3.素晴らしき世界に
「綾乃、ここもしかして音低すぎる? 歌いにくそうにしてるけど」
「ああ、うんそこ高低差が激しいから音程取るの難しくて……」
「ちょっと音あげようか? 旋律がずれると裏も困るし」
「うーん、確かに、そっちのがいいかも……」
そう?、と言いながら領が楽譜に音を落としていく。浩平と怜はリズムを確認中だ。
有名バンド曲のコピーをすることが多いけれど、オリジナル曲も何曲か制作する。最初に領がデジタルで音源を作ってくれるので、その楽譜に沿って足りない部分や追加したい部分を合わせながら話し合っていく。
この間出来上がったばかりの新曲。文化祭までに3曲はオリジナル曲を仕上げると言っていた。
それにしても、曲を一曲作れるってすごいことだなあ。私には絶対真似できない。
「夏休みも残り3日だなー」
ふう、と一息ついて。きゅーけいしよー、という寮の声にぐっと背伸びしながらカレンダーを覗き込んだ。
そうだね、と返事をしながらまた私は目の前の歌詞ノートに視線を落とす。
実は、新曲の1つの作詞担当を任されている。
怜も浩平も作曲勉強中で、私は楽器のことはよくわからないので作詞をしてみることになったのだ。
これが結構、難しい。
ポエミーでもあり、わかりやすくもあり、何故だか勇気づけられる、そんな歌詞にしてほしいと無茶な要望。
領に「物語を生み出すことと同じことだよ」、と言われたけれど、物語なんて生み出したことないんだからわかるはずがない。
「あーもう、文字数合わない……」
間に合わない間に合わないと口ずさみながら、頭の中に出来上がっている言葉をひとつずつ繋げていくけれど、何故だかしっくりこない。
現代文の文章問題、得意分野なんだけどな。読み取ることと生み出すことは全く別のものらしい。世界中の作詞家や小説家にスタンディングオベーションしたいくらいだ。
しかも、任されているのははるとうたたねには珍しいバラードで、恋曲だと限定されている。
「世の中のアーティストって天才なのかも……」
「そりゃそーだろ、天才の集まりなんだよ」
怜が呆れた声でそんなことを言ってくる。世の中に流通している音楽たち。当たり前にしていたけれど、それってすごいことだ。
そんな中に飛び込んでいこうとしているあなたたちも充分天才だよ、とは言わないでおく。わたしも一応その一員なのだし。
「綾乃、相当悩んでるね」
「これなら英語の論文書いた方が100倍ラク……」
「それはそれですごいけど」
「ラブソングなんていちばん無縁なのに……」
半分涙目の私を見てを浩平わらった。領は「えー」って知らんふり。
「綾乃の好きな人を思い浮かべればいいんじゃないの?」
と、浩平が素っ気ない態度で私に言い放った。
「え、」
思わず出た、間抜けな返事。
それを聞いて、浩平はこちらを向いて笑った。
「動揺しすぎ」
「ど、動揺なんてしてない! 私、誰かを好きになったこととかないし、」
「ふーん、」
珍しくくすくす笑ってる浩平には、なんだかすべて見透かされてるみたいで怖い。
でも本当に、恋とか、好きな人とか、そういうガールズトークに人生で一度も混ざれたことがないのだ。恋や愛とは無縁の人生を送ってきたと言っても過言ではない。
「気づいてないってこともあるかもね」
「おい、コーへー、それ以上綾乃のこといじめんな」
「うん、ごめん、かわいくて」
怜が私を守るように浩平をにらみつけると、目を細めながらそんなことを言ってのける。浩平ってもしかしたら一番よくわからない人種かも。何を考えてるのか本当に読めない。
前みたいな作り笑いじゃないから、それはそれで嬉しいんだけれど。
「こーへい、あんまからかうなー」
「からかってないんだけど」
「……」
領の言葉にもとげのある言い方だ。おかげで領も黙ってしまうし。
「まあ、そういうのは自然に気づくことだから、アンタは口出しすんな」
「はーい」
怜がそう言うと素直にまたドラムを叩き始める浩平。意味深なことばかり言うから意味がわからない。
ラブソングなんて、書けるのかな、私。
◇
「あと1日ですよー、綾乃さーん」
領がそう茶化すように言い放つ。
知ってるって、わかってるって!
