◇
「ふう…」
下駄箱で思いっきり深い息を吐く。でもこれは、悪い意味のため息じゃないと思う。
普段の私じゃ絶対に体験できないようなことに色々出くわして、疲れたなあとは思うけど。私にはそれすら新鮮で、自分が吐いたため息を嬉しく思っていることに自分でビックリしてしまう。
領と他の2人は、これからまだ曲作りと曲合わせをするんだって。『はるとうたたね』は、人数が少ないこともあって部活動として正式には登録していないものの、軽音楽同好会としてあの教室を使う許可はきちんと取ってあるらしい。
領たちの顔が広いっていうのもあると思うけれど、うちの校風は案外自由だ。赤川さんのあの奇抜な髪型でも学校に通っているのはさすがに驚いたけれど。
そして私は、とりあえず今日は帰宅。課題はメンバーの名前を覚えてくること!って領は笑ってた。でも、明日から特訓……らしい。それもそうだ。だって私は、音楽に関してはすべて初心者なんだから。
「今日は疲れた?」
下駄箱で立ち尽くしていたからか、突然後ろから声をかけられてびっくりした。考え事をしていたせいで後ろから人がやってくるのに気づかなかったらしい。
恐る恐る顔を上げると、そこにはさっきまで音楽準備室にいたはずのコウヘイくんが立っていた。
思わずペコリと頭を下げる。
さっき一緒にいたのに、いざ2人きりになると困る。人と関わることをやめていた私には、どうしていいかわからない。
ああ、そうか。さっきまでは領がフォローしてくれてたんだって、今更気づく。
「疲れたというか、こういうことに慣れてないから……。あ、でも、今日はありがとうございました。すごく楽しかったです……」
とりあえず、そんなことを言ってみる。ぎこちないけれど、きちんと笑えたと思う。作り笑いは得意なはず。それなのに、コウヘイくんは私を見て目を丸くして、そして小さく笑った。
表情をあまり変えないのに、笑ってくれたことが少しだけ嬉しい。
「なんで敬語? 変わってるね」
「いや、だって……」
「綾乃って、確か学年1位だったよね」
「え、なんでそれを」
「同じ学年なんだから、それくらい知ってる。バンドとか興味あるの?」
「……領に誘われて」
「俺と一緒だね」
「え?」
「ていうか、これから仲間になるんだし、そんなよそよそしくしてたらやっていけないよ。 今日からは友達だとおもって」
「とも、だち、」
「うん、仲間。 俺のことは、コウヘイって呼んでくれればいいよ」
真っ直ぐ射貫くように、でも優しく私の目を見てコウヘイくんは手を差し出した。無表情だけれど、言葉からも視線からも好意的な気持ちがきちんと伝わってくる。
私のこと、迎え入れてくれてるんだ。
〝友達 〟、〝仲間〟。聞きなれないフレーズになんだか戸惑うけれど、それと同時に、言葉には表せないほど心臓があたたかくなっているのを感じる。
私はゆっくりと、差し出されたコウヘイの手を握った。
「えっと、じゃあ、コウヘイ、で」
たどたどしく。そう言ったら、コウヘイはまた静かに笑った。
領のこともそうだけれど、誰かの名前を呼ぶのがこんなに恥ずかしいことだって知らなかった。自分の名前を呼ばれるのも、なんだかくすぐったくてなだ慣れないっていうのに。
「綾乃、結構緊張しやすいタイプだ」
「慣れてなくて……」
「真面目だよね、相手がどう思ってるかとか、結構考えてそう」
「ああ、うん、そうかも」
「うん、おれもそうだったからわかるよ」
なんとなく、浩平は私と似ている気がする。あの三人の中では、だけれど。
「あ、私も、綾乃、でいいです、」
「……まだ敬語?」
「……綾乃でいいよっ」
私なりに頑張っているつもりなのに、コウヘイは無表情のまま痛いところをついてくる。
「綾乃って案外おもしろいね、 今から帰るの?」
「あ、はい、……じゃなくて……うん」
「敬語抜けるの、そのうち慣れるよ。じゃあ、綾乃、気をつけて」
「うん……!」
「バイバイ」
「……バイバイ、コウヘイ」
誰かに言われる『バイバイ』が、誰かに返す『バイバイ』が、当たり前みたいだけれど決してそうではないことを私は知っているから。
