報告書が送られてきてから3か月ばかり経ったときのことだった。カズトがマンションの階段下までゴミを持っていくと、道を隔てて女が立っていた。
視線を感じたが、そのまま向きを変えてマンションに入ろうとしたとき、その女はカズトに近づいてきた。
髪を帽子に入れていたし、メガネがべっ甲ではなくフレームレスなのでぱっと見にはわからなかったが、それはブルースカイ調査事務所の川野さんだった。
「ちょっとお話できますか?」 川野さんは言った。
ファミリーレストランに入って隅のテーブルで川野さんと向かい合った。
「あの、僕、ちゃんと振り込んでますよね」
「ええ、もちろんです。お代はいただきました。今日のお話はそれとは全く別の話なんです。いえ、もちろん、お会いしたことがあったから、今日のお話に発展したわけなんですけど」
川野さんはカズトをしっかり見た。意思の強い目だった。表情豊かな女の子たちは、困った目、楽しい目、ウルウルの目、怒った目の使い分けを上下まぶたの調節でしている。けれど、川野さんの上下まぶたはほとんど動かずすっきりしている。そのぶん茶色がかった瞳がものを言う。
川野さんは女性にしてはひどく無表情なのだろうが、それがカズトを落ち着かせた。雑音のある場所から静かな場所に来た、そんなふうに感じさせた。
「石巻カズトさんですね。カズトさんの本当の名前は私たち知らないことになっていたと思いますが、もちろん知っていました。調査事務所ですから。それで今日はその石巻さんに私たちの会社に入ってほしくてお願いに来たんです」
カズトは思わずコーヒーカップを落としそうになった。
☆
ブルースカイ調査事務所のビルが建てられたのはいつだろう。
4、50年か? かなり古いそのビルはひっそりと立っていた。
一階の右側のドアには「ネイル May」 左側は「ペットショップ のんた」とある。間口が狭いビルだから当然どちらの店のドアも小ぶりだが、その間にアルミ色のドアがあり、次のように案内が貼ってあった。
2階 201号室 雨訪税理士事務所 202号室 ブルースカイ調査事務所
3階 301号室 アンディ個別指導塾 302号室 humain
その案内板の貼ってあるドアを開けると細い階段と細い通路があり、通路の奥がエレベーターだ。
川野さんは言った。
このビルは3番33号に建ってるんです。サンサンサンで、太陽がいっぱいじゃないですか。だから「太陽がいっぱいビル」って呼ぶ人もいるけど、ちょっと長すぎるから、「ルネクレマンビル」短くして「ルネビル」って呼ぶ人もいるんです。
ああ、太陽がいっぱいは監督がルネクレマンだった、犯人が頑張るんだけど最後に逃げきれない衝撃のシーンがあった。あれはパトリシア・ハイスミスの原作とはラストが違っていたと思う。ルネクレマンといえば禁じられた遊びもそうだ。他に何かあったかな、など思いながら、カズトは太陽がいっぱいのイメージとは程遠いビルを見上げた。屋上にカラスが一羽とまって、アーコワーと鳴いた。
川野さんは言った。
「つながってるんです」
「えっ?」
「つながってるんです。全てのテナントが、インテグリティのもとに」
「インテグリティ…ですか?」
カズトはインテグリティの意味を漠然と頭で検索した。
「組織っていっても、オーガナイゼーションっていっても、ぴんとこないと思いますが、ある人間たちの集まりがあり、それぞれの役割を果たしている、と思ってください。ブルースカイ調査事務所もその一つですし、このビルのテナントもみなそうなんです。そしてその集まりに必要な人の素質、そのキーワードがインテグリティなんです」
インテグリティ・・・
「人にはインテグリティの芽を持つ人もいれば、インテグリティが具現化したような人もいます。私たちが声をかけるのは少なくともその芽をもっているだろうと確信できた場合のみです」
僕にその芽があるのか? カズトが考えこんだとき、二つの声が重なるように聞こえてきた。
ママァァ!
ミキちゃんママ!
振り向くと銀髪のショートヘアの女性が二人の6、7歳の女の子の手を引いていた。
髪を日本人形みたいにした女の子が川野さんに抱きついた。どうやら、川野さんの子らしい。
「娘のミキです」
川野さんが誇らしげに言った。
ショートカットのもう一人の子は賢そうな目で僕の様子をうかがっている。
「あ、シルバ、こっちが石巻さん。ご存じよね」
川野さんにシルバと呼ばれた銀髪の女性はうなづいた。
「初めまして。石巻さんですね。お話聞いてます。三好です。みんなにシルバって呼ばれてます。川野はタキって呼ばれてます。このこはひろ子、ロコです」
そう言い、シルバは少し微笑んだ。鋭かったシルバの目はロコを引き寄せたときだけ柔和になった。
「おにいさんもここで働くの?」
川野さんの子のミキが聞いた。おじさんではなくお兄さんと呼ばれたことになぜかほっとした。若く見られたいとかじゃなくて、おじさん、と呼ばれるほど自分には経験がないと思ったのだ。
「あ、どうかな」
口ごもっていると、「ネイル May」と書かれたドアから、大柄な女性が出てきた。
「メイさーん」 ミキとロコが抱きついた。
メイさんと呼ばれた女性は二人を両脇に抱え上げた。かなりの力だ。よく見ると、どうやら元々は男性のようだった。小さい動物柄のスカーフを頭に纏っている。
「今日はウエディングネイルの注文が入ったのよ。結構素敵にできたわ」
メイさんは嬉しそうに言った。