肩をつつかれて振り向くとミロちゃんだった。ミロちゃんが立っていた。
あ…ミロちゃん…。
そうだったの、ミロちゃんって、私の目が言い、
そうなのよ、ロコ、っていうように、ミロちゃんがうなづく。
ミロちゃんは猫人間だった。
ミロちゃんはただの隣のクラスの泣き虫ミロちゃんだったときの何倍にも目を輝かせて、シャキッと立っていた。猫人間として。
ミロちゃんも私が輪をくぐったってわかるんだ。
それにしてもミロちゃんが…。私はかなり、驚いていた。だって何て言ったらいいんだろ。つまり…このハムスター、実はもぐらだったんです…って言うのとも違うし、この子、実は悪魔の末裔で、とか天使の化身で、とかというのとも違う。
そうだ、こんな感じかな。
教室の隅っこの方で、ううん、別に隅っこでなくてもいいんだけど、いつも丸まっちくなってて、動きものた~ってしてて、どう見てものろくさくて、先生に聞かれても反応鈍くて、そんな子って案外どこの教室にもいないかな。そんな子がある日、運動会のリレーの選手に突然選ばれる。手違いかなんかで。
陽の光の中、鈍くて冴えなかったはずのその子が突然輝く。野を走る銀色の馬のように。そして、わかる人もいる。その子が変わったんじゃない。その子の輝きにみんなが気づかなかっただけなんだって。
ミロちゃんはそんな何かを持ってたと思う。誇らしいことだけど、私はちょっとミロちゃんの素晴らしさがわかってた気がする。
ミロちゃんの小さい目はいつも開けてるのか開けてないのかわからない感じで、表情はほとんどないのに、突然にたっと笑って、みんなをぎくっとさせたりする。
ミロちゃんはちょっと不思議な子。
小さくて目立たなくって何をやるのも最後か最後から二番目くらい。女の子の中でも浮いていて…。ううん、沈んでるっていうのかな。自ら目立たないようにか、もともとそれが自然体なのか…。
ミロちゃんはそんな子。
そんなミロちゃんだから、猫人間っていうのはかなり驚きだった。
私は犬の方がどっちかっていうと猫より好きで、飼えるようになったら絶対犬を飼うんだって思ってるけど、だからって猫が嫌いなわけじゃない。ある日、公園でないてた二匹の捨て猫、飼いたくって飼いたくって、涙が出そうに飼いたくって…。でも飼えないから、飼える人いませんか?って、友達に聞きまくったんだ。
あのときなぜかミロちゃんを思い出した。仲良しでもなければ、猫を飼えそうだな、なんて、ちっとも思わなかったけど、なぜかミロちゃんを思った。
そうか、ミロちゃん、猫人間だったんだ。
耳がピーンと立ってて、目はあいかわらずそんなに大きくはないんだけど、少なくとももうちっちゃくはなくって、体の形は人間なんだけど、どことなく猫で…。
「ミロちゃん、ぜんぜん知らなかったよ」
「だよね」
「ミロちゃん、ずっとそうだんたんだ」
「まあね」
「ミロちゃん、私違って見えんのかな」
「ロコちゃん、変わってるね」
「えっ?」
「変わって見えてんって私だよね。なのに、ロコちゃんが変わってるって聞くの?」
ミロちゃんはクククくって楽しそうに笑った。
「だってさ、ミロちゃん、私がミロちゃんのことわかったって知ってるわけだよね」
「まあね」
「どうして?」
「どうしてかな」
ミロちゃんは、にったりと、にっこりと、にたぁ~を全部ごちゃまぜにしたような顔で笑った。
「ねえ、どうして?」
「どうしてかなぁ」
「いじわるしてんの」
「まあね」
でもミロちゃんは底抜けに優しくって明るい目をしていた。目の色は茶色と金色の間のような目だ。ちょっと緑がかってるのかもしれない。ママがいつかバザーで手にとって見てたキャッツアイ、そうまさにキャッツアイって宝石に似ていた。
「教えてよ、ミロちゃん!」
まあまあ、って感じでミロちゃんは私の手をとった。とってもふんわりした感触だった。柔らかいちっちゃなミロちゃんの手。
ミロちゃんは私の手の甲から腕にかけて、ポンポンって感じで撫でた。
ん? 腕から出たほこり?のような小さな粒子が太陽の光に輝いて見えた。
やだ、何ついてんだろ。
ミロちゃんは自分でよく見てみなってふうに、私の腕や足やいろんなとこを指さした。
…あれ……? 私の手、指、足、みんな少しだけ前より輝いて見えた。
「何これ?」
「輪くぐったよね。くぐった人間にだけつくんだ」
「ミロちゃんは?」
「あたし、こっちの人間だからね。そんなのつかなくても見え見えだよね。くぐった人間にあたしの本当の姿が見えるだけだよ。でもあたしたちにとっては、輪くぐりした人間は少しだけ輝いて見えるんだ」
「ねえ、夜もそう?」
「夜のほうがもっとはっきりしてるよ」
「ふーん」
なんて素敵なんだろうって思った。
「ミロちゃんは輪をくぐったりしないの?」
「そんな馬鹿らしいことしないよ。誰もしようって思わないよ。危険でもあるよね。私たちの世界から輪をくぐってそっち側には出れないよ。でも、たまたま、なんかでそっちに放り出された半人間がいてね」
「半人間?」
「うん、私たちみたいな種族。人間であり、人間以外の動物の要素ももってるもの。これ半人間っていうんだけど、私たちの間でも半人間って呼び名はやめよって言う者増えてんだ。だって半人前の人間じゃなくって、人間としても完全だけど、ごくごく普通の人間にとったら不思議な他の動物的能力をもってるってことだからね、あたしたち。もっとも外見は輪くぐりした人にしか見えないけど」
ミロちゃんはいつもの教室の隅のグダッとしているミロちゃんじゃなくって、演壇にたつ哲学者のようにも見えてきた。
私はママがよく言っていることを思い出した。
ハーフタレントとか、あの人ハーフだっての、言い方としておかしいと思うのよね。両方の血が入ればダブルでしょ。オバマ大統領だってね、初のブラックの大統領っていってるけど、お母さんはホワイトよ。オバマさんは黒人であり白人であり、そういった意味でハーフじゃなくてダブルなのよ。もちろん黒人の血が入った初めての大統領ってとこには意味あるんでしょうけどね。
ママはぶつぶつ言っていた。ママは若い頃アメリカを放浪したことがあるんだ。その頃、人種とか宗教とか差別とかいろいろ考えたって言ってる。ロコが大きくなったら、じっくり話したいわねって真剣な顔になったりする。
「そうだね。半人間じゃなくってダブル人間だね」
「ロコちゃん、わかってくれるんだ」
ミロちゃんはひどく嬉しそうに私を見た。
「で、こっちに放り出されちゃったダブル人間族はどうなるの?」
「見えちゃうんだ。普通の人間にその姿が」
「それって…」
「うん、大変だよ。なんとか人間現れるってなニュースはガセも多いけど、なんかの拍子に私たちを守ってるこっちの世界からそっちに出ちゃった場合もあるんだ」
「そうなんだ…」
「怖いよね」
「ねえ、こっちに来た人間で騒いだりするものいないの? こっちで見ちゃったことを?」
「大丈夫だよ。こっちにこれる人間はスペシャルだからね」
「どうスペシャル?」
「なんだろな。でもこっちに来れるってことは、感覚がある意味私たちに近いんだ。輪はさ、けっこう私たちに近いフィーリングの人間にだけ見えるんだ。…まあ、そう単純には言い切れないけど、ロコちゃんもそのうちだんだんわかると思うよ」
「ねえ、じゃ、私が輪くぐりする前、私がそのうち来るだろって、ミロちゃん知ってた?」
ダニーは知っていた。なんだったっけ。そう私がフェルルだって。
「ああ、ロコちゃんがフェルルだって?」
「うん、そう、そのフェルル。それそれ。ミロちゃんもその言葉使うの?」
「まあね」
ミロちゃんはくすくす笑った。
「あ、来た来た、輪くぐりの先輩が。聞いてみなよ、ロコちゃん」
ダニーがトコトコやってくるのが見えた。片っぽうの足がちょっと内股で、カールを揺らしてやってくるダニーは、なんだかいつもよりずっと幼く可愛らしく見えた。人気者になるのも無理はない。
「やあ、谷崎さん」
ダニーはミロちゃんのことを名字で読んだ。
「吉川くん」
ミロちゃんもダニーのこと名字で呼ぶんだけど、交わす視線はとっても親しげだ。
「ロコちゃんがどうしてフェルルってわかったか知りたいんだって」
「へへ~」
ダニーが笑った。
「ふっふ~」
ロコちゃんも笑った。
そこへイッチーがやってきた。「こらあ! はやくこーい!」
そう言ってイッチーは私の腕をつかんだ。
「さあ行くよ。お弁当、お弁当、楽しいなーでしょ。それではダニー様失礼いたします」
イッチーはふざけて深々とお辞儀をした。
「ねえ、ミロちゃん、一緒に食べない?」
私が言うとイッチーが眉をしかめて小さく首を振った。
「だめだよー、あの子ちょっと不気味なんだからー。勝手に誘っちゃだっめだよー」
イッチーは小声だけど力を込めて言った。
「あたしならいいんだ、大丈夫だから」
ミロちゃんはくるっと向こうを向いて小走りに行ってしまった。私はなんだかいてもたってもいられなくなって肩を上げてふーっと息を吸い、とんとん小さく足踏みした。ミロちゃんに悪いって気持ちがどんどん強くなった。
けれどイッチーは、さあさあって感じで私を引っ張る。
「ダニー、一緒に食べる?」
私たちを少し首を傾げて見ていたダニーを誘うと、「ダメ!」とイッチーがはっきり言った。
「いくら可愛くてもダメ! ダニーくんは男だからね」
「あとでねー」
そう手を振ってダニーは走り出した。
「なんでロコ、ダニー様と親しいわけ? 保育園からとか言ってたけどわっけわかんねー。それより腹ペコー」
ぐいぐい引いていかれた先にはミキたち5人がお弁当を食べ始めていた。
「やっと来たあ!」
ミキがもぐもぐさせながら言った。
当たり前のことなんだけど、北川先生は遠足中ずっと羊人間で、ミロちゃんはいっつも一人でやっぱりずっと猫人間だった。ダニーはといえば、気はいいんだけど、どっか抜けてるシンジと一緒だった。
私はミキたちと一緒なんだけど、輪くぐりした世界に魅了され過ぎていた。
一生懸命目をこらせば見えなかったものが見えてきそうで、キョロキョロ、挙動不審に見えたに違いない。
遠足の帰り道も周りを見過ぎて、家に着いたときにはかなりぐったりだった。
遠足からの帰り道、水筒に残ったお茶を飲み干しながら、帰った。
私が住むのは3階建ての小さなマンションの2階。一人で鍵を開けて入る。いつものことだけど今日は鍵が妙に重い。
家の中からいっぱい見知らぬ何かが飛び出してきたらどうしよう。ほら何とかの箱。パンドラだっけ。でもそれから飛び出したのは嫌なものや悪いものだったはず。
今までに見えなかったものが見えてきた。今まで見えなかった姿が見えてきた。北川先生にミロちゃんは、今まで見えなかった姿…。
輪くぐりをして見えるのは他になんだろ。悪霊とか、妖怪とか、そんなもの?
一気にドアを開ける。
バーンと開けたけど拍子抜けだった。しーんとして何の気配もない。
妖精って見え出すとどんどん見えてくるんだと思ってた…。
部屋は薄暗かった。横っちょに高層マンションが建ってから、うちのちびマンションは3時過ぎには暗くなる。建設反対運動もしてたみたいだけど、効果なかったみたいだ。
いつもならすぐ明かりをつけるんだけど、それも億劫だ。
ソファにすわって今日の出来事を思い出してみた。何だかみんな夢みたい。みんなみんな夢みたい。
呼び鈴が鳴った。
誰だろ? 東洋海送なんとかって会社の社宅だったこのマンション、誰でもドアの前まで来れてしまう。随分ママも心配している。ロコ怖くない?ってママに聞かれるたび、ぜーんぜんって言ってたけれど、本当はピンポーンって鳴るたび、ドキッとしている。
でも大体わかってきた。人となりっていうのかな。ママが決して出ないようにって言うから、のぞき穴からのぞいたりしてたんだけど、最初は何だか悪いことをしてるのがこっちの方って気がしてずいぶんいやだった。こっちだけがそっと相手を見てるってのが何だか後ろめたかったんだ。
今日はのぞくのも何だかおっくう。でも好奇心の方が勝って立ち上がった。音のしないように。中に人がいるのがわからぬように…。
のぞいてみたら、
ダニー!
開けるなり手をとった。
「どうしたの。さあ入って!」
ダニーは思わぬ歓迎に私に手を引かれるまま入った。
「ここすぐわかった?」
「黄色のマンションで隣がクリーニング屋さんとパン屋さんで大きなマンションの裏って言ってただろ」
「うん。…ねえ、帰りに寄ったの? ってわけないかリュックも持ってないしね」
「あのさ、輪くぐり済みのロコには、言っといたほうがいいことがいっぱいあるなって…。で、とりあえず言いに来た」
「うん?」
「肩の力抜けよってさ」
は?
「輪くぐりするとさ、みんな興奮してドキドキして、未知の世界がここにもあそこにもあるんじゃないか、目をもっと見開けば見えるんじゃないかって…血まなこでさ、疲れてしまって…病気になるやつだっているんだ」
「ほんと?」
びっくりしたみたいに言ってみたけど、私にはわかっていた。だってもうひどく疲れていたから。
「だからさ、ロコにもメンターが必要だと思ってさ」
「メンター?」
「うん、指導者っていうのかな。先生っていう感じより、もっと深く精神的なところで指導してくれるような」
「ふーん。メンターね。そりゃさ、そんな人がいたらいいけどさ。いる?」
「いい人がいるよ。僕も小さい頃から知ってる。パパの友達なんだ」
「ふーん。でもダニーでもいいよ。私より随分知ってること多いんだから。ダニーはちびメンター。ちびメンだ」
「ちびメン? やだな、なんかカップラーメンみたいだ」
ハハハハハ。
「じゃ、そのメンターからのアドバイスであります。今日はぐちゃぐちゃ考えずに寝ること」
「はい。ちびメン、わかりました」
「それから、明日からレッスン開始」
「明日から?」
明日は日曜だけど、私は習い事も何もしてないので暇だ。
「うん。何か予定ある?」
「特にないよ。ママと出かけるかもしれないけど、でも最近ママ忙しいから多分ないと思う」
「じゃ、決まりだ。マスターの店にいこう。マスターはね、カフェやってんだ」
「どこにあるの?」
「ここからあんまり遠くないよ。歩いて10分くらいかな」
「なんてカフェ?」
「ハーヴィ」
「そんなカフェあったかな。それよりね、どうしたら、輪の外に出るの?」
「心配しなくても弾き出されるよ」
「えっ?」
「たいていは寝てるときみたいなんだ。輪って、見えたり見えなかったり、でもいっぱい流れてるみたいなんだ。その輪が流れてきて余分なものはポンって弾きだしちゃう」
「寝てる間に?」
「寝てなくても妖精パワーとでも言うのかな、自分のパワーが弱くなると弾き出されちゃう。一旦外に出ちゃうと、輪が流れてきても入れないこともあるし」
いろいろ複雑なんだ、私はため息をついた。
その夜、寝るのを待つ必要もなく、私は輪から弾き出された。
お風呂上がり、ぼんやりしているとゆったり一つの輪が流れてきて、私のそばまでくると、ポワーンと広がり、私の頭から足へするり、と落ちた。
皮膚に少しだけ圧力を感じたような気もする。感じたと思ったら、周りが少しだけ光を失った、そんな気がした。
日曜日、ハナミズキ公園で待ち合わせした。
「輪をさがそう」会うなりダニーが言った。
さがそうって言ったって、そんなに簡単に見つかるものなのかな。
あ、ダニーは小さな声を出すと、少し離れた木のそばまで行き、何かを引っ掛けるように指を動かした。そして両手、頭、肩…を少しくねくねさせ、足も通し…。どうやら輪をくぐり抜けたようだ。
「ロコ、来て!」
私は駆け出していった。
あ…
すくっと立ったダニーの足元に…一瞬だけどダニーが通り抜けただろう輪が、ほんの薄っすらと見えた。
私はすばやく、その地面から30センチばかりのところで細かく揺れている輪に手をのばした。
と、すっと輪は私の手に貼りつくように馴染んだ。
私は輪に両手の親指を入れ、地面にゆっくり下ろし、足を入れた。するとふわっと輪は体を包み、頭の上でシュッと小さくなって見えなくなった。
周りが少しだけ前より明るくなったような気がした。
それはとても静かな明るさだった。朝陽に照らされた湖面みたいだなって思った。いつかママと行った山陰の湖面みたいだった。
私はダニーと顔を見合わせた。やった!って感じで拳を小さく握ると、ダニーは笑った。冒険はどんな冒険でも、木登りひとつでも一人より二人の方が楽しい。それに心強い。
なんだか既に大きなことを成し遂げたみたいで、私は地面を蹴って歩き始めた。
風クラゲが三つひらりんひらりん優雅に舞っていた。今日の風は穏やかだ。
木の枝に大きなナナフシみたいにぎこちなくつかまっているのはウッディに似ていたけど、昨日見たのより、手足がずっと長かった。
足元を何かがパタパタと走った。小さな裸ん坊? 何だろ、これ?
赤ん坊より小さいけれど、手足のバランスは人間の大人みたいだ。30センチくらいかな。これくらいのキューピー人形見たことある。キューピーは笑ってるけど、今パタパタと走っているのは笑ってない。かなりのしかめっ面だ。全然子供っぽくない不思議な顔をしている。顔は丸くて、髪らしきものはほとんどなくって、何も着ていなくって、男か女かもまるでわからない。
何なんだ、これ?
「あ、ぼくはチータンって呼んでる」
「チータン?」
「うん」
「チータンって何? 何かの妖精?」
「わかんないんだ。見るとたいてい駆けってるか、隠れてるか、睨んでる」
「なんでチータンなの?」
「なんだかチータンって感じだろ」
「そうかな。なんだかなぁ…」
「どうしたの?」
「妖精ってもっとわかりやすいものだって思ってた。花の妖精とか…。ほら、絵でよくあるじゃない。蝶みたいな羽つけてたり、てんとう虫みたいな帽子かぶってたり、可憐な女の子やいたずら天使って感じの可愛い妖精」
「残念だけどそんなの見たことないよ」
「チータンと風クラゲとモクベイさんだっけ、その他にも見たことある? 妖精みたいなやつ」
「そりゃあるさ。でも名札つけてるわけじゃないからね。あれ何だろ、って思ってるうちにいなくなったりする。百以上見たって人もいれば、風クラゲだけの人もいるんだ」
「そんなもの?」
「うん。フェルルの中でも個人差ってけっこうあるしね。でもさ、ロコ、見えるの妖精だけじゃないだろ」
「そうだよね。ミロちゃんのほんとの姿も見れたしね。あ、ほんとの姿って言うのおかしいかな。どっちがほんとの姿かわかんないものね。違った姿っていうべきかな。それに北川先生も」
私は何だかちょっと不安になってきた。
他に何が見えてくるんだろ?
見えるものが全て素敵だとは限らないはず。
カフェ ハーヴィの扉の前には風知草の鉢が一つあった。フウチソウっていうのよって、ママが冬になる前、1つ買ってきた小さな鉢。根元から3センチほどに切られてて、正直、茎が密集した枯れ草にしか見えなかった。見ててごらんなさい。春になったら驚くわ。ママは言ったけど、私は、ほんとかなって感じだった。でも春になってぐんぐん葉っぱが伸びてきた。緑色の細長い葉の勢いは確かに驚くほどで、風が吹くと時にはさらさら、時にはふわふわ、時にはザザザザ、と揺れた。「フウチソウ」は、「風知草」になった。
店の前のはママのとは比べものにならないくらいそりゃ大きく茂ってる風知草の鉢だった。葉は長く密に茂っていて、鍵とかはもちろんシャベルとかも隠せてしまえそうだ。
その横にかなり大きな睡蓮鉢。花はないけれど睡蓮の葉が重なり、水面が見えないくらいだった。
「めだかとかいるのかな?」
私は覗き込んだ。何だか不思議な魚がいたりしてね…。不思議な?そう思ったら、輪くぐりをしたことを意識してしまった。
そうか、この店にマスターがいるんだ。どんな人だろ?楽しみなのか、不安なのかわからなくなってきた。
「どうしたの?なんか固まってない?」
うん…。
私はきっと大の冒険好きとか、怖いもの知らずっていうんじゃないと思う。小心者?っていうのかも。
その時どこから現れたかのか、うっすらとした輪が私の周りをゆらゆらし始めた。
輪くぐりあとに輪が見えてるってことは、これをくぐると、戻っちゃうんだ。
あ…って思ったけど、輪が一瞬にして広がり、頭から足元にするりと落ちてツッと水平移動して行ってしまった。
あ…あ…あ……
私は輪から弾き出されてしまった… 。
「輪くぐりできてなくたっていいからさ」
ダニーがなだめるように言った。「とにかく入ろうよ」
「やだ」
なんだかすねた気分だった。存在を拒絶されるってこんな感じかな。なんで輪から弾かれちゃったんだろ。ちょっと不安になったり怖がったりしたのがいけなかったのかな?