「バイバイ、綾乃。また明日」
そう言って手を振ってくれる人がいるなんて、それだけで泣きそうなくらい奇跡みたいなことだって思うんだ。
私が見えなくなるまで後ろで手を振ってくれていたコウヘイは、なんて優しいんだろうと思う。
『バイバイ、また明日』って。人と別れる時って、少しさみしいんだね。でも、その言葉があるから、また会えるって思うんだ。あいさつって、素敵なことなんだね。
◆
「……ただいま」
重たい扉を開ける。この言葉、もう言わなくてもいいことわかっているけれど。なんとなく、口をついてしまう。
靴がないから、お父さんは帰って来てない。よかった。今日は2人の喧嘩を聞かないで済む。
「ご飯よ、早くしなさい」
お母さんがリビングから声を出した。喋りかけられたことにビックリしたけれど、今日は帰るのが遅かったからだろうとすぐに気が付いた。今は丁度、いつものご飯の時間なんだ。
「……うん」
急いで階段を駆け上がって、制服を着替えてから私はリビングへ入った。
帰ってこないお父さんの分の食事を見ると、いつも胸が痛む。なんだかんだいって、お母さんはいつもお父さんの分の食事も用意してる。
「……いただきます」
静かに席について、私も、お母さんも一言も何も言わず、ただ食べるだけの食事。
それが普通だった。───私が高校受験に失敗してから。
「……部活はどうだったの?」
だから、そうお母さんに尋ねられたとき、私は心臓が飛び出るかと思ったんだ。
「え? ぶ、部活?」
「どんな部活なの」
「あ、えっと、音楽関係、かな」
「そう……」
会話はそこで終了する。お母さんはまた食事を始めて、私の方を見ようともしなかった。
けれど。
お母さんが、私に話しかけた。気にしてくれた。私の方を見てくれた。高校受験を失敗してから、一度だってこんなことはなかったのに。
淡々と食事をこなす日々。同じ家にいたって私は空気と同じだ。成績表を見せるときくらいしかろくな会話もない。お母さんだって言葉を並べるのに気まずさを感じているに決まってる。
だけど、気にしてくれていた。
……涙が出そうなのをぐっとこらえた。
嬉しい。たったこれだけのことが、こんなにも嬉しいんだ。
◇
「綾乃おはよーっ!」
「おはよう」
今日も昨日と同じように下駄箱で出会う私と領。それはもう、タイミングぴったりでちょっとビックリしてしまう。
「お、今日はちゃんと返してくれるじゃん!」
「そりゃあ、おはようくらい返すよ」
「はは、なんか嬉しいなー」
「あのね、昨日。お母さんが……ご飯の時に、話しかけてくれたの」
「え、ホントに? なんて?」
目を丸くして、まるで自分のことみたいに喜んでくれる領が私の顔を覗き込む。どうしてこんなことを話してしまうんだろうって自分でも不思議でたまらないけれど。
「部活のこと聞かれただけなんだけどね。でも嬉しかったんだ。……ありがとう。領のおかげだ」
本当は、どうしても言いたかった。昨日からずっと。高城領に話さなきゃいけないって。……ううん、聞いてほしいって思ってた。
だって、こんなにも私の世界を変えるきっかけをくれたのは、まぎれもなく領だから。
「何言ってんだよー!? 綾乃が自分で行動した結果だろ? 俺は何にもしてないよ。綾乃が頑張ったからだ」
二カッていつものように明るい笑顔を見せて、領が私の頭をクシャッと撫でた。
俺も嬉しい、って歩きながら笑う領。私は今まで、領のことを悪い風に勘違いしてたなあって今更思う。
この人が周りに人気があって、人の中心にいるのは、きっと当たり前みたいなものなんだ。
「そーいえばさあ、俺今日用事があって途中でいなくなるからさ、怜とコーヘーと練習な? コーヘーがたぶんボーカルのこととか色々教えてくれるから!」
「そうなの? わかった。コウヘイって、優しいよね」
ピタッて、領が歩みを止めた。
私も動く足を止めて後ろを振り返る。
驚いた顔で固まってる領がおかしくて思わず笑ってしまったんだけれど、そんなことは気にも留めず領の表情は変わらない。
