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 White spring with you !

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 1.逆立ちして迎える







 ザワザワと騒つくテスト返しの教室内。教卓の目の前、つまりクラスメイトたちの真ん前に、世界史担当兼このクラスの担任である坂口先生が私を呼んだ。


「よし。片桐、今回も素晴らしいな。先生は鼻が高いぞ」


少し小太りの坂口先生は、まるで自分がエライみたいに鼻高々に成績表を差し出した。ニコリと笑ってそれを受け取ると、背筋を伸ばして先生に背を向ける。表情は決して崩さない。

 自分の席に着いた瞬間、机の下で渡された紙切れを開いてにサッと目を通す。

手の中にあるその紙切れには、数学から古典まで、文理関係なくすべての教科の下に『 1 』という数字が並んでいた。


———すべて1位だ。


もちろん、クラス順位も、学年順位も。

 その結果にほっと胸をなでおろすと同時に、緊張感が抜けたからか周りの声が妙にハッキリ聞こえ始める。


「すっげぇー」
「また1位? 頭どうなってんの」
「天才は違うよなあ」


 そんなクラスメイトの声が耳に入った途端、私の胸はドキリと音をたてる。まだ教壇の上で偉そうに笑っている担任も、わざわざみんなの前で言う必要なんてないのに、と思う。

 結果を見てしまった成績表はもう必要ない。机の下でそれをクシャッと丸めてから、私はまた背筋を目一杯伸ばした。


 まだだ。
まだ、全然すごくなんかない。


 だって、完璧じゃないから。


「あーもうテスト悪すぎー」
「てかアタシ、今回赤点確実だわ」
「それはヤバイって」


 派手なメイクをした、喋り方もこれまた派手な女の子たちの集団の声が耳の横を通り過ぎていく。

───うるさい。

 ただでさえ1時間目から音楽という最悪の授業日程に嫌気がさしているというのに、わざわざ大きな声の愚痴を聞きたくない。

 ガタリ、とわざと大きな音を立てて席を立った。私がそんなことをしたって何の影響力もないことはわかっているのだけれど。

 移動教室ほど面倒なモノはないと思う。移動が面倒くさいのもあるけれど、一緒に行く友達とやらが存在しない私にとっては尚更だ。それに、校舎の3階、いちばん端にある音楽室に行くのはムダな時間にしか思えない。


「……はあ」


 思わずためいきをつく。ひとりで歩くのにはもう慣れた。けれど、ひとりきりの廊下だからこそ、こんな盛大にため息を吐いたって聞いている人は誰もいないだろう。

 音楽が苦手教科だからっていうのもあるけれど、こんなに憂鬱な気分になっている原因は自分でわかりきってる。


───また、完璧じゃなかった。


 ポケットの中でぐちゃぐちゃに丸めた成績表を取り出して、親指でそれを軽く広げて見直してみる。

満点と90点台、加えて並ぶ順位は『1』ばかりの中、ひとつだけポツリと89点。順位は『2』。


……やっぱり、コイツが原因だ。


───音楽。私の最大の苦手教科。


 せっかく広げた成績表をまた丸めて、ポケットへとつっこんだ。喉元に広がった詰まったような悔しさと不安と情けなさ、そして怒りも一緒に飲み込んで。







「ハイ、じゃあ日直号令かけてー」


 チャイムが鳴った瞬間、騒がしい生徒たちの声を遮って音楽担当の野村先生が手をパンパンと二回叩いた。若くて端正な顔立ちの野村先生は女子からも男子からも人気がある。手をたたくのは野村先生お馴染みの授業が始まる合図だ。


「ハイハイー! きりーつ! ……ってオイ! おまえら立てよー!」


 ハハハッて、一旦時間を置いてから立ち上がったクラスメイト達に一瞬にして笑いが生まれた。

 号令をかけたのは、今日日直の高城(たかしろ)くん。彼が号令をかけるとき、大抵このやりとりが毎回行われる。何が面白いのか私には理解し難いけれど、人気者の彼だからこそ生まれる笑いだってことは容易にわかる。

……まあ、私は興味ないけれど。

たまに目に入る茶髪な毛が、どうしようもなく鬱陶しいと思うことだけは確かだ。


「さ、みんなテスト返ってきたな? 出来はどうだった?」


野村先生が成績表らしきものを見ながら話し出す。さっき見た『2』という数字が頭の中にチラついて胸の奥がモヤっと曇る。思い出したくないけれど、その数字をとってしまったのは自分の努力不足だってこと、ちゃんとわかっているからこそ余計に苦しくなる。


「おれ、音楽はできたー!」


 勢いよく手を上げてそう叫んだのは、またもや高城くんだった。これまたみんな高城くんの方を向いて笑顔になる。彼の声はどこにいてもよく通る。


「オマエは音楽だけだろ!」

「ウルサイ、体育も出来るし!」


 高城くんのトナリの男子が「勉強できねーくせになー」なんてツッコミをいれると、クラス中にまたどっと笑いがおきる。こういうやり取りは音楽の授業中だけじゃない。先生達も彼らみたいな人種が好きなのはもうわかってる。

 彼らみたいな能天気で何も考えてない人種が、私は心底キライだ。努力も何もしないくせに、楽しそうに笑うことが出来ることがどれだけ恵まれたことなのか、きっと一生かかってもわからないであろう人たち。


「はいはい、いつも元気だなーおまえらは。俺、今回のテスト難しく作ったつもりなんだけどねー」


 野村先生が笑って、冗談交じりで話す。『つもり』ってどういうことだろう。『音楽はできた』という高城くんに対しての言葉だろうか。




「おれには簡単すぎたよ先生ー」

「んーそうみたいだなー。高城はホント音楽だけ出来るみたいだからまいるよ」


 高城くんは嬉しそうに笑った。その会話を聞いていたクラスメイトが、「おまえ何点だったの?」と高城くんに尋ねると、彼は笑顔で「94点!」と返す。


「ちなみに高城が学年最高得点なー」


 クラス中にどよめきが起きる。私だってビックリだ。音楽と体育は出来るって豪語していた高城くんだけれど、まさか私より上の———『1位』をとっているだなんて思ってもみなかった。


「もー先生、そんな俺のこと褒めないでよっ」

「おまえ授業態度がよければ言う事ないんだけどなー」


 クラス中に笑いが起きる中、私は上手く笑うことができないでいた。いつもなら、周りが笑うタイミングに合わせてきちんと笑顔を作ることができるのに。


 笑えない。


だって、私よりずっとずっと努力なんてしていない彼に、私が欲しくてたまらないものを取られたんだもの。何でも簡単に手に入れてしまうような、そんな人のくせに、どうしてそんなところまで奪っていくの、って。

黒い感情が溢れて止まらない。




「えーっと、じゃあテストの話はここまでとして。
11月にある合唱コンのパート決めを今日はしようと思うんだけど」


 先生の声にみんなからブーイングの嵐が起こる。その声で我にかえってきちんと前を向く。

 合唱コン。ブーイングが起きるのも無理はない。

 間違いなくうちの高校の馬鹿げた行事ナンバーワン。中学生でも今時真面目になんてやりたがらない。みんなで心を一つに!なんてのがお決まり文句の合唱コンクール。正直アホかとも思ってしまう。誰が好んでそんなことをやりたいだなんて言うだろう。高校生のこんな時期に、クラスで合唱だなんて馬鹿馬鹿しいにもほどがある。



「ホラホラ、そんなに文句言わないの。ウチの学校の伝統なんだから。じゃあ、女子はアルトとソプラノで希望取るから」


 先生が忙しそうにプリントを配りだす。たぶん課題曲の楽譜だろう。うちの学校が馬鹿みたいに伝統として続けてきた合唱コンだけれど、毎年どのクラスも適当ソコソコに終わらせるだけ。意味なんて全然ない。

 だいたい、今時高校生で合唱ってどうなの。

 11月に行われる文化祭の前日が合唱コン。元々、クラスの団結を目的に始まったらしいけれど、正直高校生にとってのメインイベントは合唱コンよりも断然文化祭のクラス別出し物だし、そっちの方がより仲も深まる。少し考えればわかることだ。

 それに、今はまだ夏休みにも入っていない、期末テストが終わったばかりの7月。準備が早すぎると思う。


「じゃあ、ソプラノやりたい人こっち集まってー」


 課題のCDを聴いたあと、野村先生の指示に従ってパート決めをする。ソプラノっていう声に私も足を動かそうと思ったけれど、その足をピタリと止めた。
 
 どうしてかって、ソプラノ希望の人たちが、私とは真逆の、派手でクラスの中心的人物な人たちだったから。

 濃いメイクに短いスカート。いつも無駄にうるさくて、会話の内容を盗み聞きしているかぎり頭の出来もよろしくない。可愛くてキラキラして、———例えば高城くんの隣にいても問題ないような、そんな女の子たち。


 しぶしぶと、私は反対方向のアルトに足を動かした。




「うーん……アルト多いねぇ」


野村先生が悩んだ口調で首をかしげた。

 それもそのはずだ。ソプラノに集まったのは、あの派手な子たちだけ。クラスの中にある見えない階級を、自分が位置している場所を、きちんと理解して生きてる証拠。


「誰か移動する人いない? って、……いるわけないか。困ったなあ。うーん、しょうがないけど簡単なオーディションするしかないね。」


 オーディション。その言葉に怪訝そうな顔を浮かべるクラスメイト達。私だってだ。

 そういえば、去年もアルトが多くてオーディションになったんだっけ。私は幸い少数派だったから、受けなくて済んだんだけれど。

オーデイションは正直嫌だけど、あの派手組みに混ざるのはそれこそ絶対に嫌。

 受けるしかないか。

そう思って、自分の順番を待った。
音楽のテストは嫌いでも、こう見えて歌うのは別に嫌いじゃない。というか、音楽の成績は実技も評価点に入るから、気を抜けないっていうのもある。歌を歌うのも楽譜を読むのも、もちろんリコーダーだって。小学生の時からひとりできちんと練習してきた。体育のマラソンだって一緒だ。

元々才能なんてない私は、練習しないと何もできなかったから。





「えっと、オーディションの結果、相川さん、堀池さん…」


 野村先生がザッと6人ほど名前を呼んだ。呼ばれた人たちは顔色を曇らせて何かコソコソ話し出す。


「は、ソプラノにうつってもらいます」


 そこに、私の名前はなかった。希望通りのアルトになれたことに安堵して、ほっと胸をなでおろす。

 オーディションは、主に先生のピアノの前で歌う。ひとりずつ、簡単な音階をピアノと共に歌うだけのもの。それでも、後ろにはパートがすでにきまって練習しているクラスメイトがいたから、すこし緊張した。