睡蓮の鉢の中に小さい魚が見えた。メダカだった。
「さあ、ロコ」
うずくまるようにしてメダカを見てる私の袖をダニーが引っ張った。
『ハーヴィ』の木の看板は、本当に古いのか古っぽい感じにしてるのか、文字が黒く焼きつけたようだった。扉を開けると鈍い金属音が響いた。カランカランでも、ガランガランでもない音。足を踏み入れるなり、空気が変わった。
確かに空気感が変わった。
ある場所に入って空気感が変わる、そんな経験、誰にもあるんじゃないかな。たいていは自分の心の状態が場所によって変わっただけなんだろうけど。
たとえば、体育館での夏休みの研究発表。ステージの上からずらっと並んだ生徒見て、いつもと空気が違うって感じてしまう。空気が密で押し寄せてきて…。あのとき細かく揺れてどうしようもなく落ち着かなくなってしまうのは空気のせい? それとも心? 多分、自分の心の空気感。心の密度。脳内の何かの密度。
これまでは空気感が違ったと感じた原因は自分にあったんだと思う。でも確かにこの場所は空気感が違っていた。純粋に。
カウンターの向こうで、グラスを布巾で拭いてた男と目が合った。見事な白髪だ。小柄な人だった。カウンターが高すぎて、ちょっと不釣り合いに見えるくらいだ。
その顔は年齢不詳だった。つやがあって若々しくも見える。銀髪を今風の髪型に変えたらぐっと若く見えるに違いない。
そして不思議なことなんだけど、なんだかその人の周りの空気はひんやりしていた。
いい意味でのひんやり感だ。暑苦しい人、っていうの真逆のひんやり感。冷たい、とか冷淡とか人間味が感じられない、とかいうのとは全然違ったひんやり感。
そのひんやり感は「きっぷがいい」って感じにちょっと似てるのかもしれなかった。正直、きっぷがいいって意味、よく知らないんだけど。
その人は私に焦点をあてた。あまりにシュッと焦点が合わされたもんだから、一瞬、呼吸が止まった。
でもきっと客観的に見たら、普通の目、普通の視線なんだと思う。ごくごく普通の。目も大き過ぎも小さ過ぎもせず、離れ過ぎもくっつき過ぎもせず。
ただ、強い視線ってのがあるとしたら、正にこんな視線なんだと思う。
「よお、ダニー」
男の顔がくしゃっとなった。
テーブルは4つ、客は7人だった。
ダニーと入った時、テーブルに二人ずつかけている六人が皆なんとなくこちらを見た。静かな風のような視線だった。まるで風に吹かれて少し揺らいでいた葉がふっと動きを止めるように、皆なんとなくこちらを見て、その後はまた自然に揺らぎ始めた。
ワイシャツを着たノーネクタイの二人は何やらブラウン封筒から書類を出して片方が説明している。長年連れ添った夫婦風の二人は、ゆったりとカップを動かして、多分コーヒーを飲んでいる。
それにポニーテールの二人。大学生かな? 片方が女で片方が男。男の方が少しくせ毛でポニーテールが少し長い。
カウンターには一人。腰かけてた高校生風が、くるりとカウンターチェアを回転させてこっちを向いた。
随分整った顔だなって思った。ハンサムとかイケメンとかかっこいい、じゃなくって整った顔だなって。アイドルだったらあまり整いすぎててかえって人気が出ないタイプ。いるよね、そんなタイプ、どんなグループにも一人くらいは。
「ダニィィィー!」 そのおにいさん、カウンターチェアから、とび下りてやってきた。声が高くハイテンションだ。手足が長く背が高い。長〜い手を振り回すように広げて歓迎してくれている。笑うと大きな前歯が見え、整った顔はぐっと人間味を増した。みごとなすきっ歯のところが愛嬌がある。
「よお、ダニーの彼女かぁ?」
「友達だよ」
ダニーはくすくす笑った。わたしもつられて笑った。
「ヨウちゃん背高くなったね、マスター」
カウンターの銀髪の男は、ダニーの言葉に大きな口をさらに大きくした。
やっぱりこれがマスターなんだ、私はなぜか安心した。ゴールの旗を見つけたような気分だった
「ダニー、見ろよ。ピアス開けたんだ」
ヨウちゃんが言った。
「あ、ほんとだ」
長めの髪を耳にかけると、黒い石のピアスが見えた。
「なに、それ。ブラックダイヤモンド?」
「コクタンさ」
「コクタン?」
「そう、コォクゥターン!」
「コクタンって炭? 」
「だろうな。コクタンピアスって店員ちゃんが言ってたからさ。コックゥターン!」
「ヨウイチ、それはさ、木の種類の黒檀だよ。英語でエボニー」
マスターが言うと、会話が聞こえていたのだろう。一番近くのテーブルの夫婦が笑った。
「あ、そうだ、そうだ、そんな歌あったな。エーボニー〜アイボニー〜とかさ」
ヨウちゃんはけっこう音程がよい。
「それを言うならばアイボリーだろ。アイボニーじゃなくってアイボリー」
マスターが笑った。
「わかってるって、パパ。愛嬌愛嬌。ポールマッカートニーとマイケルジャクソンだよね。ちゃんと知ってるって」
え?
きっと私が戸惑ってるのがわかったんだ。マスターの目が、言ってごらん、って言ってる。
「スティーヴィーワンダーじゃなかったかな?」
ちょっと遠慮がちに言ってみた。ママが教えてくれたんだ。随分長い間黒人系の大統領が選ばれるなんて考えられない時代でね、オバマさんがなった時、ママすごく感動したわ。ホワイトハウスでエボニー&アイボリーって歌が歌われてね、これは黒人のスティーヴィーワンダーさんと白人のポールマッカートニーさんが作って一緒に歌った曲なのよ。もう三十年以上も前の曲だと思うけど。
その時ママはポールマッカートニーがビートルズのメンバーだったことや、スティーヴィーワンダーは今はすごく背も高い大きな人だけど、子供の頃はリトルスティーヴィーって呼ばれて凄い天才少年だったこととか教えてくれた。そんな話をするママはなんだかとても楽しそうだった。
「物知りだなー、ダニーの友達は。なんて名?」
「ヒロコです。みんなロコって呼びます」
そのあと、絶対マイケルジャクソンだと思ったんだけどなーってヨウイチさんはブツブツ言っていた。それはきっとブラックオアホワイトって歌と勘違いしてるんじゃないかなって思った。いつかユーチューブでみたマイケルジャクソンのブラックオアホワイト。ダンスも歌も映像もすごい迫力だった。
「食べる?」
マスターがサンドイッチとアイスコーヒーをカウンターに置いた。
「カフェイン抜きだから安心していいよ。ロコちゃん、こいつ、カフェインとるとめちゃめちゃハイパーになるって知ってた? こいつの父さんが間違ってコーヒーゼリー食べさせた時なんかもう大変で。数覚え始めたころだったからさ、ひとちゅ、ふたちゅ、みっちゅ、ここのちゅ、って1、2、3からいきなり9にとぶんだけど、もう一晩中跳ねまわって、ひとちゅ!ふたちゅ!みっちゅ!ここのちゅ!ってさ」
はははは、私は笑った。笑いながら緊張がとけていくのを感じていた。
「コウちゃん、元気?」ダニーはなんとか話題を変えようとしてるみたりで、少し声を甲高区して聞いた。
「おお、コウイチも元気にしてる。ぐっと背も伸びた。前から4番目くらいになった」
「へーえ。じゃ僕くらい?」
「ダニーよりはまだ低いかな。ダニーは新しいクラスではどれくらいなんだ?」
「真ん中よりはだいぶ低いよ」
「コウイチももうそろそろ来るはずなんだけどな」
「じゃ会えるね」 ダニーは嬉しそうだった。
私は、もう一度なんとか輪をくぐりたくってしょうがなかった。くぐってこの場所や人たち見てみたい。もっともっとカラフルに違いない。マスターの他にもダブル人間っているのかな。マスターはきっとダブル人間だよね。
でも一体どんなダブル人間なんだ?
「おう来たか」
その子はカウンターの裏の調理場につながる裏口から入ってたらしい。気がつくとすくっとマスターの横に立っていた。
「コウちゃん!」
ダニーが走り寄った。コウちゃんは静かに笑った。ヨウイチさんがオーバーリアクション、ハイパーだったのと対照的だ。丸いふんわりした顔でほとんど無表情に見えた。ちょっとウーパールーパーに似てると思った。
「ダニー」コウちゃんはつぶやくようにカウンターから出てきて、ダニーの手を引くと空いているテーブルに連れて行き、二人同時にちょこんとすわった。ほんとにちょこん、という感じだった。
私も行こうかと思ったけど、なんだか二人の世界を邪魔しちゃいけないなって気がしたから、カウンターにもたれて見ていた。
「ダニーはコウイチのいい友達でね」
マスターは言った。
「コウイチはほとんど話さない。話せないわけじゃないんだけど話さない」
エボニー、アイボ二ー、ってあいかわらず歌いながらエアギターしてるヨウイチさんと随分違うねって思った。
「ロコちゃんはデッサンって好き?」
デッサン?
「柔らかめの鉛筆で物の輪郭描くだろ? 強く描くと濃くなって、薄く描くと薄くなる」
はい…?
「そんな風に…」マスターはいつ手にしていたのか輪ゴムを一本持ち、それは普通の輪ゴムより幅のある平べったいやつで、「しっかり見える時と」と平たく太い面を見せ、「薄く見える時と」と細い方を私に見せるようにして「あるんだよ」
「それにね」マスターは続けた。「画用紙や描くものの種類によってしっかり描けるものと描けないものがある」
うん…?
「このカフェはね、画用紙で言ったら、しっかり描ける画用紙なんだよ。しっかり輪ゴムがね。輪がね」
あ…。
マスターは輪のこと言ってるんだ。私が輪くぐりできてないってことも、フェルルだってことも知っている。
私は目を見開いてマスターを見た。マスターの目は一見濃い普通の目。でもとても深い目だった。奥行きを感じる目。その目の奥にいろんな世界が広がってる目。
「ダニーは転校する時ちょっと緊張してたからね。今はロコちゃんがダニーの面倒見てくれてるんだよね。ありがと。ロコちゃんはいい子だね」
マスターの両頬に深いえくぼができた。
不思議なんだけど、子供扱いされたって気はしなかった。マスターの「いい子だ」はいい人間だね、って感じで、なんだか私の存在をしっかり認めてもらえたって感じだった。
「背は私の方が高いけど、ダニーの方が大人だと思います。経験も私よりはいっぱいあるし…」
「経験ってどんな経験?」
マスターはからかうって感じじゃなくて、真摯な目をして聞いた。
真摯って最近のお気に入りの言葉だ。教科書に載ってたけど、覚えなきゃいけない漢字じゃなくって、ルビがふってあり、読めればいいって漢字らしい。
でも、「真摯」の意味を知って、なんだかすごくすごくいい言葉だって思った。「誠実」とか「優しさ」とかと同じように世の中にもっとあふれればいい言葉だって。
で…マスターの真摯な目に向かって言った。
「あの、輪くぐりとか…の」
ああ、マスターはうなづいた。
「知ってるよね、ロコちゃんには能力はあるんだよ」
「能力?」
「そう。たとえば、今まで走り幅跳びあんまりやってきたことない子が、いきなり跳んで…で、やっぱり大した記録は出ないとするよ。でも何回かに一度かはすごくいい距離が出る。能力はあるんだよ、その子。ただコツがつかめてないんだな。でもね彼女は、100回跳んで98回いい記録出す選手より、潜在能力的には上なんだよ」
一瞬、びゅっと広がった輪に運動服を着て、それも学校指定のじゃなくって国際大会で選手が着るようなウェアを着て踏み切って体全体で跳びこもうとしてる自分が見えた。
「マスター、実はね、ここに来る前、せっかく輪くぐりできたのに、店の前ではじき出されちゃったんです。…どうしてかなあ…」
「ま、そんなこともあるさ」
マスターは微笑んだ。
「あまり深く理由を考えず、そんなこともあるさって考えたほうがいいこと、結構あるもんだよ」
私はひどくがっかりした顔をしてたんだと思う。マスターはしばらく両手の指先を合わせてクイクイしながら考えていたが、ま、しょうがないか、って顔で頭を二、三度横に振った。そして奥のキッチンに入ると金魚鉢を持ってきた。
わ…ぁ…。こんな大きな金魚鉢見たことない。
形は普通のガラスの金魚鉢。でも、幅も高さも普通に売られているのの2倍はあった。ってことは体積的には2×2×2で8倍だ。いつだったかママとお祭りですくった金魚を入れるため、金魚鉢を買ったんだ。ママが「どのくらい水入るのかしらね」って計量カップで入れたら3リットルだった。ってことはこのどでかい金魚鉢 3×8なら24リットル。1リットルは1kgだから24kgだ。
それをマスターは、小柄なマスターは、指先や手を微動だにさせないしっかり度合いで持ってきた。重いから一刻も早くカウンターに置きたいって風でもなく、ゆっくりと軽やかにカウンターに置いた。ドン!とか ガシュッ!って感じじゃなくって、軽やかに ひゅわん って感じで置いた。分厚さの割に妙に軽い紙質の本や、空になったクッキー缶、くらいの感じで、ひゅわんって。
金魚鉢の中には、確かカバンボとかマツモって言うんだと思うけど、5、6本の水草と金魚が一匹入っていた。
金魚鉢が大きい割に、金魚は極々普通の大きさで、リュウキンだ。赤とオレンジの中間の色。
私はじっと金魚を見つめた。
特に変わったリュウキンにも見えなかった。色もお世辞にも鮮やかって言えないし、尾びれも見事とはほど遠く、一部がくっついたような尾びれをパシュパシュさせて泳いでいる。しばらく見てると、動きがピョコピョコ見えてきた。別に調子悪そうとか、空気不足、とかじゃなくって、単に癖みたいな感じでピョコピョコしてる。
と……目が合った。
金魚と目が合った。なんだか不思議な気持ちだった。だって金魚と目が合ったんだから。
犬とは目が合う。マンションの別所さんのところのトイプードルとはいつもしっかり目が合う。
猫とも目が合う。時々マンションの螺旋階段の一番下にすわって足の裏を舐めてるミケ猫ちゃんとも目が合う。そのミケちゃんは目が合うとニャーとミャーの中間の声を出す。私もミャーォとか言ってみると、ミケちゃんもしっかり目を合わせたまま、またちょっと諦め感に満ちたニャーとかミャーを返してくれる。
けれど正直、れい子ちゃんが飼ってる黄色いポワポワしたハムスターのヨヘイちゃんや、理科の島崎先生が一度持ってきて見せてくれたシマリスのシーマちゃんとは目が合ったって感じがしなかった。目は丸くてくりっとしてて可愛いんだけど、ヨヘイちゃんにもシーマちゃんにも餌をやったりするんだけど、目が合ってるって感じられなかった。
目が合うって一瞬にしても心も合う、ってことなのかもしれないな。相手の気持ちがわかる、とか、わかろうとする瞬間がある、とかそんなことなのかな。
で、凄く不思議なんだけど、そのリュウキンくんと目が合ったんだ、確かに。
目が合った…。私はつぶやいた。
目が合った…。私のつぶやきが聞こえたのか、大学生風の二人がカウンターにやってきた。ポニーテールの二人組。すわってた時はわからなかったけれど、立つとおにいさんは見事なほど背が高かった。細いし優しそうだから威圧感とか全くないけれど、190cmくらいあるのかも。おねえさんの方は私と変わらないくらい小柄だ。
おにいさんのポニーテールはおねえさんよりちょっと長く癖っ毛だ。二人ともとても静かにカウンターのとこまでやってきて、マスターと目を合わせてにこっと笑った。
「目が合ったんだって」おにいさんが言った。話す声に丸い小石がいくつも入って転がってる感じだ。小石が心地よいリズムで転がりながら、音を作っている。
「目が合ったの?」おねえさんも私を見た。丸い小さな顔のおねえさん。額を出してポニーテールに引っ張ってる。全ての髪をかなりの勢いでひっぱった潔いポニーテールだ。
目が合ったのね、そう言うおねえさんの声は小さくささやくようだけど、くっきりしっかりしていて、その目の奥が深いこと…。奥行きがある不思議な目はマスターと同じだ。おにいさんの目も見ようとしたけれど、マスターの方を向いていて柔らかな、それでいてシャープな線を描く横顔しか見えなかった。
「ポポはこのレイヤーでは意思が通じるんだよ」
おにいさんが小声で言った。
私を見るおにいさんの目もおねえさんみたいに何種類もの光が混ざったような不思議な目だった。
「レイヤーってのは層ってことでね。ほら、何層にも重なってる、とかの」
「はい、髪でも使いますよね、レイヤーを入れて下さいって。昔の髪型はやたらにレイヤーを入れたものよ、ってママが言ってました」
「そうそう、そのレイヤー」 マスターが言った。
「どっちが上下ってわけじゃないし、左右ってわけでもないよ。ただ、ある層にコモン族、つまり輪をくぐれない人間たちの非トランスの世界層があって、そこにロコちゃんやダニーみたいに隣の層にトランス…つまり渡ることのできる能力のあるフェルルたちがいるんだ。輪はフェルルたちが感じて見れるトンネルみたいなものなんだ。いや、トンネルっていうような大げさなもんじゃないな、もっと薄い膜かベール…いや、それもちょっと違うか…。とにかくレイヤーが違うと同じ世界だけど見え方感じ方が全く違うんだ」
3Dメガネみたいなもの? 同じ世界であっても違って見える。
うんうん。マスターが微笑んだ。金魚鉢のリュウキンのポポを見ると、やっぱりしっかり目が合った。そしてそのパクパクしている口がちょっと笑っているように見えたんだ。
「ここはね、レイヤー族フレンドリーっていうのかな。レイヤー族のたまり場みたいになってるカフェなんだ。だれでも、マイノリティからメジャーになる空間でちょって息抜き出来るときあるよね。そんな感じかな。レイヤー族ってのはね…そうだな、百聞は一見に如かず、かな。とりあえずロコちゃんも輪くぐりした方がいいな。ほんとはね、無理に輪くぐりするのは奨励されてないんだ。自然な状態でできない時は無理しちゃだめなんだ。けれど、何事にも起こりやすいところって案外あったりするんだよ」
起こりやすいところ?
