「よっしゃー! 今日もやるぞー!」


 昨日みたいに、小さな音楽準備室の中。領が他の2人が好きなことをやっているのを見てそう叫んだ。楽しそうだなあとその姿を見つめるわたし。


「毎日うっせーなー領は」
「ホント」


 そう言っって他の2人も笑っている。狭い教室の片隅におかれた電子ドラムに座るのはコウヘイ。ヘッドホンをつけた瞬間、コウヘイの顔はいつも変わる。ドラムスティックでリズムを取り出すのは、完全に自分の世界に入ってしまった合図だ。

 一方怜さんは電子メトロノームの目の前でベースを弾いている。ピッキングって言うんだって、領が耳打ちして教えてくれた。


「んじゃー、始めますかっ!」

「は、はい」


 ぐって背筋を伸ばして、いつもみたいに笑う領の顔を見つめる。今日はボーカルについて色々教えてもらったりする予定だったんだけれど……領がガサゴソと自分のリュックをさばくっている。


「あー、あったあった。ハイこれー」


そういって、小さな携帯型音楽プレイヤーを手渡された。それにキョトンとするわたし。


「とりあえず、綾乃の歌唱力を一回ちゃんと確認したいから……このプレイヤーに入ってる曲でなんか歌えるのある? ここに入ってるのなら俺ギターで伴奏できるからさ」


 領に手渡されたプレイヤーには、流行りのJ-POPから洋楽、知らないロックバンドまで様々なものが何百曲も入っていた。

 領って、音楽が本当に好きなんだなあって思う。そして、これならギター弾けるから、ってすごいな。私にはよくわからないけど、きっとすごいんだろう。


「えーと、じゃあこれ、……〝What a wonderful world〟」


 私が選んだのは、英語と音楽の授業で習った、ルイ・アームストロングの名曲だ。最近のロックバンドやJ-popに疎い私にはちょうどいい。一度は誰だって聞いたことがあるだろう。タイトルの和訳は『この素晴らしき世界』。


「綾乃渋いなー。でもわかる、これはいい」


 領が嬉しそうに、部屋の片隅に置かれたギターケースから自分のギターを取り出した。「ジャズっぽいのは得意分野じゃないけど、俺も結構好きだよ」って付け足して。

 そして、ピックで弦を軽くなぞる。その瞬間、頭に曲が浮かんだ。たった一音弾いただけなのに。


「すごい……」

「確かこのコードだったよなー。綾乃の声ならもう少しキーあげて……」



原曲よりも高いキー。確かに女の子には歌いにくい高さだ。わざと歌いやすいようにあげてくれている。すごい。


「よしよし、じゃあいくよ」


 領がいきなりイントロを弾き始める。ゆったりとしたメロディと情緒ある強弱。ギターソロなのに曲の特徴をよくつかんでる。領って実はすごいギタリストなのかもしれない。

 私は領の隣に座って、大きく息を吸い込んだ。

 英語の発音はたぶんカンペキだと思う。伊達に学年1位をやってない。


 流れるような領のギターにのせて、私は歌った。第一声は思わず声が裏返ったけれど、気にせずギターを弾く領の姿を見たら「恥ずかしい」という感情さえ馬鹿馬鹿しく思えてしまって。

 人前だとか、何も気にしないで、目を閉じて。

息を吸い込んで、歌として吐き出す。懐かしいメロディーと歌詞。一回聞いただけで、この曲の虜になった。


 歌うことって、こんなに気持ちよかったっけ?


 領のギターって不思議だ。私の声をまるで支えながら引き出してくれているみたい。歌いやすい。歌うのが気持ちいい。

 夢中になって歌った。
領のギターに重なる自分の声が、信じられないくらい生き生きしていたんだ。



ジャンッ・・・


 荒っぽく弾きあげた一音とともに、わたしの声と領のギターの音が同時に消えた。

 そして、領と目があう。

 途中から、私は何を思ってたんだろう。
 わからないけど、ただ、ただ歌うことが楽しくて、気持ちよかった。自分の声が、こんなに生き生きと発せられたことが今まであっただろうか。