 まあ、誰も私のことなんて気にしてないとは思うけれど。


「じゃあ、今日の授業終わりなー」


 オーディションの結果を告げたあと、野村先生がパンパン、と手を二回叩く。タイミングよく授業の終わりを告げるチャイムが鳴って、私はやっと終わったと胸をなでおろした。






「ねーねー!片桐サンッ」


 突然後ろから名前を呼ばれて立ち止まる。

カタギリ、それは自分の名前に間違いないのだけれど、普段先生以外に呼ばれることなんて滅多にないから少しビックリしてしまった。おそるおそる後ろを振り返ると、そこにいたのはどういうことか今日の日直、高城くんだった。

 振り向いた私に、白い歯をニカッと見せて笑顔を作る彼の姿が自分に向いているものだとは思えなくて、思わず眉間にしわが寄ってしまう。

 昼放課、図書室までの誰もいない渡り廊下。

 まさか彼に声をかけられるとは思わなかった。どう返答したらいいのかわからなくて、いろんな言葉が頭をめぐるのだけれど、上手い言葉が何も浮かんでこない。

 こんな昼放課の自由時間、いつもなら人に囲まれている高城くんが私に話しかけるなんて、いったいどうしたんだろう。私、彼に何かしたっけ。


「……なに?」


 迷った挙句、口から出たはそんな言葉。我ながら可愛げの欠片もない。

 高城くんは私の言葉にまたニカッと白い歯を見せて笑った。どうしよう、すごく意味がわからない。

 私は図書室に行こうと思っていたから、そのまま前に向き直って長い廊下を歩き出した。どういう反応をしていいのかわからなかったというのもあるけれど、きっと大した用でもないように思えたからだ。

 だいたい、彼が私の名前を呼んで、わざわざ呼び止める理由がない。

 ……なんて思っていたんだけれど。

何故か、「え、ちょっと、片桐さーん」なんて言いながら私の後ろをついて歩く高城くん。

 いや、本当に意味が分からない。何がしたいんだろう。



 何も返事をしないで無視し続けていると、私の名前を呼んでいた彼の声が止んだ。けれど、ついてくる足音だけは止まらなかった。

 何も言わないまま、私の後ろをついて歩いてくるだけ。足音が重なってなんだかきもちわるい。

 無言の空間はキライだ。騒がしいところも好きじゃないけれど、この空気には息が詰まりそうになる。まるで家にいるときのような息苦しさと窮屈感。

 いい加減、不思議に思って立ち止まった。
そしたら、高城くんも少し後ろで同じように足を止めた。


「何? 私に、なにかあるの?」


 かなり不機嫌なオーラを出したつもりだったんだけど、振り返った先にいた彼はこれまた白い歯を見せて笑っていたものだから少しイラっとする。

 本当は怒ってついてこないで、とでも言おうかと思ったけど、ここは我慢。私の印象をつぶさないためでもあるし、彼を敵に回すのはかなりのデメリットになる。第一、彼だってちょっとからかうくらいの気持ちでやっているんだろう。

 例えば、物静かな優等生に声をかけてみたらどうなるだろう、とか、きっとそんな類の好奇心でしかない。


「うーんと、」


 高城くんは、ポケットに手をつっこんで、少し顔をかたむけてみせた。ゆれるフサフサの茶髪とその人懐っこい笑顔が、なんだか犬みたいだなあと思う。人気の理由はこういうところだろうか。


「俺のバンドの、ボーカルやらない?」


 二カッて、また白い歯を見せて笑った高城くん。まるで当たり前とでもいうように、すんなりとそんな言葉を吐いた彼の気持ちがまったくとって汲み取れない。


「……バンド?」

「うん! あのね、俺いま3人組のバンド組んでるんだけど、ずっとボーカルを探してて——」

「……ごめん、冗談とか好きじゃないんだ。」


 つくり笑いを浮かべてそう言うと、高城くんは「え?」って顔をきょとんとさせた。犬みたいなのは彼の性格のせいでもあるんだろう。

 私は再びムシして止めた足を動かす。後ろでまた私の名前を呼ぶ声が聞こえたけれど、それも無視だ。

 ほんとに、なんなの。イキナリ呼び止めて、何かと思ったらそんな冗談。わらえないってば。

 第一、私と高城くんの接点と言えばクラスが同じ、ただそれだけだ。他のクラス、ましてや他校にまでも顔が広いであろう高城くんがわざわざ私にそんなことを言うわけがない。


「ねーね、ホントに、嘘じゃないの!
俺、超マジメに言ってる!これホント!」


 そんな風に言いながら、高城くんは私の後ろをついて歩くことをやめない。廊下に人がいなくて助かった。ただでさえ人気の彼を無視して歩いているなんてそれでこそ私にデメリットしかないんだもの。

 というか、そろそろ図書室に着いてしまいそうなんだけれど。


「高城くんがどういうつもりで言ってるか知らないけど。例え本当に誘ってくれていたとしても、私そういうの興味ないから。ごめんね。」


 一切振り返らずに、歩きながらそう突っぱねる。けれど高城くんは無邪気な声で「だーかーらー!」って後ろをついてくる。

 本当にしつこい。なんなの一体。いくら高城くんだからと言っても、そろそろ我慢も限界だ。うるさい人は好きじゃないし、そんなウソみたいな話にのるほど私は人付き合いが上手くない。


「ねえ、ていうかさ!高城くんってヨソヨソしいなあ。せっかく同じクラスなのにさっ!領(りょう)でいいよ?」


 ビックリした。

さっきまで後ろを歩いてたのに、いつの間にか高城くんが一瞬で私の前に立ちはだかって、二カッてまた白い歯を見せている。

 とりあえずのこと、彼の人との距離の詰め方が尋常じゃないことはわかった。


「……高城 領。そこをどいてくれない?」

「……片桐 綾乃、俺のバンドに入ってくれる?」


 ふいに名前を呼ばれて顔が熱くなった。

片桐 綾乃(カタギリ アヤノ)、私の名前だ。まさかフルネームを覚えていてくれるなんて思ってもみなかった。


「……入らない」


 なんだかいい思いがしなくて、プイッと横をむく。顔が熱くなったのは気のせいだ。

 名前なんて、それくらいで、恥ずかしい。クラスメイトなんだから知っていたっておかしくない。

名前を呼ばれたのがあまりに久しぶりすぎて、少しびっくりしただけだ。



「俺、綾乃が入ってくれたら、絶対いいと思うんだ」

「突然そんなこと言われても意味がわからないし。第一、バントとか私の柄じゃない」

「そんなことないってば! 綾乃、歌うまいし、可愛いし、カンペキだよ? 絶対ボーカル向いてる!」

「……高城くん、冗談はやめて」

「領でいいよ?」

「……」


 可愛いってなんなの。そんなにサラッと言えるものなの。ていうかそもそも、高城領は私のことなんてなにも知らないじゃない。

 人の中心にいつもいる人って、これだから嫌なんだ。自分の考えにすべての人が賛同してくれているって思ってる。それに、思ってもないことをすんなりと口にする。


「俺さ、聞いてたんだ。合唱コンのオーディション!それで、なんていうか、綾乃の歌声聴いたとき、この子だ!って。直感っていうの?ホラ、なんていうかな、運命?そういうの、感じちゃったんだよね」


 「ね」って顔を少し傾ける。
その顔は物凄く可愛らしいけれど、今はなんだか憎たらしい。


「……運命とか、そういうのホントに馬鹿げてる。だいたい、私は歌なんて上手くないし、バンドなんてやる柄でもない」

「俺、ずっと探してたんだ。俺らの曲を歌ってくれる人。綾乃の声が、まさにイメージピッタリだったんだよ。透き通ってて、キレイで……。自分勝手だってわかってるけどさ、一回だけでも…」

「うるさい、しつこい!」


 感情的になって、声を張り上げてしまった。幸い、聞いてたのは高城領だけだ。

 透き通ってて、キレイとか。私には似ても似つかない言葉。高城領と私は違う。だいたい、バンドってこと自体が私にとったら未知の世界なんだ。カンタンに頷けるわけもないし、高城領の話を信じる理由もない。

 普段の、物静かで優等生のイメージを考えたら、今の私の印象は最悪だろうな。明日から、高城領の取り巻きたちにイジメられたりして。

 でも、これは仕方がないと思う。どう考えたって、こんなからかいを受ける必要なんてないもの。


「……そういうことだから」


 ビックリした顔の高城領の横を通り過ぎる。ちょっと言い過ぎちゃったかもしれない。でも、高城領がしつこいから悪いんだ。




「……ただいま」


 ガチャリ、と音を立ててドアを開く。返事がないのにはもう慣れた。普通の家庭よりも幾分か綺麗で大きな家に住んでいるのは知っているけれど、ここには普通の家にあるものが何もない。

 例えば、愛情。例えば、自分の居場所。

 見慣れない靴があるのに気づいて悪寒がした。高そうな大きなローファーだ。また靴を変えたのか。

 ……お父さん、帰ってきてるんだ。胸がざわついて、息が上手くできなくなる。

 リビングまでの廊下を歩きながら、段々空気を吸うのが難しくなってくる。それは、リビングに近づくにつれて大きくなる両親の話声のせいだろう。

 案の定聞こえてきたのは、言い争っている男女の声だ。私の、お母さんとお父さんの声。


「あなたが悪いんでしょう?!全然帰ってもこなくて!」

「俺だって仕事があるんだっ!
だいたいな、お前はいつもそうやって……!」


 物音をたてないように、リビングの横を見て見ぬフリをして通り過ぎ、いつものように階段をかけあがって自分の部屋に入る。扉の開け閉めの音がしないように、細心の注意を払って。

 自分の部屋に着いた瞬間、ほっと胸をなでおろした。そこでやっと、自分が息を止めていたことに気がつく。

 2階まで、2人の大きな声は聞こえる。顔を合わせればいつもこうだ。お父さんは家にあまり帰ってこないから、久しぶりにこんなに冷や汗をかいた。

 