「そう。幽霊屋敷で霊を感じれるところとか、あとミステリーサークルが多いところ、不思議な現象がよく見られるところ、UFOが現れやすいところ…ま、真偽のほどはわからないし、大抵は科学的に説明がつくんだけど、そういう場所ってあるだろ。輪に関して言うと、水があるところ、それもポポのようなレイヤー内変化のある生き物のそばで見つけやすいんだ。なぜだかはっきりわかってないけどね」
そのときエアギターしていたヨウイチさんがやってきた。
「パパ、この金魚、随分大きくなったよね。最初メダカくらいだったよね」
「いやあ、メダカほどは小さくなかったよ」
「よく死なずにいるよな。たいして餌もやってないのにさ」
「ちゃんと大切にしてるよ」 マスターは静かな目をして言った。
ヨウイチさんがどこかカクカクした動きでダニーとコウちゃんのところに行くとマスターが微笑みながら言った。
「ヨウイチはフェルルじゃないんだ」
そうなんですね…。
「ロコちゃん、ポポの周りに意識を集中させてごらん。ポポの動きを見ててごらん」
私は金魚鉢に近づき、じっとポポを見た。ピョコピョコ動くポポのひれ。やっぱりしっかり目が合った。
と、ポポが動きを止めた。ひれもえらも微動だにしなくなって私を見ている。「知」のある視線だった。心、をもった生き物特有の、そんな視線。ポニーテールのおにいさん、おねえさん、そしてマスターの目にも通じる深い目。私はポポの目に魅了された。
ポポがちょっと微笑むと急にひらりと一回転とした。と…空中から泡のようなものがいくつかできて、水面に小さく弾けた。
あ……。
水面の上、数センチの所に、小さな1センチくらいの直径の輪が浮かんできた。
輪だ。輪ができた。
輪はすーっと上がり、私の方へよってくる。
「いつもは念じれば現れる、なんてことないから今度だけは特別だよ。それからもう一つ教えておこうね。この店は他の場所より輪が出来やすい。レイヤー族が多いところにはちょっとバランスが崩れるのか、輪が現れやすいんだよ」
私の前に来て細かく揺れている直径10センチばかりになった輪…。
私は両手を合わせ、祈るように輪に手を通した。
体が輪を抜けると、なんだか体の芯がシュッとした。背筋が伸びるっていうのかな、背筋もシュッとしたんだ。
カフェ ハーヴィの空気は確かに変わっていた。空気とか空気感とかに硬い柔らかいってあるなら、確かに柔らかくなっていた。呼吸がしやすいっていうか、肺いっぱい空気が吸えるっていうか …。
そしてカフェにいた人たちの変化に目を見張った。
どう変化したかっていうと…多彩になったっていうのかな。
随分昔のことなんだけど、ママが外国行った時の写真を見せてくれて、世界はもっと多彩なのよ、って言ったことがある。多彩って言葉が、保育園で出たターサイって野菜と関係ないってことはわかった。カラフルなのよって言い直したママに、カラフル?って聞くと、色んな色があるってことなのよって答えてくれた。
今ではカラフル、多彩ってことが単に色だけの問題じゃなくって、存在や生き方や、いろんなことが多彩であり得るんだなってわかってるけど、人間がここまで多彩になれるって、このカフェの人たちを見るまで想像もしなかった。
つまり…ヨウイチさんとコウちゃんとダニーを除いて、皆、輪くぐり前より多彩になっていたんだ。
カウンター内のマスター。マスターは顔はかなり変わっていたけれど、雰囲気は輪くぐり前と同じだった。何に似てるかって言われたら狼人間ふうだけど、顔がそのまま狼ってわけじゃない。
随分前にママとテレビで見た狼男って映画で、特撮っていうのかな、どんどん顔が狼に変化していくのがあったけど、その段階を10に分けるとしたら、マスターの顔は5段階目くらいでまだ十分に人間の顔で、笑顔もとっても素敵だ。さっきまでのきっぷがいい感じも一緒で、マスターの周りがさっぱり気持ちよくひんやりしている感じも一緒。緑のエプロンが似合ってるのも輪くぐり前と一緒。
マスターは私に微笑んだ。口は裂けるように大きいけれど、その表情は微笑みというのがふさわしい。
何だか不思議だなって思った。
みんな変わっているけれど、輪くぐり前の雰囲気そのままで…。当たり前かな、同じ人たちなんだから。
ポニーテールのおにいさんは強いていうならトカゲ人間だ。それともワニ? イグアナ?皮膚の感じや、目。それにトカゲ風のしっぽもついている。うーん、一番似てるのはなんとかっていう爬虫類…。なんて名だったかな。器用そうな長い指もどこかトカゲっぽい。背の高さは同じだ。くせ毛のポニーテールはないけれど、頭のてっぺんから首にかけてゴワゴワとした癖のある長いヒレににた質感のものがついている。
ポニーテールのおねえさんはミロちゃんに似ていた。猫人間? 顔は小さくて耳はピンとたっていて、長いポニーテールはそのままだ。ふさふさとしている。ただ色は銀色に近い白だった。小さな手は人とさほど違わないように見えた。ただ身のこなしが一段とやわらかくなっている。しなやかだ。
どう? 私たち、ちょっと驚きでしょ。ネコおねえさんは柔らかい声で話しかけ、ふふふって笑った。とても素敵なふふふだった。
ダニーと私が入ったとき、トカゲおにいさんや猫おねえさんと同じように、ゆったり静かな風に吹かれるように何気なく、それでいて優しげに見てくれたあと二組の人たち。ワイシャツをきた仕事仲間のような二人のうち一人は鳥系に見えた。顔はダチョウに似てるのかな。首が細くて長くて、でも手があるから翼はないのかな。よく翼の生えた人間ってアニメとか絵に出てくるけど、あれって不思議だよね。だって翼も腕も前足の変化したものだから、どっちもあるっておかしいんだよね。そういった意味ではケンタロウスも同じだね。前足もあって手もあるんだから。
ワイシャツのもう一人の若い男の人は熊と猪の中間の顔に見えた。目はちっちゃいんだけど、笑ってるような優しい目だ。ブラウン封筒から書類を出して説明していたのはこっちの人で、相変わらず、真剣な様子で何やら説明し、ダチョウ風の人がうなづいている。
長年連れ添った夫婦風でゆったりとコーヒーを飲んでいた二人は、やっぱり雰囲気はそのままゆったりしていた。男の人は水をゆっくり飲んでいたけれど、その顔は北川先生に少し似ていて羊風だ。でも北川先生より肩がいかつい。似てるもの同士知り合いって可能性が高いなら、北川先生のこと知ってるのかな。北川先生、結婚して子供いたはず。奥さんも羊人間なのかな。北川先生に兄弟がいたとしたらやっぱり羊人間なのかな。子供はどうなんだろ。
とにかくその北川先生に似た男の人は、角度によっては羊より山羊に似ても見えた。長い白い髭のせいかな。目の周りに深い皺がいくつも寄っていて角はくるんと二本ある。
女の人の方は何に似ているんだろう。色んな動物に似ている気もする。顔中茶色の毛で覆われれて、口もとが優しい。上品につぼめるように話してる。強いていうならプレーリードッグかな。
「どう思う?」
トカゲおにいさんは声はそのままで小石が転がるような不思議に優しい声で聞いた。トカゲおにいさんと猫おねえさんはどちらも私を見つめ、その不思議な光を放っていた瞳は一段と輝きに満ちている。
「なんだか素敵だなって。こういうの多彩っていうのかなって。ママが世界はもっと多彩なのよって言ってましたけど、『世界』を『輪くぐりすると』に変えると、ほんとに多彩なんだなって。あ、すごくいい意味でなんですけど」
「見てごらん」 マスターに言われて見てみると、金魚鉢全体が輝いて見えた。晴れた日、家に差し込んだ日の光にガラスの置物とかが反射して眩しいほど光っていることがあるけど、金魚鉢は眩しいほどではなかったけど、繊細かつ神秘的に光っていた。
さっきまでとは違って今見るポポは何らかの魚には違いなかったけど、今まで見たこともない魚だった。少なくとももう全くリュウキンには見えなかった。紫のビロードのようなヒレが体の真ん中辺りからたっぷりと広がっている。同じなのは目だった。目の表情は同じだった。目が合ったポポの口元が今度ははっきりと微笑んでいるのがわかった。
その口がゆっくり動き、お役に立てて嬉しいわ、って言った。声は聞こえなかったけど、私の頭にその言葉が広がった。
ありがとう、ポポ。
ポポは水中から頭を出し、軽く頭でうなづいた。
「マスター。ポポさんの声が聞こえたんです」
「どんな声だった。男? 女?」
「え? 女。ちょっとママの声に似てました。私の考えてることもわかるみたい。これってテレパシー?」
「まあ、その一種かな。でも聞こえる声とか言い方とか、たまには内容まで聞いてる人間の影響を受ける。フェルル度が低ければ低いほど、正確さも欠くんだ」
そうなのか…。じゃ、ママの声に似て聞こえるのは私だけで、ほかの人にはポポの声は違って聞こえるのかな。
「コミュニュケーションってね、どうしても自分の思いが相手の答えに重なって色合いを変えていくんだよ。わかるかな」
うん…。私はうなづいた。
ポポさんって人間と同じくらい頭もいいんですよね。ポポに心で問うと、ヒレを大振りに動かした。
わたしは思わず笑った。
トカゲおにいさんとネコおねえさんも顔を見合わせて笑ってる。
でも、こんな小さい金魚鉢にいて狭っ苦しくありませんか?
すると、やっぱりテレパシーもどきでわたしの心を読めたんだろう、トカゲおにいさんが教えれくれた。
「心配ないよ。今だけマスターに呼ばれてロコちゃんのために助っ人にきたんだよ。ほらここの裏側に川が通ってるだろ。カウンターの裏の床を開けると川につながる通路があってね、たまにやってくるんだ。今日は輪くぐりしたいロコちゃんのためにポポちゃんに来てもらったんだ」
ポポはどんなものよってかんじで垂直になりくるりと回ってみせた。フィギュアスケーターのスカートがふんわりするみたいで、素敵だった。
「最初は驚きの連続よね」
ネコおねえさんが言った。ゆったりした動作の中で目だけがよく動く。やっぱりミロちゃんに似てる。ミロちゃんもここにいたらいいのに…。
「私の友達におねえさんによく似た人がいるんです。ミロちゃんって」
「ミロちゃんねえ。話したことはないと思うわ。出会ったりはしてるかも。でもどこが似てる?」
「あの…ちょっと猫みたいな雰囲気があるところとか…」
「ねえ、あたしやそのミロちゃんのこと、ゲゲゲの鬼太郎の中の猫娘みたいなもんだと思ってない?」
「あ、いいえ。猫娘ってあたし、あまり知りませんし。ママは好きなんですけど、ゲゲゲの鬼太郎の再放送見たりして。猫娘って妖怪なんでよね。ミロちゃんは人間だし…あ、でもあたしよりはずっと能力あると思いますけど。とにかく、ミロちゃん、動物の中では猫に似てますけど…」
私はしどろもどろになった。
「大丈夫よ。そんな真剣に答えなくても。猫に似てるの重々承知よ。あたしたちみたいなの、レイヤー族っていってね、ロコちゃんが入ってきたこのレイヤーだと本来の姿になれるの。でも人間なのよ、立派な。だけど、普通の人間にないパワーを持ってるものも多いわね」
私はうなづいた。
「コモン族は、あ、コモン族って一般人ってことなんだけど、コモン族は普通私たちのレイヤーが見えない。私たちは輪から出ない限り、つまりこのレイヤーにいる限り、私たちの真の姿でいられるし、そう見てもらえるの。レイヤー族はロコちゃんたちからしたら、あたしみたいに猫っぽかったり、トカゲっぽかったり、狼っぽかったりするかもしれないけど、必ずその動物に対応した特性や能力があるわけじゃないのよ」
えっ?
「ほら、人間でも外見や性格が違う二人の親から生まれるわけだから、あ、ここは父親似だとか、あ、ここは母親そっくりとか、ここは母方のひいおばあちゃんに似てるとかあったりするでしょ。それにちょっと似てるかな。私も外見で一番近い動物って言われたら猫だけど、能力的にはより犬に近い。あと、渡り鳥にも」
え…。
なんだか混乱してきた。
「似てるってのは今までの知識の中で似通ったものにつなげて考えてしまうからなの。私が猫っぽく見えるとこって、耳と目が主だよね」
そう言われれば。
「ちょっと動きも猫っぽいかな。それも認めるわね」
猫おねえさんは困った様子の私を見て柔らかく微笑んだ。
「覚えといてほしいのはね、レイヤー族は似て見える動物との半人間じゃないってこと。ダブル人間って呼ぼうって動きもあるけど、これもほんとはおかしいと思うの。半分でもダブルでもなく、個性ある一人の人間ってことだよね。いろんな要素が混ざってるだけ。ただ外見だけ見ると目立つ特徴が何かの動物に似てる場合が多いってことなの」
そばでマスターはお皿を拭きながら、トカゲおにいさんはしっぽで時折音をたてながら、ネコおねえさんの話を聞いていたが、「あ、そういえばね、見かけはレイヤー内でもほとんどコモン族と変わらないレイヤー族もいるんだよ」マスターが言った。
「どこでレイヤー族かコモン族かを区別するんですか?」
「まずは常にこのレイヤーにいるかどうか。でもコモン族でもフェルルになるとかなりここにとどまれちゃうものもいる。コモン族かレイヤー族かを分けるのはね…」
はい?
「宿題にしとこうかな。考えてみて」
え? 教えてくれないんだ…。
「ねえ、おねえさんのお母さんもレイヤー族なんですか?」
「うん。でも見かけは猫っぽくないよ。コモン族がみたら、熊と馬の間みたいって言うかも」
「お父さんは?」
「コモン族だよ」
「えっ?そうなんですか」
「ちっとも驚くことじゃないわよ。親も子もレイヤー族って方がうんと珍しい。結婚だってレイヤー族とコモン族同士がずっと多いよ。あたしはママがレイヤー族でラッキーだった。疑問にすぐ答えてくれたから」
「親がどっちもコモン族だった場合はどうするんですか?」
私は人種の違った子を養子にした時、文化、外見などでいろいろ慎重に考えなければいけないってドキュメンタリーを見たことを思い出した。
「その場合はしばらく疑問を抱えて生きるかも。でもたいていコミュニティの誰かがメンターになってくれる。不思議なんだけどね、レイヤー族って、コモン族には決して自分たちの違いを口にしないの。親であろうとね。これって長い歴史で遺伝子に刻まれてきたことなのかもしれないけど、あたしが自分の小さい頃を思い出してみると、言わないほうがずっとナチュラルなんだったのよね。相手がレイヤー族で安心できるってわかるまでは」
おねえさんはカウンターに置いてあるお皿からアーモンドを二つつまみ、口に入れ、カシュッカシュッって噛んだ。
「厄介なのはね」おねえさんはいたずらっぽく笑った。「ダニーやロコちゃんみたいな子かな」
え?
「結構大きくなってからフェルルの現象が出てくる人」
「もっと小さい頃からこっちに入れちゃうコモン族は、結構フィーリングがレイヤー族に似てるのよ。レイヤー族に共通してるのはね」おねえさんはもう一つアーモンドを口に入れた。
「静かな熟考型が多いってことかな。あたし、よく思うんだ、レイヤー族だけなら、世の中戦争ってないだろうなって」
そういうおねえさんはちょっと悲しげだった。そんなおねえさんを見てトカゲおにいさんが肩をポンポンと優しく叩いた。
二人って恋人なのかな?
「じゃ、マスター。また来ます」
トカゲおにいさんが言った。
「マモルくん、卒業いつだっけ?」
「来年です。今OB訪問で結構忙しいんですよ」
「建築だっけ、専門」
「はい。ほんとは世界の建造物見て一年くらい回りたいんですけどね。ま、とりあえず就職して親を安心させなくっちゃって。月並みですかね」
「いや、いいと思うよ」
マスターはうんうんとうなづいた。
「キョウコ、行こう」
おにいさんはネコおねえさんの重たそうなバッグを持った。
ネコおねえさんの名はキョウコ、トカゲおにいさんの名はマモルなんだ。
キョウコおねえさんはマモルおにいさんに腕を組み、二人は出ていった
「大学生なんですね」
「うん、キョウコちゃんは医学生でね」
「お医者さんになるんですか?」
「研究者になるか臨床するか…つまり患者さんを診る医者になるかはまだ決めてないらしいよ」
「そうなんですね」
お医者さんってレイヤー族の? コモン族の? それともどっちも診るのかな。
思っていることがわかったのかマスターが言った。
「ロコちゃんも疑問が多いよね。そのうち徐々に分かってくるから焦らないことだね。ここにいたお客さん、今日はみなレイヤー族だったけど、レイヤー族ってのは結構割合が少なくてね。100人に一人もいないと思うよ。でもうちに来るのはレイヤー族がほとんど。何も知らずに入ってくるコモン族もいるけど、めったに常連さんにはならないな。ダニーやロコちゃんみたいなフェルルも来るよ。レイヤー族もフェルルもうちが特別だって入る前からわかるからね」
「どうやって?」
「そうか。ロコちゃんはフェルルとフェルルじゃない人間の見分け方とか、レイヤー族の気配とかまだはっきりしてない?」
「はい…」
「焦らなくていいよ。そのうちわかるようになるよ」
ゆったりコーヒーを飲んでた夫婦が立ち上がった。奥さんの方はやっぱり立ち姿もどことなくプレーリードッグに似て愛嬌のある微笑みを浮かべている。旦那さんは北川先生に似てはいるけれど、北川先生より頑固そうだった。角も大きい。「じゃ、マスター、また!」という声に弾力がある。
「またお会いできるかもね」 私を黄金に近い丸っこい薄茶色の目で見つめ、プレーリードッグ風奥さんが言った。
「最近フェルルさんたちに出会う確率がぐっと減った気がしてたの。さすがマスターの店ね、今日は可愛いフェルルさん二人に会えてよかったわ。ダニーくんは前から知ってるけど、あなたは初めてね。あ、私たち山田っていいます。よろしくね」
山田さんは優しく私の手を握ってくれた。「はい!」私は少し緊張しながら、感じのいい微笑みってのをやってみた。なぜか山田さんに本当に性格のいい子だって思われたかったんだ。
山田っていうごくごく普通の名字の二人の後ろ姿をしばらく見ながら、私はぽかんとしてしまった。大柄なご主人に小柄な奥さん、どこにでもいる夫婦と言えなくもないけれど…やっぱりどうにも不思議な外見で、でもやっぱりちょっと素敵だなって思ったんだ。
「ロコ、ちょっとこれ見てごらん。すごいだろ」
ダニーが言った。コウちゃんが描いたらしい。どこかの教会の内部のような絵。 細かいタッチがまるで写真のようだ。
「コウちゃん、って呼んでいい? コウちゃん、これ凄いね。コウちゃんが描いたの?」
コウちゃんは表情をほとんど変えず小さくうなづいた。
「どこにあるの、この建物」
「パレルモ大聖堂」
パレルモってどこだっけ?
「コウイチは本当にすごいよな。フォトグラフィックメモリーっていうのかな。ほんとにテストの時にこいつの頭、借りていよ。俺なんか、10分前のこともう忘れてる。忘れてる〜忘れてる〜 忘れてれるぅぅぅぅ 〜」
ヨウイチさんは長い手を指揮するように振った。ちょっと調子外れに歌いながら。
コウちゃんはどこか意思の強そうな目をしてるけどそれ以外に表情があまりない。目だけが早く動く。普通の人…普通の人がどれくらいなのかもわからないけど、多分普通の人の1.5倍くらい早いと思う。2倍とはいかなくても。
コウちゃんの目は大きくなくて離れてるけど黒目は大きい。だから丸くてくりっとした印象を与える。そこがウーパールーパーに似てるのかな。髪はさらっとしてて横にはねてて、口は薄くてキリッと一文字に結んでいる。
「コウちゃん、この聖堂の外見も描けるの?」
「もちろんだよ。どれだけうちに聖堂だか教会だかモスクだかの絵があると思ってんのさ。最初は外見からだったけどさ、飽きたから内部の絵に移った、そうだよな、コウイチ」
黙ってるコウちゃんの代わりにヨウイチさんが手を大きく広げて言う。どうやら、話すときはこれが癖らしい。体の細いアニメのキャラみたいだなって思う。オーバーアクションのヨウイチさんと静かなコウちゃんは対照的な兄弟だ。
「描ける」
ヨウイチさんのオーバーアクションが終わると、コウちゃんは小さな抑揚のない声で言った。
「描こうか?」
「うん。面倒じゃなかったら」
「描く」
「そうだね。じゃ描いてみて」
コウちゃんは青いリュックの中からマッチ箱くらいの鉛筆削りを取り出して、きっちり三回回して3Bの鉛筆を削った。
スケッチブックの新しいページを前にしてコウちゃんは目をつぶった。かなり長い間目をつぶっていた。ダニーは何も言わずに目をつぶるコウちゃんを見守っていた。
丸い目を静かに開けたコウちゃんは描き出した。描き始めればもう迷いはない。かなりのスピードだ。
なんだか丸い図柄だ。
何だろ、これ…。
「バラ窓」コウちゃんは言った。
「バラ窓?」
「そう、この部分はステンドグラス」
「そうなんだ」
バラ窓の緻密な円形の模様を描き終わると、コウちゃんは周りの細部も描き始め、あっという間にゴシック風っていうのかな、そんな感じの聖堂になっていく。
色のない絵だったけど、3B鉛筆だけで描いた絵だったけど、見てるうちにいろんな色が見えてきた。実物のステンドグラスはきっとカラフルなんだろうな。これもパレルモにあるのかな。そうだ、パレルモってイタリアだ。シシリー島だ。ママの話に出てきた。南イタリアを旅行したときの話に。ママも見たのかな、このバラ窓。
「できた」コウちゃんは手を止めた。
「素敵だね」
「コウちゃん、ロコが感動してるよ」
ダニーの言葉に、コウちゃんは「感動してる。感動してる」と二回言い、リュックからハサミを出し、スケッチブックから聖堂の絵を丁寧に切り取った。そしてしばらく見つめていたが、黙って渡してくれた。
なんだかすごく嬉しくなって、ありがとコウちゃん、ありがとダニーって言った。僕、感謝されること何もしてないよ、ダニーが笑った。
「これに入れたらいいよ」マスターがスケッチを入れる厚手の封筒みたいなのをくれた。
「こいつの絵、売ろうと思ったら売れるんじゃないかな。今に名の通った有名な画家になるかもよ。ま、せいぜい大切にしてくれたまえ」 ヨウイチさんが、誰かの真似なのかな、首をカクカクっと振った。
その時だ。「遅くなっちゃったあ!」カウンター後ろの裏口から大声を出して入って来たのは大柄な女の人だった。
「ごめんごめん。ユウヘイちゃんママと話してたら、時間経つの早い早いって」
その人はセミロングの派手め?の髪型をして、お化粧がくっきりしていて、目と口元がヨウイチさんに似ていた。ってことはマスターの奥さんなのかな。
「ママ! 今度ユニバ行きたいからさ、アッシとダイキとさ。お小遣い前借りできないかなあ」
ヨウイチさんが大声で言う。
「また大阪行くの? ヨウイチは他にすることあんじゃないの。推薦じゃ無理って言われてんだから。人並みに受験勉強ってのやってごらん」
マスターは静かにジャガイモを刻みながら、その様子を見ていたが「ユカリ、さっきキャンセルが入ってさ。今夜の貸切なくなったんだ」って少し高めの声で言った。
「え? なんで? 当日キャンセルなんてなしでしょ。人数変更ならわかるけどさ」
「祝う本人が入院になったらしい…。仕方ないよ」
「そういうことなの…」
ユカリさんは大きくため息をつき、コウちゃんの横の椅子に、さも疲れたって感じで腰をかけた。
「コウイチは今日なんだったっけ? ピアノ今日に変更してもらったんじゃない?」
「火曜日」
コウちゃんは言った。
どれくらい カフェ・ハーヴィで過ごしたんだろ。そんなに長くはなかったと思う。けれど、私にとって未知の世界にいたからか、時間がすごく早く経った。
帰り際にマスターはクッキーを袋に入れてくれた。
外に出ると少し曇っていた。
「すごく不思議な体験だったよね」 私は言った。
「うん、輪くぐりした世界っていっつも僕、魅了されちゃうんだ。でもくぐった日の夜はちょっとぐったりするな。まだレイヤー世界に慣れてないからだろうな」
そうだね。私も興奮してるからか、何だか100メートル走を走ったみたいに鼓動が早い。
「マスターが言ってたんだけどさ、オープンハート…」
「ん?」
「輪くぐりできるって特別能力だよねって少し僕が得意になってたとき、フェルルはいとも簡単にフェルルでなくなることもあるんだよ、ってマスターが教えてくれたんだ。フェルルに必要なのはね」
「必要なのは?」
「うん。ちょっと座ろうか」
カフェ ハーヴィの斜め横には、小さな公園があった。滑り台とブランコと小さな砂場だけの公園。そこのベンチに腰掛けた。そこからはハーヴィの看板がよく見えた。
必要なのはね、ダニーは言った。
「フェアであること」
フェアである? フェアってのはママも好きな言葉だ。
「うん、公平な態度。フェアっていっても、法的に公平っていうのとちょっと違うらしい。僕もよくわからないんだけど、人間として、生き物として、その心がフェアである必要があるらしい。次にオープンハート。心が開いてるってことは、無防備とか、単なる珍しいもの、冒険好きってことじゃなくて、固定観念?ってのにとらわれてなくって、人の意見やランクづけに影響されることなくって、みかけの事実や現象だけじゃなくって、真の存在を理解することなんだって」
なんだか難しいな、ダニー。でもなんとなくだけど、わかる気もする。わからなきゃいけない気がする。
「それと心がきちんと機能していること。心ってのはオレンジみたいなんだよ、ってマスター言ってた。言ったのは心理学者らしいけど。ほら、オレンジ、輪切りにしてごらん。いくつもの袋が見えるだろ。僕、みかん剥くとね、必ず数えたものなんだ。だいたい十前後の袋だよね。この一つ一つを心の要素って考えてごらん。きちんと自分の喜怒哀楽を理解し、人の喜怒哀楽も感じられるには、心の要素がきちんと出来上がってなくちゃダメなんだって。もちろん子供とかまだまだバランスとれてないらしいけど、少なくとも、この袋のもとみたいなのがあって、経験によって充たされていくのがあるべき姿なんだって」
心をオレンジに例えるの?