「夏休み終わったら集まる回数も減っちゃうし、今のうちに仕上げときたいんだけど」
怜の言葉に返す言葉もない。
うう、すみません、すみません。
「ラブソングなんて夏休みの課題に比べれば簡単だろ!」
「夏休みの課題の方が100倍楽!」
夏休み2日前。
浩平はともかく、2日前にもなって課題を溜め込んでいると発覚した怜と領が必死になって答えを写している中、私はまだ作詞に悩んでいた。
楽譜と睨めっこして言葉を捻り出すけれど、どうにもうまくいかない。
これなら数学のテキストを1冊やる方が断然簡単だ。
大体、恋をしたこともなければ、好きな人なんて無縁の私にラブソングを依頼する方が間違っているのだ。
「んーどうしようね、そんなに悩むとは思ってなかったなー」
「じゃ、ウチが書くから課題代わりにやってよ綾乃」
「え、いいの?!」
「だーめーでーすー。作詞を頼んだのは綾乃のステップアップのためなんだから、怜は甘やかさないの」
「チッ」
「舌打ちしない!」
「ハイハイ、課題やればいーんでショ」
溜まった課題に相当イライラしている怜は、何問か終わるごとに私に話しかけてくる。ベースを弾いている時はあんなに真剣なのに、勉強に関しては集中力が皆無みたい。
「つーか、綾乃、ほんっとーに今まで好きな人できたことないワケ?」
ぐんっと怜が身を乗り出して近づくから、綺麗な顔がアップで映る。迫力がすごいな、私もこんなにまつ毛があったらなあ、なんてどうでもいいことを考えてしまう。
「いたことあったら苦労してないよ」
「はあ、」
と大きくため息。それは怜だけじゃなく他の2人も同時に吐く。3人とも、そんな溜息つかなくてもいいのに。私だって溜息をつきたいところだ。
「おれに提案があるんだけど」
どうしようもなくてうな垂れる中、はい、と突然手を挙げたのは領だ。どうせたいした提案じゃないんでしょう、と冷めた目でみんな領を見る。
「何? 領、言ってみ」
「おれとデートするっていうのはどう?」
「は?」
領の無邪気な声に、浩平が驚いた声を出した。というか、私も怜も声が出なかっただけで同じ反応。
……デートって、デート?
本気で言ってるのだろうか。
「ダメ? 綾乃は嫌?」
「え、い、嫌とかじゃないけど、」
「んじゃ、デートしよっか」
「本気?」
「何か問題ある?」
その質問には何も言い返せない。問題ない、問題はないけど……。
「領、綾乃に手出すなよ」
「なんだよコーヘー、珍しくそんな顔して」
「……忠告してんだよ、いざこざがあったらダルい」
「おれ、けっこー優しいと思うんだけどなあ、どーおもう? 怜」
「あ? ああ……まあ領ならダイジョーブだとは思うけどサ……」
「じゃ、決定ね!」
当の本人である私の意見は聞かず決定ですか。無邪気というか、テキトーというか、領って本当に無鉄砲だ。
◇
そんなこんなで、夏休み最終日。
「どーする? どこ行く?」
待ち合わせの時間に駅に向かうと、ぶんぶんとこちらに向かって手を振る領の姿があった。
背は高くないけれど、可愛らしい顔立ちとバランスの良い身体、何よりフレンドリーな笑顔にやられる女の子はきっと少なくない。
いつも人に囲まれている理由がよくわかる。
「どこ、って、領が誘ったんでしょ!」
「あは、まーそうなんだけどー!」
屈託のない領の笑顔。とにかく嬉しそうだ。歌詞執筆の為とはいえ、デートの相手が私なんかでいいのかな。領は気にしてないかもしれないけれど、誰かに見つかったら何か言われそう。
それにしても、太陽の下で見る領の笑顔は、これでもかという程眩しい。
「綾乃、行きたいところある?」
「いや、デートとかしたことないから、あんまりわかんない……」
「あは、そーだよね」
「そーだよねって、失礼な」
「えー、おれはうれしいんだけどなー。綾乃の初デート奪えて」
そう言うことをさらっといえてしまうところが、領の良さでもありダメなところでもある気がする。誰にでも言うんだろうか、そういうこと。
それにしても、残り1日となった貴重な夏休みを、まさか領と二人で過ごすことになるとは思わなかったな。
「ていうか、綾乃なんか今日かわいくない?!」
「えっ、と、」
「もしかして、おれのためにかわいくしてくれたの?」
「そーいうわけじゃないけど、デートっていうから、一応……」
「うわー、どうしよ、カワイー、ムリ」
何が無理なんだろう、まじまじと領を見ると、突然くるっと背中を向けられた。「ごめん今見ないで!顔赤い気がする!」とかなんとか。意味わからない。
家を出る前、昨日怜に貸してもらった服を着て、怜に言われた通りに髪を巻いた。貸してもらったコスメ用品でメイクも少し。やり方は昨日の夜動画で予習した。
怜が『デート行くなら1番可愛い自分見せなきゃルール違反だぞ』なんて言ってくるものだから、朝から大変だったんだ。世の中にそんなルールがあるなんて知らなかった。怜に言われなかったら気づかなかった。
本当は、こんなことしてる場合じゃないんだけど。
"恋″がわからない私には、これくらいしなきゃダメだって、怜に背中を叩かれてしまったんだもん、仕方がない。
こうなったら、最大限デートを楽しんで、恋とやらを攻略しようじゃないですか。
「とりあえず、歩こう」
そう言って振り返った領は、なんの躊躇いもなく私の手を握った。
「え、ちょっと……領!」
「え、なに?」
「手!」
「え、ダメだった?」
「ダメっていうか……」
「いいじゃん、今日くらい、デートだよ?」
領はそういいながら振り向かず前に進んでゆく。手は相変わらずぎゅっと結ばれたままだ。
デートってそういうもの? これが当たり前?