 今日、成績が返ってくる日だって知っていて帰ってきたのだろうか。カバンの中にいれておいた丸めた成績表をきちんと広げておかないといけない。

 うちのお母さんとお父さんは仲が悪い。口喧嘩はもう日常茶飯事だ。ほんのささいなことで、すぐにぶつかり合う。

 お父さんがめったに家に帰ってこなくなったのもきっとそのせいだと思う。

 帰って来ても喧嘩ばかり。正直帰ってきたくないんだと思う。私だってこんな家に帰ってきたくないのに、大人のお父さんが帰って来たいと思うはずもない。


 昔は、仲のいい3人家族だった。


 それを変えたのは、紛れもなく私のせい。私のせいで家族がバラバラになってしまった。それをちゃんと、ハッキリ、私はわかってる。


「オマエがあの子を……綾乃をちゃんと見ておかないからだろう!」

「私だって母親としてやれることはやっているわよ!」


 視線を下に向げた。目の前では名前なんて久しく呼ばれていないのに、2人の喧嘩には私の名前がよく飛び交う。

 とっさに近くにあった参考書を開いて机に座った。イヤホンをつけて、大音量で音楽を流す。


 問題を解くと、何もがすくわれる気がした。勉強に集中すると、他の物が何も気にならなくなる。この世界から、抜け出せたみたいな気分になれる。


 私は勉強が好きなわけじゃない。
だけど、勉強をしているときが多分一番落ち着いていられるんだと思う。

 勉強という逃げ道しか、私にはない。

 私の存在を肯定してくれるのは、たぶんあの丸めた成績表に写った『1』の文字。ただそれだけだ。


「……おはよう」


 毎朝同じようにリビングのテーブルに用意された食パンと牛乳を見ながら、毎朝同じトーンの「おはよう」に、お母さんは目線だけで返事をする。その、冷たい視線がいつも痛い。

 残すと冷たい視線をおくられるから、食欲がない日でも必ず全部食べなければいけない。本当は、朝にパンは喉元に突っかかって好きじゃない。そんなこと、絶対に言わないけれど。

 今日は珍しくお父さんもいるから、よけい空気が重たく感じるんだろう。何も言わないで新聞を読んでいるだけのお父さんの存在感は計り知れない。

 めったにつけないテレビから漏れる音が、やけに大きく聞こえるのは、この空間がとっても静まり返っているからだ。食事中、家族で会話を交わすというごく当たり前のことでさえ、うちには存在しない事。

 できるだけ急いで朝ご飯を飲み込んだ。食器を自分で片付けてから、沈黙の中リビングを出る。私の背中にかかる言葉はないけれど、毎日玄関で静かにそっと「いってきます」と呟くのは私の中の意味のないルールだ。


 そして今日も、つまらない一日が始まる。




「おーはよっ!」


 誰もいない下駄箱。今日はいつもより少し早く家を出たから、大分早く学校に着いてしまったと思ったんだけれど。

 朝から屈託のない笑顔でそう言って私の背中を勢いよく叩いたのは、あの高城領だった。

 ビックリして顔が固まったのも無理はないと思う。

 だって、私は領の前で大声を張り上げたんだもの。普段の私のイメージからして、絶対にありえないこと。

 再び声をかけられる日が来るなんて思わなかった。というかむしろ、イジメにでもあうんじゃないかってビクビクしてたっていうのに。


「おーい? 綾乃? おはよって言われたらおはよって返してよー!」


 クラスにいる時と同じテンションで言う高城領は、私の目を見つめてそう笑う。その屈託のない笑顔にウソは一つもないみたいに見えるから困る。

 周りに人がいなくてよかった。高城領のファン……というより、彼にはとにかく友達が多いから、2人で話しているところを見られてやっかみを買うなんて事だけは避けたい。

 昨日、初めて私は私のイメージを人前で壊した。物静かで、ひとりが好きな優等生。そんな私のイメージを。ひかれて、当然だと思ってたのに。

 まさか、まだ話しかけて来るなんて思ってもみなかった。




「……おはよう」

「おっ!なんだ、ちゃんと言えるじゃんー!」


 また白い歯を見せて笑った高城領。それにうまく表情を作れない私。同じ人間なのに、どうしてこうも違うのだろうと思ってしまう。

 だって、なにがそんなに楽しいの。どうして私の目の前で、笑えるの? 私なんかに、笑顔を向けることが出来るの。

 あまりにも私が固まっていたからだろう。高城領は不思議に思ったのか、今度はきょとんと私の顔をのぞきこんだ。


「綾乃?」

「……なんで……?」

「何がっ?!」

「だって昨日、私、すごい感情任せに大声出して、あなたを拒絶した。ひかれたと、思ってたの……違うの?」


 自分でも、なんでこんな事を言っているのかわからなかった。ただたどしく口から零れ落ちた言葉は想像以上に情けなくてカッコ悪い。でもだって、高城領があまりに屈託のない笑顔で笑うから。

 高城領は、元々まん丸の目をさらに見開いて、ブハッと吹きだした。


「アハハハハッ!そんなのでひくわけないじゃん!綾乃おもしろー!まあ、ちょっとは驚いたけどさー」


 高城領が突然歩き出したから、咄嗟に私もその後ろをついて歩く。向かう教室が同じなんだから仕方ない。

 でもこれじゃ、昨日と立場逆転だ。



「驚いたよね、そーだよね……」


 物静かでひとりが好きな優等生。周りに貼られたレッテルと、自分自身が決して破ってこなかった周りからの評価。

 それに比べて高城領は、クラス内どころか学内イチの人気者。この学校で領の名前を知らない人なんてきっといない。いつも笑っていて、いつも人に囲まれていて、そのくせ誰にだって優しくて。……分け隔てなく人に優しくできる彼のことを、私本当は知っていた。

 朝日で出来た私と高城領の影を見て、私と彼は本当に正反対だなあとつくづく思う。例えるなら、光が高城領でそれで出来た影が私だろう。


「うん、驚いたけど、嬉しかった。」


 ハハッてまた領が笑う。少し前を歩いてるから、表情は見えないけれど。


「……嬉しかった?」

「うん。すっごい嬉しかったなー。だって、綾乃の本当の姿でしょ?アレは。」


 そう言われて、ガツンと鈍器で頭を叩かれたような衝撃に襲われた。驚いたのかなんなのか自分でもよくわからないけど、足が動かなくて思わず立ち止まってしまう。

 だって。“本当の姿”?

 高城領が後ろを振り向いて、いつもの笑顔でニカッと笑う。

この人は、笑うことしかできないんだろうか。こんなに笑顔が似合う人を、たぶん私は今まで見たことがない。



「……じゃあ、今の私は、嘘の姿なのかな」


 止めた足を、再び動かして呟く。高城領も前を向いて、歩き出す。どうしてこんな風に、会話を続けてしまうんだろう。高城領の笑顔は魔法か何かなのかもしれない。


「んー。別に、嘘の姿とかそういうことじゃないよ。でもさ、綾乃って、いろんなこと我慢して生きてるんじゃないかなーって思ってさ」

「……なにそれ」

「うーんとね、例えば」


 その先の言葉が気になって高城領の後ろを歩く事をやめない私は、どうかしてるのかも。


「本当は昨日みたいに言いたいことがあっても、誰にも言わないで飲み込んでるんじゃない?」


 高城領が、昨日私の目の前に立ちはだかった時みたいに、超高速移動で顔をのぞきこんできた。移動が早すぎると思うのは私だけだろうか。彼は人と関わるスキルがあまりにも高すぎる。


「……違う」

「ウソだー! だって綾乃、今ホントは俺のことなんなのコイツって思ってるでしょ!」

「……それは、若干正解」


 ふ、って。高城領が面白そうに頬を緩めた。いつも白い歯を見せて笑うのとはちょっと違う、目を細めて優しそうな笑顔。それからやんわりと、彼は口角をおろした。


「嘘が上手いよね、綾乃は。でもそれじゃ、自分は幸せになれないんじゃない?」


 初めて見たと言ってもいいほど真面目な顔をしてそう呟いた高城領は、いつの間にか着いていた教室へと一足先に入っていった。

 後ろからやってきた派手グループの輪の中に入る高城領。それはあくまでも自然なこと。むしろ、さっきまで彼と会話をしていたことが私にとっては非現実なことなのだけれど、何故だか無性に泣きたくなった。

 それはもしかしたら、高城領が突飛でおかしな、けれども随分と的を得た事実を言葉にしたからなのかもしれなかった。





──キンコンカンコーン…

 お昼休憩を合図するチャイムが鳴り終えて、私はホッと息を吐き出した。日直の号令と共に授業は終わって、教室内の空気が一気に暖かくなる。

 今やったばかりの数学の問題、この間予習した時は出来ていたはずなのに解くのに随分と時間がかかってしまった。今日は当てられなかったからよかったものの、これがテストだったらと思うと冷や汗が出る。

 それがどうしてだなんて、原因はわかりきってる。

 高城領のせいだ。朝から彼の言葉とあの笑顔が頭にチラついて、どの授業も全然集中出来ない。家で今日の範囲を総復習しないと思うと心の底から自分が情けなくなってくる。

 お昼休憩は堅苦しい授業から開放される至福の一時なんだから、いつまでもこんなことでグダグダしてるわけにはいかない。お弁当を急いで食べて、いつものように図書室に向う。これが私の毎日の日課。

 ……だったはずなんだけれど。

 何を思ったのか、私の足は何故か屋上へと向かっていた。本来なら開いていないはずのそこが鍵が壊れていると知ったのは、小太りの担任が前に「息抜きにどうだ」と勧めてくれたからだ。教師が言うことか、とも思ったけれど。

 なんとなく、今は外の空気でも吸いたい気分だったんだ。ただ、それだけ。


「はあ……」


重たいため息をついて、フェンスにもたれかかる。屋上の鍵は本当に壊れていて、どこまでも広がる青空に私は目を奪われてしまった。あの担任、意外と良い場所を教えてくれるじゃないか。


───嘘を、ついてる。


自分を、偽ってる。本当の私は、こんなに真面目で、こんなに勉強熱心でもない。イイコちゃんを演じていても、内心はみんなに悪態をついている。

そんなこと、自分が一番よくわかってる。私は決して完璧な人間じゃないし、優等生でもない。むしろ、本当に最悪な人間だと思う。

けれど。

どうしてそれを、高城領が言うの?どうして一回しゃべっただけの高城領がそんなことに気づいたの?