「サイコパスとかいわゆる人の心の優しさが欠けてる人は、オレンジが心だとするとその何袋かがぽかんと空っぽだったり、すごく小さかったりするらしいよ」
時々、すごく冷たい感じの人がいる。もっとも表情が乏しいだけで心豊かな人だっている。けれど、心がオレンジとしたら、中がスカスカな人っているのかもしれないな。見かけはしゃきっとしたオレンジでも…。それってすごく怖いな。
「レイヤー族は心がきちんと機能した人が多いらしい。そうじゃないとレイヤーから追い出されるらしいよ。もとレイヤー族で、レイヤーからはじき出されちゃって僕たちコモン族の間で有名になってる人もいるらしいけど…」
誰だろう。でもレイヤーから弾き出されたら、姿がコモン族と違うからわかっちゃうんじゃないのかな。でも、見かけはほとんど変わらないレイヤー族もいるらしいから...。
「ねえ、ユカリさんどう思った?」
「どうって?」
「ねえ、マスターとユカリさんってちょっとよそよそしくなかった? 夫婦にしては?」
うん。そういえばテンションっていうのかな。二人の間に奇妙な緊張感があった気がする。
「ロコになら言ってもいい気がするな」
そう言ってダニーは口を一文字に閉じ、しばらく考えている様子だった。
ダニーの言葉を待ったけれど、ダニーはしばらく黙ったままだった。
公園は決して手入れが行き届いているとは言いがたくて、雑草が茂っていた。タバコの吸殻も数本落ちている。
夏草やつわものどもの夢のあと。
何だかこんな句なかったっけ。
背の高い雑草が暑さをものともせず、伸びている。どれも一見花らしい花はつけていないけど、よく見るとすごく地味な小さな花や、すでに綿毛になったのがついてたりする。
たくましいな、って思った。たくましいから強者だよね。つわものって強者って書くんだっけ?違ってたかな。でもつわものって強いことだよね。
そんなこと思っていると、ダニーが言った。
「ロコにならなんだか普通なら言わないこと、言ってもいいような、そんな気になるんだ」
「そう?」
うん…。ダニーはまた黙って下を向いたけど、小さめの声で言った。
「どう思った?」
どうって何を? 店のこと? マスターのこと? レイヤー族さんたちのこと?
「マスターとヨウちゃんとコウちゃん…それにコウちゃんのお母さん」
今度は私の目を見てはっきり言った。
「うん…。なんだろな。きっといい親子だよね。典型的とか、並みの、とかしごく普通の、とか、そんな言葉は似合わないかもしれないけど」
「じゃ、どっちかがマスターと血がつながってないって言ったら、驚く?」
「え? そうなの。でもそういうこともあるよね」 言ってから、そういうことってどういうことなんだろ、って考えた。
ヨウイチさんもコウちゃんも、どっちもマスターには似てない。
「どっちかは血がつながってないの?」
「うん」
「どっちだろ」
ヨウイチさんは背も高く顔も整っていてユカリさんさんには似てるけど、マスターには似てない。じゃあ、コウちゃんは? コウちゃんはどっちにも似てない。ってことはどういうことなんだ?
「コウちゃんなんだ」
「コウちゃんなの?」
「うん、コウちゃんがマスターの血のつながった子じゃないんだって」
そうなんだ…。
「パパとマスターはいわゆる幼なじみってやつでさ、僕が覚えてる限り遠くに住んでるときも、うん、僕たちが北海道にいたときも、一年に何回かマスターが来たり僕たちがマスターのとこ行ったりしてたんだ。仲のいい兄弟って感じかな」
そこでダニーは足元の小石を蹴って、ちょっと息を吐いた。
「まだ夜じゃないのにマスターの店で僕寝ちゃってさ、トイレ行きたくて目が覚めたら話し声がしたんだ。パパとマスターの声なんだけどいつもとトーンが違っててさ」
「どう違ってたの?」
「なんだろうな。ほら電車の中で顔見ずに話聞いてたら、いったいいくつの人が話してんだろって思うことない? 大人かなって思ったら、まだ高校生くらいの二人が何だか哲学的?っていうのかな、そんな話してたり」
「哲学的?」
「うん、生きる意味とかさ。そうかと思えばさ、どんな子供が話してるんじゃい、うるさいなって思ったら、大の大人、もう中年っていう男の人たちがたわいのない話しててさ、子供か?って感じだったり…」
うん…?
「つまりさ、そのときのパパとマスターの話はそんな感じだったんだ。なんだろうな、話し方とかなんだか、あれっ?て感じで、いつもと違ってて、なんだか真剣で、なんだかお互いに秘密守れるもの同士が心をさらした?っていうのかな、そんなトーンでさ。いつもの大人の男同士っていうより、なんだかまだ大人になる前のパパ達が話してたらこんなこんな感じなのかなっていうような、そんな感じに聞こえたんだ。少なくとも僕の知ってるしっかりもののパパと物に動じないマスターの声って感じじゃなかったんだ」
なんとなくわかる気がした。ママも頼りになる親友のマサエさんと話す時は、ちょっと子供っぽい感じで話したりする。甘えてるのかな、親友のマサエさんに。
「マスターが、コウスケと血がつながってなかった…って、その声はほとんど泣き声に聞こえたんだ」
マスターが泣き声? ちょっと想像できなかった。
「そうなんだ」
私はそれしか言えなかった。ダニーは気を取り直したように、「そういえばコウちゃんが書いた詩でこんなのがあるんだ。地区大会にも出されて賞も取ったんだよ」
ダニーは立ち上がって目をつぶり、深呼吸した。
遠くにいきたい
遠くに 遠くに 遠くに行きたい
誰もいないところ それでいていつくかの温かい目がしっかりと見ていてくれるところ
遠くに行きたい
遠くに 遠くに 遠くに行きたい
誰もいないところ それでいて大きな木のあるところ 疲れたらしっかり休ませてくれる
遠くに 遠くに 遠くに 行きたい
誰もいないところ それでいていくつもの温かい目が 見守ってくれるところ
できたら その目を僕が選べたらって思う 多分できないだろうけど
遠くに 遠くに 遠くに 行きたい
誰もいないところ
それでいて それでいて 僕が自分になれるところ
僕の壮大な夢
ダニーは口元に少しだけ笑みを浮かべながら、すらすらとそれでいてゆっくりしたテンポで暗唱した。
何だか喉のところがキュッとなった。胸のあたりも少しだけキュッとした。
いい詩だって思った。とってもいい詩だって。
ダニーがなんでそんなにしっかり覚えてるいたかというと、賞を取った詩は都の会館かなんかで発表するのが恒例で、ショウちゃんは大声で詩を読むなんてできないから、唯一の友達といえるダニーが代わりに読むことになったのだという。二人の小学校は違ったけれど、その時だけ、ダニーはコウちゃんのアシスタントとしてスタンドバイしてたってわけだ。
「コウちゃんの詩にふさわしい朗読がしたかったんだ。自分のだったら、照れて適当に読んだかもしれないけど、コウちゃんの詩はほんとにすごくいいって思ったからね。だから大げさ過ぎず、棒読みにならないように、さらりとそれでいてしっかり読めたらって思ったんだ。パパとマスターの話を聞いてたのが、僕の気持ちにどう影響したのかはわかんないけど…」
「で、きちんとできたんだ?」
「うん。ちょっと練習より早いテンポになっちゃったけどね。コウちゃんが言えたら、僕は舞台の袖で見てるはずだったけど、コウちゃんは僕たちだけにわかる視線を送ってきたんだ。お願いするよって。詩を読んだ後、ちらっとコウちゃん見ると、微笑んでたんだ。コウちゃんが微笑むの見たの数えるほどしかないんだけど、コウちゃんそのとき、緊張してる風でも心配そうでもなくって微笑んでたんだ。すごくほっとした。よくさ、映画かなんかで、主人公と恋人とかにスポットライトがあたって周りが暗くなってみたいなシーンがあったりするだろ。そのときの僕はさ、会場いっぱいの生徒や先生とかの反応はどうでもよかった。僕はコウちゃんに朗読してたんだ。マスターもパパもショウちゃんのママも発表者の親として特別招待されて最前列に座ってたけど、大して目に入らなかった。僕が読み終えると、拍手が始まったけど、すぐに止んだ。コウちゃんが一歩前にでて両手をあげたからね」
「え?出てきて両手を上げたの?」
「うん。コウちゃんは僕の斜め後ろに立ってたんだけど、両手を上げて手のひらをひらひらさせて変わった動きをし始めたんだ。手話を始めたって気づいたものはほとんどいなかったと思う。コウちゃんの手話はニュースで見るような感じとは全くちがってて、ほんとに流れるようなひらひらだったからね。またあいつ変なことしてる、全く変なやつだって思ったものも多かっただろうな」
「なんで手話なの?」
「数ヶ月前に聴覚障害っていうのかな、耳がほとんど聞こえない双子が入ってきてね。最初はみんな、わー、双子らしいよ。かっこいいかなーなんて言ってたりしたんだけど、多分遺伝性なのかな、二人とも耳がほとんど聞こえないらしくて、そんな二人をイマイチだなっとか思ったものもいて、補助教員の先生が特別についたんだけど、担任が確認したりするのを時間がかかる、受験に不利だ、学力が落ちるとかいう親がいたりして…。でも、コウちゃんは二人とすんなり仲良くなったんだ。すんなりとね。コウちゃんと二人の共通点はすごく頭がいいってこと、言葉があまり出ないこと、それにショウちゃんの不思議な手話を二人は充分理解してるみたいだった」
ダニーは続けた。
「あの時のコウちゃんは格好つけるとかじゃなくって、理科の実験で特別賞をもらって会場に来ていた友達の双子にズームして…コウちゃんの凄いとこはズームできちゃうとこなんだけど、双子が何言ってだろ、どんな詩?って話してるのがわかったんだろうな。コウちゃんはリップリーダーじゃなくてマインドリーダーだね。補助の先生もいないし…。コウちゃんを見て僕は唖然とした。すごくいい意味で唖然としたんだ。マスターを見ると、涙は出てないけど、泣いてんじゃないかなって思った。僕は輪くぐりしてなかったから、マスターは普通の銀髪のおじさんでしかなかったけど…。僕はなんだか、すごくすごくすごく嬉しかったんだ。嬉しかったっていうより感動かな」
ディフィニションオブラブ。愛の定義っていうらしい。この愛は恋人同士だけじゃなくって、真の思いやりって考えてもいいっていつかどこかで読んだと、ダニーは言う。
「きっと恋人ができたり、子供ができたり、僕がパパに感じてる感情も一種のラブなんだと思う。でも人が人に対する、友達が友達に対する対等の思いやりを初めて実感した時だったと思うよ。あのとき、デフィ二ションオブラブって言葉がしばらく心に浮かんでた。それはすごく確かな感じだった。思いやり、優しさとかひっくるめての大きな意味での愛? なんだか照れるけど、あの瞬間、僕は理解したんだって思う。コウちゃんを見て、双子のたくちゃんとあっちゃんを見て、マスターを見て、そんなマスターを気遣うパパを見て、なんだかひっくるめてね。で、悪くないな、って思ったんだ」
私たちはその後、しばらく黙って歩いた。線路沿いを歩いた。歩きながら、影がゆったりと少しずつ伸びていくのを感じていた。
少なくとも今日わかったこと…輪くぐり前に見えなくて輪くぐり後に気づいたことはなんだか世の中の輝きが違って見えること。それはイルミネーションのようなはっきりした光ではなく、そのつもりで見なければ見落としてしまいそうな、静かで微かな輝きだってこと。
線路沿いでヒトガタにも会った。
彼らはたいてい草の中や、岩と石ころの中間くらいの大きさの石が転がる中や、木の陰にいた。
最初に会ったヒトガタは稲に似た葉が風に揺らぐ中に立っていた。
「あの中に小さな人みたいなのが見えるけど、ダニーも見える? ちっとも動かないけど」
私は心理学を勉強してたママいわくかなりの「共感型」らしい。人の気持ちを思いやるタイプ。それは凄くいいことらしい、っていうか、社会の中で必要なことらしいけれど、過ぎると弊害もあるそうだ。とにかく共感型の私は、人間が好きらしくて、何の意味もない点や線を繋いだ絵や、タイルの模様の中にも、人の顔や姿を見い出す。
だから最初人の形に見えたときも本当に人型の何かだとは思わなくて…山の形が人の横顔や、岩が動物の形に見える類だって思ったんだ。
「ああ、ヒトガタだね」ダニーは言い、「ヒトガタ」に近づいていった。私も続いた。ヒトガタを見下ろす位置まで行くと、ダニーはシャッとしゃがみこんだ。私もそっとしゃがんだ。
そのヒトガタは以前見たチータンよりずっと小さくて高さは20センチくらい? 足を少し広げて立っていた。バランスは人間の大人くらい。だから可愛らしいエルフのような感じとは言いがたかった。体と頭は苔のような緑の物体で覆われている。
表情はない。小さな目は黒目も白目もあり、少しずつ動く。こっちに焦点を合わせるように動く。けれど表情はない。手もある。足もある。でも微動だにしない。
「ねえ、動くことないの?」
「必要なければね。たいてい立ってるかしゃがみこんでるか、横たわってる。横たわってるときは目をつぶってるときが多いな」
「何なのかな?」
「ヒトガタだって」
「ヒトガタの定義って何?」
「うーん。人の形をした必要なければ動かないもの」
「生き物?」
「風クラゲやウッディって生き物だと思う?」
「ああ、そうだよね…。生き物の定義って難しいよね。生物の先生の言う生き物ではないってことだけは確かだよね」
「うん。でも見方を変えると? 魂のあるものを生き物っていうなら、ヒトガタはそうだって、マスター言ってたよ」
「へーえ、そうなんだ。じゃ、やあ、ヒトガタくんって挨拶しなきゃね。ヒトガタさん、かな?」
私たちはしばらくしゃがみこんで、目以外は微動だにしないその「ヒトガタさん」を見ていた。
「触っていいのかな?」
「ロコは知らない生命体に触られたい?」
「あ、そうか。失礼だよね」
「失礼かはわかんないけど、相手の空間を侵害しないのが、輪くぐり後、もちろん輪くぐり前だってそうなんだろうけど、大切なんだ」
「そうだよね」
ダニーは私以上の共感型なのかなって、思った。ダニーは優しい男の子に成長したんだなって、保育園では完全にお姉さん気取りだった私は改めて思った。あ、そう思うことって今だにお姉さん気取りだよね。
線路沿いにヒトガタを見つける度に、私は「やあ、ヒトガタさん」「こんにちは、ヒトガタさん」とパーにした手の指先だけ振った。次第にダニーも加わって、わたしたちはいくつもの「やあ」と「こんにちは」を言いながら歩いた。
このままダニーと疲れ果てるまで歩いたら、すごく楽しいんじゃないかな、って思った。くたくたになっても、とっても充実した1日だったって思えるんじゃないかって。
じゃ、ケンタロウとだったらどうだろ? ダニーとみたいに自然体で歩けるかな。きっとすごく意識しちゃうんじゃないかな。
ケンタロウのどこがいいんだろう? ケンタロウと二人っきりでこんな人気のない線路沿いを歩いたりしたら、なんだか落ち着かないだろうな。それって自分のこと好きになってもらいたいから落ち着かないのかな? 実力以上に見せたいから落ち着かないのかな?
でも実力以上って何の実力? 女の子らしい可愛さ? もしそうならスタート時点でもう完全にユキちゃんに負けてる。
じゃさっぱりした中に見せるちょっとした女の子らしい優しさならどうだろ? それもやっぱり無理かな。だけど女の子らしくはないけど私は乱暴じゃないし優しいと思う。
「人間力の高い人になりなさい」ってママはよく言う。人間力って何?って聞かないのは、自分で見つけなきゃならないことの一つだってなんとなくわかってるから。私の人間力って順調に育ってるのかな?
ダニーは男の子らしくないけど優しい。
女の子らしい優しさとか、男の子らしい優しさとか、格好良さ、ってのがなかったら、恋ってできないのかな。すごく人間力があっても、それとはまた別もんなんだよね、きっと。
ケンタロウの優しさは男の子らしいって感じる。でもなんでだろ?声かな? 態度かな?
ダニーの優しさはどこが違うんだろ? ダニーは男の子って意識させない。ルックスがっていうより一緒にいるときの自然さが男の子って意識させない。
きっとケンタロウもユキちゃんといるとき感じるワクワク感と私と話すときの感じは全然違うんだろうな。私と話すときは、私がダニーと話すのに似てるのかな。いわば同士って感じだったりして。
そんなことを考えてると、ダニーが私を見てニコッと笑った。ダニーの笑顔は素敵だ。ミロちゃんの笑顔が素敵なように、マスターの笑顔が素敵なように、純粋に素敵だ。
じゃあ、もしケンタロウとダニーの中身が変わったら? そしたらダニーにほのかな恋心を持って、ケンタロウに今のダニーに対する気持ちを持つのかな。それとも見た目って私が思ってる以上に大きな役割果たしたりしちゃうんだろうか。
とにかくダニーと線路沿いを歩いてて、すごく素敵なひと時だなって思ったんだ。大冒険の後の安らぎ効果だったのかもしれないけど。
マスターの店での経験は私にとって大冒険だった。ディズニーランドの三時間待ちのアトラクションより大冒険だ。出会った人はみんな不思議に素敵だったけど、だからって緊張しないわけじゃない。すごく緊張してたって思う。だからかな、ダニーと二人でひなびたっていうのか、うん、十分にひなびた線路沿いを歩きながら、ヒトガタくん、ヒトガタさんに挨拶したりして、これってかなり穏やかで素敵なことなんだって思ったんだ。
突然、ダニーが足を止めた。目を見開き、身体が少し硬くなっている。
向こうからどことなくだるそうに男の人が歩いてきた。背広姿でなで肩の肩を揺らしながら歩いてくる。
「透けゆく人だ」 ダニーが言った。
透けゆく人?
私たちの方に近づいてくる。ダニーは足を止めたままだ。男は私たちから数メートル離れたところまで来ていた。
透けゆく人…。ほんとだ…。
その人は少しだけ透けて見えた。そう、少しだけ。
よく透明感のある肌、なんていうけど、そういうのとはもちろん違ってて、顔も手も、そして服も透けている。向こうがはっきり見えるほどの透け方ではないけれど確かに透けている。ガラスのコップに入った水のようにクリアに透けているわけではないけど…。
鈍い透け方だ。きれいに透けてはいない。どこか濁った透け方だ。
「きっとマスターのとこに行きたいんだ」 ダニーは少し焦ったように言った。
「え? なぜ? 」
そう言ったときには、その人と私たちはほとんど向かい合って立っていた。私たちを見る目は穏やかだけど悲しそうで、穏やかだけど焦りのようなものがあって…。
「君たち知ってるかな? こっちの方だって聞いて来たんだ。ハーヴィって名前のカフェだって」
「誰に聞いたんですか?」
「アルパカのような顔をした人だった。事故の後、僕を囲んでた人の一人だよ。ほとんどアルパカに見えた。彼女が、言い忘れたことがあるなら、ハーヴィのマスターの所に言って伝えなきゃねって言ったんだ。消えゆく前に伝えたいことあるならねって」
消えゆくって死ぬ?の?