 曲にのめりこむって、きっとこういうことなんだろう。



「……すげえよ、綾乃、すごい」



 目が合ったまま、領が真顔で私にそういう。私はちょっと照れくさくなったけど、たぶん領のギターがなかったらここまで歌うことはできなかっただろうと思う。

 他の二人もいつの間にか私が歌うのを聞いていたらしく、ぽかんと私と領を見ていた。



「すご、びっくりした……」
「てか、領のギターと綾乃の声がスゴイ合ってんの」



自分の頬が熱くなるのを感じた。人に褒めてもらうのって、こんなに恥ずかしいことだっけ。テストの成績表を担任に褒められたときとは、全く違う感情が渦を巻く。

あったかくて、心地いい。



「あー、おれ、ギター弾いてて超気持ちよかった」

「綾乃の声と合ってんだよ。てかイキナリでそんな息ピッタシに歌えるもん?」

「領がボーカルよりダンゼンいい」

「うるせーよ怜!」



3人の声も、なんだか遠く聞こえてしまう。自分の中で鳴っているこの鼓動に戸惑いを隠せなくて。

私、もっと歌いたいって思ってる。

胸がドキドキして、止まらない。もっと、もっとやってみたいって思ってる。



「私、頑張る……」



人前で歌を歌うこと。自分にできることは、勉強することだけだって思ってた。やりたいことは、完璧を追い求めることだけだって思ってた。

でも、わたし、いま。
自分の意思で、歌いたいって思ってる。



「綾乃がやる気だ! おれらも負けてらんねーなー!」

「うっさい領」
「声がでかい」

「はああ!? なんだよ人がせっかく盛り上げてんのにさー!」





「んじゃー今日はここで解散なー!」


あの後、発声練習法や発音練習法とかを領に教えてもらった。あと、少しだけ曲作りを見せてもらったりして。

時間はあっという間に過ぎて、下校時刻はすぐにやってきた。


「じゃあなー!」
「んじゃ」
「バイバイ」


3人に同時にそう言われてちょっと笑えてしまった。私も笑ってバイバイ、と返す。

領とコウヘイは、何やら怜さんに耳打ちをして背を向けて帰って行った。

残された怜さんと私は2人きりだ。



「家、コッチ?」



私が慌てて頷く。怜さんも同じ方向だったのか、「んじゃ行こ」と言って歩き出した。私はその横に急ぐ。

2人で同じ道を歩く。なんだかそれは、とても気まずかった。怜さんとは、まだ2人きりの空間になったことがなかったからだ。



「れ、怜さんもこっちの方向……?」



咄嗟に出たのがそんな言葉。本当、自分でも笑ってしまうくらい不自然な会話。

この前まで、人と話すことすら避けてきた私だったのに、この沈黙が、息苦しいって思ってしまった。




「ふっ、しゃべり方よそよそしいな」



少しだけ笑みを浮かべた怜さんはやっぱりすごくキレイな人だと思った。



「いや、だって……」

「つーかタメでいーよ? 同い年なんだしさー」

「えっと、じゃあ……あ、綾乃ってよんで」

「ん。最初っからそのつもり。綾乃って面白いのなー? ウチのことは怜でいーかんね」



女の子を呼び捨てにするなんて、いつ以来だろう。怜、って、次に呼ぶ時はちゃんとそう呼べるだろうか。

領や浩平。そして怜。

はるとうたたねのみんなは不思議だ。私、いつからこんな風に人と話せるようになったんだろう。

変えてくれているのは、きっと3人が優しくて、私の方をちゃんと向いていてくれるから。



「つーかさ、綾乃に聞きたいことあんだけど」

「う、うん? なに?」

「綾乃、領のこと好きなん?」



一瞬、胸がドキッと鳴って、赤紫が混じった真っ黒なストレートロングの怜の髪を見つめた。

夕日が反射して、ますます綺麗だ。怜は派手だけど、その外見がとてつもなく似合う。



「……違うよ。……なんで?」

「いーや。そーかと思って。
違うんならいーけど。今まで領目当てでバンドやりたいとかいうヤツ何人もいたからさ」

「そ、そうなんだ…」



領が人気者なのはわかっていたけど、さすがだなあと思う。領がモテるのはわかりきっていることだけど、なんだか、胸がモヤモヤする。



「コッチは真剣にベースやってんだっつーの。そーゆーヤツらが来ると、ホント腹立つんだよね。領はお人好しでアホだから、そーゆーの気づかなくてさー」

「そっか…」



怜は、本当にバンドが、ベースが好きなんだな。不真面目そうに見えても、音楽の話をしている彼女はとても生き生きしていたから。



「……見た目こんなんだけど、バンドとベースのことだけは真面目に考えてんだよ、一応ね。初めて自分がやりたいと思ったことがベースだったから」



怜の横顔は綺麗だった。私は今ままで、多分こういう人たちを見下していた。

勉強が出来ることがすべてだって思い込んでいた。

でもきっと、違う。

好きなことをこうやって追いかけている怜は、本当に強くて素敵だと思った。私が馬鹿みたいに勉強していた間、きっと怜は馬鹿みたいにベースを弾いていたんだろう。

人の違いなんて、そんなものなんだ。何を大切にするか。何に時間をかけるか。親や先生の示す先がすべてだなんて誰が決めたんだろう。



「見てて、わかるよ。……私は、みんなが羨ましい。」

「……羨ましいって?」

「そこまで本気になれるものが、私にはないから」



怜が、歩いていた足を止める。
私は少し前で止まって、怜の方を振り返った。



「じゃーさ綾乃」

「うん…?」

「ウチらと本気になればいいじゃん?」



怜の目があまりにも真剣で、私はそこに、吸い込まれるんじゃないかって思った。それほどに、輝いていたんだ。



「ウチらと本気で、バンドやろう」



ああ、なんでかな。泣きそうだ。だってまるで、ドラマのワンシーンみたいなこんなこと。

私の人生で、こんな日が来るなんて、誰が予想できたんだろう。私さえ、信じることのなかった今日という日。



「……やりたい。私、はるとうたたねのみんなとバンド、本気でやりたい……!」



風が吹いて、私と怜の髪をさらった。



「期待してるよ、新人サン」



そう言った怜の顔は、まるで夜空に輝く星みたいに、すごく輝いて見えたんだ。