「……私、そんなに嘘っぽいのかな」


ふと地面に視線を下ろす。あるはずのない影がふたつあることに気がついて、ハッと顔を上げた。


「うん。嘘っぽい。」


白い歯を見せて笑う領がそう言って目の前に立っていて、私は声が出ないくらいビックリしてしまった。担任のヤツ、私だけじゃなくてお気に入りの生徒みんなにこの場所を教えていたらしい。


「……いつからいたの?」

「今来たとこ」


高城領は、いつものようには笑わなかった。笑顔は笑顔なんだけれど、どこか落ち着いた、そんな微笑み。黙って私の横に座り込むものだから、私もフェンスにもたれかかる。

なんか、ヘンな感じ。

屋上は空気が美味しくて、2人きりの空間なのにちゃんと息が吸えている。高城領って不思議なひとだ。

こんなに人と関わったのは、本当に久しぶりのこと。


「私、嘘っぽいんだ?」

「うん。ものすごーくね」


そこまで聞いて、ガクリと肩を落とす。高城領はきっと、私が本当は全然イイコちゃんなんかじゃない事を知っている。


「もっとさあ」


唐突に、沈黙が破られる。強く吹いた風が高城領の茶髪の髪を揺らした。上から見上げているからか、いつもより小さく見える高城領。私の方は見ないで、真っ直ぐ前を向いている。


「もっと、自分の思ってること言えばいーじゃん。昨日、俺に怒ったときみたいにさ」


高城領が空を見ていた。
右手を上げてまっすぐ上を指差すから、私もつられて空を見上げる。


「なあ、知ってた?屋上から見える空が、こんなにキレイなこと」


その声に、高城領の方を向く。そこでやっと、高城領がいつものように二カッと白い歯を見せて私を見た。

私はもう一度上を見上げて。どこまでも広がる空は、信じられないくらい青かった。


「……キレイだね」

「でしょー?」


ああ、そっか。わたし、空の色まで忘れていたのかもしれない。こんなに青い空が、どこまでも続いているなんて知らなかった。


「空気が、おいしいね」

「うん」

「雲が、流れてるね」

「うん」


本当に当たり前のことを、ポツポツ呟いて。高城領はそんな私の言葉に、相槌をうって頷いてくれた。


「……私、全然知らなかった」


なんでかな、わかんないよ。

だけどね、ただ、空が空気が、この世界が。あまりにも広くて、きれいだったから。


「……私ね。
本当はすごい、できそこないなの」


隣で相槌を打つこの人に、本当のことを聞いてもらいたいって思ってしまったんだ。




「できそこない…?」


 高城領の言葉に重なるように、授業の始まり5分前のチャイムが鳴り響く。私たちはそれに一瞬固まって。

 でも。

 高城領は動こうとしなくて、私もまた動こうとは思わなかった。なんでかなんて、そんなことわからないけど。真っ直ぐ見つめてくれる高城領の目が、私に行くなって言ってる気がしたからかもしれなかった。


「……私の話、聞いてくれる?」


 いつからだろう。

人に話を聞いてもらうことが怖くなったのは。人と、関わることをやめたのは。

それでも、何故か私は、きみに、領に、聞いてもらいたいと思ったんだ。


「うん。聞かせて?」


 高城領は、いつもより優しい笑顔で私を見上げた。私はその言葉に、ズルズルと座り込む。高城領の隣に。


「……あのね」

 空は青いし、雲は白いし、風は冷たくて、当たり前のように私達は息を吸う。

そんな当たり前のことが、何故だか今は泣きたくなるくらいキレイなことだと思うんだ。

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今でこそあんなにも壊れてしまっているうちの家族だけれど、最初から関係が悪かったわけじゃない。むしろ、昔は本当にごく普通の仲のいい3人家族だった。

 優しいお母さんと、仕事熱心なお父さん。平日はお母さんが作る美味しい食卓を家族3人で囲んで、休みの日には一緒に遊びにも出かけたし、美味しいものをたくさん食べに出かけたりした。

 動物園や遊園地、水族館に映画館。家族でいろんなところに行った。お父さんもお母さんも優しくて、ずっとずっと笑っていた。笑うことが当たり前だった。


 それだけじゃない。今でこそいつも一人でいる私だけれど、あの頃は仲のいい友達もたくさんいた。小学生の頃の私は、どちらかというと高城領みたいに常に周りに人がいるタイプの人間だったと思う。

 昔から頭の良かった私は、先生にも親にも褒められ、可愛がられ、周りに好かれながら、何不自由ない生活をしていた。


 世界は、私だけで輝いていた。



 そんな私に、周りは大きな期待を抱いていた。

 小学校のテストはほぼ100点しか取ったことがなかったし、入学試験が難しいと噂の有名な塾には一発合格で通っていた。

クラスメイトたちはわからない問題があれば私に聞きに来たし、先生たちは何を聞いても答える私を授業中嬉しそうに何度もあてた。

 確か学級委員も何度もやらされた気がする。その時の私はそれすら当たり前のことだと思っていた。だって、クラスで1番しっかりしているのはこの私だって自分で知っていたから。


 そんな順風満帆な小学校時代を過ごした私にとって、失敗や挫折なんていう言葉それ自体が無知だったのだ。

 周りの人間たちは、私に期待を抱いていた分、期待はずれだった時のショックが大きかったんだろう。



 私は、中学受験の失敗をした。



 それが、私の人生初の挫折だった。有名な難関私立中学の受験。親も、先生も、クラスメイトたちも、私だって、合格を信じて疑わなかった。絶対に受かると思ってたんだ。完全に己惚れていた。

 受験票に載った自分の番号が、合格者一覧の数字から抜け落ちているのを発見した時、『こんなことがあるのか』と本気で思った。それくらいに自信があったし、落ちるはずがないと思っていたんだ。今考えれば、随分と自分を驕った考えだとは思うけれど。

 そうして中学受験に失敗した私は、みんなが行く公立の中学へと進学することになった。それが何故だかとても惨めで、惨めで、仕方なかった。


 だって、あんなにも私を囃(はや)し立てた周りの人間たちは、いとも簡単に私から離れていったのだ。



 中学へ入学後、私から友好関係という言葉は一切消えた。

偉そうに学級委員までやっていた私が、簡単に受験に失敗したのがそんなに面白かったのか、周りは私のことを笑い者にしていた。特に、クラスで1番派手なグループの子たちが。


『先生のお気に入りだったのにね』『あんなになんでも出来ます!ってオーラだしといて、落ちたんだって』『でも片桐サンってちょっとウザかったよねー』『それ、私も思ってた!』『何様?って感じー?』

キャハハハ。聞こえるように言うのが彼女たちのポリシーだったみたい。笑い声が耳に響いて、もうこんな耳いらないとまで思った。

 友達がいないどころか、しゃべる相手すらいなかった。

 そりゃあそうだ。入学早々から1番派手なグループに目をつけられた私に構ってくれる心優しいニンゲンなんて、星の数ほどいる中のほんの少数なんだから。私の場合、その少数派は1人たりともいなかったけれど。

 でも、その時はまだお母さんもお父さんも私に希望を持ってくれていた。家に居場所があった。


「次があるわよ」
「高校受験を頑張ればいい」
「最終学歴で勝てればいいのよ」
「綾乃は頭がいい、自信を持つんだ」


そんな言葉を浴びせられたら、私は勉強するしかなかった。悔しくて、悔しくて、辛くて、苦しかった。

 その時から、勉強は私の唯一の逃げ道になった。「1」の文字が、私を助けてくれていたんだ。

 耐え抜いた中学時代。楽しかったことなんてもうあまり思い出せない。ていうかそもそも、楽しかった思い出なんて存在しないのかもしれないけれど。

 やがてやってくる高校受験に、私は県内イチの進学校への受験を選んだ。中学受験のあの悔しさを、どうしても払いたかった。でも。


 私はまさかの、高校受験も失敗した。



 私なりに頑張ったつもりだった。中学3年間、トップ3を逃したことはなかった。通知表は常に5が並んだ。評価を得るために、苦手な美術や体育の実技もコソコソと練習した。


 勉強して勉強して。


 勉強しかすることがなかったから。毎日そればかりだった。受験日当日、やっと私の努力が報われると思った。やっと、この苦痛から抜け出せると思った。


 けど神様は、それすら許さなかった。


自分の受験番号がのっていなかったのを確認した時、私は思ったんだ。


「終わった」


って。これでもう、私の人生は終わったと、本気でそう思った。だって目の前が真っ暗で、この先どうしていいのかすらわからなかった。


 それから、お母さんの視線が冷たくなって、2人の間に喧嘩が増えた。まあ元々、中3に上がる頃にはもうほとんどこの状態だったところに、私がトドメを刺したのだ。お父さんはあまり家に帰ってこなくなった。


───全部、私のせいだ。中学受験と高校受験に失敗したのも、周りから人が消えたのも、家族が壊れていったのも、お父さんが帰ってこなくなったのも。


 全部全部、私のせいなんだ。

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「それから、もう全部ダメで。人付き合いとか、家族関係とか、……この学校に来てからはほとんど諦めた。私には、勉強しかないんだ。」


 空を見ながら話す私の言葉を、高城領は時々頷きながらちゃんと聞いてくれていた。その横顔に、何故だか目頭が熱くなる。

 だってこの世界に、まだ私の話を聞いてくれる人がいたんだなあって。

 気づけば、もう授業も学校も終わる時刻だった。青かった空が、段々と暖かい色へと変化してきている。それくらい長い間話をしていたらしい。自分では一瞬のことのように感じたのに。

 授業をサボっただなんて、お母さんが知ったら大変なことだ。そして、これまでの私からして絶対にありえないことをしてしまった。


「ごめんね。こんな話、聞かせちゃって」


 苦笑いを浮かべて立ち上がる。高城領に何故こんなことを話したのかわからない。久しぶりに人と関わったから、私はどこか浮かれていたのかも。

 誰だって、こんな話を聞いていい思いなんてしない。むしろ迷惑に決まってる。申し訳ない気持ちを含んだ言葉を選んだのに、高城領は私を引き留めた。


「待って」


 歩き出した足を止めて振り返ると、高城領領が真剣な目で私を見ていた。

 あまりにもまっすぐなその瞳に。吸い込まれてしまうんじゃないかって思うほど、彼の目は綺麗な色をしていた。


「なあ、綾乃」




 すっと、高城領が息を吸い込んだ音が聞こえた。他人の呼吸音。言葉を吐き出すための空気。


「歌にしようよ、綾乃の気持ち。」


 高城領の目が光る。キラキラした目だなあと思う。まっすぐで、曇りのない、キレイな目だ。……けれど、その言葉は私には響かない。


「……ばっかじゃないの」


 こればっかりには、私も腹が立った。

 真剣に聞いてくれていたと思えば、話が逆戻りだ。結局私にそのボーカルとかなんとかいうヤツをやらせたいだけじゃない。ここまで来ると腹立たしいのも通り越して呆れてきた。