「……コウヘイ?」
「?……コウヘイがどうしたの?」
「……綾乃、いつからコウヘイって呼んでんの?」
「え……? あ、昨日帰りに会った時に、そう呼んでって言われたから……」
私なんかが、やっぱり図々しかったかな。領が右手で頭をクシャッとして、足早に私を通り過ぎた。私はそれを追いかけるように後ろを歩く。
「ごめん、やっぱ馴れ馴れしいよね。私なんかが……」
「あー!違う違う。そーじゃなくて……。てか、ジュース買いに行かせた時かー。クッソあいつホントやることはえー…」
領は頭を右手でクシャクシャかきながら、意味不明なことをブツブツと言いいながら振り返った。
「綾乃が他の男子のこと呼び捨てにしてるの聞いたの初めてだったから、ちょっとビックリしただけ。ゴメンな?」
なんだ、そんなことか、と思わずホッとする。いつも笑顔の領が珍しく表情を歪めたのがちょっと怖かったんだ。
……謝る必要なんてないのに。そう思いながら領の隣に足を進める。
「てか、コーヘーって優しいかー?」
「え? うん。すごい優しいと思う。なんていうか……同じ匂いがするというか」
「ふーん……」
自分で聞いてきたくせに、興味のなさそうな領。まあ、領は優しいを通り越しているけれど。そんなことは言わないでおく。
「やっぱ、やめたっ!俺、今日いなくなるのやめ!綾乃の練習は俺が見る!」
うんうん、って頷きながら足を進める領。そんなにいきなり予定変えて大丈夫なの?って聞くと、ダイジョーブって返事が返ってきた。
「ほんと?なら、よかった。領がいるとほっとするし、楽しいから」
「……俺といると楽しい?」
「うん。すごく。世界が輝いて見える」
「……俺も」
いやに真剣な声だったから、ふと私より少しだけ高い領を見上げた。
いつもの笑顔じゃなくて。もっと優しくて、もっと大切な何かを見るように、領が私を見てた。
「俺もだよ、綾乃」
その表情が、なんだか少しくすぐったくて。胸の奥が、どくんと音を立てた。
「ふう…」
下駄箱で思いっきり深い息を吐く。でもこれは、悪い意味のため息じゃないと思う。
普段の私じゃ絶対に体験できないようなことに色々出くわして、疲れたなあとは思うけど。私にはそれすら新鮮で、自分が吐いたため息を嬉しく思っていることに自分でビックリしてしまう。
領と他の2人は、これからまだ曲作りと曲合わせをするんだって。『はるとうたたね』は、人数が少ないこともあって部活動として正式には登録していないものの、軽音楽同好会としてあの教室を使う許可はきちんと取ってあるらしい。
領たちの顔が広いっていうのもあると思うけれど、うちの校風は案外自由だ。赤川さんのあの奇抜な髪型でも学校に通っているのはさすがに驚いたけれど。
そして私は、とりあえず今日は帰宅。課題はメンバーの名前を覚えてくること!って領は笑ってた。でも、明日から特訓……らしい。それもそうだ。だって私は、音楽に関してはすべて初心者なんだから。
「今日は疲れた?」
下駄箱で立ち尽くしていたからか、突然後ろから声をかけられてびっくりした。考え事をしていたせいで後ろから人がやってくるのに気づかなかったらしい。
恐る恐る顔を上げると、そこにはさっきまで音楽準備室にいたはずのコウヘイくんが立っていた。
思わずペコリと頭を下げる。
さっき一緒にいたのに、いざ2人きりになると困る。人と関わることをやめていた私には、どうしていいかわからない。
ああ、そうか。さっきまでは領がフォローしてくれてたんだって、今更気づく。
「疲れたというか、こういうことに慣れてないから……。あ、でも、今日はありがとうございました。すごく楽しかったです……」
とりあえず、そんなことを言ってみる。ぎこちないけれど、きちんと笑えたと思う。作り笑いは得意なはず。それなのに、コウヘイくんは私を見て目を丸くして、そして小さく笑った。
表情をあまり変えないのに、笑ってくれたことが少しだけ嬉しい。
「なんで敬語? 変わってるね」
「いや、だって……」