繋がれた手を見て頬が熱くなる。こんな街中で、こんな人ごみで、恥ずかしい、と思ってしまう。
でも、よくよくあたりを見渡せば。
道ゆくカップルのほとんどが手を繋いでいる。それだけでは飽き足らず、腕を組んでいる人たちも。もしかして、というかやっぱり、デートには手を繋ぐという項目が必須条件なんだろうか。
もしくは、この人混みの中、はぐれないように繋いでいてくれてるのかもしれない。
「あ! 綾乃、クレープ食べたくない?」
突然大声を出すから、こっちも驚く。見ると、目の前には黄色いクレープ屋さん。
フードカーが立ち並ぶショッピング街で、クレープ生地のいい匂いが鼻をくすぐった。そういえば、朝ドタバタしていたせいで朝ごはんを食べ損ねてしまったんだった。
ぐう、とお腹がすいた音がした。幸い領には聞こえてなかったみたい。自分でお腹をさすりながら、じっとメニュー表を見る。
「……食べたい、かも」
「じゃあ決まりね! 何にするー?!」
「朝ご飯食べてないから、しょっぱい系もいいな。でも苺も捨てがたいし……領は?」
「おれはね、ストロベリーバナナホイップチョコレートスペシャル!」
「名前長……。でいうか、領、案外甘党なんだ」
「うん、甘いの大好き、パフェもケーキも!」
にこにこしながらそんな風に言う領につられて、私も思わず頬が緩む。そういえば、いつかの担任に言われたことがあったっけ。
"自分の機嫌は、自分でとれるような大人になれ"と。
あのときは意味がよくわからなかったけれど、今は少しだけ理解できる。
「綾乃決まった?」
「え、っと、イチゴホイップかな、」
手、放さないんだな。
街を歩くときも、クレープのメニューを見ているときも、繋いだ手は放さない。私は慣れていないけど、領にとったら当たり前のことなのかも。つながれた手に神経が集中してる。
「おっけ、すみませーん、スペシャルとイチゴホイップひとつくださーい!」
あ、お金。と、そんなの払う隙もないくらいに手早く二人分のお金を店員さんに差し出す。
「領、払うよ、」
「いーよ今日はー! 初デートだよ?」
ここは、言葉に甘えるのが正解なのかな。ふつうの女の子は、どういう風にするんだろう。
「……じゃあ、次にクレープ食べるときは、私が出す」
「それって、またデートしてくれるってことー?」
「うん、また一緒に食べる」
「……」
私の言葉に領は目を丸くして、それからふいっと顔をそらした。
「領?」
「綾乃はほんと、天然タラシだよなー」
いや、どっちがそうなの。
会話のすぐ、店員さんから番号を呼ばれて出来上がったクレープを受け取りに行く。甘い香りがさっきよりも強くなった。
「うま!」
近くのベンチに座ってクレープを頬張ると、領は第一声に目を輝かせて叫んだ。子供みたい。思わず笑えてしまう。
「おれやっぱ甘党だ、こーいうの大好き」
「男の子も、甘いの好きなんだね」
「えーなにそれ、男子が甘いの苦手なんていうのは偏見だぞ、綾乃!」
確かに、そうかも。今まで周りの人と深く関わってこなかったからか、一般論を当たり前として受け入れてしまっている。十人十色、そんなことは絶対にないのにね。
それに、私も人のことを言えないくらい甘いものは大好きだ。
「でも確かに、領ってよく甘いお菓子食べてるかも」
「そーでしょ?」
「ジュースは決まって炭酸だよね」
「あはは、そう! よくわかってる!」
「あとは唐揚げとオムライスが好きだよね、そのふたつを食べてるときだけ目が輝いてるの。そのくせ浩平が唐揚げにレモンをかけるとちょっと嫌な顔をするよね、本当はレモンかけたくない派なんだ?」
と、そこまでつらつらと喋っておいて、はっと我に返る。
私、どうしてこんなこと知ってるんだろう。自分の好きな物や嫌いな物だってすぐには思いつかないのに、領のことはよく見ているしわかっている気でいた。
「すごいな綾乃! おれのことよく見てるじゃんー」
「え、っと、」
「はは、かわいーね、おれも綾乃のこともっと知りたいな」
知りたい、なんて、初めて言われた。
そして私はきっと、無意識に領のこと、知りたいって思っていたんだ。──でも、どうして私、こんなに領の姿を見ていたんだろう?