「突然曲がって来たんだ。青いバンがね。逃げる暇なかったね。頭を打ったらしい。気がついたら、歩き始めてた。僕の身体はまだ道路上に残っててなんとも不思議だった…。その時、あまり時間はないんですってアルパカさんが言ったんだ。とにかくその店に行きなさいって」
「その店なら…こっちです」
ダニーは手招きしながら、今来た線路沿いの道をマスターの店に向かって小走りし始めた。すると、その人も小走り風に歩き始めた。
その人の後ろ姿は確かにすこうし透けていた。
ダニーは時々振り返りながら、マスターの店に向かった。私は透けゆく人の後ろをついて歩いた。
その人がどんどん透けて行ってしまっちゃうんじゃないかって、ちょっと怖かったけれど、角度によってはほとんど透けてるようには見えなかったし、少なくともみるみる間に消えていってしまいそうには見えなかった。
ハーヴィの店に入ると、ドアベルが例のビブラートのかかったようなガランガランという音をたてた。
「あら、ダニーちゃん、戻って来たの? お腹減ったんじゃない? 何かマスターに作ってもらう?」
ユカリさんが明るい声をあげた。どうやらユカリさんには「透けゆく人」は見えないようだった。ゆっくりと店に入ってきた透けゆく人はかなり大柄で、透けつつあるにしてもかなりの存在感だから見えているなら無視するはずはない。
フェルルでない人には透けゆく人は見えないんだ…。
「ちょっと足りない食材買ってくるけど、今度戻る時はもう帰っちゃってるかな。いつでも遊びに来てね。コウイチも喜ぶわ」
ユカリさんさんはヨウイチさんに共通する大きな身振りで店を出ていった。
ヨウイチさんはもう店内にはいなくて、コウちゃんは角のテーブルでスケッチブックを抱えて足をぶらぶらさせていた。店内のお客は一人だった。見事な角の雄鹿風レイヤー族が、威厳のある風情でカウンターに近いところのテーブルに一人で座っていて、入ってきた私たちを静かに見つめていた。
マスターが奥から出てきたが、私たちを見てすぐに状況を把握したようだった。
マスターは、透けゆく人に手招きしてカウンターの一番すみの席に座らせた。
「命が絶たれるといろんなものが見えてくるんですね」
透けゆく人はマスターに静かな声で言った。マスターは柔らかい微笑みを浮かべた。
「そうですね。今まで見えなかったものが見えてるでしょうね、今は」
「私は長くはこのままでいられないんですよね」
「そうですね。数分の人もいれば数日の人もいます。でもほとんどの人は命の火が消えると冷たくなりつつある肉体のみを残し、心や魂は一瞬にして消えていくんです。けれど、たまに、命亡き後、このレイヤーの中では姿がしばらく残る人がいる。あなたもその一人です。しばらくすると透けていき、やがて消えゆく人になるんです」
「ここは冥土との中間の場所ですか?」
「いいえ、今まであなたがいた場所です。ただちょっとレイヤー、層が違うっていうのか、ものの見え方が少し違うんです。だから、少しずつ透けていくあなたがこのレイヤーでは見えるんです。でも残念ながら、それも長くはないでしょう。透けていくあなたの姿は消えていくあなたのスピリットの余韻なのです」
ダニーは透けゆく人を見たのは3回目だと言う。すっかり透明になって消えてしまうまでの僅かな間、このレイヤーで伝言を残したり、最後の思いを残された人に反映させる努力をすることができるらしい。
残す思いが誰かにとって価値があるものなら…もっともそれを決めるのが難しいわけだけど、それを聞いたレイヤー族が責任をもってアクションを起こすことがあるらしい。
ダニーと私はカウンターの近くのテーブル席に座り、マスターと男の人の会話に耳を澄ませる。男の人の透け具合が少し増したようにも見えた。
「伝えたいこと、伝えたい人があるんですね」
マスターの言葉が凛として響いた。
「伝えて欲しいのは…まず…母に…」
透けゆく人はゆっくりと話し始めた。特に焦っているようにも見えなかった。私とダニーはお互い少し体を硬くしてながら、次の言葉を待った。やはり、死にゆく人が伝えたいのは母親なのか…。
「これまで散々私の人生を掻き回して、チャンスを潰してくれて、自分らしく生きるのを邪魔してくれて、ありがとう。最後に皮肉を言わせてもらうね、母さん。でもそれが正直な気持ちなんだ。僕は母さんに精神的に縛られていて自分らしく生きることなく死んでいくよ。ただ、今まで貯めた貯金は母さんにじゃなくて、4年前に別れたミチコに渡して欲しい。僕は母さんに言われて別れてしまったことを本当に後悔しているんだ。だから僕の貯金は母さんにじゃなくてミチコに渡したい。彼女がすでに結婚していても何していても僕からの思いだからって僕の全財産を渡して欲しい」
ダニーは目を大きく開いた。
マスターは特に動揺しているようにも見えなかった。
あなたの名前は? 住所は?
マスターは、まるで交番に落し物がないかと来た人に聞くように淡々といくつかの質問をしていったが、少しだけトーンを変えるとこう聞いた。
「その気持ちはあなたが死ぬ前から思っていたことですか? それとも死んだ後、思ったことですか?」
男は少し考えた。
「生きている時は、母さんが生活の全てだったと思います。母さんを喜ばせたい、母さんを悲しませることはしたくない、そう思ってきました」
「でも今のあなたの言葉はひどくお母さんを傷つけるでしょう。ミチコさんへの気持ちは亡くなってしまうまでずっと心の中で思っていたことですか?」
「いや…そういわれると…不思議なことに…ここに来て奇妙なあなたに聞かれるまで、狼人間ですか?あなたは? そう、あなたに聞かれるまで大して思い出しもしませんでした」
どういうことなの? 死ぬまではさほど思ってないことを今、命が消えても心? というか思いが残っている今、口にしている。生きてる時にも思っていた潜在意識なのかな? でも生前の遺言とは意味合いが違うよね。
車に撥ねられ亡くなったこの男の人は、レイヤー内でのみ、透けゆく人になっている。このレイヤーで男の人の言うことをどれだけ信じたらいいんだろう。生きてるときでも何が本心かって難しいのに、消えゆく人の言うことは、生前と違っても本心だっていえるのかな。
だいたい死後の伝言なんておかしいよね。でもこの男の人は少しだけ透けているだけで、とても死んだ人とは思えない表情でマスターと普通に会話してる。これってどういうことなんだろう。どこまで生ある人間と同じなんだろう。
それより、この伝言をマスターはどうするんだろう。
透けゆく人はサトヤマさんといった。サトヤマさんは、透けゆく以外は凄く冷静に見えた。自分が死んでしまったことを嘆いているようにも、悲しんでいるようにも、パニックに陥っているようにも見えなかった。コーヒーを出されたら、ゆっくりとミルクを入れ、かき混ぜるだろう、そんな余裕さえ感じられた。
「ミチコさんというのはもと奥さんですか?」
「いいえ」
「付き合っていたんですね。恋人だったんですか? どれくらい付き合っていたんですか?」
「付き合っていたともいえないかもしれません。付き合おうとはしました。もちろん、母が反対しなければ、誘ってきちんとおつきあいをお願いしたと思います。僕は古風な人間ですから、カジュアルなおつきあいってのが苦手で付き合うからには結婚したいって思ってました。でも、母が反対したのです」
「どうしてですか?」
「背が低過ぎるっていうんです」
「それだけの理由ですか?」
「ええ、それだけの理由です。低いっていっても母よりは高いんですよ。数センチくらいは。いや、低いかな。彼女、いつもかなりの高さのハイヒールを履いてましたからね」
「ではおつきあいしたわけではないんですね」
「ええ、母が反対しましたから」
マスターとサトヤマさんの会話に耳を澄ませていたダニーが目をパチパチさせ、首を傾げた。いったい何なんだ? とでもいうように。
マスターも困ったようだった。こんな透けゆく人も珍しいのかもしれない。
「今、あなたの魂、あなた自身が消えて行こうとしてます。で、あなたの本当に伝えたいことは先ほどおっしゃったことなんですね」
「ええ、母に僕の人生の邪魔してくれてありがとうってちょっと皮肉の一つも言いたいんです。そして財産はミチコに残し、君と一緒になりたかったって、そう伝えたいんです」
サトヤマさんの顔は険しくなり、透け加減も急に増した。サトヤマさんは透けゆく自分の手を見て、「僕は消えていくんですね。何だか、頭も心もすかすかになってしまいそうです」と言う。
サトヤマさんの声は小さく、少し電子音に近くなったようにも感じた。
コウちゃんがやってきて、サトヤマさんを見つめた。じっと見つめた。透けていく透け具合とかじゃなくって、透けていくものそのものを見つめているようだった。
「おじちゃんも君のような頃があったよ。君みたいに丸い顔をしてたよ。僕は気の利かない恥ずかしがり屋でね、母さんにずいぶん迷惑をかけたなあ。忙しい父さんの代わりに母さんがキャッチボールもしてくれたん…」
サトヤマさんの声はみるみる小さくなり、数秒後にはサトヤマさんも声もすっかり消えてしまった。何なの、これ? あまりに中途半端じゃない?
ダニーと私はカウンターに近づいた。サトヤマさんがさっきまで座っていたカウンターチェアには座る気になれなくって二つ離れたところにすわった。ダニーも腰かけた。
「ねえ、マスター、どうするの? 伝言、伝えるの?」
マスターは目を閉じ、頭を2、3回振った。
「どうしたものかな。レイヤー族ってのは、時としてひどく責任を負うんだよ。自分の行動で物事が変わるからね。ある時は、恋人に殺された透けゆく人が来てね。このままでは事故として扱われるから、真実を伝えて欲しいって、恋人が犯人だって証拠のある場所を教えてくれた」
「その場合はすべきことがわかるから、迷わなかったんだよね」
ダニーが言った。
「いや、そうでもない。物事はもっと複雑なんだ。捕まった恋人の母親がショックで自殺し、結婚式を数ヶ月後に控えていた恋人の姉は破談になり、心を病んで万引きで何度も捕まり、ほとんとホームレス状態になった」
「でも犯人が捕まったんですよね」私は言った。
「それ自体は正義がなされたって言えるだろうね。でも、レイヤー族がコモン族の歴史を変えてしまったわけでもあるんだ。このレイヤーで透けゆく人に頼まれてレイヤー族が対処したわけだからね」
ダニーもコウちゃんも神妙な面持ちで聞いていた。
「ある時は、亡くなった母親が子供へ残した手紙の場所を伝えてくれってやってきた。子供、といってももう成人だったけど、彼はその手紙を読んで、それまで厳しかった母の本当の気持ちを知り、自分があまりに大変な子供だったと落ち込んでしまった。涙も止まらなくなり、社会的機能がとまったようになってしまった。これも悲しい結果だった」
マスターは眉根を寄せた。金色の目がそれは悲しそうだった。
「ねえ、マスター。サトヤマさんの言ってることってどれだけ本当なのかってわからないよね。透けゆく人は嘘をつかないとか、そういう保証ないわけだし。言っていることが全くの嘘ってこともあるのかな? 例えば、お母さんもミチコさんのことも事実と違ってて、本当は極々普通に結婚してて子供が二人いたりして。で、なぜか透けゆく人になって事実じゃない不思議な話をする…そういうことってないのかな?」
「そういえば」 ダニーが口を開く。
「そういえばさ、こんなことがあったな。夜、どんどんってドアを叩く音がして、パパがドアを開けるとさ、膝を擦りむいてハアハア息を切らせた女の人がいてね、男に追われているから助けて欲しいって言うんだ。パパが警察を呼んで、その時は女の人もすごく怖そうにいろいろ説明して、ちゃんと話の筋も通ってたんだけどね。その人、翌日お菓子を持って謝りに来たんだ。少しお酒が入るといつもとんでもない作り話をしてしまうんだって…。ありもしないこと思い込んじゃうらしいんだ。ねえ、透けゆく人って大変なことがあったわけだよね? つまり…死んじゃったわけだし、事故にあった人ははねられて頭を打ったりしたわけだし…だから、思うんだよね、透けゆく人の言ってることってどれくらい事実なのかな」
「それが問題だね」 マスターは言った。「みんなが透けゆく人になるわけじゃない。百人に一人くらいかな。 とにかく、透けゆく人になるからには、すごく伝えたいことがあるんだろうな、真実なんだろうなって、思うだろ。でも、そうでもないんだ。気持ちが強いから、この世に未練が多すぎるから、言い残したいことがあるから、愛する人のそばを離れたくない気持ちが強すぎるから、そういう人が必ずしも透けゆく人になる、ってわけでもないんだよ」
「じゃ、どうしたらいいの? 何がほんとかってどうしたらわかるの?何をすべきかってどうしたらわかるの? 」
「判断に迷う時にはね、一番適性のある人に相談するのが一番なのかもしれないね」
マスターはそう言い、入り口近くに座っていた見事な角を持っているお客さんに視線を移した。
「佐々木さん」
私たちに「一緒においで」と言い、マスターはカウンターから出て、佐々木さんのところへ向かった。
佐々木さんの角はそれは見事だった。黒と茶色の混ざった艶やかな角は小さな頃買ってほしくてたまらなかったつやつやした飴玉を思い出させた。佐々木さんは角はあるが顔はライオンに似ていた。薄茶色の毛が顔を覆っている。耳はライオンより鹿に似ている。そしてその耳にはピアスがついていた。小さなクリスタルがキラキラ綺麗な薄ピンクのハート型のピアスだ。
佐々木さんはとても姿勢良く座っていた。両手を重ねて座る様子が、「威厳」と「奥ゆかしさ」ってちょっと矛盾にも思える二つの言葉を連想させた。ほんとに不思議なんだけど、佐々木さんはとっても奥ゆかしい感じだった。その重ねた両手は薄っすらとベージュがかった短い白い毛で覆われていて、爪には綺麗にマニュキュアがしてあった。パープルがかった優しいピンクのグラデーションのネイルアートだ。
マスターは佐々木さんと向かい合って座った。それは二人がけの小さなテーブルだったので、私とダニーとコウちゃんはその隣の四人がけの丸テーブルにそろっと腰を下ろした。
「可愛いお客さんね」
佐々木さんはかなりの低音を響かせた。優しい声だった。余韻ある声っていうのかな。
「三人の可愛いフェルルさん。これからの成長が楽しみね、マスター」
「心配もありますけどね。こんな世の中ですからね」
「ほんと。こんな世の中だから。悪いこと考えたらきりがないけど、良いこともそりゃ数えられないほどあるはずよね」
「そう願いますね」
「そうよ。願ってみましょうよ」
佐々木さんは微笑みうなづいた。マスターも微笑みを浮かべた。
佐々木さんとマスターの微笑みの本当の意味を知るのには何年もかかるのだろうなって思った。微笑みに深さがあるなら、すごく深い微笑みだった。その意味合いって分からずじまいかもしれないし…。いっぺんに瞬時にしていろいろ理解できたらどんなに楽だろう。
「コウイチとダニーは知ってますよね。こっちはロコちゃん。ヒロコちゃん」
「いい名前ね。海のような名前ね」
佐々木さんは私を見た。一瞬にして私の名の由来や意味やいろんなこと理解してくれたって思った。佐々木さんの大きな瞳が私を見ていた。緑の中に金色が凝縮したような不思議な色合いで、一瞬にして相手を読んでしまう不思議な能力に満ちた目だった。
「佐々木ミユカっていうのよ。もともとは佐々木ケンジっていったんだけど、心は生まれた時から女だったから。わかるかしら」
「性同一性障害っていうんですよね」
ダニーが言った。「性同一性障害」コウちゃんが繰り返した。
「そうよ。その通り」 佐々木さんは嬉しそうにうなづいた。
「フェルルにはね、どんなに頭が良くたってなれるもんじゃないのよ。心の知性が必要なの。あなたたちは心の知性の芽の勢いがよいのね。それを妨げるものが出てこないことを祈るわ。どんな世界でも成長するって難しいわね。たくさんの心の痛みも伴うわ」
佐々木さんはハーブティーを口に運んだ。
「佐々木さんは透けゆく人の思いを誰より早く深く感じれる人でね。今日もそれで来てくれたんですよね」
佐々木さんはうなづいた。
透けゆく人が入った時にはすでに佐々木さんはここにいた。透けゆく人が来ることを予知していたのだろうか。
結局カフェ・ハーヴィを出たのは暗くなってからだった。あのあと佐々木さんとマスターの話がどうなったのか私たちにはわからない。ダニーとコウちゃんと私は、一番大きなテーブルでカレーライスを食べさせてもらった。時折、佐々木さんとマスターの方を見ると、二人は真剣そのものの顔で何か話していた。
暗くなった道を歩きながら、私は輪を初めてくぐった今日のことを、透けゆく人が消えゆく人になった今日のことを、決して決して忘れないだろうと思った。
とりたてて当てはなかった。
空は青かった。サングラスをとって見上げる空は、目にしみるほどの青さだった。
祥平は歩道橋の真ん中というのも忘れ、立って見上げていた。
これ買わない? 振り返ると籠にキャラクターグッズをいっぱい入れた子が笑いかけている。
「ああ」
ちらりと見て、ポケットに手を入れる。祥平が「煙草ない…か…」とつぶやくのを聞き、財布を取り出すのだと思っていたその子、腹立ち顔で、「何だ、このおっさん」と言い、背を向けた。
煙草、ないか…。
久しぶりに手を通した背広だった。肘のところに革が丸くあててあるカジュアル系。ポケットには必ず煙草が入っていた。かなりマイナーなブランドの煙草だった。物にはこだわらぬ祥平の唯一のこだわりだった。以前よく買っていた自販機がちらりと頭をかすめたが、ここからは遠すぎる。
やっぱやめとくか。祥平はポケットの中で、煙草の箱を握りつぶすように、ぎゅっと手を握りしめた。
下を見る。外車が増えたなあ。祥平が以前欲しがっていた車も通る。車か…。もう興味はない。再びポケットの煙草をまさぐろうとする自分に苦笑しながら思う。吸いたいと。
長らく禁煙していた。いや、禁煙せざるを得なかった。特に吸いたいとも思わなかった。なのにこの背広を着ると気分はやはり愛煙家だ。
さて、何をするか。腹は空いているか…。久しぶりの休日か…。いざそうなるってみると何をしていいかわからなかった。
ふっと横を見ると探していた銀行はすぐ目と鼻の先にあった。さっきは見つからなかったがこうやって見ると、すぐそこだ。桂が勧めていたのはこの支店だ。
近くへ行くことがあったら寄ってみてくれないかな、こっちはしばらく行けそうにないから。彼はいかにも銀行員風の銀縁メガネの奥で祥平を見て言った。
祥平はその目に弱かった。その目で頼まれると断れなかった。男の自分が言うのも変だが、桂はいい目をしていた。自分自身悪くはないルックスだと思っていたが、桂にはその目だけで負けたと思った。
それに…桂は時々姿を変えた。姿を変える人間に会ったのは久しぶりだった。また出たのだろうか、あの症状が…。少しだけ手足が震えるような感覚を持ったが、自分がそれほど動揺していないのに驚いた。以前はひどく悩んだものだった。最後に出たのは思春期を脱するちょっと前くらいだっただろうか。思春期を脱してから出なくなった。大人になる、落ち着く、とはこういうことなのだ、自分に言い聞かせた。統合失調症、以前は精神分裂病と言われていた病…。自分がそうではないかと恐れ、どれだけ調べたことだろう。けれど、自分にはほんのたまに人の姿が変わってみえる以外症状らしい症状はなかった。結局誰にも言わなかった。
