描ける」

 ヨウイチさんのオーバーアクションが終わると、コウちゃんは小さな抑揚のない声で言った。

「描こうか?」

「うん。面倒じゃなかったら」

「描く」

「そうだね。じゃ描いてみて」

 コウちゃんは青いリュックの中からマッチ箱くらいの鉛筆削りを取り出して、きっちり三回回して3Bの鉛筆を削った。

 スケッチブックの新しいページを前にしてコウちゃんは目をつぶった。かなり長い間目をつぶっていた。ダニーは何も言わずに目をつぶるコウちゃんを見守っていた。

 丸い目を静かに開けたコウちゃんは描き出した。描き始めればもう迷いはない。かなりのスピードだ。

 なんだか丸い図柄だ。

 何だろ、これ…。

「バラ窓」コウちゃんは言った。

「バラ窓?」

「そう、この部分はステンドグラス」

「そうなんだ」

 バラ窓の緻密な円形の模様を描き終わると、コウちゃんは周りの細部も描き始め、あっという間にゴシック風っていうのかな、そんな感じの聖堂になっていく。

 色のない絵だったけど、3B鉛筆だけで描いた絵だったけど、見てるうちにいろんな色が見えてきた。実物のステンドグラスはきっとカラフルなんだろうな。これもパレルモにあるのかな。そうだ、パレルモってイタリアだ。シシリー島だ。ママの話に出てきた。南イタリアを旅行したときの話に。ママも見たのかな、このバラ窓。

「できた」コウちゃんは手を止めた。

「素敵だね」

「コウちゃん、ロコが感動してるよ」

 ダニーの言葉に、コウちゃんは「感動してる。感動してる」と二回言い、リュックからハサミを出し、スケッチブックから聖堂の絵を丁寧に切り取った。そしてしばらく見つめていたが、黙って渡してくれた。

 なんだかすごく嬉しくなって、ありがとコウちゃん、ありがとダニーって言った。僕、感謝されること何もしてないよ、ダニーが笑った。

「これに入れたらいいよ」マスターがスケッチを入れる厚手の封筒みたいなのをくれた。

「こいつの絵、売ろうと思ったら売れるんじゃないかな。今に名の通った有名な画家になるかもよ。ま、せいぜい大切にしてくれたまえ」 ヨウイチさんが、誰かの真似なのかな、首をカクカクっと振った。

その時だ。「遅くなっちゃったあ!」カウンター後ろの裏口から大声を出して入って来たのは大柄な女の人だった。

「ごめんごめん。ユウヘイちゃんママと話してたら、時間経つの早い早いって」

 その人はセミロングの派手め?の髪型をして、お化粧がくっきりしていて、目と口元がヨウイチさんに似ていた。ってことはマスターの奥さんなのかな。

「ママ! 今度ユニバ行きたいからさ、アッシとダイキとさ。お小遣い前借りできないかなあ」

 ヨウイチさんが大声で言う。

「また大阪行くの? ヨウイチは他にすることあんじゃないの。推薦じゃ無理って言われてんだから。人並みに受験勉強ってのやってごらん」

 マスターは静かにジャガイモを刻みながら、その様子を見ていたが「ユカリ、さっきキャンセルが入ってさ。今夜の貸切なくなったんだ」って少し高めの声で言った。

「え? なんで? 当日キャンセルなんてなしでしょ。人数変更ならわかるけどさ」

「祝う本人が入院になったらしい…。仕方ないよ」

「そういうことなの…」

 ユカリさんは大きくため息をつき、コウちゃんの横の椅子に、さも疲れたって感じで腰をかけた。

「コウイチは今日なんだったっけ? ピアノ今日に変更してもらったんじゃない?」

「火曜日」

 コウちゃんは言った。



 どれくらい カフェ・ハーヴィで過ごしたんだろ。そんなに長くはなかったと思う。けれど、私にとって未知の世界にいたからか、時間がすごく早く経った。

 帰り際にマスターはクッキーを袋に入れてくれた。



 外に出ると少し曇っていた。

「すごく不思議な体験だったよね」 私は言った。

「うん、輪くぐりした世界っていっつも僕、魅了されちゃうんだ。でもくぐった日の夜はちょっとぐったりするな。まだレイヤー世界に慣れてないからだろうな」

そうだね。私も興奮してるからか、何だか100メートル走を走ったみたいに鼓動が早い。

「マスターが言ってたんだけどさ、オープンハート…」

「ん?」

「輪くぐりできるって特別能力だよねって少し僕が得意になってたとき、フェルルはいとも簡単にフェルルでなくなることもあるんだよ、ってマスターが教えてくれたんだ。フェルルに必要なのはね」

