カラーンと音をたて磁石が床に転がった。ボタンのようなプラスティックのついたその磁石、ワインを買ったとき、サービスでついてきた。「磁石になってますから、写真でもメモでも冷蔵庫にくっつけたりするのに便利です」バイトらしきその子は人懐っこく笑い、赤、黄、青、三つの磁石を私の手のひらにころんとのせた。片手におつり、片手に磁石、どうしたものかと戸惑ったのを覚えている。

 ボタン状の磁石、冷蔵庫に近づけるとペタッともカチッともいえぬ音をたてて威勢よく貼りついた。赤、黄、青、信号のように三つ並べた。長い間、何も挟まずにそのままにしておいたが、エリーから写真が三枚送られてきたとき、思い出した。

 一枚目は赤の磁石で貼り付けた。ファミリーレストランで撮ったエリーとサチの写真。窓から入る光が二人に降り注ぎ、エリーは高い高いをしてサチを抱え上げ、弾けたように笑っている。

 二枚目は黄色の磁石で。赤い髪飾りをつけたサチのクローズアップ。口をすぼめた表情が愛らしい。

 三枚目は青の磁石。プールサイドのテーブルの上に寝かされたサチの写真。目をつぶったまま両手をパアッと開いている。

 磁石と共にキッチンフロアに落ちたのは、その三枚目の写真だった。

 私は写真を拾い上げ、キッチンテーブルの上に置いた。

 おーい、ここに置いた茶封筒知らないか? リビングでデニスが呼んだ。さあぁ、答えながら、その写真の中の大きく開いたサチの手を見つめた。

 デニスがやってきてプシューと缶ビールを開ける。少し薄くなった髪をかき上げ、写真を取り上げ、「幾つだったっけ?」と聞いた。

「今、二才とちょっとかな。大きくなってると思うわ」

「父親似だよな」

「そう? 目はエリー似じゃない?」

「ふん…」

 デニスは急に興味を失って欠伸をしてビールをごくりと飲んだ。髭についたビールの泡がプシュンと弾けた。手の甲で口を拭きながら出ていくその後ろ姿、また、一回り大きくなったようだ。

 私は椅子に腰を下ろし、テーブルに置いた写真に目を近づけたり離したりしてみるが、目の焦点が合うようには頭の焦点は合わなかった。




 はい笑って! エリーが言う。サチは口をきっと閉じ、少し不機嫌な顔をする。はい、サチ笑って!サチ笑ってよ! やっとのことで口元が緩み、柔らかな表情になる。

 二年前の夏、三人でプールに行った。交替でサチを見ながら、エリーと私は代わる代わるプールに浮かんだ。目を閉じ、背中で浮かんだ。瞼に光が弾け、目を開けると一面の光だった。
 
 太陽は真上にあった。目を細めると太陽の輪郭が ぼんやり見えた。パシャパシャパシャ…目にしぶきが入るたび、太陽は気ままに細胞分裂を繰り返す。青い空だと思った。できすぎたような青い空だと。浮かびながら空の数を数えた。イチ、二、サン、シ…空は八つに仕切られていた。灰色のフレームがガラスの屋根を仕切っていた。

 パシャパシャパシャ……隣を男が泳いでいく。レイモンドかレスリーかウェスリーか、エリーの顔見知りの男はそんな名だった。笑うと顔の部品がくしゃっと真ん中により、老けているのか若いのかわからなくなった。その男がパシャパシャパシャ、水を跳ね上げ、泳いでいく。ぜいぜいぜい…ぜいぜいぜい…水面に息をエコーさせながら。

 市民プール。木曜の昼を少し回ったばかりの閑散とした市民プール。ガラスでできている屋根の他は何の取り柄もない屋内プール。そこに立てられた波模様の二つのパラソルが妙に場違いで…。そのプールでエリーは、サチの生まれる二日前まで泳いだという。大きなお腹をゆらりゆらり、水に浮かせて。
 