支店の看板を見ながら思う。アサミとやらはまだ働いているのだろうか。最後まで完全には自分のものにならなかった、そう桂は言った。完全にはとはどういう意味なのか、思いはしたが聞かなかった。桂だったら大抵の女は夢中になっただろうに…。祥平は再び煙草を探る仕草をしながら、人間ってのは資産の活用下手だと、つくづく思った。桂はルックス、祥平は運動神経を無駄にした。
高校では陸上のエースだった。こんな記録はなかなか出るもんじゃねえぞ。五分刈り、まん丸メガネの田崎コーチがストップウォッチを握り締めて言った。その笑顔を今でも忘れない。しかし、大きな競技会ではとんと記録に縁がなかった。
自分は頑張り時を知らない、あれ以来そんな気はしていた。野兎なのだ。野でぴょんぴょん自由奔放に駆け回っているときが花、人間社会の制約の中、何かを達成するというのには全く長けていない。やるスポーツ、やるスポーツ、どれもかなりの成績をあげたが、仕事とは相性が悪く、金にはつながらなかった。
祥平は何気なく周りを見回した。どうやら歩道橋の上でぼんやりしている人間は自分だけではなさそうだ。ショートヘアのグレイのスーツ姿の女が立っていた。保険勧誘か何かの仕事の合間だろうか、寒くなりそうなのにかなりの薄着だ。ぼんやりと下を見ている。まさか、家のローンにいき詰ったかなんかで飛び降りようってんじゃないだろうな。下ばっか見ずに上を見てごらん、どうだ、青いだろう。そんな映画ごときの台詞を思い、気恥ずかしくなった。
そういえば、遥子も以前こんな髪型をしていた。
遥子って言うんだ、と告げたとき、僕のはアサミだ、と桂は言った。遥子のことで気持ちのバランスを崩しそうになるのを振り切るように、祥平はあの時の桂の表情を無理に思い出そうとした。
約束だしな。祥平は見えない煙草の煙を吐き出すように、口をすぼめて息を叶いた。
その銀行の支店は入口は小ぶりだったが、一旦入ると奥に向かってかなり広かった。入らなきゃよかったな、祥平は委縮した。
サングラスは外すか。別にやましいことがあるわけじゃないが…。
いらっしゃいませ。入り口付近でにこやかにお辞儀をするのが仕事らしい男が、サングラスを外した祥平に声をかけた。口もとは笑っているが、目は笑っていない。祥平は軽く会釈し、通り過ぎた。
全く馬鹿な話だ。何しに来たというのだ。送金するわけでもカードで現金引き落としに来たわけでもない。
「今日のご用件は何でいらっしゃいますか?」
後ろから近づき、男がにこやかに声をかけてきた。やっぱりきたか。ほっといてくれよ、と言いたいが、気をとりなおし、「口座を開こうか、と思いましてね」と老けた口調で言ってみる。
「それでは番号札をお取りになって、お持ち下さい」
祥平は、黙って頷き、機械から出てきた番号札を引っ張った。049。八番目だ。
ソファに腰を下ろし、ゆっくりと視線を動かす。昼時とあり、混んでいる。おいおい、ほんとに口座を開くつもりかい。ま、金はないわけではないが、印鑑は持ち合わせていない。
印鑑か…。
祥平は二年ほど前のことを思った。
あの日、判を押すつもりだった。だからこそ実印を持って家を出た。遥子が新婚当時作ってくれた印鑑を持ってだ。「男なら実印持たなきゃ、立派なのをね」 遥子が黒光りする水牛の角で注文してくれた実印。「なんだい、こりゃ、読めないじゃないか」 出来上がった入り組んだ文字を見て、祥平はふざけてくるくる回したが、正直、嬉しくもあり照れてもいた。初めての本格的印鑑だった。何だか自分が偉くなった気がした。遥子はにこにこ笑っていた。清々しい笑顔だった。
その判をつかみ、あの日、祥平は出ていった。ポケットの中で何度も判を握り締めながら。
つい昨日のようでも遥か昔のようでもある。そんな風に思う自分を月並みだと切り捨てたいが、出来ない。出来るわけがない。
会いに行くのは桂の相手なんかじゃなくって遥子じゃないのか…。
だめだ。どの面下げて会いに行くっていうんだ。遥子は決して許しちゃいない。許してくれるはずがない。
まさかもうあいつとは一緒にいまい。あいつのことは残らず遥子の前でぶちまけてやった。何十万もの調査費用も高いとは思わなかったが、大金はたいて手に入れた情報で、自分は一体何を手に入れたのか。
手に入れたものなんか何もない。分かっているのは失ったものだけだ。
ものに憑かれていたんだ。ものに…。
あの日、遥子の顔を見た祥平は出来るだけ冷静にふるまおうとした。だから判ぐらいいくらでも押してやるよ、わざと穏やかに緩慢に言った。たださ、選んだ男がどんな男かだけは知っておけよ、そう言い、おもむろに茶封筒から写真を取り出した。
日付入りの男の写真。全部で16枚。それも相手は一人ではない。
馬鹿だなあ、祥平はわざと優しげに微笑んだあと、だまされるなんて遥子らしくないぞ、もっと潔くなれ、と今度は後輩を励ますような語調に切り替えた。
遥子は呆然として祥平を見た。事態を把握してないような視線だった。
そこへ男が帰ってきた。写真で見るより体格も見栄えもよかった。その点だけは北田という男より自分の方が上だと信じていた祥平は妙な動揺を覚えた。
「主人よ」
遥子が男に言った。
なるほど、大丈夫だよ、そんな視線を遥子に返した後、男は祥平に軽く会釈した。
「彼ね、離婚届に判を押しにきてくれたの」
遥子の言葉に「写真も持ってね」と図らずも脅すような低い声で祥平は言った。
「写真?」
怪訝そうに北田は祥平を見た。
祥平は遥子の手から写真をむしり取り、男に叩き付けた。
男はむっとしたようだったが、一枚一枚丁寧にゆっくりと見た。とりわけ驚く様子もなかった。
「こんな手をを使わなくてもいいじゃないですか。この女たち、知ってますよ。昔付き合ってた人ですからね。でも日付が間違ってますよ。遥子さんと付き合いだした時はきれいな身でした」
男は真っ直ぐに祥平を見た。興信所がでっちあげたのか、と僅かばかりの疑問を起こさせるほど堂々たる態度に見えた。焦るでもない男に、祥平は自分がとんだ間抜けに思えてきた。
「でも…」
通子が聞こえるか聞こえないかの声で言った。
「この写ってるセーター、私がプレゼントしたものよ。半年ほど前に」
通子は一枚の写真を北田に差し出した。
えっ? 北田の目が微かに動いた。が、すぐにまた自信たっぷりな表情になった。
「そりゃ、貰ったときは言わなかったんだけど、同じものだったんだよ。どこかで見たなって気がしたけど、そうか、前に持ってたのと一緒だったんだな」
どうしようもない大嘘つきだ。まさか信じやしないだろ、祥平は遥子を見た。
遥子の瞳が揺れている。男の言葉を信じたい。が、信じるのは彼女の理性が許さない。
「じゃ、俺はもう用ないから、判押すよ。どこだい、離婚届ってのは」
遥子は動かなかった。茫然としたまま動けない様子だった。
三人無言のまま、時間が流れた。
「いいよ。別に押してもらわなくたって」
男は憮然と言った。
「僕を信頼できないなら何の意味もない」
どうやら信頼を回復するのは不可能だと、北田はゲームを投げたようだった。
遥子の目から涙がこぼれた。そして頬を伝っていった。
貴様、遥子を泣かすのか。俺だって一度も泣かしたことのない遥子を。祥平は立ち上がり、男を睨み付けた。
今になって思えば、あのとき泣かしたのは自分なのだ。原因を作ったのは自分なのだ。かといって、あのまま女たらしに騙されるままにしておいた方がよかったというのか、何度も祥平は自問した。
いや、そうじゃない。でも調べたのは男のしっぽをつかむことで遥子に仕返しをしてやりたかったからだ。遥子を思ってやったわけじゃない。遥子に仕返しをしてやりたかっただけなのだ。
047…。自分の番号まであと二人になっていた。
祥平は窓口にすわる女たちを見ながら、この中にアサミはいるだろうか、と思った。確率低しか…。名字は何だったか…。確かありふれた名たった。覚えてくれたかい? 桂は言い、ああ、と祥平は答えた。何だったか…。林…。そうだ林だ。
しかし、どうやって聞くというのだ。あの、林アサミさんはいますか? 友人から伝言を頼まれたものですから。あ、今日はお休みですか。は、伝言ですか。あ、友人が言いますには、つまり…すまなかった、と…。それだけなんですが…。
「49番の方、3番窓口にどうぞ」
祥平の番だ。印鑑を忘れた、と芝居でもうって帰るか…。
「お待たせいたしました」
新入社員だろうか、ひどく幼い顔の行員が微笑んでいる。
「口座を開こうと思ったんですがね、あいにく印鑑を忘れちゃったもんですから…」
「そうですか。せっかくお待ちいただきましたのに…。もし、今日すぐ戻られるようでしたら、こちらの窓口までいらして下さい。お待たせすることなく応対させていただきますので。わたくし、米倉と申します」
気のよさそうな子だと思った。この子になら、林アサミさんって方いますか? と気さくに聞けそうな気がした。道でも聞く感覚で。
「あの…」
「はい?」
「こちらに、林アサミさんという方勤めていらっしゃいますか?」
「林アサミ…ですか?」
女の子は首を傾げた。
「しばらくお待ちください」
そう言うと奥に入っていき、事務をしている少し年季の入った行員に聞いている。おいおい、そんな奥まで行って聞くことないだろ。知らないなら働いてないってわけだし、そんな難しい質問じゃないだろ。イエスかノーか、それだけでいいんだ。
が、今さら駆け足で逃げ去るわけにもいかない。そこで余裕を見せ、脚を組み、顎を引いた。
聞かれた方の行員は少し怪訝そうな目をして祥平を見たが、二言三言、新人に答えていた。
戻ってきた新人は笑顔を作り直すと、祥平に言った。
「申し訳ございません。少し前まで林という行員がおりましたが、今は退職しております」
「あ、そうですか。どうもすみませんでした」
祥平は軽い感じで言い、立ち上がった。
カウンター式のコーヒーショップでコーヒーをすすった。
もし、林アサミがいたら、どう言ったのだろう。
桂という男に頼まれたんです。ご存知ですね。一言すみませんでしたって伝えてくれって頼まれたものですから。事情はよくわかりませんが、彼がそう言ったんです。はい、一言すみませんって伝えてくれ、です。桂は手紙も何枚も書いては破って捨てていました。こんな手紙が来たら、迷惑だよなって。ただ、私にはこう言ったんです。もしあの支店の近くに行くことがあったら、林アサミという行員がいるかちょっと見てほしい、もし、もしもいたら、一言伝えててほしいんだ。すみませんでしたと。
全くあいつも要領が悪い。
最初見たとき、嫌なやつだと思った。似ていたからだ。あの男に。遥子がたぶらかされた北田という男に。体つき、顔、祥平を見る視線まで似て思えた。実際、遠目に見たら、同じ男だと思ったかもしれない。しかし、どうしたわけか気が合った。次第に互いの事情を話すようになった。桂は最初から祥平のことを気に入ったのか、無口な彼が祥平にだけは口を開いた。その理由はなかなか言わなかったが、ある日、ぽつりと桂は言った。トミさんには、男気があるからだよ、初めっからそれを感じたんだ、と。
男気か…。
祥平には彼の言う「男気」が何をさしているのかわからなかったが、漠然と男気からは自分がほど違いと感じた。もし、男気があれば、あんなことはしなかった。
しかし、桂に言われたとき、祥平は嬉しかった。桂のためなら、かなりのことはしてやろう、そんな気にもなった。別に褒められたからじゃない。自分にまだ残されていると信じたいその何かを男気と呼ぶなら、その存在を自分より先にみつけてくれた桂に感謝したかったのだ。自己嫌悪に陥っていた祥平は、自分を肯定してくれる何か、それもおべっかなどではない誠実な何かを求めていた。桂はいつもほとんど無表情だったが、「トミさんには男気がある」と言ったときの彼の目はひどく雄弁だった。
その日以来、二人はさらに親しくなった。奇妙な兄弟感情が生れた。年も知らないから、どっちか兄か弟かも定かでないが、ただ、兄弟間でしか味わえないような信頼関係が生れた。だから、桂も今まで誰にも言ったことがない秘密を祥平に打ち明けたし、祥平も自分の気持ちの自己分析などおよそ彼らしくないことまで桂の前では口にした。
桂はどこかもろい内面をもっている、祥平は感じた。その桂がアサミという女に惚れている。が、事情が事情で一言謝りたいが謝れない。本気で祥平にアサミに会いに行けといったわけではないだろう。ただ、言わずにいられない何かが桂の心に常に存在していたのだ。
あのスクランブル歩道橋の横さ、わからなかったら歩道橋をのぼってみてくれよ。すぐわかるからさ、そう言ったときの真剣な眼差しの桂に「行けるときがきたら一番にいくよ。他に目的もないからさ」祥平は答えた。
カフェのレジで金を払う際に、店内の奥にいる女が目に入った。どこかで見た女だ。そうか、歩道橋の女だ。よかった、少なくとも歩道橘は下りたのだ。相変わらず疲れて見えるが、疲れた女、疲れた男、そんなのを数えたら、きりがない。
祥平は街を歩いた。どこに行くあてもなかった。ただ、何とか林アサミに会えないものかと思いながら歩いた。ジャケットのポケットに手を入れて歩いているうちに、いつのまにか陽射しは傾き、影は異様に長くなっていた。
こんな夕暮れ時、遥子と歩いたものだった。自分の影の横に遥子の影があった週末の買い物どき。大切にしていたつもりだった。遥子の望むままにさせてやりたい、そう思ってきた。だから、ことある度に言った。君が決めろよ、と。君が好きにしてれば俺は満足さ、そんな愛情表現のつもりだった。
「あたしね、これからの人生どうしたらいいかって時々思うの。何が価値あるものか、何を目標にするのかって」
遥子が物思いに浸った様子で言ったときも、祥平の答えは同じだった。君が決めろよ。
遥子の心はあの日を境に少しずつ離れていったのかもしれない。遥子はひどく淋しげな目で祥平を見ていた。
電車に乗った。遥子と暮した街へ行ってみようと思った。あの事件当時に住んでいた街に戻る勇気はなかったが、新婚当時住んでいたあの街なら、行けそうな気がした。
おまえ、傷つきたいのか、自嘲してみる。感傷に浸るって柄でもないだろう。
いや、そういうわけでもないさ。気を取り直す。他にないじゃないか、行くところが。
取りあえず、好きだった街だ。都会の片隅にありながら、時間がゆったりと流れる街。
そうだ、それがいい。あの街をゆっくり歩いて食事でもして、街のはずれにあったビジネスホテルにでも泊まろう。
目的らしいものができ、祥平の気持ちが和らいだ。感傷に浸るのは今日で終わり。明日からは新しい日だ。
電車の窓。ビルの間に夕陽が見えた。夕陽は夕陽色ではなく真っ赤で妙に大きかった。その妙に大きく真っ赤な夕陽を眺めているうちに現実離れした感覚に陥っていく。危ないな。今ほど、現実を見つめていかなければならない時はないってのにさ。
駅前はさほど変わっているようにも見えなかった。もともとタクシー乗り場もないような小さな駅だ。
細い商店街を歩く。魚屋と惣菜屋から流れる匂いも以前のままだ。よく入った中華料理店が目に入り、急に空腹感におそわれてのぞいてみた。しかし店内はすっかり変わっていて以前の面影はない。
再び通りを歩き出す。右に曲がってすぐ左へ。商店街を一本ずれた道を北へ歩く。ニ十分ばかり歩くと大きな自動車道にぶちあたった。角のとこにファミリーレストランができていた。そこら中にある大手のファミレスとは違い、少し格が上、というかシックに華やいだ雰囲気で、家族連れより恋人どうしに向いていそうな趣だった。
わたしね、なぜかね、ファミレスが好きなの。広くて安くてコーヒーのおかわりができるところ。お腹なんか空いてなくてもついふらりと入っちゃうの。コーヒーのおかわりいかがですか?なんて聞かれると、ええ、じゃお願いします、なんて、まだ半分以上残ってるコーヒーぐいっと飲んで差し出しちゃうの。どうしてかしらね。ファミレスって食事をしたりコーヒーのおかわりしてる間は時間が止まっててくれそうな気がするのよね。ゆっくり雑誌かなんか読んでてもそんなに嫌みな目向けられることもないし…。だからね、ファミレスにいる時間は猶予の時間に思えるの。何していいのかわからない私にとって何か意義あることをするまでのね。
遥子はそう言った。もちろん、結婚したら無駄なお金は使わないようにするわ、と付け足す彼女に、いいさ、行きたいだけ行けよ、一日何回でもさ、笑いながら言うと、遥子は唐突なほど嬉しげに笑った。
一緒になってから、遥子は空いた時間をどのように過ごしていたのだろう。祥平がいない一日の大半の時間…。時々は、やはりファミレスに来て、ぼんやりコーヒーを何杯も飲んでいたのだろうか。遥子の夢ってなんだい? 一度も聞いてやらなかった。遥子の挫折感を理解しようと努力したこともない。そんな自分と比べて北田はよき聞き手だったのだろうか。
祥平は何かにひかれるように店内に入った。遥子がいる、そんな気がしたわけではない。ただ、猶予の時問が欲しいのはまさに自分だった。
適当に食事を注文しよう。何よりコーヒーをお代わりしよう。コーヒーお代わりいかがですかと聞かれたら、やあ、お願いしますよ、とにこやかに答えよう。
いらっしゃいませ! 店長らしき女性が明るい声をかけ、続いてアルバイトらしき子がメニューを抱き抱えるようにして近づいてきた。
案内された隅のテーブル。窓を背にして祥平はすわった。
メニューを開く。写真つきの分厚いメニュー。コンビネーション、というのがやけに多い。ロブスターとステーキのコンビネーション。ハンバーグとエビフライのコンビネーション。照焼きチキンにカキフライのコンビネーション。
「じゃあ、このシーフードプレートでお願いします。コーヒーをつけて」
コーヒーを先に、とつけ加えるのも忘れなかった。
外はすっかり暗くなっていた。一つ間をおいたテーブルではすでにデザートが始まっていた。どでかいアイスクリームの盛り合わせ。祥平はテーブルに立ててあった写真付きのデザートメニューを手に取った。この写真の実物があれってわけか。裏返すと、ショートケーキにろうそくが3本たった写真がある。お誕生日の方には当店から心ばかりのバースディケーキをプレゼントいたしますとある。
バースディケーキ…か。
昨日が遥子の誕生日だった。そして今日11月14日が祥平の誕生日。いつも13日の夜、ワインを飲みながら一緒に祝った。12時を回ると、さあ、今からは祥平のパーティね、とケーキにろうそくを立て直した。
三年前までは一緒に祝った。三年前となると既に北田と付き合いはじめていた頃だ。遥子の変化に気づいていただろうか。気づいていたと思う。でも、目をつぶった。女は気まぐれだから、情緒不安定だから、と。
いけない。また遥子のことを考えている。
今日はいい旅立ちの日じゃないですか。今朝の山岸の言葉を思い出す。顔中、皺で埋め尽くされたような疲労感漂う男だったが、その目はいつも澄んでいた。いかつい顔立ちにもかかわらず、清らかな印象を与える不思議な男だった。目は充血し、腫れぼったい瞼のこともあったが、いつも澄んでいた。魔力はその視線だった。その視線はひどくストレートで影がなかった。裏がなかった。じっと見つめてぼそりと一言、二言、言う。桂以外に言葉を交わした数少ない人物だ。そして、彼も二度ほど姿を変えた。思春期にも似通った姿に変わった友人がいたが、毛の長い猿科の動物に近かった。決して人間より劣って見えたわけじゃない。猿の惑星の映画のシーザーに似た強く知的な視線をしていた。どの人間よりも知的で堂々としていた。
桂が姿を変えたのは、明らかに猫科の何かだった。猫でもヒョウでも虎でもピューマでもチータでもない。耳が大きくて長く、目が青みがかっていた。最初に桂と心がつながったと思った瞬間、桂は姿を変えていた。祥平の視線は泳いだ。
なんだ、何に近いんだ。今までこんな変身は見たことがない…。
カラカルだよ。
桂は言った。
カラフル?