「必要なのは?」

「うん。ちょっと座ろうか」

 カフェ ハーヴィの斜め横には、小さな公園があった。滑り台とブランコと小さな砂場だけの公園。そこのベンチに腰掛けた。そこからはハーヴィの看板がよく見えた。

 必要なのはね、ダニーは言った。

「フェアであること」

 フェアである? フェアってのはママも好きな言葉だ。

「うん、公平な態度。フェアっていっても、法的に公平っていうのとちょっと違うらしい。僕もよくわからないんだけど、人間として、生き物として、その心がフェアである必要があるらしい。次にオープンハート。心が開いてるってことは、無防備とか、単なる珍しいもの、冒険好きってことじゃなくて、固定観念?ってのにとらわれてなくって、人の意見やランクづけに影響されることなくって、みかけの事実や現象だけじゃなくって、真の存在を理解することなんだって」

 なんだか難しいな、ダニー。でもなんとなくだけど、わかる気もする。わからなきゃいけない気がする。

「それと心がきちんと機能していること。心ってのはオレンジみたいなんだよ、ってマスター言ってた。言ったのは心理学者らしいけど。ほら、オレンジ、輪切りにしてごらん。いくつもの袋が見えるだろ。僕、みかん剥くとね、必ず数えたものなんだ。だいたい十前後の袋だよね。この一つ一つを心の要素って考えてごらん。きちんと自分の喜怒哀楽を理解し、人の喜怒哀楽も感じられるには、心の要素がきちんと出来上がってなくちゃダメなんだって。もちろん子供とかまだまだバランスとれてないらしいけど、少なくとも、この袋のもとみたいなのがあって、経験によって充たされていくのがあるべき姿なんだって」

 心をオレンジに例えるの?

「サイコパスとかいわゆる人の心の優しさが欠けてる人は、オレンジが心だとするとその何袋かがぽかんと空っぽだったり、すごく小さかったりするらしいよ」

 時々、すごく冷たい感じの人がいる。もっとも表情が乏しいだけで心豊かな人だっている。けれど、心がオレンジとしたら、中がスカスカな人っているのかもしれないな。見かけはしゃきっとしたオレンジでも…。それってすごく怖いな。

「レイヤー族は心がきちんと機能した人が多いらしい。そうじゃないとレイヤーから追い出されるらしいよ。もとレイヤー族で、レイヤーからはじき出されちゃって僕たちコモン族の間で有名になってる人もいるらしいけど…」

 誰だろう。でもレイヤーから弾き出されたら、姿がコモン族と違うからわかっちゃうんじゃないのかな。でも、見かけはほとんど変わらないレイヤー族もいるらしいから...。

「ねえ、ユカリさんどう思った?」

「どうって?」

「ねえ、マスターとユカリさんってちょっとよそよそしくなかった? 夫婦にしては?」

 うん。そういえばテンションっていうのかな。二人の間に奇妙な緊張感があった気がする。

「ロコになら言ってもいい気がするな」

  そう言ってダニーは口を一文字に閉じ、しばらく考えている様子だった。

ダニーの言葉を待ったけれど、ダニーはしばらく黙ったままだった。

 公園は決して手入れが行き届いているとは言いがたくて、雑草が茂っていた。タバコの吸殻も数本落ちている。

 夏草やつわものどもの夢のあと。

 何だかこんな句なかったっけ。

 背の高い雑草が暑さをものともせず、伸びている。どれも一見花らしい花はつけていないけど、よく見るとすごく地味な小さな花や、すでに綿毛になったのがついてたりする。

 たくましいな、って思った。たくましいから強者だよね。つわものって強者って書くんだっけ?違ってたかな。でもつわものって強いことだよね。

 そんなこと思っていると、ダニーが言った。

「ロコにならなんだか普通なら言わないこと、言ってもいいような、そんな気になるんだ」

「そう?」

 うん…。ダニーはまた黙って下を向いたけど、小さめの声で言った。

「どう思った?」

 どうって何を? 店のこと? マスターのこと? レイヤー族さんたちのこと?