「水に入るとね、ふわっと軽くなるの。体だけじゃなくってね、すべての重圧がよ」

 重圧を軽くさせるため、エリーは味気ない市民プールで、来る日も来る日も泳いだ。自分の中にサチを浮かせ、自分はプールに浮かんだ。十五キロはしっかり増えたの、という体をプールに浮かせた。

 そして、あの日、私もプールに浮かんでいた。私の中にも生があった。私も小さな生も水の中だった。

 水に入るとね、ふわっと軽くなるのよ。体だけじゃなくってね、すべての、すべての重圧がなの…その言葉が私の中でゆらりと揺れた。




 エリーは髪も瞳も黒かった。イタリア系アメリカ人を父に、日系二世を母に持つ小柄で浅黒いエリーはお世辞にも目立つ容姿とは言えなかった。キャンパスでは気のいいエリーと言われ続け、ビューティフルエリー、プリティエリー、とは縁がなかった。

 エリーというのはミドルネームで、ファーストネームはスーザンだった。彼女はミドルネームで呼ばれるのを好んだ。日本語はほとんど話せなかったし 、もちろん書く方はてんで駄目だったけれど、自分の名前、恵理衣だけはきちんと書けた。彼女が三つの感字をけっこうバランスよく並べて書いてみせたとき、私は少なからず驚いた。

 クイックイッ…エリーは水と一体化して泳いだ。頭だけ水面から上げ、滑るように泳いだ。

 「水に入ってるとね、お尻が大きすぎるのわからないでしよ」ククッと笑い、すぐに少し真剣な眼差しでこう言った。「水ってのはね、すべてを和らげるのよね。大き過ぎるものは小さく、重いものは軽く、醜いものは美しく…」

 二人でキャンパスの近くの湖に泳ぎに行ったことがある。エリーは水に潜ったまま長い間出てこなかった。あまりの長さに私がパニックに陥ったとき、ザパッ!と潔い音とともに勢いよく水面から頭を出した。夕陽に照らされた大きな丸い目が輝いていた。

 うわあ…アザラシの赤ちゃんみたい…。ポスターで人気ものの何とかってアザラシの赤ちゃん…。真っ白なつるりとした輪郭の中でまあるい二つの目が光っているアザラシの赤ちゃん…。そのときのエリーはそんな目をしていた。私はなぜかひどく感動した。涙が出てきた。エリーに幸が訪れますように、私は祈った。

 エリーとは大学の寮でルームメイトになって以来の付き合いだ。時にエキセントリックな行動をしたが、とても温かい人間だった。その温かさが異国の地にいる私には心地よく、ありがたかった。笑うと三倍になる口、濃いまつげに縁取られた丸い目、つるりと赤ん坊のようなおでこ…その優しい表情が好きだった。

 卒業して会う回数がめっきり減ってからも、水面にザパッと頭だけ出したエリーをよく思い出した。するととても優しい気持ちになれた。少々落ち込んでいても心が和らいだ。春の陽射しに心の水たまりが少しだけ揺らめいて、水面に小さな泡がぷつぷつできる…そんな気持ちになれた。エリーには懐かしい「陽」の匂いがあった。

 エリーは男運が悪かった。エリーの優しさを男たちは理解しようとせず利用した。彼女との関係には緊張感がないんだよ、そう言った男がいる。確かにエリーは男女間の「ゲーム」のタクティックスに欠けていた。駆け引きをしながら自分の魅力を最大限に見せるなんて思いもしなかった。それをいいことに男たちは利用するだけ利用すると、早送りのアクション映画の慌ただしさで去っていった。エリーを気のいいだけの退屈な女と決め込み去っていった。