その時、目の前を通った女子高生たちが、ベンチの数歩先で足を止めた。
「ね、見て、あの人超カッコよくない?」
「でも彼女連れてるじゃん!」
「彼女も綺麗な顔してるねー、やっぱカッコいい人はかわいー人とくっつくんだよ!」
「私も早く彼氏欲しー!」
───"彼女″
外から見れば、今、私は領の彼女に見えるんだ。
「あ、あっちに雑貨屋さんあるよ」
思わず話題を逸らして、領の視線をずらした。きっと、今の女子高生の言葉、領にも聞こえてたはずだ。
同い年くらいの、キラキラした女の子たち。領の横にいていいのは、きっと私なんかじゃなく、ああいう子たちなんだろう。今日私が必死に時間をかけてやったこと。可愛い服を着たり、メイクをしたり、髪を巻いたり、そんな時間が当たり前のように存在する女の子たち。
勉強ばかりしてきたせいで、この胸のモヤモヤも、領への特別な感情も、明確に名前をつけることが至極難しいことに思える。本当は、なんとなく、わかっているのに。
「ああいう雑貨屋さん、綾乃好き?」
「う、うん、ちょっと興味あるかな」
「じゃあこれ食べ終わったら行こ!」
仲良くクレープを食べていたら、彼氏彼女に見えるよね。
初々しいカップル。でも私たちはそんな関係じゃない。音楽のため、私が恋愛の歌詞を執筆するため、バンドのため。
───このデートが終わったら、ただの"友達″に戻る。
そんな当たり前のことが、どうしてだか胸の奥を締め付ける。いくら国語の問題が解けたって、自分自身の感情にさえうまく言葉が見当たらない。
誰かに届けるための歌を、私が作らなきゃいけないのに。
誰かに届く詩(うた)を、私が描かなきゃ行けないのに。
「あー美味しかったー」
「うん、本当に。買ってくれてありがとう」
「どーいたしましてー!」
「私ごみ捨ててくるよ」
クレープが包まれていた紙ごみを領の分までもらってベンチから立ち上がる。「いいのに!」と言う領を押し切ると、渋々「ありがとー」と送り出してくれた。
ベンチからさっきのクレープ屋さんのゴミ箱まで、そんなに離れてはいないけれど。少し1人になりたい気分だったんだ。
だって、どうして私、領に手を繋がれてあんなに胸が鳴ったんだろう。どうしていつも、領のこと見ていたんだろう。無意識に、領のこと、よく知っていた。
友達以上、バンド仲間未満?
領がこんな私をはるとうたたねに誘ってくれて、仲間にしてくれた。新しい世界を見せてくれた。音楽を教えてくれた。
綺麗だって、思わせてくれた、この世界のこと、音楽のこと、ステージに立ったあの景色のこと。
───ドン、
「あ、ごめんなさ……」
考え事をして歩いていたせいで、前をよく見ていなかったらしい。誰かとぶつかって顔をあげると、数人の男の人が立っていた。年齢は多分、私より少し上、大学生くらいだ。
「はあ? 痛───……って、結構かわいいじゃん」
「え、」
「なに? ひとり?」
「いや、ひとりじゃ……」
「なんでもいーけど、暇なら付き合ってよ、今ぶつかってきたのそっちなんだしさー」
「す、すみません、前見ていなくて……」
「謝らなくていーから、今から遊ぼ? 飯なら奢るし───」
まずい人たちにぶつかってしまった、と内心泣きそうになっていた瞬間。
「───すいませんオニーサン、この子俺の彼女なんで、連れてきますね」
え、と。私が声を出す前に。
私の背後からそう宣誓して、手首を掴んで強引に後ろへと走り出した。その温もりと声が領だと気づくのに、少しだけ時間がかかってしまったけれど。
後ろから「おい!」と叫ぶ男の人たちを無視して、領は私の手を引きながら走る。私もそれに合わせてついていく。脚がもつれても、必死にしがみついて。
「綾乃、もーすこしがんばって!」
「う、ごめ、」
手を引かれて走っている間、見上げた先には笑った領がいた。
こんな状況なのに、嫌な顔もせず、「もーばかだなー」なんて笑っている。走りながら、その笑顔にどうしようもなく救われている自分がいる。
嫌いで情けない自分のこと、領の笑顔ひとつで吹き飛んでしまう。
その瞬間、なんとなく、わかった気がした。
領、わたしが、きみにどうしようもなく惹かれている理由。
「はあ、ダイジョーブ?綾乃」
「はあ、はあ……」
息が上がってうまく喋れない。ショッピング街の路地裏。手を引かれて私も同じように走ったけれど、やっぱり男の子のスピードには追いつけないみたいだ。
体育の成績を落としたくなくて、ランニングやストレッチをして平均的には運動もしていたつもりだけど、やっぱりそれじゃ敵わないんだな。もう少し努力しなきゃ、と自分の胸に刻みつつ。
「ここまでくれば、さすがに大丈夫だと思うけど……」
繋いだ手は、まだ離されない。
「ごめんね、私のせいで……」
「しょーがないよ、ていうかあれは男が悪いよ」
「でも……」
「うん、でも、女の子なんだから、外に出るときは気をつけて。綾乃危なっかしいんだもん」
「ごめん……」
「はは、そんな落ち込むなよー! こんなに走ったの久しぶり! むしろきもちいー!」
そう言いながら拳を上に突き上げて、白い歯を見せて笑う。いつだってそうだ。
領はいつも、笑っている。それが周りに伝わって、伝染して、私にもうつって、人が笑顔になっていく。
誰かに笑顔を届けられる人だ。誰かの世界を変えられる人。誰かのことを救う人ができる人。
───ああ、領って、バンドマンになるべき人だ。
「ね、領、」
「ん?」
「……ありがとう、助けてくれて」
「はは、助けたなんて言われたら、まるでヒーローみたいだけどー! どういたしまして!」
照れて笑う領の笑顔は眩しい。ヒーローにも見えるよ。いつだって私の手を引いてくれるんだから。
大嫌いで、許せなくて、情けなくて、どうしようもない自分と、この世界のこと。ほんの少しだけ綺麗に見せてくれる。ほんの少しずつ、好きにさせてくれる。そんなの、ヒーロー以外の何者でもない。
「あのさ、どうして、彼女って、言ったの?」
どうして、この手を離さないの?
