「……おはよう」


 毎朝同じようにリビングのテーブルに用意された食パンと牛乳を見ながら、毎朝同じトーンの「おはよう」に、お母さんは目線だけで返事をする。その、冷たい視線がいつも痛い。

 残すと冷たい視線をおくられるから、食欲がない日でも必ず全部食べなければいけない。本当は、朝にパンは喉元に突っかかって好きじゃない。そんなこと、絶対に言わないけれど。

 今日は珍しくお父さんもいるから、よけい空気が重たく感じるんだろう。何も言わないで新聞を読んでいるだけのお父さんの存在感は計り知れない。

 めったにつけないテレビから漏れる音が、やけに大きく聞こえるのは、この空間がとっても静まり返っているからだ。食事中、家族で会話を交わすというごく当たり前のことでさえ、うちには存在しない事。

 できるだけ急いで朝ご飯を飲み込んだ。食器を自分で片付けてから、沈黙の中リビングを出る。私の背中にかかる言葉はないけれど、毎日玄関で静かにそっと「いってきます」と呟くのは私の中の意味のないルールだ。


 そして今日も、つまらない一日が始まる。




「おーはよっ!」


 誰もいない下駄箱。今日はいつもより少し早く家を出たから、大分早く学校に着いてしまったと思ったんだけれど。

 朝から屈託のない笑顔でそう言って私の背中を勢いよく叩いたのは、あの高城領だった。

 ビックリして顔が固まったのも無理はないと思う。

 だって、私は領の前で大声を張り上げたんだもの。普段の私のイメージからして、絶対にありえないこと。

 再び声をかけられる日が来るなんて思わなかった。というかむしろ、イジメにでもあうんじゃないかってビクビクしてたっていうのに。


「おーい? 綾乃? おはよって言われたらおはよって返してよー!」


 クラスにいる時と同じテンションで言う高城領は、私の目を見つめてそう笑う。その屈託のない笑顔にウソは一つもないみたいに見えるから困る。

 周りに人がいなくてよかった。高城領のファン……というより、彼にはとにかく友達が多いから、2人で話しているところを見られてやっかみを買うなんて事だけは避けたい。

 昨日、初めて私は私のイメージを人前で壊した。物静かで、ひとりが好きな優等生。そんな私のイメージを。ひかれて、当然だと思ってたのに。

 まさか、まだ話しかけて来るなんて思ってもみなかった。




「……おはよう」

「おっ!なんだ、ちゃんと言えるじゃんー!」


 また白い歯を見せて笑った高城領。それにうまく表情を作れない私。同じ人間なのに、どうしてこうも違うのだろうと思ってしまう。

 だって、なにがそんなに楽しいの。どうして私の目の前で、笑えるの? 私なんかに、笑顔を向けることが出来るの。

 あまりにも私が固まっていたからだろう。高城領は不思議に思ったのか、今度はきょとんと私の顔をのぞきこんだ。


「綾乃?」

「……なんで……?」

「何がっ?!」

「だって昨日、私、すごい感情任せに大声出して、あなたを拒絶した。ひかれたと、思ってたの……違うの?」


 自分でも、なんでこんな事を言っているのかわからなかった。ただたどしく口から零れ落ちた言葉は想像以上に情けなくてカッコ悪い。でもだって、高城領があまりに屈託のない笑顔で笑うから。

 高城領は、元々まん丸の目をさらに見開いて、ブハッと吹きだした。


「アハハハハッ!そんなのでひくわけないじゃん!綾乃おもしろー!まあ、ちょっとは驚いたけどさー」


 高城領が突然歩き出したから、咄嗟に私もその後ろをついて歩く。向かう教室が同じなんだから仕方ない。

 でもこれじゃ、昨日と立場逆転だ。



「驚いたよね、そーだよね……」


 物静かでひとりが好きな優等生。周りに貼られたレッテルと、自分自身が決して破ってこなかった周りからの評価。

 それに比べて高城領は、クラス内どころか学内イチの人気者。この学校で領の名前を知らない人なんてきっといない。いつも笑っていて、いつも人に囲まれていて、そのくせ誰にだって優しくて。……分け隔てなく人に優しくできる彼のことを、私本当は知っていた。