 そんな男たちには一つの共通点があった。それは「コーティング」のわざだ。「ずるさ」を優しさで「コーティング]してみせるわざ。それが皆そろってあまりにうまかったものだから、一見エリーに劣らずピュアな人間に見えた。勘のいい者なら「ずるさ」が棘のようにあちこちに出ているのに気づいただろうが、エリーには自分にとって損な人間を見分ける能力が欠けていた。ウィルスへの抵抗力がないものが病にふすように、その能力を欠いたため、彼女はいつも損な役割を強いられた。無理もない。自分の中に「ずるさ」のないエリーは他人のずるさに気づきようがなかった。手を差し出されれば手を差し出し、微笑みかけられれば微笑み返す…エリーの無条件の優しさ…その優しさを誰一人高く抱いて愛おしむことなく、去っていった。

 その度にエリーは泣いた。愚かだったと泣いた。そのとおりよ、もっと気をつけなければ、と私は言い、付け加えたものだ。あなたは人が良すぎるのよ、と。

 人が良すぎる、思えば不思議な表現だ。良すぎて損をするなんておかしいはず…。けれど、この世の人間のずるさの平均に達しないエリーは、人が良すぎるという結果に陥り、アザラシの子に似た大きな目から涙を流す羽目になった。

 エリーと比べ、私は男たちとの付き合いにうまく対処してきた。人にだまされるくらいならだましたい、ずっと思ってきた。傷つくのが恐かった。利用されるのが恐かった。自分には手が届かないと思える男、自分に興味を示すはずがない、と思える男からは目をそらした。

  小さい頃から、しっかりしてはいた。でも夢少なき子だったと思う。理想と現実をしっかり把握していた。でも面白味のない子だったと思う。その性格はボーイフレンド選びにも反映した。二、三、試行錯誤はしたが、確率はひどくよく、自分に興味をもつ男たちをきちんと見分け、その中で一番良さそうなのを選んだ。デニスだ。彼はルックスもよく、比較的穏やかな性格で、何より私をえらく気に入っていた。

 彼とは寮のパーティで知り合った。心が膨らんでポーンと体ごと宙に浮かんでしまいそう、そこまで気持ちは盛り上がらなかったにしても、恋に彩られ、すべてが光輝いて見えた時期もあった。ポップコーンを食べる指先、サングラスを人差し指で押し上げる横顔、ボンバージャケットからはみ出したタータンチェックのシャツ、かかとを摺るように歩くスニーカー、無造作にカールした長めの髪…。顎はまだ二重ではなく、はにかみの表情が得意だった。

 一つ一つのときめきはたわいないもので、ほんの一過性のときめき、アイスクリームトッピングのようなものだった。私たちからそんなアイスクリームトッピングの時代が過ぎ去って久しい。

 結婚して四年目の秋、私とデニスとの関係に変化が訪れた。きっかけは私の妊娠だった。




 エリーに会いに行ったのは、安定期に入りしばらく経った時だ。最初の二日間はほとんどエリーのアパートにこもって話をした。話は尽きずどれだけ時間があっても足りないように思われた。エリーが話し、私が聞いた。私が話し、エリーが聞いた。笑い、泣き、サチにミルクをやり、語り、笑い、泣き、サチにミルクをやり、笑い、泣き、歌を歌った。何年かぶりに私はリラックスした。心からうちとけて話をした。

 三日目になると、私たちは少し落ち着いた。ゆったりした沈黙が心地よかった。そうだ、泳ぎにいかない、エリーが言った。えっ、泳ぐってどこに? 近くにプールがあるのよ、市民プールが。市民プール?

 そんなわけでサチをつれて、私たちは市民プールへやってきた。八つに仕切られた空を持つ市民プールに。その日は初夏にしては気温が上がらなかったが、室内プールの水は温かく、心地よかった。

 プールから上がったエリーはプールサイドのパラソルの下でハミングしていた。テーブルの上にサチを寝かせ、その手を握って何やらハミングしていた。

 サチは半分目をつぶり、うとうとしていた。エリーが離すと、その手は花びらが開くようにふわりと開いた。小さな手だった。頼りないほど小さな手だった。私はその小さな指先にそっと触れた。

 もうすぐ女の子が生まれるの。名付け親になってよ。サチが生れる数日前にエリーは電話をかけてきた。私は電話口で唖然とした。エリーがママに? サムどうしてるの? 疑問が頭に飛び交ったが、結局、何も聞かなかった。エリーが私に名付け親になってくれと言っている、その事実だけで十分じゃない、そう思ったのだ。