「え、うーん、ダメだった?」
「ダメ、というか……」
「でも今日は、おれの彼女役で、おれは綾乃の彼氏役、でしょ?」
ドクン、と。
音を立てた。わかりやすく、胸の真ん中が、血流が逆流するみたいに強く、大きく、身体の中で響いた。
───この、胸の高鳴りの理由。
気づかないでいることだってできた。名前をつけずに、知らないふりをしていたってよかった。勘違いならそれでも。
だけど、わかった。わかる問題を解かないのは、私のポリシーに反するんだ。だからここで、自分の胸の中で、ちゃんと答えを出さなきゃいけないよ。
───わたし、領のこと、きっと好きだ。
◇
「で、綾乃はわかったの? デートとか恋とかいうやつを」
「う、うん……まあ、そこそこには」
「へえー、まあ確かに、この歌詞見る限りはケッコー成長してんじゃん?」
「うん、いいんじゃない」
夏休み明け、1日目。
ホームルームと課題チェック、それから新学期がはじまる簡易的な式を済ませて午前中のみの学校が終わった。久しぶりだからか、制服が堅苦しく感じる。
そのまま音楽準備室に移動すると、怜と浩平が先に待っていて開口一番に「で?歌詞かけたの?」と催促してきたのだった。
ちなみに人気者の領は、久しぶりに会ったクラスメイトたちに囲まれていて、しばらく抜け出せなさそうだった。
「昨日寝ないで書いたんだから」
「ふーん、いいじゃん」
「もう、誰のせいだと思ってるの!」
「まあまあ、怒んなって綾乃ー」
そう、実は昨日のデート、あの後すぐに怜から電話がかかってきて中断になったのだ。理由は怜が電話口で「課題がおわんねー」と泣きついてきたから。
そのままふたりで怜の家近くのファミレスに直行。領も終わっていない課題があったらしく、私は2人に教えたり手伝ったりしながら夜まで課題地獄に付き合った。
私が歌詞を書いたのはその後。深夜の2時までかけたんだから。
「つーか綾乃、大丈夫なん?」
「え?大丈夫って、何が?」
「知らないんだ」
浩平の小声にはてなマークを浮かべると、怜が盛大にため息をつく。「ホントにウチら以外に友達いねーのな」なんて悲しい一言付き。余計なお世話!
「で、なんの話?」
「けっこー噂になってんだよ」
「え、噂って、何の?」
「アンタと、領のコト」
私と領のこと?
思い当たる節がなさすぎて首を傾げると、また深いため息をつかれる。第一、基本的に私は優等生で良い子を貫いているんだから人の噂話に名前が出ることは殆どない。
「昨日デートしてたところ、同じガッコーのやつに見られてたんだって」
「あ、そうなんだ」
「そうなんじゃねーっつーの」
デート、とはいえ。歌詞を書くための「仮」デート。私は領への気持ちを自覚してしまったけれど、そこから何か進展があったわけではないし、第一夏休み前だってクラスで私と領はよく一緒に行動していたはず。
一緒にいるところを見られたなんて、今更焦ることでもないと思うんだけれど……。
「だーかーら! アンタたち手繋いでたらしージャン?! それで領のファンやら何やらが騒いでんの!」
「あ……」
そこまで言われてやっと気づいた。確かにそうだ、昨日、駅に着いた時からずっと手を繋いでいたんだった。
「そ、それって、付き合ってるって思われてるってこと?!」
「そりゃそーよ、厄介なことしてくれんジャン領のヤツ」
「で、でも領ってフレンドリーだし、誰にでもああいうことしてるんじゃ……」
「バカ! 領はああ見えて一途だし馬鹿みてえに硬派なんだよ! つまり、付き合ってる女子にしか手なんて繋がねーの」
「ええ……」
じゃあ昨日は、私が歌詞を書けるために、リアリティを出すために、手を繋いでくれたってこと? ……それとも?