「話した私が馬鹿だった。帰る」


 じゃあ、と言って高城領に背を向ける。


「まってまって、違くて。あの、だからさ!綾乃、いつも思ってること隠すクセあるだろ?俺にいま話したみたいに、本当はいろんなこと思ってるのに、押し殺してるじゃん」

「……」

「なあ、だからさ、それ全部、曲にして歌っちゃえばいいよ。伝えたい気持ち、あるんじゃないの? 周りにも、親にも。」

「……結局、私に貴方のバンドに入ってもらいたくて聞きたくも無い話をわざわざ聞いてくれたんでしょ?」


 嫌味たっぷりだ。私の言葉には棘がありすぎる。でも、しょうがないじゃない。本音なんて、言えない。


「ホラ、綾乃。そういう風に、思ったこと口にすればいいんだよ」



「……は?」

「思ったよりも簡単に、ニンゲンって殻を破れるってことだよ」


 何それ。高城領の目は真剣だ。意味わからないよ。聞きたくない。私は止めていた足を動かした。


「なあ、綾乃!」


 私が屋上から下へおりる階段の扉に手をかけたとき、高城領は私の名前を強く呼んだ。引き止められる経験があまりないからか、私の手はピタリと止まる。

〝思ったよりもカンタンに、ニンゲンは殻を破れる。〟

 聞きたくない?高城領の言葉が意味わからない?———本当に?


「音が、曲が、音楽が……誰かの心に伝える事だって、できると思うんだ!」


 サッと風が吹いた気がした。映画のワンシーンみたいに時が止まったんじゃないかと思う。だって、全身が震えるのを感じた。彼の真剣な目が、私を捉えて離さないから。

 高城領の言葉がリピートされる。———音が、曲が、音楽が。誰かの心に伝える事ができる。


「俺は、俺のために綾乃を誘ってるわけじゃない。綾乃のために、誘ってるんだよ。なあ、綾乃。」


音が、曲が、音楽が。誰かの心に訴える。響く、届く、伝える。

背を向けていた高城領のほうに振りかえる。

なによ、どうして。

どうして高城領が、そんなに泣きそうな顔をするの? あなたはいつも、笑っているはずじゃない。



「音楽の素晴らしさ、おれが教えてやる」


 あまりにも真剣なまなざしに、私は不覚にも、感動してしまったりして。彼を見ていたら、私まで泣きそうになってしまう。

 自分でも本当に単純だと思う。今までこんなこと一度だってなかったのに、どうして彼の言葉はこんなにもすんなりと私の中に入り込んできてしまうのだろうかと不思議に思う。

 けれどほんの少しだけ。彼を、高城領を、信じてみたくなったんだ。



「……わかった」



 気づけば落ち葉が地面に落ちてゆくみたいにポロリと口から言葉が落ちていた。高城領が大きな目をさらにまんまるにして私を見る。


「そのかわり、高城領が言う音楽の素晴らしさ、見せてもらおうじゃない……!」


 高城領が、いつもの笑顔を作った。「上等だ!」って声を張り上げて。


───音が、曲が、音楽が。
誰かの心に伝えることだってできる。


高城領の言葉は不思議だ。何故かすんなりと、私の心に響いてくる。信じたくなる。

ねえ、夕日って、こんなに赤かったんだね。青空と同じくらい、とっても綺麗だ。

私、たぶん昨日とは違う今日をスタートさせた。私の世界が変わっていくのかもしれないし、変わらないのかもしれない。そんなこと、まだわからないけれど。

今日という日を変えてくれたのは、紛れもなく高城領だ。




 高城領とメアドを交換した。

友達なんかいなかったし、親と連絡をとるのもほぼ業務連絡のみだから、私のケータイはいまだにガラケーだ。高城領もちょっとビックリしてた。

 カバンのポケットにしまってあったケータイは、ほとんど新品の状態。連絡先を登録するのも久々のことで戸惑ってしまって恥ずかしい。


「じゃあ、明日バンドのメンバー紹介すっから!放課後、明けといてなー!」

「うん、わかった」


 校門を出てそんな会話をしたあと、私たちはそれぞれ反対方向へ歩き出した。送るって言って聞かない高城領には、ちょっと1人で考えたいからとなるべく言葉を選んだ。断るっていうのも意外と気を遣うんだ。

 ひとりで歩くいつもの帰り道だけれど、吸う空気はなんだか違う。

 今日は、本当にいろんなことがあった。大袈裟かもしれないけれど、世界が変わっていくのを感じたっていうのかな。こんなこと、今時映画のヒロインだって言いやしないだろうけれど。

 多分きっと、思い返したときに今日という日がトクベツな日になるんだろう。何故だかそんな予感がしてるんだ。

 ……でも、まだ一つ残ってることがある。それは私にとって最大の難関だ。


「……よし」


 一度立ち止まって深呼吸をしたあと、覚悟を決めて再び歩き出す。吸い込んだ空気は、やっぱりいつもと違う味がした。




 家に着いたのはいつもより30分遅い時間だった。

 制服のままリビングに入ると、いい匂いが鼻をくすぐった。すくむ足をなんとか動かして、広いリビングの中を音もたてずに進む。

 無表情で夕飯の支度をしているお母さんは、私が部屋に入ったのに気づいたのか気づいてないのかさえわからない。今日はお父さんがいなくてよかったと心底思う。

 ジュージューと、フライパンの上で何かが焼ける音。漂う匂いに空腹を感じるけれど、緊張で今はそれどころじゃない。

 ……言わなきゃいけない。


「……お母さん」


 それは、本当に小さな声だったと思う。震えたそれに、なんて自分は弱い人間なんだろうと情けなくなってくる。聞こえたのかどうかわからなかったけれど、お母さんはゆっくり私に顔を向けた。

 面と向かってしゃべるのは、いつ以来なんだろう。

 夕食と朝食以外の時間、私はこのリビングという空間にいたことがない。だから、お母さんが料理をする姿を見るのだって、本当に久々のことで。

 お父さんが帰ってこないうちの家庭で、お母さんが毎日きちんと料理をしてくれているのが私のためだってこと、わかっていたけれど。目の前にすると、やっぱり胸が痛くなる。


「……どうしたの?」


 凍りついたような空気があたりを漂う。冷や汗が止まらない。ぎゅっと、服のすそをつかむ。高城領の言葉を思い出す。

───嘘ばかりついてるって言っていた。思ったことをもっと吐き出せばいいと、そう言ってくれた。


「……わたし、明日から部活やることになったから……帰りが少し、遅くなる」



 なんて言葉を返されるのか、怖くて顔があげられない私はまだまだ弱いと思う。


「……勉強の妨げになるんじゃないの?」

 
 冷たく、ひどく冷静な口調でそう言って、お母さんは再び夕飯の支度を始めた。唇をぎゅっと嚙みしめる。

 ダメだ。ここで終わったらいつもと同じじゃないか。諦めたら、ダメなんだ。


" 音が、曲が、音楽が。
誰かの心に伝える事だってできる "


「どうしても……やりたいの……!」


まっすぐまっすぐ前を向いて。今にも溢れそうな涙をぐっとこらえた。自分がこんなことを言うなんて、自分でも驚くくらいだ。

でも、高城領が、後ろで背中を押してくれている気がしたの。

 声を荒げた私にお母さんは一瞬こっちを見た。いつも無表情のお母さんが、少しだけ驚いた顔をして。


「……綾乃がそんなことを言うなんて珍しいわね。……好きなようにしなさい。けれど、勉強の邪魔になるようだったらやめなさいね」


いつもみたいにつめたい口調だった。でも、お母さんがわたしの名前を呼んだ。アヤノ。なんだかそれは、とっても特別名前に思えて。


「……ありがとう、お母さん……っ」


それしか言えなかった。今はまだ、それが私の精一杯だった。

 溢れそうになる涙をぐっとこらえてお母さんに背中を向けた。バタンと扉をしめて、廊下へ出る。急いで自分の部屋へかけあがりながら、高鳴る胸の鼓動が騒がしい。溢れ出そうなこの感情を、私はどうしたらいいだろう。