 子供の父親はやはりサムだった。結婚していたのだから当然といえば当然のこと。けれど、私にはサムがエリーの子供に父親になる、というのがどうにも釈然としなかった。

 サムは細身のハンサムで手足が長かった。初めてサムを見たとき、彼はエリーの肩に手を回していた。その手が妙に長く見え、エリーにまとわりついているように感じた。サムはどこか媚びるように話し、笑う声は一オクターブ高くなった。この男も彼女を利用しようとしている、私は恐れた。サムの目はエリーに負けないくらい丸くて大きかったが、その目は決してエリーのようなアザラシの赤ちゃんの目にはなれないと感じた。

 私がデニスと結婚して半年も経たない頃、エリーもサムと結婚した。二人はエリーの母親の住むオハイオのシンシナティで小さなセレモニーを挙げた。親しい者だけが集まった手作りの式だった。胸元に花の刺繍のある白いウェディングドレスを着たエリーは、とても穏やかな顔をしていた。優しい笑顔だった。彼女の幼馴染み三人がそれぞれの夫を連れ、出席していた。類は友を呼ぶのか、みな清々しい目をしていた。けれどやはりエリーの目は逸品だった。

 エリーの結婚はやはりうまくいくはずない結婚だった。サムはある理由があって結婚を望んでいたのだ。私がそれを確信したときはすでに遅かった。

 妊娠を知ったとき、エリーは嘆願した。もう少し腰を落ち着けてちょうだいと。オー、オーケイ、サムは間延びしたように答えたという。数ヶ月後、急用が出来たとメッセージを残し、サムは消えた。エリーのお腹はどんどん大きくなり、そのお腹を抱え、彼女は市民プールに浮かんだ。水に入るとね、軽くなるような気がするの。体だけじゃないのよ。全てが、全ての重圧がよ。

 サ厶がいなくなり、エリーはとてもナーバスになった。どうして? どうして? どうして私っていつもこうなの? くらくらするまで考え続け、ギリギリギリと神経が巻かれ、巻かれる神経もなくなったとき、パキュッと自分の正気が弾けとぶ、そんな気がしたという。

「けどね、それもサチが生まれる一週間前までだったの」にっこり笑ってエリーは言った。
 
「あるとき突然ね、一日一日、ううん、一刻一刻と巻かれていた神経のコイルがシュルシュルシュルと緩んで、脱力感が体に広がったのよ。脱力感というより諦め、諦めというより諦めに似た悟りだったわね」

 サムが子を宿した自分をいとも簡単に捨てた、というその事実、それにどうもがいても直面せざるを得なくなったとき、エリーは脱力した。

 生まれてくるエリーの子供のため、私は三つ名前を考えた。そして最終決定をエリーにゆだね、責任を回避した。シンシアとヴィクトリア、最初の二つは割と簡単に決まった。三つ目をと、いくつか考えたが、どれもぴんとこなかった。そこで私は生まれてくる子の顔を想像してみた。その子がサムの目でなくエリーの目を、サムの心でなくエリーの心をもって生まれることを祈った。すると一つのフレーズが浮かんできた。

 ここに幸あり。

 その響きは祈りに似た希望をもたらした。ここに幸あり…そうだ、サチにしよう、そう決めながら、ここに幸ありのここってどこだろう、と考えた。

 シンシア、ヴィクトリア、サチ、と三つの名を告げたとき、エリーは「シャチ」と聞き返した。受話器を握り首を傾けてる彼女が見えた。「サチよ」と言うと、「シャ…サチ、サチ」何度か繰り返し、「どういう意味?」と聞いた。「ハピネス」と答えると、エリーはしばらく黙っていた。エリーを怒らせたのではないか、そんな気がして私はどきりとした。けれどエリーは言ったのだ。「それに決まりね」

