事務所への階段を急いで上った。三階なので、急いでいるときはエレベータより駆け上がる方がはやい。
山岸さんのことが急を要する。
マンションの隣に住む山岸さん一家。ミクが小さい頃はよく上のお兄ちゃんに遊んでもらった。山岸さんの奥さんとは時折一緒にコーヒーを飲む。大抵はどちらかのダイニングでだが。大昔、もしも学生時代に会っていたら、親友になれたのかもしれない。いや、無理か。あの頃の自分は誰とも友達になれなかった。
最近、ちょっと気になるのはそのお兄ちゃん、荘太くんのことだ。ここ一年で急に背が伸びた彼、数日前、チッと舌打ちしながらコンビニから出てきたが、その様子が気になった。以前の自分に重なったのかもしれない。大した理由もなくイライラしていた大昔の自分に。
そんな自分を思い出すたび、必ず母を思い出す。
階段途中で足をとめた。
お母さん…。
☆
あの日、私は小さなアパートにたたずんでいた。洗面所の鏡は右下に細かい割れ目が入っている。
鏡をじっくり見るのなど久しぶりだった。左手にはハサミ。
まずはオレンジの部分を切った。次にピンクのところ。パープルの前髪も切る。染め直す、という手もあったが、伸びすぎていたので、色の着いたところを切ることにした。色を全部取り去ると、かなりのショートになった。床にはカラフルに髪が散らばっている。
次に爪を切った。マニュキュアは剥げていて、でこぼこで白っぽくつやがない。痛くないぎりぎりの長さに切った。
次に眉を丁寧に、ごく普通の人、という感じで描いてみた。穏やかな感じに。顔色は悪く、肌は荒れていた。
そしてベージュのシンプルなワンピースに手を通した。
鏡を見ると、別人だった。自分であって自分でない。手をパン!と打った。なぜかわからないけれど、手をパン!と打った。心がざわざわした。
アパートの鍵を閉めるときには、心のざわざわは痛いほどになっていた。
病院に着くと、パピーが教えてくれた階と部屋番号を頭で復唱した。
仔犬のように可愛かったので、私は妹をパピーと呼んだ。お姉ちゃん、と呼び、どこでもついてくる、小さい頃は本当に可愛い子だった。
私が家を出て長かった。限りなく長かった。今考えると、親はさほど理不尽でもなく、パピーも良すぎる子だった。なのに家を出た。一人で荒れて家を出た。父はそれから数年後事故で亡くなった。
家を出てからも荒れたままだった。生活が荒れていた。心が荒れていた。態度が荒れていた。時の流れにも、荒れて対処した。荒れが似合う歳を過ぎても、荒れる以外、術を知らなかった。
エレベータで七階まで上がった。教えられた番号の部屋の前には四つの札があった。三つの札に三つの名前。どれも違う。四つ目は空欄だった。通りかかった看護師に、患者の名前を告げると、ご家族ですか?と聞かれ、私は口ごもった。
緊急集中ユニットに移されたと聞き、三階まで降りた。ユニットのガラス戸の前で私は動けなくなった。
一瞬、何で、髪切ったり、爪切ったり、いつもは着ない服を着てここにいるんだろ、ってわからなくなった。そうしなければって思ったわけを考えた。母が「下品」な感じが嫌いだったからだろうか。
電話でパピーは母の病状がよくないと言った。会うなら今会っておかないと、と。
パピー…。
母とパピーのことを考え、胸の圧迫が強くなったとき、緊急治療ユニットのガラス戸の向こうにパピーが見えた。こちらに歩いてくる。
確かにパピーだった。隣にいるのはパピーの旦那だろうか。
私は焦って、少し後ずさりをした。そしてくるっと反対を向き、トイレのある細い通路に隠れた。
「こんなに急だなんて」
声が聞こえてきた。パピーの声だ。泣いている。
「心の準備できてないよな」 パピーの旦那らしき者の声…。
胸が早く打ち始めた。壊れた機械みたいだった。私は壊れていた。
病院を出て向かいのファミレスに入った。
頭も心も真っ白だった。真っ白ではなく濁った灰色か…。オーダーしたつもりもないのに、パンケーキとコーヒーが運ばれてきた。