「……っ」


 部屋へ駆け込み、ズルズルとその場にしゃがみ込む。

 悲しいのかな、それはなんだか違う気がする。じゃあ嬉しいのかって聞かれると、それもなんだか違うく思えて。

 だけどね。たった一言だけだったけれど。

私はお母さんに向って、初めて自分の意見を言えた気がする。初めて、面と向かって言葉を話せた気がする。

そしてお母さんも、そんな私を見て驚いてた。当たり前だよね。いつも黙って『いい子』でいた娘が、いきなり反論してきたら驚くに決まってる。


 なんだか今日は、凄い日だ。いろんなことが変わっていく。それは私自身なのか、私の周りなのかはわからないけど。

ただひとつ、お母さんにはバンドのことを部活と言ってしまった。嘘になるけれど、バンドをやるなんてちょっと言いにくかったんだ。


 私、今日始めて自分になれたみたいだ。





「おはっよー!」


いつもながら、彼の声はよく通るなあと思う。姿が見えなくても、誰の声なのかわかってしまったところが少し悔しいけれど。


「おはよ」


 今日は私も、小さな声でそう返事をする。恥ずかしいから顔は下に向けたままだけれど。見なくてもわかる。彼はきっと今白い歯を見せて笑っているんだろう。

 朝、下駄箱、隣には高城領。


「おれ、昨日曲作りめっちゃはかどってさー! すげえいい感じなんだ!綾乃のおかげかなー?」


 教室に向かって歩き出す。昨日と合わせてこれで二回目。隣を歩くのは。

 いつものように笑いながら、ポケットに手をつっこむ。適度に着崩した制服と、ブレザーから覗くグレーのパーカーは領によく似合ってる。


「曲作れるって、すごいよね。私には絶対できないや」

「んー…おれの場合ほとんど趣味みたいなモノだけどね!でも、完成した時の達成感ハンパねーからやめらんないんだよなあ」


 好きなことを話すときのニンゲンってこんなにも嬉しそうな顔をするんだ。知らなかったなあ。高城領の横顔は、なんだか可愛かった。

 背が低くて目線の高さが合うって所も、きっと高城領が女子に人気の理由のひとつなんだろう。



「バンドの人、どんな人たち?」

「キャラ濃いけど中々いい奴らだよー!ぜってー2人とも綾乃のこと気に入るから安心してよ!」


 高城領のバンドメンバーは、彼を含めて3人いるらしい。なんでも、ボーカルだけが見つからなくてずっと探していたんだと。


「……そっか。よかった。
高城領が言うならきっとそうだね」


 高城領はフレンドリーで、私なんかに喋りかけてくれる変わり者。だけど多分、このひとはとても優しい。そう思う。

 でも、他の2人は私の全然知らない人らしい。まあ私が他人に興味があるわけもなく、クラスメイト以外のニンゲンを知るわけがないんだけれど。

 高城領が教えてくれたことと言えば、領と同じバンドに所属していて、同じ学年ということだけ。

……実のところ、私は昨日から大分緊張している。だって、友達がいない歴早3年。いやもっとか。人と関わるなんて、私には未知だ。

 というか、そういえば。領が返事を返してくれていないことに気がつく。


「? 高城領、どーしたの?」


 トナリを歩く高城領。私より少しだけ背が高いから、ちょっとだけ見上げるカタチになる。男子の中では、やっぱり小柄だ。

そんな高城領の横顔は、心なしかほんのり赤く染まっている。


「……もー! 綾乃がヘンなこというからだ」

「え? 私ヘンなこと言った?」

「……なんでもない。ていうか、いつまで高城領って呼ぶ気?!」

「いや、それは、」

「次そう呼んだら許さないからねー!領って呼ぶ練習でもしときなっ」


 高城領が少し不機嫌そうに教室内に消えていく。これまた自然と、クラスの中心グループは高城領を囲むのだ。

 ……領。そう呼んでいいよって何度も言ってくれるけれど、そう簡単にはいかないのが現実で。心の中では気軽に呼べても、いざ目の前にするとやっぱり違う。

 人の名前を呼ぶって、案外のこと難しい。






「…….はあ」


 今日も案の定、授業に集中できない。小太り担任のうざったい授業でも、真面目に聞いてるフリをするのが私なのに、昨日今日はどうかしている。


 自分の席から窓の外を眺める。


 昨日とはちょっと違った空の色が広がっている。そうか、毎日同じ青じゃないんだあって。人の気分が毎日違うように、空の色もきっと毎日違うんだろう。

 放課後。

 何が起こるだろう。私と、高城……領と、そのバンドメンバーたち。本来なら、関わるはずのなかった人たち。

 緊張と、不安と、ほんの少しの期待が混ざった変な気持ち。でも、ワクワクしてる。私の世界が変わることに、私は内心わくわくしているんだ。




______キーンコンカーンコン


 最後の授業の終わりのチャイムが鳴ると同時に、やっと終わった堅苦しい授業に生徒たちが騒ぎ出す。

 なんだか、今日は長かった。物凄く、時間が経つのが遅かった。

 窓の外の空を見る。流れる雲が、まるで私の背中を押しているみたいだ。


「綾乃ー!」


 教室のど真ん中の席。そこから声を張り上げて私を呼んだのは領だ。おかしいな、私。これが誰の声なのか、区別できるようになってしまった。


「はやく行こっ!
俺もう今日、一日がすんごく長くてさー」


 躊躇もなく私の席までやってきた領が、私が思っていたことと同じことを言う。なんだかそれがくすぐったい。

 私と領のコンビが珍しいのか、クラスの人たちがコソコソ何かを話し始める。それもそうだよね、だって領は学内イチの人気者だ。


「早くいこ! 綾乃!」


 領が、躊躇いなく私の手を引いた。重なる手。満面の笑みの領。昨日まで、周りにどう思われるのか気にしてばかりいた私だけれど。

これだけ何も気にしない領を見ていたら。……なんだか、周りを気にするの、馬鹿らしくなってきた。


「早いよ、領!」


 クラスの人が驚いて、私と領を目で追っている。その前を颯爽と通り過ぎていく。

 何コレ、すごい。

 領に手を引かれて走る廊下は、今までと全然違った。そう、まるで、世界が、変わったみたいに。




 廊下を駆け抜けて、階段を上る。領の脚は早くて、ついていくのに必死だった。

 突然領が止まるから、私は領の背中に思わずぶつかって。そしたら領は振り向いて、これまた満面の笑みで言った。


「着いたよ、綾乃」


〝音楽準備室〟と書かれたプレートが掛かった扉を、領が勢いよく開けた。

 ああ、領ってば、待ってよ。

 息整えたいし、走ったせいで髪はグシャグシャだし、なによりまだ、私の心の整理がついてないんだってば───。

 他の2人はどんな人だろうとか、上手くやっていけるんだろうかとか、私でいいんだろうかとか。考える暇もくれないなんて、領はバカヤロウだ。


「おまえら相変わらず来るのはえーなー」


 領が2人に話しかけている。トビラの後ろに隠れた私。ギュってつぶった目をゆっくりゆっくりあけて、一歩前へと踏み出した。



「コイツ、前から言ってた綾乃!今日から仲間だからヨロシクなー!」



領がそんな風にあたしの肩を持った。その力強さに、私もまっすぐ、まっすぐ、前を向こうと思った。

「……領、スキンシップ激しいんじゃない。緊張してるよ、その子」


 そう言いいながら、表情を変えずにこちらをじっと見つめる、黒髪の男の子。首から提げたヘッドホンに、色白だけどハッキリした顔立ち。寡黙そうな、クール属性というやつだろうか。でも、世間では確実にカッコいいって言われる類の人種だ。


「へーえ。これがウワサの綾乃チャンね」


 次に横から口を出したのは、なんていうか奇抜な見た目をした女の子。真っ黒なストレートロングに赤紫が混ざった髪の毛。ムラサキとピンクのネイルをした手で、ベースを持っている。多分ばっちり校則違反だろう。でもすごく、綺麗な子。

 ……なんか私、とんでもないところに来ちゃったかも。

 だって、私を除いてこの3人、容姿の整い方が半端じゃない。人目をひくってこういうことなんだ、って思い知らされる。やっぱり、私とは正反対の場所にいる人たち。

 領がいなかったら、関わる事すらなかったであろう人。



「まあまあ、とりあえず? 綾乃、自分で自己ショーカイできる?」



 領が私の顔を覗き込む。
どうしよう、私こんなの慣れてない。

 ……でも。2人の視線に、一回ぎゅっと目を瞑って、また開く。そして、コクリと頷いた。



「……えっと、か、片桐綾乃です……」


 緊張しすぎて声が上ずる。恥ずかしい。

 私って本当にこういうこと慣れてない。学級委員や生徒会、押し付けられて何度もやったことがあるけれど、そんな雑用係みたいなものとは全然違う。私って、実は人前苦手なんだ。こんな状態で、ボーカルなんてできるのか甚だ疑問だ。


「なに綾乃、そんだけっー?!」


 領が笑う。だけって。私はもっと焦る。何言えばいいかわかんないんだもん、しょうがないよ。今はこれが精一杯だ。

でも、そんなことすら言えるはずもなく。


「えっと、あの……」

「まあいいじゃん、キンチョーしてんでしょ。このキャラ濃いメンツ見たら誰でもそーなるわなー」


 ケラケラと笑いながら、言葉が出ない私にフォローを入れてくれたのは奇抜な格好の女の子だ。口調は男の子みたいだけれど。

でも、なんて優しく笑うひとなんだろう。


「じゃあ、次は俺らの紹介」



 女の子に続いて、黒髪くんがそう言って立ち上がる。手にはドラムスティックらしきものを持って。




「俺は、高沢 浩平(タカザワ コウヘイ)。 ドラム担当兼、ふたりのお世話役」

「はあっ?! お世話役ってなんだよコーヘー!」

「アンタらウルサ。アタシは、赤川 怜(アカガワ レイ)。ベース担当ね。ヨロシク」

「俺は、高城 領!ギター兼、作詞作曲、たまにボーカルもやります! ってことで綾乃、これからヨロシクッ!」



 3人が、私の目の前に立って笑ってる。私を見て、笑ってる。

どうしてだろう。胸がぎゅって熱くて、言葉が出ない。だって、ひとが、私に向かって、ヨロシクって手を差し伸べてくれている。

 小さな部屋に4人。息をする音が聞こえる距離だ。私がここにいる。だって、3人の目に私がちゃんと写っているから。



「よろしく、お願いします……」



 人と関わること。
今まで避けて通ってきた道。

 こんなふうに、誰かと笑い合える日が来るなんて思わなかった。



「てかさ、綾乃俺らのバンド名知らないよね?」


 領がコウヘイくんにじゃれながら、興奮気味にそう言う。知ってるわけがない。だってここは、私の未知の世界なんだから。



「……うん、知らない」

「よっしゃー!じゃ、教えてやる!俺らのバンド名はー」

「「はるとうたたね」」



 領が大きな口をあけて、今にもきっとその言葉を言おうとしたところに、他の2人が声をそろえてそう言った。

そして、ニヤリと笑う2人。領はポカンとして、それから怒り始めた。


「おっまっえっら!! 俺がいませっかく言おうと思ったのに! 横から口出すなアホー!」


 領がコウヘイくんに飛びつく。それに対して、「ばかみてー」って笑う赤川さん。



「ははっ」



そして、そんな " はるとうたたね " のメンバーをみて、私も自然と笑顔が溢れた。



「「「……」」」



わたしが声を出して笑ったからか、3人が動きを止めてこっちを見た。ビックリして笑いが止まってしまった。な、なに、その反応は。


「綾乃が笑った……」
「てか、笑うとチョーカワイイじゃん」
「バッカ言うな怜! 」


 コソコソと何か言っているのが耳に入るけど、もしかして私のことバカにしてる? なんて思ったけれど、3人は咳払いをひとつして私の方に向き直った。



「ってことでー改めて!」

「はるとうたたねへヨウコソ」




───はるとうたたね、spring nap───




私も今日から、ここの一員になるんだ。



「ふう…」


下駄箱で思いっきり深い息を吐く。でもこれは、悪い意味のため息じゃないと思う。

普段の私じゃ絶対に体験できないようなことに色々出くわして、疲れたなあとは思うけど。私にはそれすら新鮮で、自分が吐いたため息を嬉しく思っていることに自分でビックリしてしまう。


