「もう、浩平、あんなに冷たくしちゃダメでしょー」

「……だよね」



帰り道。

あのあと、今度ご飯でも、と引かないユイユイに押されてとりあえずの約束を済ませ楽屋をあとにした。

領はいきなりマネージャーに呼び出されてタクシーで違うテレビ局へ。バラエティの打ち合わせに変更があったんだとか。おかげで、代わりに綾乃を家まで送ってくれと頼まれた。


信用、されてるよな。領にも、綾乃にも。



「でも、ユイユイ可愛かったねー、やっぱりアイドルは違うよね」

「ああ……」

「テレビで見るのもかわいいけど、実物は顔が小さくて髪サラサラで別次元! 絶対もっと人気になるんだろうなー」




ふと、横を歩く綾乃を見る。

家バレしない為に、綾乃の一人暮らしのマンション最寄駅でタクシーを降りた。駅から家まで徒歩7分。有名人になった俺らは、もう気軽に電車に乗ったり道を歩いたりすることができない。


深く帽子をかぶって、マスクも。そして出来るだけ暗くて人通りの少ない道を選ぶ。


それでも、横から覗く綾乃のまつ毛の先まで、もうずっと、触れたいと思っている。


人気アイドルのユイユイより、何千倍も、綺麗だと、ずっとそう思っている。



「……あ」

「え?」

「雨、」





綾乃の声と同時に。右の手のひらを広げると、ぽつりとそこに雨粒が落ちてきた。ぽつり、またぽつりと地面を染めるその雫は、いつでも突然やってくる。


……よくある。いきなり雨が降り出すこと。これも、俺がツイてない要因のひとつだ。おまけに傘なんて持っていないし。

せっかく綾乃と久しぶりにふたりで肩を並べて歩いているというのに、ね。



「わ、いきなり降ってきたね、走る?」

「ああ、うん、」

「傘ないしとりあえずうちまで行こう」

「え、」

「ほら走るよ!」



躊躇いもなく、綾乃が走り出す。綾乃の家まではあと4分。走れば2分だ。



「まって、綾乃、俺送ったら駅まで帰るよ」

「え? 濡れてるのに? タオルくらい貸すよ!」



いや、そういう問題じゃないだろ、一人暮らしなんだから。


なんて、俺が言葉を紡げるはずもなく。段々とひどくなる雨の中、ふたりで綾乃の家まで走った。






「もー、いきなり降るから参るよねー。タオルもってくるからちょっとまってて!」

「ああ、うん、ありがと、」



ぎこちない言葉に情けなくなる。というか、今この状況に、俺は信じられないくらい緊張している。バカみてえだけど。


傘を貸りたらそのまま玄関で別れるつもりだった。だけど綾乃はそんな俺を許さず、『送ってもらったんだし濡れてるまま帰せないよ!』と無理矢理俺を部屋まで引っ張った。


……綾乃の部屋に来るのは初めてじゃない。けれど、ふたりきりで、なんて、それはもちろんあるわけがなくて。



現役大学生とは思えないほど綺麗なマンション。もちろん、バンド活動でそれなりに稼いでいるからこそだ。

白とウッドを基調としたナチュラルでシンプルな部屋。無駄なものが一切ないところが綾乃らしい。あと、いつきてもやさしいいい香りがする。


……色々ダメだ、と思う。


領や怜とここへ来ることはたまにある。4人で集まったり、打ち合わせをしたりする際に。……でも、そういう時とは訳が違う。


2人きり、だから、男女になる。




「ごめん、これでいい? よかったらシャワーも貸すけど……」



洗面所からタオルを一枚持ってきた綾乃が、何気ない顔でそんなことを言ってのける。意識されてない、だからこそだということは十分わかってる。





「……流石に悪いからいいよ、タオルだけ借りる」

「そう? 寒くない? 大丈夫?」

「うん、綾乃は? シャワー浴びてきてもいいよ」

「ううん、それは後でいいや。濡れてるし着替えだけしてもいいかな…?」

「うん、俺ここで体拭いてるよ、ありがと」