 エリーがバックパックから哺乳ビンを取り出しながら聞いた。

「つわりはあったの?」

「少しね」

「食は進むの?」

「今はね、でもなぜか肉が食べれなくなったの。おかげで草食動物のような生活よ。牛乳はできるだけ飲むようにしてるんだけど」

 そのとき私はエリーに話してみたくなった。妊娠して以来、感じているあることを。エリーならわかってくれる、そう感じた。

「エリー、あたしね、自分が変化してるって感じるの」
 
「そりゃそうでしよ」
 
「ううん、外見や体の変化だけじゃないの」
 
「うん?」
 
「うん、どう言ったらいいのかな」

 変化はゆっくりと訪れた。最初はわからないくらいの変化だった。名づけがたい変化だった。窓の外で葉がかさりと鳴るくらいの何気なさだった。けれど、それは次第に私に入り込み、そして染み込んだ。

 まず攻撃的だといわれた私の運転が変わった。後ろから急かされるのでもない限り、制限時速を超えて運転することはなくなったし、突然入り込んでくる無礼ものの車に立て続けにクラクションを鳴らしたりもなくなった。そんな私をデニスはどこかスローになった、と言った。

 それから、物思いにふけることが多くなった。考え込むというより「憂い」…そして「恐れ」だ。

 最初は何を恐れているのかわからなかった。次第に漠然とながら死を恐れているのかもしれないと思った。車に跳ねられた老婦人、池で溺死した子供、連続殺人の犠牲者、遠い国での戦死者…全てのニュースに敏感に反応した。
 
「死は誰でも恐いものよ」
 
「そうね。でも、そのうち恐れているのは死というよりあるものに対してだって気がついたの」
 
「あるもの?」
 
「そう」
 
「何?」
 
「残虐…さ…とでもいうのかしら」
 
「残虐?」
 
「そう…。人の中に見え隠れする残虐性…そして攻撃性…」

 私はデニスの中の攻撃性にも敏感になった。

 デニスがリビングでテレビを見ていた。以前アメリカがある国を攻撃をしたときの映像が映し出され…。空軍が空から攻撃している様子が映し出される。花火のように夜空に光が弾けている。デニスは拳をつくり、スポーツ観戦ののりと熱気で画面に食いついて見ている。

 いけ!いけ!いけ! デニスが言っているように感じた。その横顔…。それは、以前よく彼と行ったアメフトの試合のときの顔と同じはずだった。スクールカラーに合わせての声援。青、いけえ! 緑、いけえ! 青、いけえ! 緑、いけえ! 敵の応接団に負けじとばかり声を張り上ける。青なんてくそくらえだ! やっちまえぇ! 荒々しい言葉の投げ合いもゲームを盛り上げる小遊具で…。

 ビデオゲームさながらの爆撃の様子を見ながらテレビを見ているデニスと、緑、いけえ!と叫んでいた彼は、長い睫毛もこめかみにうっすら浮かんだ血管も同じはずだった。けれど、そのときのデニスが全く見知らぬ男に思えた。 

 私は無言でサイドテーブルにあったビールの缶をつぶした。ビールが少し手の甲にこぼれた。私はリビングを出たが、急な吐き気におそわれた。ひどく汚いものが胃に流れこんだ、そんな感じがしてバスルームに駆け込んだ。どうしたのよ、自分に苛立ちながら顔を上げると、鏡に映った私の顔はひどく青ざめていた。

 少しずつデニスと私の関係は変わっていった。それまでは気にならなかったデニスの行動が気になりだした。たとえばバーでの隣のテーブルの男とデニスの何気ない口論。次第にエスカレートしていき、二人は声を荒げる。今にもつかみあいを始めそうになる。気がつくと私は叫んでいた。やめて!やめて!やめてちょうだいよ! デニスは唖然と私を見た。白けたように私を見た。
 