 領と他の2人は、これからまだ曲作りと曲合わせをするんだって。『はるとうたたね』は、人数が少ないこともあって部活動として正式には登録していないものの、軽音楽同好会としてあの教室を使う許可はきちんと取ってあるらしい。

 領たちの顔が広いっていうのもあると思うけれど、うちの校風は案外自由だ。赤川さんのあの奇抜な髪型でも学校に通っているのはさすがに驚いたけれど。

 そして私は、とりあえず今日は帰宅。課題はメンバーの名前を覚えてくること!って領は笑ってた。でも、明日から特訓……らしい。それもそうだ。だって私は、音楽に関してはすべて初心者なんだから。



「今日は疲れた?」



 下駄箱で立ち尽くしていたからか、突然後ろから声をかけられてびっくりした。考え事をしていたせいで後ろから人がやってくるのに気づかなかったらしい。

恐る恐る顔を上げると、そこにはさっきまで音楽準備室にいたはずのコウヘイくんが立っていた。




 思わずペコリと頭を下げる。

 さっき一緒にいたのに、いざ2人きりになると困る。人と関わることをやめていた私には、どうしていいかわからない。

 ああ、そうか。さっきまでは領がフォローしてくれてたんだって、今更気づく。



「疲れたというか、こういうことに慣れてないから……。あ、でも、今日はありがとうございました。すごく楽しかったです……」



 とりあえず、そんなことを言ってみる。ぎこちないけれど、きちんと笑えたと思う。作り笑いは得意なはず。それなのに、コウヘイくんは私を見て目を丸くして、そして小さく笑った。

 表情をあまり変えないのに、笑ってくれたことが少しだけ嬉しい。




「なんで敬語? 変わってるね」

「いや、だって……」

「綾乃って、確か学年1位だったよね」

「え、なんでそれを」

「同じ学年なんだから、それくらい知ってる。バンドとか興味あるの?」

「……領に誘われて」

「俺と一緒だね」

「え?」

「ていうか、これから仲間になるんだし、そんなよそよそしくしてたらやっていけないよ。 今日からは友達だとおもって」

「とも、だち、」

「うん、仲間。 俺のことは、コウヘイって呼んでくれればいいよ」



 真っ直ぐ射貫くように、でも優しく私の目を見てコウヘイくんは手を差し出した。無表情だけれど、言葉からも視線からも好意的な気持ちがきちんと伝わってくる。

私のこと、迎え入れてくれてるんだ。

 〝友達 〟、〝仲間〟。聞きなれないフレーズになんだか戸惑うけれど、それと同時に、言葉には表せないほど心臓があたたかくなっているのを感じる。


 私はゆっくりと、差し出されたコウヘイの手を握った。




「えっと、じゃあ、コウヘイ、で」


 たどたどしく。そう言ったら、コウヘイはまた静かに笑った。

 領のこともそうだけれど、誰かの名前を呼ぶのがこんなに恥ずかしいことだって知らなかった。自分の名前を呼ばれるのも、なんだかくすぐったくてなだ慣れないっていうのに。


「綾乃、結構緊張しやすいタイプだ」

「慣れてなくて……」

「真面目だよね、相手がどう思ってるかとか、結構考えてそう」

「ああ、うん、そうかも」

「うん、おれもそうだったからわかるよ」



なんとなく、浩平は私と似ている気がする。あの三人の中では、だけれど。



「あ、私も、綾乃、でいいです、」

「……まだ敬語?」

「……綾乃でいいよっ」



 私なりに頑張っているつもりなのに、コウヘイは無表情のまま痛いところをついてくる。



「綾乃って案外おもしろいね、 今から帰るの?」

「あ、はい、……じゃなくて……うん」

「敬語抜けるの、そのうち慣れるよ。じゃあ、綾乃、気をつけて」

「うん……!」

「バイバイ」

「……バイバイ、コウヘイ」



 誰かに言われる『バイバイ』が、誰かに返す『バイバイ』が、当たり前みたいだけれど決してそうではないことを私は知っているから。



「バイバイ、綾乃。また明日」



そう言って手を振ってくれる人がいるなんて、それだけで泣きそうなくらい奇跡みたいなことだって思うんだ。

 私が見えなくなるまで後ろで手を振ってくれていたコウヘイは、なんて優しいんだろうと思う。

 『バイバイ、また明日』って。人と別れる時って、少しさみしいんだね。でも、その言葉があるから、また会えるって思うんだ。あいさつって、素敵なことなんだね。




「……ただいま」


 重たい扉を開ける。この言葉、もう言わなくてもいいことわかっているけれど。なんとなく、口をついてしまう。

 靴がないから、お父さんは帰って来てない。よかった。今日は2人の喧嘩を聞かないで済む。


「ご飯よ、早くしなさい」


 お母さんがリビングから声を出した。喋りかけられたことにビックリしたけれど、今日は帰るのが遅かったからだろうとすぐに気が付いた。今は丁度、いつものご飯の時間なんだ。


「……うん」


 急いで階段を駆け上がって、制服を着替えてから私はリビングへ入った。

 帰ってこないお父さんの分の食事を見ると、いつも胸が痛む。なんだかんだいって、お母さんはいつもお父さんの分の食事も用意してる。


「……いただきます」


 静かに席について、私も、お母さんも一言も何も言わず、ただ食べるだけの食事。

 それが普通だった。───私が高校受験に失敗してから。


「……部活はどうだったの?」


 だから、そうお母さんに尋ねられたとき、私は心臓が飛び出るかと思ったんだ。





「え? ぶ、部活?」

「どんな部活なの」

「あ、えっと、音楽関係、かな」

「そう……」


 会話はそこで終了する。お母さんはまた食事を始めて、私の方を見ようともしなかった。

 けれど。

 お母さんが、私に話しかけた。気にしてくれた。私の方を見てくれた。高校受験を失敗してから、一度だってこんなことはなかったのに。

 淡々と食事をこなす日々。同じ家にいたって私は空気と同じだ。成績表を見せるときくらいしかろくな会話もない。お母さんだって言葉を並べるのに気まずさを感じているに決まってる。

 だけど、気にしてくれていた。

 
 ……涙が出そうなのをぐっとこらえた。


 嬉しい。たったこれだけのことが、こんなにも嬉しいんだ。





「綾乃おはよーっ!」

「おはよう」


 今日も昨日と同じように下駄箱で出会う私と領。それはもう、タイミングぴったりでちょっとビックリしてしまう。


「お、今日はちゃんと返してくれるじゃん!」

「そりゃあ、おはようくらい返すよ」

「はは、なんか嬉しいなー」

「あのね、昨日。お母さんが……ご飯の時に、話しかけてくれたの」

「え、ホントに? なんて?」


 目を丸くして、まるで自分のことみたいに喜んでくれる領が私の顔を覗き込む。どうしてこんなことを話してしまうんだろうって自分でも不思議でたまらないけれど。


「部活のこと聞かれただけなんだけどね。でも嬉しかったんだ。……ありがとう。領のおかげだ」


 本当は、どうしても言いたかった。昨日からずっと。高城領に話さなきゃいけないって。……ううん、聞いてほしいって思ってた。

だって、こんなにも私の世界を変えるきっかけをくれたのは、まぎれもなく領だから。


「何言ってんだよー!? 綾乃が自分で行動した結果だろ? 俺は何にもしてないよ。綾乃が頑張ったからだ」


 二カッていつものように明るい笑顔を見せて、領が私の頭をクシャッと撫でた。

俺も嬉しい、って歩きながら笑う領。私は今まで、領のことを悪い風に勘違いしてたなあって今更思う。

 この人が周りに人気があって、人の中心にいるのは、きっと当たり前みたいなものなんだ。



「そーいえばさあ、俺今日用事があって途中でいなくなるからさ、怜とコーヘーと練習な? コーヘーがたぶんボーカルのこととか色々教えてくれるから!」

「そうなの? わかった。コウヘイって、優しいよね」


 ピタッて、領が歩みを止めた。
私も動く足を止めて後ろを振り返る。

 驚いた顔で固まってる領がおかしくて思わず笑ってしまったんだけれど、そんなことは気にも留めず領の表情は変わらない。


「……コウヘイ?」

「?……コウヘイがどうしたの?」

「……綾乃、いつからコウヘイって呼んでんの?」

「え……? あ、昨日帰りに会った時に、そう呼んでって言われたから……」


 私なんかが、やっぱり図々しかったかな。領が右手で頭をクシャッとして、足早に私を通り過ぎた。私はそれを追いかけるように後ろを歩く。


「ごめん、やっぱ馴れ馴れしいよね。私なんかが……」

「あー!違う違う。そーじゃなくて……。てか、ジュース買いに行かせた時かー。クッソあいつホントやることはえー…」


 領は頭を右手でクシャクシャかきながら、意味不明なことをブツブツと言いいながら振り返った。


「綾乃が他の男子のこと呼び捨てにしてるの聞いたの初めてだったから、ちょっとビックリしただけ。ゴメンな?」


 なんだ、そんなことか、と思わずホッとする。いつも笑顔の領が珍しく表情を歪めたのがちょっと怖かったんだ。

 ……謝る必要なんてないのに。そう思いながら領の隣に足を進める。


「てか、コーヘーって優しいかー?」

「え? うん。すごい優しいと思う。なんていうか……同じ匂いがするというか」

「ふーん……」



 自分で聞いてきたくせに、興味のなさそうな領。まあ、領は優しいを通り越しているけれど。そんなことは言わないでおく。



「やっぱ、やめたっ!俺、今日いなくなるのやめ!綾乃の練習は俺が見る!」



 うんうん、って頷きながら足を進める領。そんなにいきなり予定変えて大丈夫なの?って聞くと、ダイジョーブって返事が返ってきた。



「ほんと?なら、よかった。領がいるとほっとするし、楽しいから」

「……俺といると楽しい?」

「うん。すごく。世界が輝いて見える」

「……俺も」



 いやに真剣な声だったから、ふと私より少しだけ高い領を見上げた。

いつもの笑顔じゃなくて。もっと優しくて、もっと大切な何かを見るように、領が私を見てた。



「俺もだよ、綾乃」



 その表情が、なんだか少しくすぐったくて。胸の奥が、どくんと音を立てた。



「よっしゃー! 今日もやるぞー!」


 昨日みたいに、小さな音楽準備室の中。領が他の2人が好きなことをやっているのを見てそう叫んだ。楽しそうだなあとその姿を見つめるわたし。


「毎日うっせーなー領は」
「ホント」


 そう言っって他の2人も笑っている。狭い教室の片隅におかれた電子ドラムに座るのはコウヘイ。ヘッドホンをつけた瞬間、コウヘイの顔はいつも変わる。ドラムスティックでリズムを取り出すのは、完全に自分の世界に入ってしまった合図だ。