「マスターとヨウちゃんとコウちゃん…それにコウちゃんのお母さん」
今度は私の目を見てはっきり言った。

「うん…。なんだろな。きっといい親子だよね。典型的とか、並みの、とかしごく普通の、とか、そんな言葉は似合わないかもしれないけど」

「じゃ、どっちかがマスターと血がつながってないって言ったら、驚く?」

「え? そうなの。でもそういうこともあるよね」 言ってから、そういうことってどういうことなんだろ、って考えた。

 ヨウイチさんもコウちゃんも、どっちもマスターには似てない。

「どっちかは血がつながってないの?」

「うん」

「どっちだろ」

 ヨウイチさんは背も高く顔も整っていてユカリさんさんには似てるけど、マスターには似てない。じゃあ、コウちゃんは? コウちゃんはどっちにも似てない。ってことはどういうことなんだ?

「コウちゃんなんだ」

「コウちゃんなの?」

「うん、コウちゃんがマスターの血のつながった子じゃないんだって」

 そうなんだ…。

「パパとマスターはいわゆる幼なじみってやつでさ、僕が覚えてる限り遠くに住んでるときも、うん、僕たちが北海道にいたときも、一年に何回かマスターが来たり僕たちがマスターのとこ行ったりしてたんだ。仲のいい兄弟って感じかな」

 そこでダニーは足元の小石を蹴って、ちょっと息を吐いた。

「まだ夜じゃないのにマスターの店で僕寝ちゃってさ、トイレ行きたくて目が覚めたら話し声がしたんだ。パパとマスターの声なんだけどいつもとトーンが違っててさ」

「どう違ってたの?」

「なんだろうな。ほら電車の中で顔見ずに話聞いてたら、いったいいくつの人が話してんだろって思うことない? 大人かなって思ったら、まだ高校生くらいの二人が何だか哲学的?っていうのかな、そんな話してたり」

「哲学的?」

「うん、生きる意味とかさ。そうかと思えばさ、どんな子供が話してるんじゃい、うるさいなって思ったら、大の大人、もう中年っていう男の人たちがたわいのない話しててさ、子供か?って感じだったり…」

 うん…?

「つまりさ、そのときのパパとマスターの話はそんな感じだったんだ。なんだろうな、話し方とかなんだか、あれっ?て感じで、いつもと違ってて、なんだか真剣で、なんだかお互いに秘密守れるもの同士が心をさらした?っていうのかな、そんなトーンでさ。いつもの大人の男同士っていうより、なんだかまだ大人になる前のパパ達が話してたらこんなこんな感じなのかなっていうような、そんな感じに聞こえたんだ。少なくとも僕の知ってるしっかりもののパパと物に動じないマスターの声って感じじゃなかったんだ」