パンケーキにフォークを突き刺しながら、なぜか、「グロリア」という映画を思い出した。古い方だ。リメイクじゃない方だ。その中で主役の訳ありの中年の女が、ギャングに家族を殺された男の子を墓地に連れて行き、こう言うのだ。どのお墓でもいいから、家族のだと思って話してごらん。祈ってごらん。
なんで、グロリアを思い出したのかわからない。その中で男の子が父親をパピーって呼んでいたからか。
何しに来たんだろ。謝りに来たのか。ただ生きてるうちに会いたかったのか。母が誇りに思っていたのはパピーであって私ではない。一度たりとも母は私のことを誇りに思ったことがあったのだろうか。でも、愛してくれた、とは思う。事故で亡くなった父も愛してくれたと思う。パピーも慕ってくれていた。少なくともそんな頃があった。
ファミレスを出ると、再び、病院のエレベータに乗った。指は緊急 ユニットのある3階ではなく7階を押していた。母が何日も過ごしただろう7階の部屋へ足が向いていた。
面会時間だからか、カーテンで仕切られたベッドの周りから声が聞こえてくる。一つだけシーツがはぎ取られ、カーテンで隠されていないベッド。ここに母は横たわっていたのだ。
触れてみた。ベッドの端に触れてみた。左手で。私は左利きだった。左手で字の練習をする私を心配そうに見つめていた母の顔を思い出した。
お母さん、家を出てから、私はずっと荒れていました。変えたいとはずっと思っていました。でも変えれませんでした。お酒も飲み過ぎています。家を出てから、私はずっと荒れています。自分でもなぜパピーと自分がこんなに違うのかわかりませんでした。今でもわかりません。
今度は右手で母の枕があったであろうところを触った。
祈ろうとしていた…と思う。でも祈れなかった。何に祈るのか、祈りの意味さえわからないまま、シーツのないベッドのマットレスを見つめていた。
あら。その声に振り向くと、丸顔の看護師が私を見ていた。
あ、すみません。間違えたみたいで。
もごもご言って部屋を出た。
母に会いたかった…のか。パピーに会いたいのか。でもやっぱり会えない。荒れた私は会えない。母が亡くなった今、会えない。パピーと二人で母の手を握るというシナリオは消失してしまった。
病院から出ると、心が冷たく固まっていた。心の乱れはさほど感じていない…。悲しみが強すぎたわけでもないと思う。ただ心が冷たく固く固く…。
頭の中で、映画の男の子が叫ぶ。パピーに会いたい。ママに会いたい。
私は誰に会いたいのだろう。会いたかったのだろう。
しばらくあてもなく歩いた。短髪、短爪、ローヒール、姿を変えても、中身は同じだった。
ポケットに手を入れると、ファミレスの勘定書が出てきた。どうやら払わずに出てしまったようだ。
戻るか… そうつぶやいた。
レジで支払っていると、道路を隔てた病院の門からパピーと旦那とそれにさっきはいなかった男の子が出てくるのが見えた。パピーは泣いている。男の子は何かの模型を持っている。グロリアに出ていた男の子と同じくらいの年齢だろうか…。
私は動きをとめ、どうしたものか、と考えた。荒れている、ではなく、荒れていた、の自分だったら会えるのに…そんなふうに思った。
荒れていました、以前は荒れていました…荒れています、でなくて荒れていました、って言えるようになれたら…まずはそこから始められるだろうか…。
目をつぶると幼い自分が見える…そんな気がした。グロリアの中の男の子のように、手を合わせ、うなだれて祈る幼い自分が見える…そんな気がした。
必要なのは、祈る場所ではなく祈りそのものなのだ。そう思ったら、涙がこぼれてきた。
☆
あの日を思い出すと今でも胸が熱くなる。あの時、私は震えていた。くちびるが震えていた。肩が震えていた。
そして気づいたのだ。震えているのはくちびるではなく心だ、と。
それ以来、何度も何度も繰り返したこの気づき。
あの日、ファミレスを出たところで声をかけられた。
「落とされましたよ」 ビブラートのかかったハスキーな声だった。
振り向くと、ハサミを手に私よりさらに短髪の女が立っていた。
ハサミ? ハサミなどバックに入れていたのか?
その人物が手にしていたのは確かに私が髪を切った左利き用のハサミだった。
それがシルバとの出会いだった。