「綾乃って、確か学年1位だったよね」
「え、なんでそれを」
「同じ学年なんだから、それくらい知ってる。バンドとか興味あるの?」
「……領に誘われて」
「俺と一緒だね」
「え?」
「ていうか、これから仲間になるんだし、そんなよそよそしくしてたらやっていけないよ。 今日からは友達だとおもって」
「とも、だち、」
「うん、仲間。 俺のことは、コウヘイって呼んでくれればいいよ」
真っ直ぐ射貫くように、でも優しく私の目を見てコウヘイくんは手を差し出した。無表情だけれど、言葉からも視線からも好意的な気持ちがきちんと伝わってくる。
私のこと、迎え入れてくれてるんだ。
〝友達 〟、〝仲間〟。聞きなれないフレーズになんだか戸惑うけれど、それと同時に、言葉には表せないほど心臓があたたかくなっているのを感じる。
私はゆっくりと、差し出されたコウヘイの手を握った。
「えっと、じゃあ、コウヘイ、で」
たどたどしく。そう言ったら、コウヘイはまた静かに笑った。
領のこともそうだけれど、誰かの名前を呼ぶのがこんなに恥ずかしいことだって知らなかった。自分の名前を呼ばれるのも、なんだかくすぐったくてなだ慣れないっていうのに。
「綾乃、結構緊張しやすいタイプだ」
「慣れてなくて……」
「真面目だよね、相手がどう思ってるかとか、結構考えてそう」
「ああ、うん、そうかも」
「うん、おれもそうだったからわかるよ」
なんとなく、浩平は私と似ている気がする。あの三人の中では、だけれど。
「あ、私も、綾乃、でいいです、」
「……まだ敬語?」
「……綾乃でいいよっ」
私なりに頑張っているつもりなのに、コウヘイは無表情のまま痛いところをついてくる。
「綾乃って案外おもしろいね、 今から帰るの?」
「あ、はい、……じゃなくて……うん」
「敬語抜けるの、そのうち慣れるよ。じゃあ、綾乃、気をつけて」
「うん……!」
「バイバイ」
「……バイバイ、コウヘイ」
誰かに言われる『バイバイ』が、誰かに返す『バイバイ』が、当たり前みたいだけれど決してそうではないことを私は知っているから。
「バイバイ、綾乃。また明日」
そう言って手を振ってくれる人がいるなんて、それだけで泣きそうなくらい奇跡みたいなことだって思うんだ。
私が見えなくなるまで後ろで手を振ってくれていたコウヘイは、なんて優しいんだろうと思う。
『バイバイ、また明日』って。人と別れる時って、少しさみしいんだね。でも、その言葉があるから、また会えるって思うんだ。あいさつって、素敵なことなんだね。
◆
「……ただいま」
重たい扉を開ける。この言葉、もう言わなくてもいいことわかっているけれど。なんとなく、口をついてしまう。
靴がないから、お父さんは帰って来てない。よかった。今日は2人の喧嘩を聞かないで済む。
「ご飯よ、早くしなさい」
お母さんがリビングから声を出した。喋りかけられたことにビックリしたけれど、今日は帰るのが遅かったからだろうとすぐに気が付いた。今は丁度、いつものご飯の時間なんだ。
「……うん」
急いで階段を駆け上がって、制服を着替えてから私はリビングへ入った。
帰ってこないお父さんの分の食事を見ると、いつも胸が痛む。なんだかんだいって、お母さんはいつもお父さんの分の食事も用意してる。
「……いただきます」
静かに席について、私も、お母さんも一言も何も言わず、ただ食べるだけの食事。
それが普通だった。───私が高校受験に失敗してから。
「……部活はどうだったの?」
だから、そうお母さんに尋ねられたとき、私は心臓が飛び出るかと思ったんだ。
「え? ぶ、部活?」
「どんな部活なの」
「あ、えっと、音楽関係、かな」
「そう……」
会話はそこで終了する。お母さんはまた食事を始めて、私の方を見ようともしなかった。
けれど。
お母さんが、私に話しかけた。気にしてくれた。私の方を見てくれた。高校受験を失敗してから、一度だってこんなことはなかったのに。
淡々と食事をこなす日々。同じ家にいたって私は空気と同じだ。成績表を見せるときくらいしかろくな会話もない。お母さんだって言葉を並べるのに気まずさを感じているに決まってる。