いやカラカルだ。
カラカル…。
後で図書館で調べてみた。スマホだったら一発でわかるのだろうが、不便なことだ。
カラカルってこれか…。
それは確かに姿を変えた桂に似ていた。
妄想ではないと思ったが、100%確信はできなかった。幻視だけではなく、幻聴もあるのか…。桂自体が存在しているのか…。
いや桂は確かに存在しているのだ。アサミだっているはずだ。
いい旅立ちの日じゃないですか、そうだ、そう山岸は言ったのだ。今日が祥平の誕生日だと知っていたわけでもないだろう。祥平は笑おうとしたがこわばったままの顔で、うなづいた。
やがて賑々しいシーフードプレートが運ばれてきた。ありがとう、とウエイトレスに目で言ったとき、手洗いのサインの方へ入っていく一人の女が目に入った。
あの女。
確かにあの女だ。
祥平は混乱した。どうしてあの女がここにいるのだ。偶然にしてはあまりにおかしい。
そうか…。そうなんだ。
数分後、再び女は戻ってきた。
視界の端で見るともなく女の様子を探ると、女もときおり視界の端で祥平の方を見ている。
祥平は急いで料理を平らげ、女がスパゲティらしい料理を食べ終わるのを待った。女は半分ほど食べたところでフォークを置いて皿を押しやり、見つめられているのを知っているかのように、ゆっくりを顔を上げ、祥平を見た。
拝平は立ち上がり、女のテーブルの方へ歩いていった。
女はそんな祥平から目を逸らさなかった。
「すわってもよろしいですか?」
女は頷いた。腰かけると祥平はできるだけ心を落ち着けようとした。
「三度目です、私が今日あなたに気がついたのは。まずは、ある駅前の歩道橋の上でお会いしました。私が歩道橋の上でひどくぼんやりしていると、やはりぼんやりしているあなたがいましてね、大丈夫かなと心配したほどです。でも、近くのカフェで再びあなたを見かけ少し安心しました。ここまででしたら、単なる偶然、さほど不自然でもないでしょう。けれど、またここにあなたがいるとあっては、考えられることは一つです。あなたは私をご存知ですよね」
「富岡さんですね」
女は慌てるふうでもなく言った。
「あなたは?」
「三原といいます」
「三原さんですか。無駄足をさせては悪いから言いますよ。私は場所なんか知りませんよ」
「は?」
「あなた、私が友達からある物の場所を聞いたと思っているんでしょう。無駄な時間を取らせては申し訳ないですからね、言っときますが、神に誓って私は知りませんよ」
三原は祥平を見つめた。
「それにあなた、テールが下手すぎますよ」
「はい?」
「ずっとつけてたんでしょ。ここまでついて入ってきちゃ、誰だって気づきますよ。この仕事始めて間もないんですか?」
「い…いえ」
「私の友人の調査の一環ですよね。それとも私のような人間にはしばらく見張りがつくってわけですか? なんせ初めてのことでよくわからないんですがね」
祥平はだんだん皮肉っぽくなっていった。
「まあ。いいか。とにかく私は知りませんよ。私をつけてたってドラマみたいに地面を堀りおこしたりはしませんよ」
「あの…桂から…何も聞いてないのでしょうか」
桂、と言う女の目が鋭くなった。
「ええ、事件のことはね。いくら私たちが親しく見えてもそんなことは話しませんよ。あなたもプロだったら、それぐらいわかるでしょう。ま、上からの命令なら仕方ありませんがね」
三原はしばらく黙っていたが「今日、誕生日ですね」と言った。
「そうか、それも知ってるわけですね。出所の日が誕生日っていう馬鹿げた偶然です。…あなた、私のことどれほど知ってますか。…離婚した妻のことも知ってますか?」
そう言ってから祥平は馬鹿馬鹿しくなった。この女が知りたいのは桂に関することだ。自分の別れた妻のことなど知るはずもない。
「狩野遥子さんですね」
祥平は思わず目を見開いた。体が一瞬動かなくなった。思ってもみない答だった。
「元気にしてらっしやいます」
「元気…ですか。遥子のことを知ってるんですね」
祥平は混乱した。と同時に怖くなった。遥子が今どうしているか、何よりも知りたかったが、知るのはどうしようもなく恐かった。
「遥子は…一人ですか」
「一人…というか…。あの…お子さんがいらっしゃいます。一才になったばかりの」
えっ…。
祥平は耳を疑った。いろんなことを想像していたが、なぜかそれだけは思わなかった。七年間の結婚生活で子供は出来なかった。どちらからも検査しようという話は出ず、祥平は遥子には子供が出来ないのだ、と漠然と思っていた。自分に欠陥があるとは思わなかった。
1才か…。あの男の子供だ。祥平の子である可能性はない。
「未婚の母ですか」
「ええ」
三原は頷いた。祥平の中で激しく感情が渦巻いた。遥子への想い、この二年間ずっと抑えてきたやり場のない遥子への想いが渦巻いて、一つの決心となってストンと落ちた。
誰の子でもかまわない。俺が守る。幸せにする。表立って出来ないのなら、陰で見守る。遥子が許してくれるまでずっと。
そうだ、懇願して面倒を見させてもらおう。あまり体が強いとはいえぬ遥子が一人で子供を育てるのは大変だ。自分がどれだけ後悔し、遥子のことを思い続けていたか、正直に話そう。自分自身に正直になれるとき、遥子に対して正直になれるときがあるとしたら、今しかない。遥子の子なら自分の子のように愛そう。愛せると思う。いや、必ず愛せる。あの男の子だってかまやしない。七年近く自分のことを愛してくれた遥子じゃないか、あの男の出現まで。
けれど……。祥平は肩を落とした。子供の父親にあんなことをした男を遥子は許せるだろうか。予供が大きくなり事情を知ったとき、父親気取りだった自分を憎みはしないだろうか。
無理な話か…。
あの日、祥平は男の横っつらを張りとばした。遥子を泣かせた男の横っつらを。
「遥子さん、やっぱり君の言うとおり彼ってデリカシーのない野蛮人だね」
嘲るように男が言った。我に返った瞬間、祥平は男の首ねっこを捕まえ、壁に叩き付けていた。
「やめて!やめてよ!」
遥子が叫んだ。が、祥平の手は止まらなかった。通子の声に重なって自分の声とは思えぬ声が聞こえた。
「殺してやる!」
男はパニックで飛び出し、マンションの螺旋階段で足がもつれ、転がり落ちた。後頭部を打ち、意識不明。
長期に渡るリハビリが必要な怪我を負った。実際祥平が殴って与えた怪我はそれほど大きくなかった。しかし祥平の暴力が原因で階段を転げ落ち、生死に関わる大怪我をしたこと、殺してやる!という凄みのある声を聞いていた者がいた、などの点が重なり、一年半の実刑になった。
遥子は客観的に証言してくれた。涙を浮かべ、決して祥平の顔を見ようとはしなかったにしても。
北田に対しすまないと思っているだろうか、自虐的な気分の時など、ことさら問ってみた。が、答えはいつも同じだった。殺してたら後悔しただろう、すまないと思っただろう。だが、祥平が男に与えたくらいの肉体的痛みは当然だ。大怪我は自分でしたんだぞ。自分で転げ落ちたんだぞ。それを何だ。殺されると思って夢中だった、逃げなかったら殺されたに違いない、とは。肝の坐ってないやつだ。ばちだよ。ばちがあたったんだよ。
あんな北田の子でも本当に可愛がれるのか。まだ、心に痛みがある。いつになっても消えない傷がある。傷は乾くことを知らない。けれど、出来るはずだ。出来なければ…。
それが男気ってもんだろう。桂の言った男気ってもんだろう。
遥子を愛している。別れてからの時間は遥子に対する愛情の再確認の時間だった。愛情は植物を育てるように育まなければいけないとも悟った。遥子が淋しそうな顔をしたとき、興味の違いから会話がなくなったとき、祥平は何もしなかった。
男気だけでは駄目だったんだ。自分には繊細さが欠けていた。
遥子…。子供を生み、育てているというのなら、親戚に恵まれぬ遥子のこと、自分が助けなくて誰が助ける。自分ほど彼女を愛しているものはない。遥子に会うきっかけを作ってくれるのなら、あの男の子でも感謝しよう。遥子と自分を再び引き合わせる口実を作ってくれるなら、それだけでまだ会わぬ幼い命に感謝しよう。
祥平は涙ぐんでいた。
「今、どこにいるんですか、彼女は」
「知ってどうするんです?」
三原という女は聞いた。
「会いたいと思います。でもご心配なく。彼女に迷感かけるようなことはしませんから」
「あの…お会いにならない方がいいと思います」
「どうしてですか?」
「今度、結婚されるんです」
結婚…。結婚…か…。…そんなこともある…わけか…。
どこか淋しげな目をした遥子。可憐な遥子。子供がいたって彼女なら好きになる男がいても不思議はない。
「そうですか…」
祥平は大きく溜息をついた。体中からエネルギーが抜け出て、小さく小さくひからびてパリンと割れてしまいそうだった。
三原が祥平を見つめていた。女の前で泣くなんて…。けれど、泣けてきた。急に出現した可能性、希望に有頂天になっていたときだけに、一旦、流れ出すと涙はとまらなかった。一年半、思い出の中に生きてきた。そんな毎日の中、心だけが妙にもろくなっていった。遥か昔、大人の体型に達したとき、自分の中の感傷的部分を捨てた。そうすることで大人になったつもりだった。しかしもともとは泣き虫だったのだ。
「そうですか。相手は? どんな男ですか? そこまでは三原さんもご存知ないですよね。それに…どんな男か聞いても意味ないですね」
三原が見つめていた。何とも気の毒そうに見つめていた。
「キタダです」
キタダ…。
「北田…ですか」
祥平は一瞬にして憔悴した。塀の中では誰も遥子のことを教えてくれなかった。面会に来てくれたものもいない。遥子と同じ世界に出ても彼女には近づくまい、そう決心していた。ただ、幸せかどうかは確かめたい、それだけは思っていた。
遥子が北田の子を産み、北田と結婚する…。
祥平は呆然と宙を見ていた。
「富岡さん」
三原の穏やかな目が見つめている。その瞳が何か言いたげだ。
「私、あなたが思っているようなものではありません」
「え?」
「私、以前は林と言いました。林あさみです」
「桂の…アサミさん…ですか?」
「はい」
「でも三原と言いましたよね。…ああ、結婚なさったんですね」
「いいえ」
「違いますか?」
「離婚したんです」
離婚…。
「前の夫の姓が林でした」
桂はアサミが結婚していたことなど言わなかった。
「少し前、桂から手紙をもらいました。最初で最後の手紙だろう、と書いてありました」
アサミは封筒を差し出した。差出人は高坂真由美となっている。
「高坂?」
「ええ、彼、私か離婚していること知らないので女の名前の方がいいと思ったんでしょう。私は字からすぐ桂からだとわかりましたけど…。どうぞ、読んで下さい」
「いいんですか?」
「ええ、富岡さんなら構わないと思います」
アサミは封筒から手紙を取り出し、最初の一枚だけ渡した。達筆だった。
お元気ですか。
変な書き出しですが、他にどう書いていいのかわかりません。
迷感だと思い、今まで連絡しませんでした。あなたの方も事情があることですから、連絡がなくても不思議はありません。
ただ、こんな生活だと同じことを繰り返し繰り返し思ってしまいます。そしてあなたがどういうふうに毎日を過ごしているのか、何より幸せなのか、気になります。
私がこうなったあと、あなたは一度だけ会いに来てくれました。そして、もう一度ご主人と頑張ってみると言いました。
でも最近時々、あなたが幸せではないのではないか、そんな気がするのです。私はあの時、ひどいことを言いました。君のためにやったのに、君はご主人の元に帰るというのか。もう二度と僕の前に顔を出さないでほしい、と。
でも今の私にはわかります。あれは自分のためにやったのです。誰のためでもありません。そして失敗し人を傷つけました。あなたには心から謝りたいと思っています。
今の私はあなたにひどい言葉を吐いた男と同じ人間ではありません。もちろん、あなたのことを恨んでもいません。ただあなたの幸せを心から祈っています。それだけ知ってもらいたくてこの手紙を書きました。
あなたが今、幸せに結婚生活を送っているなら、この手紙はすぐ破って捨てて下さい。
万が一あなたが今幸福でなく、私のことを知りたいと思っているならば、富岡祥平という男をたずねて下さい。11月14日にフリーになる男です。彼に私のことを聞いて下さい。私の様子を聞いて下さい。彼は私がここで唯一信頼した男です。
ただ、私に会いには来ないで下さい。もし会える時があれば、私があなたのいる世界に出れたときです。私は普通の人間として会いたいのです。
読み終わった祥平は顔を上げた。
「二枚目に富岡さんのことが書いてありました。だから…」
「それで、私のことも知ったわけですか…」
「ええ…。富岡さん、私は卑怯な人間です。彼があんなことになったとき、私は無関係でいたかったのです。何があっても一緒にいたいと思ったはずの人でしたのに…。私は自分を偽りました。彼とのことはちょっとした不倫だったのだと…。そして主人との生活を続けようと決心しました。でも世間の目はごまかせても自分はごまかせません。結局一年前に離婚しました。今はなんとか自活しています。慰謝料ももちろん貰いませんでした。私の方に非がありますから」
アサミはうつむいたが、気を取り直したように顔を上げた。
「それで、桂が言うとおり、富岡さんに会いたいと思いました。桂は富岡さんもこれから本当に幸せになってほしいと思っています。手紙からでも、その気持ちがわかります。で、私、富岡さんにお会いするからには、私の方からも富岡さんのためになる何かをお知らせすることができないか、と思って…。勝手に調べたりして、すみませんでした」
「いいんです。感謝したいくらいです。あなたから聞かなければ、遥子のことも知ることが出来なかったでしようし…」
「知らなかった方がよかったってことありませんか」
「いいえ」
祥平はきっぱり言った。
「落ち着かれてから、桂が書いてきた住所にお尋ねするっていうことも考えました。でも、できるだけ早く桂のことを聞きたかったんです。だから、今朝起きると心は決まってました。で、富岡さんのことずっとつけていました。いつ声をおかけしようかと思いながら、ずっと後をつけて…。機会を見つけられず尾行みたいになってしまって…でもここで食事が終わったとき、声をおかけするつもりでした」
「このレストランでやっと気づくなんて、こっちも鈍いですよね」
二人は顔を見合わせ、微笑んだが、祥平はすぐに真面目な顔になった。
「あの…遥子に実際会われましたか?」
「面と向かって話したわけではないんです。でも、それこそ調査員のように調べました」
「元気そうでしたか」
「とても。それと…可愛らしい、健康そうな赤ちゃんでした」
「そうですか…」
北田は心を入れ替えていい人間になったと思いますか、聞いてみたかったがやめておいた。人間そんなに本質が変われるものじゃない、それにこの人とは関係ない話なのだ。
「桂は幸せです。ついてない愚か者にしても幸せな男です。待ってくれる人がいるんですから」
アサミは少し淋しそうに微笑んだ。
「桂は馬鹿です。大馬鹿者です。運動神経あまりよくないのに…。車の運転だっていつも慎重にって私、口を酸っぱくして言ってましたのに…。その彼がバイクですから。バイクなんですから」
一匹狼で、あるところから金を盗んだ。かなりの金額だった。念入りに計画を練った甲斐あって金を手に入れるところまではうまくいったが、バイクで逃げる途中、人をはねた。そのまま逃げたが、そのことから足がついた。三日後、捕まったとき既に金は手元になく、逃げる途中落としたと言い張った。
「愚かですよね、人間って」
「いや、賢い人間もいます。愚かな人間もいますが、損をする人間もいれば得をする人間もいて、何でも両方向あるもんですね」
話しながら、これは桂の話し方だと思った。普通ならこんな話し方はしない。祥平はアサミを前に、桂の話し方をしている自分に気づいて可笑しくなった。
「富岡さん」
アサミが見つめた。
「彼、お金どうしたか、言いました?」
「いや、それだけは言いませんでしたよ。まだどっかに隠しているのかな。それともほんとに落としたのかな。誰もそんなこと信じちゃいないみたいですが」
「…彼のこと、もっと知ってもらうためにはこれだけは言わなければなりませんね。桂は逃げる途中落としたと言い張りましたよね。でも、そうではないんです。だけど、もう持っていません。しかるべきところに匿名で寄付したんです。もともと盗んだ金はそこにあるべきではないお金で、盗るのは義賊としての役目だって言ってました。金を返すのはしゃくだったんでしょう。捕まるまでに三日ありました。その間、彼なりに考えて役立つところに寄付したって言ってました」
「じゃ、手元には少しも残してないんですか」
「ええ、一銭も。全く何のためにやったのか…。あ、こんな言い方不謹慎ですよね」
「アサミさん、あなたはそれを信じてますか」
「ええ」
アサミは静寂ともいえる目を向けた。人生を知りつくしたようで、それでいて世間知らずのような不思議な目をしていた。
「彼は一体何のために事件を起こしたんですか?」
「最初はやはり、私と一緒になるためだったのかもしれません。夫が資産家でしたから、自分もある程度の金がなければ私と一緒になる資格がないとでも思ったようでした。桂は銀行員っていっても地方銀行の中途採用で、雑用のようなことしかしてないしお給料もエリートコースとは雲泥の差だと言ってました。誰も傷つけることなく、もちろん私にも知られず完全犯罪を決行するつもりでいたんです。私の踏ん切りの悪さがそうさせたわけですけど…。けれどそれだけの理由で人間あんな大それたことしないと思います。桂には危うい何かがあるって感じることがありました。計画が狂い、捕まるのは時間の問題になったとき、金を戻すよりどうせなら有効に…変な言い方でしょうか、有効に使いたいと思ったようです」
「それで寄付ですか…」
「ええ」
アサミはそれを信じている。
祥平は桂の少し語尾を引く癖のある話し方を思い出した。
トミさん、馬鹿とはさみは使いようっていうけど、違うね。馬鹿と金は使いようさ。ある馬鹿が金を盗って隠した。その金はちょっと曰くのある金でね。馬鹿は捕まって檻に閉じ込められるが、その間に馬鹿は考えるのさ。どうやって金を使おうか、どうやったら有意義に使えるか。もし、その金を意味ある使い方できたら、馬鹿は馬鹿でなくなるのさ。
桂はまだ金を持っている。どこかに隠している。祥平を信じて、馬鹿と金の話をした。
その話をした時、桂はそれまで見せたことのない顔をしていた。その時はカラカルには変身していなかった。その瞳が僅かに揺れて光っていた。あれが何だったのか祥平にはわからない。ただ、このアサミも知らないだろう桂の影の部分が揺らめいていたのかもしれない。
トミさんが出たら、きっと尾行がつくよ。僕がトミさんにしゃべったと思ってるのさ。身内でちょっと金が必要な事情があるのも事実だからね、家族への金渡しを誰かに頼むと思ってるのさ。ま、適当にエンジョイしてくれよ。いきなり地面を掘ったりしてみるのも面白いかもしれないな。そう言い、彼にしては珍しくむせるように笑った。
「あの、アサミさんはカラカルって知っていますか?」
「カラカル? 何ですか、それ」
アサミは知らないのだ。やはり自分は特殊か…。
「ちょっとすみません」
アサミが席を立った。その後ろ姿に思う。桂、おまえの方が幸せだぞ。出れるまでにしばらくあるとしてもさ。
「あちらからお移りになったんですね。コーヒーカップ新しいのお持ちいたしました」
さっきのアルバイトの子が、持ってきたコーヒーカップに新しくコーヒーをなみなみと注いでくれた。
しばらくしてアサミが戻ってきた。
祥平は目を見開いた。
アサミが両手で大きなケーキを持っている。デザートメニューに載っていたちっぽけなサービスケーキではなく、大きな見事な丸いケーキだ。祥平の体が硬くなる。いや心が硬くなる。硬くしなければ、自分の中で渦巻いた爆発寸前の感情が溢れ出る、そんな気がした。
アサミはゆっくりとケーキを祥平の前に置き、祥平の目を覗き込んだ。
「富岡さん、お誕生日おめでとうございます」
温かく静かな声だった。
「あ…」
ありがとう、は声にならなかった。
「お誕生日ならお店の人たち全員で歌を歌いましょうかって言われたんですけど、お断りしましたよ」
アサミはにっこりすると、マッチを擦りろうそくに火をつけた。大きめのろうそく四本、小さなろうそく二本、一本ずつ灯していく。
そして、祥平にだけ聞こえる小さな声で歌い始めた。
ハツピーバースデイ ツゥーユー
ハッピーバースデイ ツゥーユー
ハッピーバースデイ ディア しょうへいサン
ハッピーバースデイ ツゥーユー
少し音程の外れた、けれども優しい歌声だった。
祥平はおそるおそる火を消した。
大きいろうそくが一本だけしぶとく揺らめいていたが、それもなんとか消えた。
「願いを唱えましたか?」
「あ…」
「もう一度つけましょうか?」
アサミが再びマッチを擦ろうとする。
「い、いいですから…」
祥平はかすれた声で言った。いいですから、ほんとに…。
「はい」
アサミは手をとめた。
願いったってなんて言っていいかわからない…。
「さあ、食べましようか。ケーキなんて久しぶりだ」
祥平は陽気を装った声を出しながら、キャンドルを抜いた。大きいキャンドル四本、小さいキャンドル二本…。
最後の一本を抜きながら、祥平は心でつぶやいた。
ハッピーバースディ ツゥー........ミー......