「それって感情を抑えられなくなったってことかしら」
 
「そう言ってしまえばそれまでのことだけど…」
 
「男ってのはね、理解しがたいのよ、どっちにしたって」

 私はハリーのことも話した。
 
「あたしたちのアパートの隣にハリーってちょっと不気味な男が住んでるの。少なくとも不気味な男だって、ここ数年思ってたの」
 
「ハリー?」
 
「そう。何と名前がハリー・カラハン。クリントイーストウッドのダーティハリーの刑事の名前と同じなのよ」
 
「そのハリーさんがどうしたの?」
 
「うん、彼、ダーティハリーとは似ても似つかぬ容貌でね。痩せてて、猫背で、小さな声でぼそぼそ話すの」
 
「奥さんは?」
 
「結婚したことあるのかな。今は一人よ」

 そのハリーがある日、買い物から帰ってきた私に声をかけた。お茶でも飲みに来ませんか?と。ヘエッ? 私はびっくりして、ハリーを見た。隣同志になって三年、挨拶以外、話などしたことなかったのだ。私は誘われるまま、ハリーの部屋に入った。なぜか不思議な力が働くようで、それまで薄気味悪いと思っていたハリーの部屋に何の抵抗もなく入ったのだ。

 部屋にはたくさんのプラントがあり、まるで小さなジャングルに入り込んだようだった。水々しい葉が部屋中に広がっている。テーブルの上には金魚鉢があった。その中にはメダカのような、どう見ても冴えない魚が数匹泳いでいた。

 ハリーはジャスミンティを入れてくれた。一口すすると、ハリーがのぞき込んでいるのに気づき、どうかしましたか?私は聞いた。どうかしましたか、と聞きたいのは僕の方ですよ、ハリーは微笑んだ。不気味だとしか思えなかったハリーが泣きたいほど優しい目をして私を見ていた。

「顔色がよくなくて何だか思いつめてるみたいでしたよ、ってハリーは言ったの。ああ、それでお茶を入れてくれたのねって…とてもありがたかったわ。その時、彼といてあたし、妙な安らぎを感じたの。それまでだったら決して感じることできなかった安らぎをよ。背びれのがたがたのちっぽけな魚見ながら、ハリーカラハンなんて似つかわしくない名を持つ男…それまで幽霊みたいって敬遠してた男の入れてくれるジャスミンティ飲みながら、あたしとても温かい気持ちになってたの。ハリーの静かな優しさってのは、なんだか、植物や水が持ってるようなそんな優しさでね…それがあたしには何よりの安らぎだったの。わかるかしら」

「うん…」
 
「わからないかしらね。あたし、何だかちょっと恐いの。自分らしくない自分が恐いの。自分の価値観や好き嫌いをも変えてしまうような変化が少しずつ自分の中で起こってるって何だか恐いの」

 わかるわよ、というようにエリーは頷いたが、少し困った様子だった。

 その時、ハリーが一瞬不思議な外見に変化したことも言いたかったが、言えなかった。私の精神状態をエリーに心配させてしまうと思ったのだ。

 一瞬だったけれど、ハリーが薄灰色のとても痩せた馬とラクダの中間の顔に見えた。体のバランスも一般的人間とは違って見えた。背がとても高くなり、手と肘と関節の感じがどうにも不思議に形作られていた。

 けれど、ちっとも怖くなかった。何度か私の見る角度によって、ハリーは姿を変えた。少なくともそんな気がした。昔、お菓子のおまけについていた光る絵。角度によって違う絵が浮かび上がる。そんな感じが現実目の前で起こったのに、怖くなかった。自分の精神状態も疑わなかった。それどころか、とても心が静かだった。野原で柔らかい風を浴びている時、目の前に野生の馬が静かに歩いて来て止まって私を見た。そんな不思議な瞬間があったら、感じただろう静けさだった。緑のプラントに囲まれ、ハリーは静かに佇んでいた。仙人のような存在感だった。

 エリーは水色にオレンジの花模様のワンピース水着を着ていた。古きよき時代という言葉を思い出させる水着だった。

 エリーはパラソルの下、テーブルの上のサチの手をそっと撫でた。
 
「サチはね、自分の手を見るのが好きなのよ。指先の動きを見るのが好きなの。あたしもね、サチの手を見るのが好きよ。小さな指と指との閧に何だか素晴らしい予感を感じるの」