 一方怜さんは電子メトロノームの目の前でベースを弾いている。ピッキングって言うんだって、領が耳打ちして教えてくれた。


「んじゃー、始めますかっ!」

「は、はい」


 ぐって背筋を伸ばして、いつもみたいに笑う領の顔を見つめる。今日はボーカルについて色々教えてもらったりする予定だったんだけれど……領がガサゴソと自分のリュックをさばくっている。


「あー、あったあった。ハイこれー」


そういって、小さな携帯型音楽プレイヤーを手渡された。それにキョトンとするわたし。


「とりあえず、綾乃の歌唱力を一回ちゃんと確認したいから……このプレイヤーに入ってる曲でなんか歌えるのある? ここに入ってるのなら俺ギターで伴奏できるからさ」


 領に手渡されたプレイヤーには、流行りのJ-POPから洋楽、知らないロックバンドまで様々なものが何百曲も入っていた。

 領って、音楽が本当に好きなんだなあって思う。そして、これならギター弾けるから、ってすごいな。私にはよくわからないけど、きっとすごいんだろう。


「えーと、じゃあこれ、……〝What a wonderful world〟」


 私が選んだのは、英語と音楽の授業で習った、ルイ・アームストロングの名曲だ。最近のロックバンドやJ-popに疎い私にはちょうどいい。一度は誰だって聞いたことがあるだろう。タイトルの和訳は『この素晴らしき世界』。


「綾乃渋いなー。でもわかる、これはいい」


 領が嬉しそうに、部屋の片隅に置かれたギターケースから自分のギターを取り出した。「ジャズっぽいのは得意分野じゃないけど、俺も結構好きだよ」って付け足して。

 そして、ピックで弦を軽くなぞる。その瞬間、頭に曲が浮かんだ。たった一音弾いただけなのに。


「すごい……」

「確かこのコードだったよなー。綾乃の声ならもう少しキーあげて……」



原曲よりも高いキー。確かに女の子には歌いにくい高さだ。わざと歌いやすいようにあげてくれている。すごい。


「よしよし、じゃあいくよ」


 領がいきなりイントロを弾き始める。ゆったりとしたメロディと情緒ある強弱。ギターソロなのに曲の特徴をよくつかんでる。領って実はすごいギタリストなのかもしれない。

 私は領の隣に座って、大きく息を吸い込んだ。

 英語の発音はたぶんカンペキだと思う。伊達に学年1位をやってない。


 流れるような領のギターにのせて、私は歌った。第一声は思わず声が裏返ったけれど、気にせずギターを弾く領の姿を見たら「恥ずかしい」という感情さえ馬鹿馬鹿しく思えてしまって。

 人前だとか、何も気にしないで、目を閉じて。

息を吸い込んで、歌として吐き出す。懐かしいメロディーと歌詞。一回聞いただけで、この曲の虜になった。


 歌うことって、こんなに気持ちよかったっけ?


 領のギターって不思議だ。私の声をまるで支えながら引き出してくれているみたい。歌いやすい。歌うのが気持ちいい。

 夢中になって歌った。
領のギターに重なる自分の声が、信じられないくらい生き生きしていたんだ。



ジャンッ・・・


 荒っぽく弾きあげた一音とともに、わたしの声と領のギターの音が同時に消えた。

 そして、領と目があう。

 途中から、私は何を思ってたんだろう。
 わからないけど、ただ、ただ歌うことが楽しくて、気持ちよかった。自分の声が、こんなに生き生きと発せられたことが今まであっただろうか。

 曲にのめりこむって、きっとこういうことなんだろう。



「……すげえよ、綾乃、すごい」



 目が合ったまま、領が真顔で私にそういう。私はちょっと照れくさくなったけど、たぶん領のギターがなかったらここまで歌うことはできなかっただろうと思う。

 他の二人もいつの間にか私が歌うのを聞いていたらしく、ぽかんと私と領を見ていた。



「すご、びっくりした……」
「てか、領のギターと綾乃の声がスゴイ合ってんの」



自分の頬が熱くなるのを感じた。人に褒めてもらうのって、こんなに恥ずかしいことだっけ。テストの成績表を担任に褒められたときとは、全く違う感情が渦を巻く。

あったかくて、心地いい。



「あー、おれ、ギター弾いてて超気持ちよかった」

「綾乃の声と合ってんだよ。てかイキナリでそんな息ピッタシに歌えるもん?」

「領がボーカルよりダンゼンいい」

「うるせーよ怜!」



3人の声も、なんだか遠く聞こえてしまう。自分の中で鳴っているこの鼓動に戸惑いを隠せなくて。

私、もっと歌いたいって思ってる。

胸がドキドキして、止まらない。もっと、もっとやってみたいって思ってる。



「私、頑張る……」



人前で歌を歌うこと。自分にできることは、勉強することだけだって思ってた。やりたいことは、完璧を追い求めることだけだって思ってた。

でも、わたし、いま。
自分の意思で、歌いたいって思ってる。



「綾乃がやる気だ! おれらも負けてらんねーなー!」

「うっさい領」
「声がでかい」

「はああ!? なんだよ人がせっかく盛り上げてんのにさー!」





「んじゃー今日はここで解散なー!」


あの後、発声練習法や発音練習法とかを領に教えてもらった。あと、少しだけ曲作りを見せてもらったりして。

時間はあっという間に過ぎて、下校時刻はすぐにやってきた。


「じゃあなー!」
「んじゃ」
「バイバイ」


3人に同時にそう言われてちょっと笑えてしまった。私も笑ってバイバイ、と返す。

領とコウヘイは、何やら怜さんに耳打ちをして背を向けて帰って行った。

残された怜さんと私は2人きりだ。



「家、コッチ?」



私が慌てて頷く。怜さんも同じ方向だったのか、「んじゃ行こ」と言って歩き出した。私はその横に急ぐ。

2人で同じ道を歩く。なんだかそれは、とても気まずかった。怜さんとは、まだ2人きりの空間になったことがなかったからだ。



「れ、怜さんもこっちの方向……?」



咄嗟に出たのがそんな言葉。本当、自分でも笑ってしまうくらい不自然な会話。

この前まで、人と話すことすら避けてきた私だったのに、この沈黙が、息苦しいって思ってしまった。




「ふっ、しゃべり方よそよそしいな」



少しだけ笑みを浮かべた怜さんはやっぱりすごくキレイな人だと思った。



「いや、だって……」

「つーかタメでいーよ? 同い年なんだしさー」

「えっと、じゃあ……あ、綾乃ってよんで」

「ん。最初っからそのつもり。綾乃って面白いのなー? ウチのことは怜でいーかんね」



女の子を呼び捨てにするなんて、いつ以来だろう。怜、って、次に呼ぶ時はちゃんとそう呼べるだろうか。

領や浩平。そして怜。

はるとうたたねのみんなは不思議だ。私、いつからこんな風に人と話せるようになったんだろう。

変えてくれているのは、きっと3人が優しくて、私の方をちゃんと向いていてくれるから。



「つーかさ、綾乃に聞きたいことあんだけど」

「う、うん? なに?」

「綾乃、領のこと好きなん?」



一瞬、胸がドキッと鳴って、赤紫が混じった真っ黒なストレートロングの怜の髪を見つめた。

夕日が反射して、ますます綺麗だ。怜は派手だけど、その外見がとてつもなく似合う。



「……違うよ。……なんで?」

「いーや。そーかと思って。
違うんならいーけど。今まで領目当てでバンドやりたいとかいうヤツ何人もいたからさ」

「そ、そうなんだ…」



領が人気者なのはわかっていたけど、さすがだなあと思う。領がモテるのはわかりきっていることだけど、なんだか、胸がモヤモヤする。



「コッチは真剣にベースやってんだっつーの。そーゆーヤツらが来ると、ホント腹立つんだよね。領はお人好しでアホだから、そーゆーの気づかなくてさー」

「そっか…」



怜は、本当にバンドが、ベースが好きなんだな。不真面目そうに見えても、音楽の話をしている彼女はとても生き生きしていたから。



「……見た目こんなんだけど、バンドとベースのことだけは真面目に考えてんだよ、一応ね。初めて自分がやりたいと思ったことがベースだったから」



怜の横顔は綺麗だった。私は今ままで、多分こういう人たちを見下していた。

勉強が出来ることがすべてだって思い込んでいた。

でもきっと、違う。

好きなことをこうやって追いかけている怜は、本当に強くて素敵だと思った。私が馬鹿みたいに勉強していた間、きっと怜は馬鹿みたいにベースを弾いていたんだろう。

人の違いなんて、そんなものなんだ。何を大切にするか。何に時間をかけるか。親や先生の示す先がすべてだなんて誰が決めたんだろう。



「見てて、わかるよ。……私は、みんなが羨ましい。」

「……羨ましいって?」

「そこまで本気になれるものが、私にはないから」



怜が、歩いていた足を止める。
私は少し前で止まって、怜の方を振り返った。



「じゃーさ綾乃」

「うん…?」

「ウチらと本気になればいいじゃん?」



怜の目があまりにも真剣で、私はそこに、吸い込まれるんじゃないかって思った。それほどに、輝いていたんだ。



「ウチらと本気で、バンドやろう」



ああ、なんでかな。泣きそうだ。だってまるで、ドラマのワンシーンみたいなこんなこと。

私の人生で、こんな日が来るなんて、誰が予想できたんだろう。私さえ、信じることのなかった今日という日。



「……やりたい。私、はるとうたたねのみんなとバンド、本気でやりたい……!」



風が吹いて、私と怜の髪をさらった。



「期待してるよ、新人サン」



そう言った怜の顔は、まるで夜空に輝く星みたいに、すごく輝いて見えたんだ。







2.はるとうたたねと夢