商店街に入るといつもホッとする。古き良き街という、それこそ古くさい形容がよく似合う石畳の商店街。各停しかとまらぬ駅から南北に続くその商店街に入ると、夕暮れどき、人通りが多い時でも、自然に歩調がゆったりとなるのは不思議だ。この商店街の魅力だと思う。
この店も閉店か。以前は梅干し専門店があった。間口が2.5メートルほどの小さな店だった。一粒千円の梅干しもあった。上に金箔がのっていてどっしりとした柔らかそうな梅干しだった。深みのある色をしていた。
店員は愛想がなかったが、桂は2個セットを2000円で買って、アサミに渡した。アサミは微笑み、これなあに?というように四角い小さな包みをくるくる回してみた。
桂アキトにはフォトグラフィックメモリーがあった。一度見たものはその気になれば細部まで思い返すことができた。いつだったか自閉症のサバン症候群でフォトグラフィックメモリーを持っている青年のドキュメンタリーを見た。本の内容を一字一句違わず瞬時に覚えられるものもいれば、難解な式を一瞬で計算できるものもいる。見たものそっくりに細部まで絵を描けるものもいる。
アキトの記憶力はそれには及ばないが、その気になれば細部までかなり正確に思い起こすことができた。数学、化学、統計、物理、これらの理系科目において瞬時にて理解できるという特殊能力を持っていた。
ただ入試では失敗した。科目による差が大きすぎた。結果、中の中の国立に入った。大学だけは出て欲しいという母の願いにしたがった。アキトはすぐに自力で稼ぎたいと思っていたし、また稼ぐアイデアも湧いてきていた。そしてハッカー仲間では名が通っていた。しかし、母の手前、大学だけは卒業し、就職もした。
商店街が大きな基幹道路とぶつかる手前にあるペットショップ、そこでアサミと出会った。アキトは犬が好きだった。無口な店長は買う気がないアキトを好きなだけ居させてくれた。
アサミは銀行勤めだったが、土曜日だけ数時間、ペットショップを手伝っていた。あらゆる動物が好きだったのだ。
そのペットショップだった場所は今ではブランドもの買取の店に変わっている。そして「ペットショップのんた」はルネビルに移った。
アキトはルネビルのインテグリティグループの一員となった。
インテグリティに入るきっかけは刑務官の山岸だった。アキトと同じくレイヤー族だった山岸とは刑務官と受刑者の間柄だった。出所の日、彼は言った。「桂さんなら、お金には困らないでしょう。でも人間、道標なしではどんな賢者でも迷子になります。ここを訪れてみてください。あなたが住んでいた街にあります」
彼が差し出した紙に書かれていたのは
カフェ ハーヴィ
アキトがカフェ ハーヴィの鐘を鳴らしたのは、今から6年ほど前のことだった。銀髪の目の鋭い女性が5、6歳の女の子とスパゲティを食べていた。カウンターの向こうには緑色のエプロンをつけた、銀色の毛並みが美しいウルフ系レイヤー族がいた。
「いらっしゃい」
ソフトなテナーだった。
ルネビルのブルースカイ調査事務所。アキトは今ここのIT顧問として働いている。一般的調査案件も取り扱うが、インテグリティへのリクルーターも担っている。今はとにかく人材が必要だった。
ここ数年、人の意識下の差別と憎悪感情が増幅している。民族問題、宗教問題だけをとっても世界中のあらゆる地域で爆弾を抱えている。そこに今まで静かに内在していたレイヤー族の存在の顕在化が進んだら、どうなるのだろう。急に件数が増え出したメタモルフォーシス。メタ族への対応も急がれる。
刑務所でただ一人だけ友人になった男、冨岡はフィーラーだった。彼も山岸からカフェ ハーヴィのことを聞き、インテグリティの一員となった。ルネビルのテナントと必要に応じ個人事業主として契約を結び、いわば何でも屋的に動く。器用な男だ。自分の中に押し込めていたフィーラーとしての感性も鋭くなり、リクルーターとしても尽力している。人生において絶望感を味わった冨岡だが、今は男として、いや、人間として、いい顔をしているとアキトは思う。
冨岡とはしょっちゅう会うわけではないが、たまに見かけるとお互い敬礼するかのように額に手をあてる。その瞬間、ふっとほんの一瞬お互い口元が緩む。
アキトは今、アサミと雑種のジャスパーと暮らしている。彼らのためにも、世の中はより公平でより寛容でより優しくあってほしい。アキトは時折突き動かされるように祈る。祈る。そしてまた祈る。
ベランダには小さな蔦のプラントが置かれていた。蔦は灰色のマンションのベランダから垂れさがり、風に揺れていた。先端は枯れて茶色になっている葉もあった。
一瞬自分がどうしてここに立っているのかを忘れた。空白状態の頭で、蔦の葉をカッパの水かきのようだと思った。小さな鉢。小さな葉。並んで連なる水かきのような葉っぱ。蔦の先はひょろりと伸びて下がり、空中で揺れていた。巻きつくものも見つからず、ひょろりと揺れていた。壁にぶつかる微風に揺れていた。
なぜかそんな蔦に共感して僕は立っていた。
もっと素直に言おう。僕はしょんぼり立っていた。何とも頼りない気持ちで立っていた。ここまで抱えていた怒りやどうしようもない腹立ち、苛々がシュッと消えたような味気なさで立っていた。僕に残ったのはその蔓のような、頼りない、よりどころのない気持ちだった。
僕はズボンのポケットを探った。右手で右のポケットを、左手で左のポケットを探った。同時に左右対称の動作で探った。
左手に紙の感覚があった。取り出してみると探していたものではなく、何かのレシートだった。
本屋のレシートか…。日付は8月27日だった。8月27日…。暑い日だった。暑い暑い暑い日だった。朝と夕方、二度雨が降ったが、暑さは少しもやわらがなかった。
忘れようにも忘れられない日だった。その日を境に僕の時間は性格を変えた。カチッカチッと威勢よく響きながら両腕を大きく振りきっぱりと過ぎて行っていた時間は、その日を境にどんより糸を引きながら這うなんとも薄気味悪いものに姿を変えた。僕自身が時間の中でその得体の知れない物体のように過ぎていくのか、時間自体が僕の周りで過ぎていくのか、僕には区別がつかなかった。
塩を撒けたらどんなに楽だろう。昔祖母が威勢よく塩を撒いたように、パアッと。祖母にとっては消滅させるべく物体がはっきりしていた。壁に貼りついたナメクジども。僕も小さな手で塩を振りかけたものだ。手いっぱいに塩をつかみ、振りかけた。するとナメクジはしゅるしゅると小さくなった。
あの頃の僕には善と悪、美と醜がはっきりしていた。世の中はもっとシンプルだった。未知のことだらけにしてもシンプルだった。そして、まだ何かを「失う」という恐れも虚しさも知らなかった。
消滅させたい物体がはっきりしない今の僕には、どれだけの塩があっても役に立たない。コントロールを失った僕自身なのか、僕の周りで澱みながら過ぎてゆく時間なのか、それともあの蒸し暑い日を境に、僕の目の前から消えた京子の思い出なのか。京子そのものなのか…。今から会おうとしている男なのか。
本屋のレシートをくしゃっと丸めてポケットに戻し、右のポケットをもう一度探ったが、やはり何も手にあたらない。そこで胸ポケットを探ってみた。あった。ちぎってメモを書いたクリネックスの箱の一部。ハツキコーポ202とある。頭にしっかり貼りついている住所だったが、なぜかもう一度確かめたかった。
202。外階段で2階に上がり、2つ目のドアだった。僕は頭がくらっとして、階段を降り、再びベランダの蔦を見上げた。
ブルースカイ調査事務所のキツネから連絡があったのは朝5時半だった。わかったら真夜中でも時間に関係なく連絡してくれ、そう言う僕を、ほとんど無表情の目で見ていたキツネだったが、時間に関係なく連絡、の部分だけはしっかり聞いていたようだった。目が鋭く細面のこの男をキツネと心の中で呼んでいたが、決して醜いわけではなく、整った精悍な顔をしていた。キツネの部下は目の丸いキツネよりは若い男で、実際に動くのはこっちだろう。害のなさそうな雰囲気を全身から出している、どこといって特徴のない男だった。彼のような男こそ尾行や聞き込みの成功率が高いのかもしれない。キツネの横で、うなづきながら、僕の話を真摯な感じで聞いてくれていた。フリだけだったのかもしれないが。
そのキツネの声を聞きながら僕は携帯を握りしめ、二度ほど言ったのだ。わかりました、と。携帯を力いっぱい握りしめる僕の大きな四角い爪が巨大に見えた。
京子は僕の手が好きだった。特に僕の四角い爪が好きだった。ピキュリアーな爪をしている、彼女はそう言った。ピキュリアー、それは彼女がいともたやすく口にする横文字の一つだった。ピキュリアー…僕はしばらくの間、その意味を知らないままだった。何度か辞書で引こうとしたがスペルが分からなかった。だからカオルがピキュリアーと口にするたび、僕は不自然でない笑いを口元に浮かべるのに必死だった。
ピキュリアーがpeculiarだと教えてくれたのはマコトだ。海外教育組の彼は垢ぬけした顔の配置をしていた。留学帰りは顔の配置まで違うのかと思った。そのとき、京子はこんな顔の男との方が似合うのではないか、と思ったりした。
僕はpeculiarなものを考えてみた。たとえば、テレビのトークショーに出ていた監督のかぶっていた帽子。たとえば、前衛彫刻のようなウエディングケーキ。たとえば角のCDショップの店員の左右形が違う世紀末の武器のようなイアリング。たとえば…僕と京子の関係…。
キツネとの会話は一語一句はっきり覚えている。キツネのかすかな訛りのある息遣いすら。
これは確かな情報です。男について詳しいことはまだ調査中ですが、どんな僅かなことでもわかったら、たとえ夜中の何時であっても連絡するように、との言葉通り、電話をとりあえず差し上げました。
男について住所以外にわかったことはありませんか?
今のところ居場所だけです。その住所に行けば住んでいるのは、マルヤマリュウジロウという男とあなたの奥様のキョウコさんです。
わかりました…。
心を決めて2階に上がった。202号室の呼び鈴を押す指にためらいがあった。深呼吸をした。マルヤマリュウジロウの顔を想像してみた。帰国組のような整った顔か。マルヤマリュウジロウ…。なんとも間が抜けて聞こえる気もしたし、颯爽とした名前のようにも思えた。
ドアを前にして気がついた。自分がマルヤマリュウジロウに対しては意外なほど何の感情も持っていない、ということに。
不思議なことだった。京子の恋人だから憎いはずだろう。けれど、顔も体つきも職業も、何一つ情報がないのだ。マルヤマリュウジロウという名前以外。マルヤマリュウジロウ、マルヤマジュウジロウ、と繰り返しているうちに、アルマジロ、アルマジロと言いそうになり、バカバカしさに、ふん、と鼻を鳴らした。
心配と心労の中、真実がわかる直前、奇妙な安堵感と高揚が、交互に顔を見せることがある。怒涛のようなパニックと不安の間であらわれる不思議なユーフォリア。僕も一瞬だけど、すべてどうでもいい気がして心が解放される気すらした。それでもやはり緊張からか、呼吸は早かった。
呼び鈴を鳴らした。返答がない。もう一度鳴らす。留守なのか?
ドアに耳をつけると中でことこと音がするようだった。
ドアが開いて、姿を見せたのはひょろりと高い、長髪の男だった。
マルヤマさんですか?
あっ、そうです。
ちょっと話ができますか?
男は、あ、話ですか。と言い、ちょっと待って下さいと一旦ドアを閉めた。再び開けたときにはマスクをしていた。そして手にも一枚マスクを持ち、僕に差し出した。
すみません。どうも、ノロウィルスに感染しちゃったらしくて、けっこう胃腸症状がひどくて、体にもきちゃいまして…。うつったら大変ですから。
僕は改めて男を見た。マスクで顔半分が隠れてしまったが、眉と目元はすっきりしている。けれどなんとなくイメージしていた顔とは大きく違っていた。その顔はあっさりしすぎていた。ぼんやりとも言えた。
確かに男の顔色は悪かった。腰を少しかがめ気味なのも腹に力が入らないからかもしれない。
僕はマスクをつけた。そしてマスクつけたまま、京子の夫です、と言った。
男は目を丸くした。小さかった目が柴犬のようになり、あ、そうですか。そうですよね。と言った。
中に入っていいですか?
あ、構いませんが、ノロウィルスが…。
男を無視して、僕は2DKと見られる住みかに入っていった。ダイニングキッチンは狭くて、物が積み重なっている。二つあるドアのうち一つが開け放しになっており、そこには京子の送ったと思われる段ボールが3つばかりあった。中身が散在している。そこにあったのは京子の最近のおしゃれ着、バッグ、靴、などではなかった。古いトレーナーや昔の制服、手作りのように見えるぬいぐるみに古い手芸品や木彫りの人形。
京子は生活用品を持って出たのではなかった。自分の過去の思い出だけ箱に詰め込み出ていったのだ。
キッチンにしても部屋にしてもその荒れ方に僕は驚いた。僕たちのマンションはいつも整然としていた。
京子も病気なのか? 気配を感じないが、ここにいるのか?
京子も具合悪いんですか?
ええ、僕がうつしちゃったみたいなんですけど…。僕、看護師してますから、気をつけてるつもりなんですけど、ウィルスが強すぎたのか、彼女もかかっちゃって…。めったにこんなことないんですけど、今年は僕の免疫力も下がってたみたいで、キョウコさんにもうつしてしまったんです。僕より症状がひどくて、点滴もした方がいいと思うんですが、大丈夫だってけっこう頑固なものですから。本当にすみません。
男は、京子を僕から奪ったことより、京子にノロウィルスをうつしたことを真剣に謝っていた。僕は振り上げた拳を下ろせないでいた。いや、もともと振り上げてもいなかったのかもしれない。
で、京子は?
トイレです。上からも下からも出ちゃって脱水状態なので、心配しているんです。
マスクをつけているのが原因でもないのだろうが、なんだか息苦しくなった。この展開は何なのだ…。
ノロウィルスって空気感染しないはずじゃありませんでしたっけ? 僕は聞いた。
ええ、ノロウイルスは埃にのって漂い、口に入ると感染するんです。だから、患者の触ったものを触らなければいいっていう人もいますが、それは間違いなんです。
マルヤマは男にしては高い声で、弱々しげに言ったが、病気だからというより、もともとそんな話し方なのだろう。
トイレを流す音がした。男は、キョウコちゃん、大丈夫? ご主人が来てるよ。とそっと戸に口を当てるようにして言った。
あの~、宅急便が来てるんだけど、とでも言う口調に僕はむかっときた。
中からは声がしなかったが、数分後に、京子が胃と腹を押さえて出てきた。
ほら、キョウコちゃんもマスクして、男はマスクを差しだした。
京子はマスクを持ったまま、もう一つの閉じていたドアを開けながら、ごめん、横にならせてもらうわ、と言って、青白い顔で腰を曲げながら、ベッドルームに入っていった。
ベッドの周りには服や本やスナックなどが散らばっていた。
大丈夫かい? 点滴した方がいいんじゃないか? 僕は言った。
まだ、大丈夫。吐き気がとまらないようだったら、点滴に行かなきゃね。タイミングはリュウジンがついてるから大丈夫。
うん。思わず、それはよかったと言いそうになった。
ポカリスエットがきれちゃって…。濃度の高いイオンバランスの飲み物が薬局で買えるんですよ。ちょっと出かけますが、一緒に行きませんか。どこかでお話も聞けますし。それとも、カオルさんと話しますか?
ごめん、私、今、話せない。ごめんね。だるくて痛くて、もうぎりぎり。
なんで出てったきり連絡もしないんだよ。心配しないでって書き置きすればいいってもんじゃないだろ。僕は何度も心で繰り返していた言葉を結局言えず、じゃ、病院いけよって強めに言った。
行くわよ。そのうち。
彼女は弱々しく言った。消えそうに小さな声だった。
僕とマルヤマは、カフェに入った。カウンターとテーブル席が4つばかりの小さな店だ。
丸いテーブルだけが、パリのサイドカフェしてる一昔前の趣の店だった。オーナーなのだろうか、緑色のエプロンをつけた銀髪の小柄な男が、マルヤマに、久しぶりですね、と声をかけた。そして僕に、こんな日は強いコーヒーも悪くないですね、と僅かばかり微笑んだ。僕はなぜか、全ての事情を彼に悟られてしまった気がした。僕はハウスブレンド、マルヤマはカモミールティをオーダーした。
マルヤマは僕を真っ直ぐに見た。ご心配かけて申し訳ありませんでした。深々と頭を下げた。膝に両手をのせている。
ご心配かけて、っていうのは表現が違うだろ、と思ったが、黙ってうなづいた。
僕が看護師をしている病院の売店にキョウコさんが来て、休み時間とかに話すようになって、結構興味とか読んでる本とか、共通点があって、なんだか、きょうだいみたいに居心地いいねって笑ったりするようになって…で、お付き合いとかしていないんですが、ある日、キョウコさんが荷物を持ってうちに来たんです。
何も約束もしないのに突然に?
ええ、突然でした。なんだか、すごーく疲れたって言って、しばらく置いてほしいっていったんです。
何にそんなに疲れたって言いましたか?
僕は聞きながら、驚いていた。京子は突然置き手紙を置いて家を出た。どこへ行くかも書いてなかった。
熱にうかされたような恋をしたのか、歳をとっていくことに対する焦りで魔がさしたのか、平凡な僕がつまらなくなったのか…いろいろ原因を考えた。
しかし、疲れていたっていうのは驚きだった。
今、この男のアパートの乱雑な空間に住んでいるのだ。京子と僕のマンションは品よくイタリアンモチーフに北欧のシンプリシティを取り入れ、それは居心地のいい空間のはずだった。整理が苦手なの、という度に、僕は君はやればできるさ、と言った。そして出来たときは、ほら君はやればできるんだ、と褒めた。
何にそんなに疲れたんでしょうか。
僕が思いますに、男は膝に手をのせたまま言った。木谷さんとの生活じゃないかなって思うんです。キョウコさんの話からは木谷さんは正義感に満ちた、物事をきっちりこなしていく、計画性も常識もあり、博識で、とてもいい方だということがわかりました。でも、キョウコさんは木谷さんの奥さんならこれくらいはすべきだっていう、きちんと主婦するっていうのを、自分でも気づかないうちに無理してやろうとしてたんですね。だから、家に入ろうとするとひどく動悸がする、とか不安になる、とか言っていました。
そんなことを…言っていましたか。
僕は、ずぼらですから、筋ってものがなくふらふらしてますし、あ、もちろん看護師の仕事の時は責任感を持ってしっかりやってますけど、その他のときはこっちにふらふらあっちにふらふら風に吹かれる雑草のごとくです。このいい加減なところがキョウコさんは気が楽で、まあ話が合うってこともありますが…避難所として僕のところを選んだんじゃないでしょうか。
じゃ、マルヤマさんは単に泊めているだけだというんですか。
僕は、キョウコが案外民宿がわりに使っているだけだったら、と少し期待を持った。
男はうつむいた。マスクをしたままうつむいた。
最初は、同じベッドで寝ていても、きょうだいのように、添い寝っていいますか、そんな感じで、それ以上はありませんでした。けっこう長い間です。でも、正直に申しあげて今は違います。あ、ノロウィルスにかかるちょっと前くらいからのことなんですが。
僕は溜息をついた。怒れたらどんなにいいだろう。罵倒できたらどんなにすっきりするだろう。人間としての常識をとくべきか、いかに二人の行動が僕をふみにじったかを言いきかせるべきか…いろんな思いがあったのに、どれも実行する気にはならなかった。
それより男の言うことが本当ならば、非は自分にある気がした。謝らなければいけないのは自分なのか。
京子はお宅ではどんな様子ですか? 家事とかもするんですか?
あ、まったくしないです。でも、それで、僕は構いません。キョウコさん、今はリハビリの時期だと思うんです。
じゃ、これからどうするべきですか。
今度は男を心理リハビリ士として扱っている自分に呆れた。
ストレスをかけないように、見守ることでしょうか。まずは感染症を治さないと。健全な体があっての心ですから。
そうですね…。僕は苦いコーヒーを飲みほした。
僕の携帯の番号です。いつでもご連絡下さい。勤務中はとれないことありますけど、留守電残せますから。こちらからもキョウコさんの様子ご報告しましょうか。
そうですね。お願いします。
僕は頭を下げながら、やっぱなんかちがうんじゃないかって思った。
僕は自分の番号を教えた。
で、マルヤマさんはこれからどうするつもりですか? キョウコとのこと。キョウコのこと好きですか?
好きです。自然体のキョウコさんが好きです。今のままのキョウコさんが好きです。
ぼんやり顔のマルヤマが少しきりっとなった。
京子はマルヤマさんのこと真剣に好きなのでしょうか。
好きかどうか本人でなければわかりませんが、僕といると楽なのだと思います。僕はキョウコさんが嬉しそうな笑顔を見せたり、ちょっと様子がよかったりすると、本当に嬉しいんで。単なる少し見かけがいい女の人がおしかけてきたから、調子に乗って利用している、なんてこと決してありません。これからふたりで話し合って決めていきたいと思います。木谷さんには本当にご心配をおかけしたと思います。申し訳ありませんでした。
マルヤマはテーブルにつくほど頭を下げた。
わかりました。
僕は大きく息を吐いた。マルヤマが穏やかな目で僕を見ていた。相変わらず顔色は悪い。ティを飲むときも、マスクの下をわずかにあけてすするように飲んでいる。
勝ち組ではないかもしれないが、よい男なのだろう。いやそもそも、勝ち組、負け組って一体、誰が何の基準で決めるんだ。マルヤマはマルヤマらしく生きているというスケールでは勝ち組なのかもしれない。
カフェを出ると、じゃ、僕、薬局に行きますから、というマルヤマに、よろしくお願いします、と頭を下げた。以前、母を介護ヘルパーに頼んだ時の気持ちに似ていた。
僕は京子を疲れさせたのだ。ぼくはきちんとするのを好んだから。物はあるべきところにないと落ち着かない。食器の入れ場所が違っていると注意しているつもりはないけれど、口にした。京子はその度、そうね、ひろ君、気をつけるわね、と言った。プレゼントもし、ときどきディナーにも行った。でも確かに京子は少しずつ元気がなくなっていた。
ちょっとしらばく家を出ます。心配しないで下さい。探さないで下さいね。ちょっとリハビリが必要です。
なんのリハビリかと思った。ドラッグとアルコールは考えられなった。だから、恋人ができたんだと思った。
僕はもう一度ハツキコーポに戻り、京子が腹痛で寝ているだろう2階の部屋、2階のバルコニーを見上げた。蔦は相変わらず風に揺れていた。あの蔦、自分かと思ったけど、京子だったんだ。
どこかくっつくところ見つけられるといい、足場が見つかるといい…ぼんやりそう思った。
蔦だった京子を季節になると花を咲かせる観賞用植物と勘違いしていたのかもしれない。京子は随分長い間僕に合わせてくれていたのだ。やればできるじゃないか、の言葉がどれほどプレッシャーになっていたのだろう。
もう、京子は戻ってこない。
僕は仕事もそこそこうまくこなしているし、友人もいる。京子が戻らなくても、持ち前のきっちり度で生活に大きな変化はないのかもしれない。
僕にとって京子はそこまで必要じゃなかったのかもしれない。恋愛結婚だったしいないと淋しい。京子は優しく、よい人間だった。英語は出来たが、勤めは長く続かなかった。どこかふわふわ、時おり落ち込んだ。僕にとって京子はいて当然だったが、京子にとって僕は一緒にいて心地よい存在じゃなかったのだ。だから、京子の精神は揺らいだ。その結果、非難所がマルヤマの家だったってわけだ。
早く治るといい。マルヤマとは連絡を取り合おう。蔦の行く先はどこなのか。あのアパートに根をはるならそれでもいい、僕にもう一度からませてくれるなら、それは凄く嬉しい。けれどもうそれはないだろう。けれど、二度目のチャンスがあるなら、僕はもう二度と、やればできるじゃないか、なんて言わない。彼女を見てただただ微笑もう。僕だってやればできるんだ。あ、今度は自分に言っている。人間、やればできることだけじゃないはずだ。でもまあ、それはそれでいいだろう。僕はこれで頑張ってきたわけだし。
僕はハズキコーポを後にゆっくり歩き始めたが、ふっと振り返った。誰かに見られている気がしたのだ。いや、見守られている気か…。
誰だ…? しかし誰もいなかった。
不思議な、とても不思議なことなのだが、キツネ、丸山、そしてさっきのカフェのマスター、何故かこの何の繋がりもない三人が僕を見守っている気がした。まさに藁にでもすがりたいくらい、僕はよりどころを失っているってわけか。ただ人が放つ静かな佇まいというのがあるなら、今回の京子の蒸発を通じて感じたのかもしれない。キツネから。丸山から。カフェのマスターから。
empathy...
英語が苦手なはずの僕に浮かんできたこの単語。日本語で言うと何だっけ。共感? 共感か。いや、ちょっとニュアンスが違うか…。
そうだ。そうだ。そうだった。いつか、京子が教えてくれた。今、人に必要なのってempathyよね。日本で言う単なる共感っていうのじゃないのよ。empathyってもっと心の中心、奥底からわいてくる感情だと思うの。今、私たちに必要なのってempathyよね。
僕はどう答えたんだろう。一体何の話をしていた時に京子は言いだしたんだろう。はあ?とでも答えたんだろうか。
丸山からの連絡を待とう。こちらからも丸山に電話しよう。そして二人が早く良くなることを祈ろう。そして、またあのカフェに行ってみるのも悪くないかもしれない。あのハウスブレンドのコーヒーを頼もう。苦かったコーヒーだが、コクがあったし悪くなかったのかもしれない。