「とにかく、変なやっかみ買うよーなことすんなよ、領は以外とガチファンが多いんだから」
「うん、気をつけた方がいいかもね」
怜と浩平の言葉に、何も言えず頷いた。
◇
噂というものは、案外すぐに広まって、しかも一人歩きしてしまうものらしい。
「ねえ、領って片桐さんと付き合ってるの?!」
そんはウワサが広まって、友達がほとんどいない私の耳にまで届くようになるのに3日もかからなかった。
怜と浩平が言う通り、領のことを好きな女の子って案外たくさんいる。それが恋愛の類じゃなくても、人は人の噂話が大好きみたい。
クラスメイトはもちろん、他クラスの子や他学年の子、終いには先生にも噂は広がって、放課の時間に私たちの教室に人が集まるようになってしまった。みんな、真相を確かめようとしているんだ。
でも、そう聞かれると決まって領は何も躊躇わず笑顔で答える。
「えー、ナイショー」
その無邪気な笑顔にそれ以上何も突っ込めない外野は黙るしかない。もちろん、私には何も聞いてこない。
正直「付き合ってないです!」と言いたいくらいなんだけれど、領が泳がせてるから仕方ない。私が声を上げられることではないし。
……だけど、授業が終わるたびにクラスに人が集まるのは、正直邪魔、だ。
学校にいる間は勉強に集中したいのに。人の噂話によくもまあそんなに気力を注げるものだと逆に感心してしまう。
◇
「まさかあの高城くんがねー」
「あのかわいー目が好きだったのに!」
「話すと本当優しくてさー」
「誰でも好きになっちゃうよね」
「でももう彼女持ちでしょ?」
「今までいなかったのが不思議だけどさ」
「相手はあの、学年1位の子だって」
「片桐サン?」
「えー、正反対じゃない?」
「夏前に領がバンドに誘ったらしいよー」
「真面目な顔してコワイねー」
「領の趣味わかんない」
最初は興味本位だったものも、日が経つにつれて段々と悪意に変わっていくものらしい。
そんな会話を聞こえる位置でわざわざ話す他クラスの女の子たち。悪意は、きっとある。
わかってるけど、そんな風に言わなくたっていいのに。領と私じゃ光と影だ。そんなこと、人に言われなくてもわかってる。
だけど、こうもハッキリ噂が耳に入ってくると……意外と精神的にくるものがあるらしい。
それに、今まで優等生の良い子で通っていた私にとって、悪い噂は心臓に悪いのだ。
否定も肯定もしない領にやきもきするけれど、何を言っても「面白いからこのままでいーんじゃない?」と笑うだけ。
本当は否定してくれてもいいんだけどな。付き合っていないし、両思いなわけでもない。
───私の片思いだ。だからこそ余計に、この噂を完全否定出来ないでいる。
「はあ……」
あまりの周りからの視線と棘のある言葉たちに、ずっとストレスを抱えている。きっとそれは領もなんだろうけれど。
とりあえず席を立って人気のない場所に行こう。もう昼休みだし。
いつものようにクラスメイトに囲まれながら、他クラスの女の子の質問にも笑顔で返している領を横目に教室を出る。
お昼くらい、静かな場所で食べたい。
と、廊下を歩いていると、どこからともなくまた派手な女の子達の会話が耳に入ってきた。
「あれ、いま噂の片桐さんじゃない?」
「ホントだ、地味だよねー」
「もー、マジで領ってあの子と付き合ってんの?」
「信じられないよねー」
「ちょっと聞いてみる? 人いないし」
「いつも声かけづらいけど今なら行けそうじゃない?」
あ、やばい、こっちに向かってくる。
直感でまずいと思った私はくるりと方向転換して1番近くの階段を全速力で駆け上がった。そのまま逃げるようにして廊下を進んだけれど、どこにいても噂されているような気がして。
結局私は、"音楽準備室″に逃げ込んだ。
◇
「はあ、もう、何でこんな目に……」
急いで中に入って扉を閉めて、はあー、と大きな息を漏らす。これじゃ勉強にもバンドにも集中できない。本当に良くないことだ。
「はは、たいへん、一気に有名人」
いきなりした声にばっと目を見開く。その声の方向に顔を向けると、窓の側で浩平が座り込んでいた。床に胡座をかいているから、高さ的に気づかなかったみたいだ。
「浩平、いたんだ」
「モテる奴は大変」
「領のこと?」
「うん、あいつは誰にでも愛想振りまくからああなる。自業自得」
浩平が言うとなんだか説得力がある。だって、ルックスは領と変わらないくらい良いはずなのに、クールで愛想を振りまかない浩平はあまり女の子に騒がれない。影ではきっと相当人気なんだろうけれど。
どちらがいいかなんて正解はないけれど、今は領の人気が仇となってこちらにも迷惑だ。
「昼休み、終わるまでここにいていい?」
「うん、どーぞ」
浩平の言葉に、窓際のパイプ椅子に座った。浩平は楽譜やら雑誌やらを拡げて、尚且つ本を読んでいるみたい。