わかった、と。一言残してまた洗面所へ消えていく。雨に濡れたせいか、はたまた彼女の家の中のせいか、綾乃のにおいが濃く鼻奥をくすぐる。

受け取ったタオルを頭にかぶってガシガシと拭いてみるけれど、やはりこれも、綾乃の香りがする。



……こうなるのが嫌だから、近づきすぎないようにしているのに、不覚だ。



近づけば近づくほど思い知らされる、手を出せない彼女のことが、どうしようもなく、俺の心を掻き乱していくことを。



「浩平、タオル足りた?」

「え? ああ、うん、」

「てかさむいよね、コーヒーでも淹れるよ」



いつの間にか洗面から戻ってきた綾乃が、当たり前のようにキッチンに立ってお湯を沸かしはじめた。

さっきまで着ていた綺麗目のワンピースから、大きめのTシャツにショートパンツというラフな格好に着替えている。部屋着なのかもしれないけれど、流石に、無防備すぎる。


俺のこと、多分、1ミリだって男だなんて思ってないんだろう。意識したことなんてないんだろう。



バカだな、そういう、気の抜けたところに、男は欲情するものだよ。



「綾乃、はさ」

「うん?」

「両親と、うまくいってる?」



欲に塗れないように、そっと話題をずらした。そういうのは、結構得意だ。



「うん、たまにメールくれるよ。CD買ったよ、とか」

「そっか、」

「……浩平は? まだ許してもらえてない?」

「いや、殆ど目を瞑ってるって感じだな。まあ、大学さえ卒業すればもういいんじゃない」



綾乃も俺も、両親がひどく厳しい家庭環境で育ってきた。

俺は医者の息子で、親族揃って医療関係に就く家庭で育った。もちろん両親は、俺も例外なく父親と同じような道を進むと思っていただろう。


高校受験、わざとレベルを落としたことを、両親は決して許さなかった。おまけにバンド活動を続けるためにバイトも始めて、とことん期待を裏切り続けたと思う。それでもとりたあえずは都内の有名大学医学部に進学した。育ててもらった恩はある。

ただ、高校2年の、あの文化祭の日から、俺も領も、『音楽で生きていく』って、ほとんど腹を括っていたけれど。


大学に通っているのは、罪滅ぼしみたいなものだ。




「浩平は器用だもんね、いろんなこと同時にこなせてすごいな」

「……その言葉、そっくりそのまま返すよ」



同じく、都内の有名私立大学に通いながら共にバンド活動を続けている綾乃だって、正直言ってかなりのハードスケジュールをこなしていると思う。


それに、自分のこと、器用だなんて思ったことは一度もない。どちらかというと俺は、器用貧乏、なんだと思う。

なんでもそれなりにこなせるけれど、群を出て人より誇れるものは、ほとんどない。

勉強も、ドラムも、……恋愛も。上にはずっと上がいて、いつもどこかで憧れてばかりいる。基本的に、何事もストレートに上手くいったことがない。



「浩平が器用じゃないなんて、思ってるのは自分だけだと思うけどなあ」

「……人より得意なものとかないし、なんていうか、昔からツイてない、基本的に」

「でも、ドラムだって領に言われて中3から始めたんでしょ? 信じられないくらい上達早かったって言ってたよ」



中3の春。鬱陶しいくらい付き纏ってきた高城領という男は、何故か初めからおれにはドラムがあっていると言い放っていた。

 

「それに、わたしはこうやってはるとうたたねのメンバーに入れてること自体、ラッキーだなあって思うんだ」



素直で、純粋で、真っ直ぐに見ている。その眼差しがいつも眩しくて、優しくて、そしてとても愛おしかった。ずっと。



「……領にも出会えたしね」

「はは、それはまた別の話だけどさ!」

「綾乃はさ」

「うん?」

「俺と出会えたことも、ラッキーだって思う?」



つくづく、懲りないよな。揺さぶって、試して、答えなんていつだって分かっているのに。



「あたりまえだよ!」



そうやって屈託なく笑う綾乃のことを、どうしようもなく、想っているのに。