 なんとなくわかる気がした。ママも頼りになる親友のマサエさんと話す時は、ちょっと子供っぽい感じで話したりする。甘えてるのかな、親友のマサエさんに。

「マスターが、コウスケと血がつながってなかった…って、その声はほとんど泣き声に聞こえたんだ」

 マスターが泣き声? ちょっと想像できなかった。

「そうなんだ」

 私はそれしか言えなかった。ダニーは気を取り直したように、「そういえばコウちゃんが書いた詩でこんなのがあるんだ。地区大会にも出されて賞も取ったんだよ」

 ダニーは立ち上がって目をつぶり、深呼吸した。



 遠くにいきたい

 遠くに 遠くに 遠くに行きたい

 誰もいないところ それでいていつくかの温かい目がしっかりと見ていてくれるところ

 遠くに行きたい

 遠くに 遠くに 遠くに行きたい

 誰もいないところ それでいて大きな木のあるところ 疲れたらしっかり休ませてくれる

 遠くに 遠くに 遠くに 行きたい

 誰もいないところ それでいていくつもの温かい目が 見守ってくれるところ

 できたら その目を僕が選べたらって思う 多分できないだろうけど

 遠くに 遠くに 遠くに 行きたい

 誰もいないところ

 それでいて それでいて 僕が自分になれるところ

 僕の壮大な夢



 ダニーは口元に少しだけ笑みを浮かべながら、すらすらとそれでいてゆっくりしたテンポで暗唱した。

 何だか喉のところがキュッとなった。胸のあたりも少しだけキュッとした。

 いい詩だって思った。とってもいい詩だって。

 ダニーがなんでそんなにしっかり覚えてるいたかというと、賞を取った詩は都の会館かなんかで発表するのが恒例で、ショウちゃんは大声で詩を読むなんてできないから、唯一の友達といえるダニーが代わりに読むことになったのだという。二人の小学校は違ったけれど、その時だけ、ダニーはコウちゃんのアシスタントとしてスタンドバイしてたってわけだ。

「コウちゃんの詩にふさわしい朗読がしたかったんだ。自分のだったら、照れて適当に読んだかもしれないけど、コウちゃんの詩はほんとにすごくいいって思ったからね。だから大げさ過ぎず、棒読みにならないように、さらりとそれでいてしっかり読めたらって思ったんだ。パパとマスターの話を聞いてたのが、僕の気持ちにどう影響したのかはわかんないけど…」

「で、きちんとできたんだ?」

「うん。ちょっと練習より早いテンポになっちゃったけどね。コウちゃんが言えたら、僕は舞台の袖で見てるはずだったけど、コウちゃんは僕たちだけにわかる視線を送ってきたんだ。お願いするよって。詩を読んだ後、ちらっとコウちゃん見ると、微笑んでたんだ。コウちゃんが微笑むの見たの数えるほどしかないんだけど、コウちゃんそのとき、緊張してる風でも心配そうでもなくって微笑んでたんだ。すごくほっとした。よくさ、映画かなんかで、主人公と恋人とかにスポットライトがあたって周りが暗くなってみたいなシーンがあったりするだろ。そのときの僕はさ、会場いっぱいの生徒や先生とかの反応はどうでもよかった。僕はコウちゃんに朗読してたんだ。マスターもパパもショウちゃんのママも発表者の親として特別招待されて最前列に座ってたけど、大して目に入らなかった。僕が読み終えると、拍手が始まったけど、すぐに止んだ。コウちゃんが一歩前にでて両手をあげたからね」

「え?出てきて両手を上げたの?」

「うん。コウちゃんは僕の斜め後ろに立ってたんだけど、両手を上げて手のひらをひらひらさせて変わった動きをし始めたんだ。手話を始めたって気づいたものはほとんどいなかったと思う。コウちゃんの手話はニュースで見るような感じとは全くちがってて、ほんとに流れるようなひらひらだったからね。またあいつ変なことしてる、全く変なやつだって思ったものも多かっただろうな」

「なんで手話なの?」

「数ヶ月前に聴覚障害っていうのかな、耳がほとんど聞こえない双子が入ってきてね。最初はみんな、わー、双子らしいよ。かっこいいかなーなんて言ってたりしたんだけど、多分遺伝性なのかな、二人とも耳がほとんど聞こえないらしくて、そんな二人をイマイチだなっとか思ったものもいて、補助教員の先生が特別についたんだけど、担任が確認したりするのを時間がかかる、受験に不利だ、学力が落ちるとかいう親がいたりして…。でも、コウちゃんは二人とすんなり仲良くなったんだ。すんなりとね。コウちゃんと二人の共通点はすごく頭がいいってこと、言葉があまり出ないこと、それにショウちゃんの不思議な手話を二人は充分理解してるみたいだった」