前から思っていたけれど、浩平はきっと集中力が異常に高くて、同時間にいくつものことをこなせる要領のよさがある。じゃなきゃ、学年2位の勉強量にバンド練習、加えてアルバイトだなんてこなせるわけがない。
「何読んでるの?」
胡座をかいて、猫背を前屈みにして食い入るように読んでいる。ブックカバーのかかったそれは何の本だか見当もつかない。
それに、楽譜や雑誌を広げながら読んでいる意味もわからないし。
私って、あまり浩平のことを知らない気がする。
「音楽の本」
「アバウトだね」
「俺の好きなバンドのボーカルのエッセイ集」
「へー! おもしろそう! だから楽譜広げてるの?」
「うん、こうやってそのバンドの楽譜やインタビュー記事を見ながら読んでると、もっと深く知れる気がして」
いつもより饒舌に話す浩平に何故だか心が躍る。本当に好きなんだろうな。雑誌の年号は数年前だし、楽譜は年季が入っている。
浩平の好きなバンド、私も知りたい。
「そのバンド、あたし知ってる?」
「うーん、どーだろ」
「有名な曲ないの?」
「あ、そういえば、最初にコピーバンドしたやつだよ」
「え?」
「夏にさ、綾乃のデビューライブの日。ひとつコピー曲やったでしょ。あの曲歌ってるバンド」
思い出す。そして、何度も練習した音楽が頭の中に流れ出す。長いイントロとボーカルの高低差が特徴の、激しい一曲だ。
領のギターも、浩平のドラムも、怜のベースも、観客の声援も、全部まだ覚えてる。
あの達成感と高揚感が、私を頑張る気持ちにさせてくれた。
「そっかあ……あの曲、私もすごく好き」
「うん、綾乃の声にあってた」
「他の曲も聞いてみたいかも」
「今度アルバム貸そうか?」
「え、いいの?」
「うん、全部家にあるから」
「へえ!」
───ガラッ
突然勢いよく開いたドアの音にびくりと肩が跳ねて、同じように驚いた浩平と目があった。そして2人とも同時に扉の方へ視線を向ける。
「……なーにしてんのー」
その声の主は、心なしか不機嫌な領だった。
「領こそ何してんの」
浩平の声にヘラッと笑う領。右手で扉を閉めて、ゆっくりこちらへ歩いてくる。
「いや、綾乃が教室にいなかったから探してた」
「……居づらくて」
「そーだよね……それで、なにやってんの、ふたりで」
にこにこと笑っているけれど、どこか棘のある言い方だ。領がこんな態度を取るなんてすごく珍しい、というか初めてだ。
「バンドの話してただけだけど」
「そ、っか」
「領こそ何しに来た?」
返す浩平もなんだか態度が悪い。空気が悪い。私はこれ以上何も言わないでおこう、と口をつぐんだ。
「だから、綾乃を探しに──」
「あのさ、領、そろそろちゃんと周りに言ったら」
「え、何が」
「綾乃と付き合ってるって、否定も肯定もしないで宙ぶらりんにしてるから噂が止まらない。綾乃、迷惑してる」
迷惑、というか。
人に噂されるのって、いいことばかりじゃない。やっぱりそれなりに悪意のあるものだって付き纏うし、何より集中したい時に出来ないことがストレスになる。
「……わかってるよ、おれだって」
「じゃあなんで否定しない?」
「手繋いだなんてことが噂になってるんだ、これで彼女じゃなかったら、綾乃がやっかみをかうとおもったんだよ、」
「それは、どーいう……?」
「俺の彼女ってことになってれば手は出されないだろうけど、ただの友達なのに手繋いでデートしたなんて知れたら、……綾乃に嫌な思いさせるかもしれない」
それはつまり、領のファンたちに私が何かされることを防ぐために、彼女ということにしているっていうことだろうか。
領の彼女という立場なら、悪い噂はたっても手は出せない。
───私のためだったんだ。
「……だとしても、やり過ぎ。さすがに綾乃も可哀想」
「ごめん、おれが手繋いだりしたから……」
「いや、それは全然良いんだけど、うーん……」
確かに、このまま実は付き合ってませんでした、ともなれば皺寄せは全て私にやってくる気がする。
「否定も肯定もしないで、噂がなくなるまで待つのが1番良いって思った、ごめん綾乃」
「ううん、そうだよね……領のこと、私全然わかってなかった」
「……ていうか、ふつーに綾乃にわるい虫がつかないよーにしてるのもあるんじゃない」
浩平が領を睨んでそう言うと、「まーね、ごめん」と口を尖らせる領。
悪い虫って、心配しなくても私は男の子と話すことなんてほぼないし、バンドを辞めることもないんだけれど。誰かに他のバンドにスカウトされるとでも思ってるんだろうか。
「……うん、でも、ごめん、全部おれの自分勝手だ」
はあ、と浩平が大きく溜息を吐いて立ち上がる。
「とりあえず、当事者同士でよく話し合ったら」
「浩平……」
「バンドに支障出さないでね、じゃ」
ひらひらと手を振って部屋を出ていく。重たい空気が部屋中に広がっている。だって、いつも笑顔の領がそうじゃないから。
「ごめん、綾乃、おれ、ちょっと焦ってたのかも」