 朝日で出来た私と高城領の影を見て、私と彼は本当に正反対だなあとつくづく思う。例えるなら、光が高城領でそれで出来た影が私だろう。


「うん、驚いたけど、嬉しかった。」


 ハハッてまた領が笑う。少し前を歩いてるから、表情は見えないけれど。


「……嬉しかった?」

「うん。すっごい嬉しかったなー。だって、綾乃の本当の姿でしょ?アレは。」


 そう言われて、ガツンと鈍器で頭を叩かれたような衝撃に襲われた。驚いたのかなんなのか自分でもよくわからないけど、足が動かなくて思わず立ち止まってしまう。

 だって。“本当の姿”?

 高城領が後ろを振り向いて、いつもの笑顔でニカッと笑う。

この人は、笑うことしかできないんだろうか。こんなに笑顔が似合う人を、たぶん私は今まで見たことがない。



「……じゃあ、今の私は、嘘の姿なのかな」


 止めた足を、再び動かして呟く。高城領も前を向いて、歩き出す。どうしてこんな風に、会話を続けてしまうんだろう。高城領の笑顔は魔法か何かなのかもしれない。


「んー。別に、嘘の姿とかそういうことじゃないよ。でもさ、綾乃って、いろんなこと我慢して生きてるんじゃないかなーって思ってさ」

「……なにそれ」

「うーんとね、例えば」


 その先の言葉が気になって高城領の後ろを歩く事をやめない私は、どうかしてるのかも。


「本当は昨日みたいに言いたいことがあっても、誰にも言わないで飲み込んでるんじゃない?」


 高城領が、昨日私の目の前に立ちはだかった時みたいに、超高速移動で顔をのぞきこんできた。移動が早すぎると思うのは私だけだろうか。彼は人と関わるスキルがあまりにも高すぎる。


「……違う」

「ウソだー! だって綾乃、今ホントは俺のことなんなのコイツって思ってるでしょ!」

「……それは、若干正解」


 ふ、って。高城領が面白そうに頬を緩めた。いつも白い歯を見せて笑うのとはちょっと違う、目を細めて優しそうな笑顔。それからやんわりと、彼は口角をおろした。


「嘘が上手いよね、綾乃は。でもそれじゃ、自分は幸せになれないんじゃない?」


 初めて見たと言ってもいいほど真面目な顔をしてそう呟いた高城領は、いつの間にか着いていた教室へと一足先に入っていった。

 後ろからやってきた派手グループの輪の中に入る高城領。それはあくまでも自然なこと。むしろ、さっきまで彼と会話をしていたことが私にとっては非現実なことなのだけれど、何故だか無性に泣きたくなった。

 それはもしかしたら、高城領が突飛でおかしな、けれども随分と的を得た事実を言葉にしたからなのかもしれなかった。





──キンコンカンコーン…

 お昼休憩を合図するチャイムが鳴り終えて、私はホッと息を吐き出した。日直の号令と共に授業は終わって、教室内の空気が一気に暖かくなる。

 今やったばかりの数学の問題、この間予習した時は出来ていたはずなのに解くのに随分と時間がかかってしまった。今日は当てられなかったからよかったものの、これがテストだったらと思うと冷や汗が出る。

 それがどうしてだなんて、原因はわかりきってる。

 高城領のせいだ。朝から彼の言葉とあの笑顔が頭にチラついて、どの授業も全然集中出来ない。家で今日の範囲を総復習しないと思うと心の底から自分が情けなくなってくる。

 お昼休憩は堅苦しい授業から開放される至福の一時なんだから、いつまでもこんなことでグダグダしてるわけにはいかない。お弁当を急いで食べて、いつものように図書室に向う。これが私の毎日の日課。

 ……だったはずなんだけれど。

 何を思ったのか、私の足は何故か屋上へと向かっていた。本来なら開いていないはずのそこが鍵が壊れていると知ったのは、小太りの担任が前に「息抜きにどうだ」と勧めてくれたからだ。教師が言うことか、とも思ったけれど。

 なんとなく、今は外の空気でも吸いたい気分だったんだ。ただ、それだけ。


「はあ……」


重たいため息をついて、フェンスにもたれかかる。屋上の鍵は本当に壊れていて、どこまでも広がる青空に私は目を奪われてしまった。あの担任、意外と良い場所を教えてくれるじゃないか。


───嘘を、ついてる。


自分を、偽ってる。本当の私は、こんなに真面目で、こんなに勉強熱心でもない。イイコちゃんを演じていても、内心はみんなに悪態をついている。

そんなこと、自分が一番よくわかってる。私は決して完璧な人間じゃないし、優等生でもない。むしろ、本当に最悪な人間だと思う。

けれど。

どうしてそれを、高城領が言うの?どうして一回しゃべっただけの高城領がそんなことに気づいたの?