「サチの世界ってどんなのかしら」
 
「自分の指…いつも一緒にいるあたしがいて…ミルクの匂い、陽の匂い…まだ父親が存在するってことも知らないサチの世界…。その世界に色をつけるのは何なのかな」

 プファファファファファ…サチは伸びをした。その瞬間小さな掌がパアッと開いた。サチの小さな掌、汗ばんでキラキラ光っていた。くっきりと三本線が刻まれた小さな掌、光を弾いて光っていた。

「どうして裏切りや戦争って起こるのかしらね」

 裏切りは個人レベル、戦争は国レベル。随分次元は違うにしてもエリーと私にとって理解できないのは同じだった。

「あたしね、この子にどうやって善と悪を説明したらいいのかわかんない。人の迷惑になることが「悪」なんて、そんな時代遅れのきれい事言ってられないしね。…小さい頃から、ずっと不思議だったの。神がほんとにいるのなら、どうして悲しいこと、つらいこと、不公平なことが山ほどあるんだろうって。大人になってからだってずっとわかんなかった。でもね、どのくらい前かしら、あたし映画を見たの。神様が人間の姿になって現れるコメディよ。その中で小さな女の子が神様に聞くの。神様がほんとにいるんなら、どうしてこの世に不幸や悲しいことがあるんですかって。病気に苦しむ子供や貧しい人や惨めな人がいるんですかって。すると神様は言うのよ。僕の失敗は片方だけを創造することができなかったことだなって」
 
「片方だけ?」
 
「うん、悲しみがあるから喜びがある。不幸があるから幸福が存在する、僕は片方に偏らせることが出来なかったってね。そういやそうだけど、不幸をふっかけられた人間はたまんないわよね。一人一人同じだけの幸せと不幸を配られるんならいいけど、ひどく幸福な人もいれば、ひどく不幸な人もいるんだもんね。あたしはやっばり片方だけ創造してもらいたかったと思うのよね。マイナスがなくゼロかプラスってふうにね。どう間違っても普通か幸福かってふうにせいぜい普通で止めて欲しかった。悲しみや不幸はなくね。もしそうだったら、世の中ってもっとサチの世界に近づくわ。ミルク色したね。単純ではあっても平和なはずよ」

 エリーは一泳ぎし、そのあと私も再びプールに背中で浮いた。

 もう誰の泳ぐ音も聞こえてこなかった。水しぶきもかからない。だから太陽は一つのままだった。

 目を閉じれば、場所と時間の感覚がなくなった。流される…そんな気になったけれど、プールの中では流されてもしれていた。プールを出ればパラソルの下に、エリーとサチの小さな世界がある。

 明日はデニスのところに戻っていく。デニスの中の見知らぬ男が再び私の中の見知らぬ私を当惑させ恐れさせたら、私も言うだろう。男って理解できないわ…と。けれど私は知っている。私が理解できないのは男じゃなくって人間の中にある何かだってこと。

 私は浮かぶのをやめ、立とうとしたが、足がつかなかった。どうやらプールの一番深い辺に浮かんでいるらしい。沈みそうになって再び背中で浮いた。目に水が入り、太陽はまた分裂し始める。あたしはまばたきをした。太陽が一つになるまでまばたきをした。目に入ったプールの水をまばたきして追い出そうとした。何度もまばたきをしていて気がついた。泣いている…と。サチを一人きりで生んだエリーを思って泣いていた。先日見たデニスの殺気だった目を思って泣いていた。パアッと開いたサチの掌を思って泣いていた。

 エリーは言った。「あたし、サムのことで心配で片時も心が休まらなかったでしょ。だからこの子にも影響を与えたんじゃないかしら。そりゃお腹の中で動いたものよ。あたしにとっては初めての経験だけど、随分騒々しい子だなってのはわかったわ。けど生まれてきたサチは目方は少し足りなかったけど、とてもリラックスして見えたわ」