 ダニーは続けた。

「あの時のコウちゃんは格好つけるとかじゃなくって、理科の実験で特別賞をもらって会場に来ていた友達の双子にズームして…コウちゃんの凄いとこはズームできちゃうとこなんだけど、双子が何言ってだろ、どんな詩?って話してるのがわかったんだろうな。コウちゃんはリップリーダーじゃなくてマインドリーダーだね。補助の先生もいないし…。コウちゃんを見て僕は唖然とした。すごくいい意味で唖然としたんだ。マスターを見ると、涙は出てないけど、泣いてんじゃないかなって思った。僕は輪くぐりしてなかったから、マスターは普通の銀髪のおじさんでしかなかったけど…。僕はなんだか、すごくすごくすごく嬉しかったんだ。嬉しかったっていうより感動かな」

 ディフィニションオブラブ。愛の定義っていうらしい。この愛は恋人同士だけじゃなくって、真の思いやりって考えてもいいっていつかどこかで読んだと、ダニーは言う。

「きっと恋人ができたり、子供ができたり、僕がパパに感じてる感情も一種のラブなんだと思う。でも人が人に対する、友達が友達に対する対等の思いやりを初めて実感した時だったと思うよ。あのとき、デフィ二ションオブラブって言葉がしばらく心に浮かんでた。それはすごく確かな感じだった。思いやり、優しさとかひっくるめての大きな意味での愛? なんだか照れるけど、あの瞬間、僕は理解したんだって思う。コウちゃんを見て、双子のたくちゃんとあっちゃんを見て、マスターを見て、そんなマスターを気遣うパパを見て、なんだかひっくるめてね。で、悪くないな、って思ったんだ」

 私たちはその後、しばらく黙って歩いた。線路沿いを歩いた。歩きながら、影がゆったりと少しずつ伸びていくのを感じていた。

 少なくとも今日わかったこと…輪くぐり前に見えなくて輪くぐり後に気づいたことはなんだか世の中の輝きが違って見えること。それはイルミネーションのようなはっきりした光ではなく、そのつもりで見なければ見落としてしまいそうな、静かで微かな輝きだってこと。


 線路沿いでヒトガタにも会った。

 彼らはたいてい草の中や、岩と石ころの中間くらいの大きさの石が転がる中や、木の陰にいた。

 最初に会ったヒトガタは稲に似た葉が風に揺らぐ中に立っていた。

「あの中に小さな人みたいなのが見えるけど、ダニーも見える? ちっとも動かないけど」

 私は心理学を勉強してたママいわくかなりの「共感型」らしい。人の気持ちを思いやるタイプ。それは凄くいいことらしい、っていうか、社会の中で必要なことらしいけれど、過ぎると弊害もあるそうだ。とにかく共感型の私は、人間が好きらしくて、何の意味もない点や線を繋いだ絵や、タイルの模様の中にも、人の顔や姿を見い出す。

 だから最初人の形に見えたときも本当に人型の何かだとは思わなくて…山の形が人の横顔や、岩が動物の形に見える類だって思ったんだ。

「ああ、ヒトガタだね」ダニーは言い、「ヒトガタ」に近づいていった。私も続いた。ヒトガタを見下ろす位置まで行くと、ダニーはシャッとしゃがみこんだ。私もそっとしゃがんだ。

 そのヒトガタは以前見たチータンよりずっと小さくて高さは20センチくらい? 足を少し広げて立っていた。バランスは人間の大人くらい。だから可愛らしいエルフのような感じとは言いがたかった。体と頭は苔のような緑の物体で覆われている。