だけど、気にしてくれていた。
……涙が出そうなのをぐっとこらえた。
嬉しい。たったこれだけのことが、こんなにも嬉しいんだ。
◇
「綾乃おはよーっ!」
「おはよう」
今日も昨日と同じように下駄箱で出会う私と領。それはもう、タイミングぴったりでちょっとビックリしてしまう。
「お、今日はちゃんと返してくれるじゃん!」
「そりゃあ、おはようくらい返すよ」
「はは、なんか嬉しいなー」
「あのね、昨日。お母さんが……ご飯の時に、話しかけてくれたの」
「え、ホントに? なんて?」
目を丸くして、まるで自分のことみたいに喜んでくれる領が私の顔を覗き込む。どうしてこんなことを話してしまうんだろうって自分でも不思議でたまらないけれど。
「部活のこと聞かれただけなんだけどね。でも嬉しかったんだ。……ありがとう。領のおかげだ」
本当は、どうしても言いたかった。昨日からずっと。高城領に話さなきゃいけないって。……ううん、聞いてほしいって思ってた。
だって、こんなにも私の世界を変えるきっかけをくれたのは、まぎれもなく領だから。
「何言ってんだよー!? 綾乃が自分で行動した結果だろ? 俺は何にもしてないよ。綾乃が頑張ったからだ」
二カッていつものように明るい笑顔を見せて、領が私の頭をクシャッと撫でた。
俺も嬉しい、って歩きながら笑う領。私は今まで、領のことを悪い風に勘違いしてたなあって今更思う。
この人が周りに人気があって、人の中心にいるのは、きっと当たり前みたいなものなんだ。
「そーいえばさあ、俺今日用事があって途中でいなくなるからさ、怜とコーヘーと練習な? コーヘーがたぶんボーカルのこととか色々教えてくれるから!」
「そうなの? わかった。コウヘイって、優しいよね」
ピタッて、領が歩みを止めた。
私も動く足を止めて後ろを振り返る。
驚いた顔で固まってる領がおかしくて思わず笑ってしまったんだけれど、そんなことは気にも留めず領の表情は変わらない。
「……コウヘイ?」
「?……コウヘイがどうしたの?」
「……綾乃、いつからコウヘイって呼んでんの?」
「え……? あ、昨日帰りに会った時に、そう呼んでって言われたから……」
私なんかが、やっぱり図々しかったかな。領が右手で頭をクシャッとして、足早に私を通り過ぎた。私はそれを追いかけるように後ろを歩く。
「ごめん、やっぱ馴れ馴れしいよね。私なんかが……」
「あー!違う違う。そーじゃなくて……。てか、ジュース買いに行かせた時かー。クッソあいつホントやることはえー…」
領は頭を右手でクシャクシャかきながら、意味不明なことをブツブツと言いいながら振り返った。
「綾乃が他の男子のこと呼び捨てにしてるの聞いたの初めてだったから、ちょっとビックリしただけ。ゴメンな?」
なんだ、そんなことか、と思わずホッとする。いつも笑顔の領が珍しく表情を歪めたのがちょっと怖かったんだ。
……謝る必要なんてないのに。そう思いながら領の隣に足を進める。
「てか、コーヘーって優しいかー?」
「え? うん。すごい優しいと思う。なんていうか……同じ匂いがするというか」
「ふーん……」
自分で聞いてきたくせに、興味のなさそうな領。まあ、領は優しいを通り越しているけれど。そんなことは言わないでおく。
「やっぱ、やめたっ!俺、今日いなくなるのやめ!綾乃の練習は俺が見る!」
うんうん、って頷きながら足を進める領。そんなにいきなり予定変えて大丈夫なの?って聞くと、ダイジョーブって返事が返ってきた。
「ほんと?なら、よかった。領がいるとほっとするし、楽しいから」
「……俺といると楽しい?」
「うん。すごく。世界が輝いて見える」
「……俺も」
いやに真剣な声だったから、ふと私より少しだけ高い領を見上げた。
いつもの笑顔じゃなくて。もっと優しくて、もっと大切な何かを見るように、領が私を見てた。
「俺もだよ、綾乃」
その表情が、なんだか少しくすぐったくて。胸の奥が、どくんと音を立てた。