 そのサチは今、エリーのお腹では握り締めていただろう手をパアッと開いている。サチのように暖かい陽の光だけを求め、両手をパアッと広げられたら、どんなにすてきだろう。たとえそれがガラス越しの陽の光だとしても…。

 目を閉じると、浮かんでいる市民プールの水が大きな海のように感じられた。海は太平洋でも大西洋でも中東の海でもなく、「陽」の海だ。涙を薄める必要のない海だ。自由に手足を伸ばせる海だ。濁りを全部のみこんで濾過してしまう海。パアッと両手を無防備に開いて浮かんでいられる海。

 どれだけ浮かんでいたのだろう。頭がこつんとプールサイドにあたった。プールから上がり、端に腰をかけると、年配の男が二人ゆっくり泳いでいるのが見えた。

 どこにでもあるプールの光景だった。市民プールの光景…。八つに仕切られた空をもつ市民プール。二つのパラソルのある市民プール。なのにしばらくどこか次元の違うところに流されていたような気がして、私はしばらく動けなかった。




 そのあと、近くにある水族館にでも行ってみようということになった。エリーも私もとりたてて水族館に行きたかったわけではない。ただ赤ん坊をつれて水族館にでも行ってみる、その響きの温かさに惹かれた。

 呼び物のラッコの水槽と赤ちゃんイルカの他は、お義理程度にペンギン、亀、アザラシ、ワニなどの古びた水槽が散在している寂しい水族館だった。

 孤独のアザラシは退屈そうに時折思い出したようにゴロゴロする他は、どこを見るともなく目を半分開けて昼寝を決め込んでいた。斑に毛の抜けたように見える体はつやがない。

 こんな近くでアザラシを見るのは初めてだった。アザラシは巨大だった。何という名なのだろう。見回したが種類が記してある看板は見当たらなかった。

 毛の抜けた重量感あるアザラシを見ていると、体が下へ下へと沈み込んでしまいそうだった。

 私はやたらに喉が乾き、朝から飲み続けているルイボスティは発汗せぬまま、体にたまり、その分頭には薄まった血しか行かないのか、ビーンという耳鳴りまで始まっていた。

 相変わらず半開きの目のアザラシは唯一の観客である私たちに注意を払う様子も見られなかった。

 どれくらいそこに立っていたのだろう。ほんの数分だったかもしれないし、かなり長くだったのかもしれない。明日からまたエリーも私もあまり満たされたとはいえず、かといって不幸というのでもない日常に戻るのだ、そんなことを漠然と考えながら立っていた。

 風が長らく微動だにせぬように、私とエリーの時間も止まっているように感じた。これからどこへ行くのだろう。自分がどこにいてどこにいくのかわからなかった。

 ピシャリと音がした。アザラシが水に入ったらしい。

 こっちよ、エリーが私の手を引いた。反対側に周ると下までガラス張りになっていて、水の中を泳ぐアザラシが見えた。水の中でのアザラシは違う生き物のようだった。ヒュー、エリーが感嘆の声をあげた。水の中を何の抵抗もなくスーイスーイ、かなりの速さで泳ぎ回っている。何の努力もみえない自然な動きだった。水の中で縦になり、横になり、くるりくるりと回転し…。むしれたような毛も水の中では滑らかに見えた。

 どうして人間、こんなふうに生きられないんだろう。するりするりと攻撃的になることなく、摩擦を避け…。

 所詮、夢物語か…。人間はするりするりと泳げる世界に生きていないのだから。何の摩擦もなくすいすいすい。攻撃も軋轢もない世界、そんなのは永久にやってこない。だとしたら、水から上がってコロリコロリ、半開きの目をしたアザラシのように怠惰になるしかないじゃない…。

 水に入るとね、ふわっと軽くなるの。体だけじゃなくってね。すべての…すべての重圧がよ。エリーの言葉が私の頭でエコーしていた。