 表情はない。小さな目は黒目も白目もあり、少しずつ動く。こっちに焦点を合わせるように動く。けれど表情はない。手もある。足もある。でも微動だにしない。

「ねえ、動くことないの?」

「必要なければね。たいてい立ってるかしゃがみこんでるか、横たわってる。横たわってるときは目をつぶってるときが多いな」

「何なのかな?」

「ヒトガタだって」

「ヒトガタの定義って何?」

「うーん。人の形をした必要なければ動かないもの」

「生き物?」

「風クラゲやウッディって生き物だと思う?」

「ああ、そうだよね…。生き物の定義って難しいよね。生物の先生の言う生き物ではないってことだけは確かだよね」

「うん。でも見方を変えると? 魂のあるものを生き物っていうなら、ヒトガタはそうだって、マスター言ってたよ」

「へーえ、そうなんだ。じゃ、やあ、ヒトガタくんって挨拶しなきゃね。ヒトガタさん、かな?」

 私たちはしばらくしゃがみこんで、目以外は微動だにしないその「ヒトガタさん」を見ていた。

「触っていいのかな?」

「ロコは知らない生命体に触られたい?」

「あ、そうか。失礼だよね」

「失礼かはわかんないけど、相手の空間を侵害しないのが、輪くぐり後、もちろん輪くぐり前だってそうなんだろうけど、大切なんだ」

「そうだよね」

 ダニーは私以上の共感型なのかなって、思った。ダニーは優しい男の子に成長したんだなって、保育園では完全にお姉さん気取りだった私は改めて思った。あ、そう思うことって今だにお姉さん気取りだよね。

 線路沿いにヒトガタを見つける度に、私は「やあ、ヒトガタさん」「こんにちは、ヒトガタさん」とパーにした手の指先だけ振った。次第にダニーも加わって、わたしたちはいくつもの「やあ」と「こんにちは」を言いながら歩いた。

 このままダニーと疲れ果てるまで歩いたら、すごく楽しいんじゃないかな、って思った。くたくたになっても、とっても充実した1日だったって思えるんじゃないかって。

 じゃ、ケンタロウとだったらどうだろ? ダニーとみたいに自然体で歩けるかな。きっとすごく意識しちゃうんじゃないかな。

 ケンタロウのどこがいいんだろう? ケンタロウと二人っきりでこんな人気のない線路沿いを歩いたりしたら、なんだか落ち着かないだろうな。それって自分のこと好きになってもらいたいから落ち着かないのかな? 実力以上に見せたいから落ち着かないのかな?

 でも実力以上って何の実力? 女の子らしい可愛さ? もしそうならスタート時点でもう完全にユキちゃんに負けてる。

 じゃさっぱりした中に見せるちょっとした女の子らしい優しさならどうだろ? それもやっぱり無理かな。だけど女の子らしくはないけど私は乱暴じゃないし優しいと思う。

「人間力の高い人になりなさい」ってママはよく言う。人間力って何?って聞かないのは、自分で見つけなきゃならないことの一つだってなんとなくわかってるから。私の人間力って順調に育ってるのかな?

 ダニーは男の子らしくないけど優しい。

 女の子らしい優しさとか、男の子らしい優しさとか、格好良さ、ってのがなかったら、恋ってできないのかな。すごく人間力があっても、それとはまた別もんなんだよね、きっと。

 ケンタロウの優しさは男の子らしいって感じる。でもなんでだろ?声かな? 態度かな?

 ダニーの優しさはどこが違うんだろ? ダニーは男の子って意識させない。ルックスがっていうより一緒にいるときの自然さが男の子って意識させない。

 きっとケンタロウもユキちゃんといるとき感じるワクワク感と私と話すときの感じは全然違うんだろうな。私と話すときは、私がダニーと話すのに似てるのかな。いわば同士って感じだったりして。

 そんなことを考えてると、ダニーが私を見てニコッと笑った。ダニーの笑顔は素敵だ。ミロちゃんの笑顔が素敵なように、マスターの笑顔が素敵なように、純粋に素敵だ。

 じゃあ、もしケンタロウとダニーの中身が変わったら? そしたらダニーにほのかな恋心を持って、ケンタロウに今のダニーに対する気持ちを持つのかな。それとも見た目って私が思ってる以上に大きな役割果たしたりしちゃうんだろうか。

 とにかくダニーと線路沿いを歩いてて、すごく素敵なひと時だなって思ったんだ。大冒険の後の安らぎ効果だったのかもしれないけど。

マスターの店での経験は私にとって大冒険だった。ディズニーランドの三時間待ちのアトラクションより大冒険だ。出会った人はみんな不思議に素敵だったけど、だからって緊張しないわけじゃない。すごく緊張してたって思う。だからかな、ダニーと二人でひなびたっていうのか、うん、十分にひなびた線路沿いを歩きながら、ヒトガタくん、ヒトガタさんに挨拶したりして、これってかなり穏やかで素敵なことなんだって思ったんだ。