「……私、そんなに嘘っぽいのかな」


ふと地面に視線を下ろす。あるはずのない影がふたつあることに気がついて、ハッと顔を上げた。


「うん。嘘っぽい。」


白い歯を見せて笑う領がそう言って目の前に立っていて、私は声が出ないくらいビックリしてしまった。担任のヤツ、私だけじゃなくてお気に入りの生徒みんなにこの場所を教えていたらしい。


「……いつからいたの?」

「今来たとこ」


高城領は、いつものようには笑わなかった。笑顔は笑顔なんだけれど、どこか落ち着いた、そんな微笑み。黙って私の横に座り込むものだから、私もフェンスにもたれかかる。

なんか、ヘンな感じ。

屋上は空気が美味しくて、2人きりの空間なのにちゃんと息が吸えている。高城領って不思議なひとだ。

こんなに人と関わったのは、本当に久しぶりのこと。


「私、嘘っぽいんだ?」

「うん。ものすごーくね」


そこまで聞いて、ガクリと肩を落とす。高城領はきっと、私が本当は全然イイコちゃんなんかじゃない事を知っている。


「もっとさあ」


唐突に、沈黙が破られる。強く吹いた風が高城領の茶髪の髪を揺らした。上から見上げているからか、いつもより小さく見える高城領。私の方は見ないで、真っ直ぐ前を向いている。


「もっと、自分の思ってること言えばいーじゃん。昨日、俺に怒ったときみたいにさ」


高城領が空を見ていた。
右手を上げてまっすぐ上を指差すから、私もつられて空を見上げる。


「なあ、知ってた?屋上から見える空が、こんなにキレイなこと」


その声に、高城領の方を向く。そこでやっと、高城領がいつものように二カッと白い歯を見せて私を見た。

私はもう一度上を見上げて。どこまでも広がる空は、信じられないくらい青かった。


「……キレイだね」

「でしょー?」


ああ、そっか。わたし、空の色まで忘れていたのかもしれない。こんなに青い空が、どこまでも続いているなんて知らなかった。


「空気が、おいしいね」

「うん」

「雲が、流れてるね」

「うん」


本当に当たり前のことを、ポツポツ呟いて。高城領はそんな私の言葉に、相槌をうって頷いてくれた。


「……私、全然知らなかった」


なんでかな、わかんないよ。

だけどね、ただ、空が空気が、この世界が。あまりにも広くて、きれいだったから。


「……私ね。
本当はすごい、できそこないなの」


隣で相槌を打つこの人に、本当のことを聞いてもらいたいって思ってしまったんだ。




「できそこない…?」


 高城領の言葉に重なるように、授業の始まり5分前のチャイムが鳴り響く。私たちはそれに一瞬固まって。

 でも。

 高城領は動こうとしなくて、私もまた動こうとは思わなかった。なんでかなんて、そんなことわからないけど。真っ直ぐ見つめてくれる高城領の目が、私に行くなって言ってる気がしたからかもしれなかった。


「……私の話、聞いてくれる?」


 いつからだろう。

人に話を聞いてもらうことが怖くなったのは。人と、関わることをやめたのは。

それでも、何故か私は、きみに、領に、聞いてもらいたいと思ったんだ。


「うん。聞かせて?」


 高城領は、いつもより優しい笑顔で私を見上げた。私はその言葉に、ズルズルと座り込む。高城領の隣に。


「……あのね」

 空は青いし、雲は白いし、風は冷たくて、当たり前のように私達は息を吸う。

そんな当たり前のことが、何故だか今は泣きたくなるくらいキレイなことだと思うんだ。