「焦る?」
「……囲うようなことしてたかも、綾乃が、どっかいっちゃうんじゃないか、ってさ」
「それは、どういう、」
「b-stationのこと。綾乃、どう思ってる?」
見上げると、領が今までにないくらい真剣な表情でこちらを射抜いていた。そうだ、わたし、まだ返事をしていない。
今後、はるとうたたねとして活動を続けていくのかどうか。
「怜と浩平にもちゃんと話した。ふたりは今後もバンドをやってく覚悟を持ってくれてる」
「……うん」
「───綾乃はどう思ってる?」
あのとき聞かれた言葉と同じ。まっすぐに私を射貫く目は真剣に、だけどもやさしく、すべてを私に委ねている。
わたしは。
最初のステージを終えて、抜けきらない感覚を忘れられないまま、何度も違う会場で違うステージに立った。夏休みの間、できるだけ本番を迎えた。染み渡っていく感覚、覚えていく感情、とまることのない期待。
その度に、感じたことのない高揚感と気持ちよさ、ステージの中心から見る景色に何度も泣きそうになった。
───それは、世界でいちばんきれいな光景。
「わたし、ね」
「うん」
「───歌が、歌いたい」
「うん」
「はるとうたたねの一員として、一緒に、夢を見たい」
あ、と思う。
溢れた涙の粒が頬を伝った。気づいたら溢れていた。それを止める方法なんて、今は見つからない。
───ずっと、言ってはいけないと思っていた。認めてはいけないと思っていた。
勉強して、良い成績をとって、良い人生を歩むレールに乗ること。それがすべてで、『1』の数字をとり続けることが私の生きている意味で、存在価値で、自分の意思なんて必要ないと思っていた。
けれど、違う。それは違った。
自分の意思で、自分の言葉で、認められる。認めてあげられる。
「b-station 、わたしもでたい」
そうだ、これが、私の本当の気持ちで、本当の言葉だ。
「うん、綾乃、一緒にやろう」
領の顔は、涙で滲んでよく見えない。だけどその声が、ひどくやさしく耳に届いて、私はもっと泣きそうになる。
「俺らと、夢、見よう」
馬鹿馬鹿しくなんてなかった。音楽を誰かに届けること、誰かと一緒に夢を見ること、私たちだからこそつくれるものがあるんだ。
「文化祭まで、あと1週間ー!」
そう大きく声を張り上げたのは領。よくもまあまだそんな元気がある物だなあと他の二人は顔を見合わせてぐっだりしている。
───夏休み明けから1ヶ月。10月中旬の文化祭と、その次の日のb-station出演に向けて、私たちは毎日8時まで猛特訓していた。
通常の部活動が学校に残っていいのは7時半まで。つまり、7時半までは音楽準備室を使うことができるのだ。
時々スタジオを借りたり、領の家にいったり。とにかく時間をかけて、個人練習から合わせまで入念に何度も音を合わせていく。
新譜というだけあって、表現方法やピッチ、速度、全部いちから相談して合わせなきゃいけない。ひとつひとつの音符に意味があるんだ。
「それにしても、綾乃の歌詞いいなー」
「うん、ウチもこの曲イチバン好き」
領の言葉に怜が頷く。デートの後、徹夜で仕上げた歌詞はみんなに好評で、この1ヶ月の間にあった小さなライブでも観客からかなり大きな歓声をもらった。
「とりあえず今日はこれで終わりなー」
「もーヘトヘト、ラーメン食いにいかねー?綾乃」
「私は明日の予習があるから……」
「エライなホント」
「怜も見習ったら」
「それは無理」
もちろん、バンド活動をやるだけじゃない。今まで勉強していた時間を減らした分、短い時間の中で成績をキープする為に毎日の予習復習に気合いをいれている。私は案外短期集中型みたい。
◇
「ハイ、綾乃」
「わ、ありがとー!」
帰り道。この後バイトに行くというふたりと別れて、怜と一緒に肩を並べた。怜が『そろそろ肉まん売ってそうじゃね?』と言うのでコンビニに寄る途中、『奢るからちょっと付き合って』と公園のベンチに座らされたのだった。
「もう売ってるんだね、肉まん」
「おでんや肉まんが一年間の中でイチバン売れるのって、売り始めの秋らしーよ」
「え、そうなんだ、冬だと思ってた」
「新鮮な物にはみんな食いつくからね」
怜が隣に腰掛ける。渡された熱々の袋を開くと、湯気の上った白い肉まんがひょっこり顔を覗かせた。
確かに、いつもは見ない商品が店頭に並んでいるのを見ると、つい欲しくなってしまうことと似ているのかも。スタバの新作に並ぶ女の子たちと同じ原理だ。
そのままぱくりとかぶりつくと、柔らかい生地に中から肉汁がぎゅっとあふれ出て、思わず目を細めてしまう。
「美味しいー」
「な、なんでかこの季節に食べる肉まんもウメーんだよなー」
怜も片手で肉まんにかぶりつく。
「それで、何か話だった?」
「ん?」
「怜、何か話したそうにしてるな、って」
「あー……」
思い返してみれば、怜と二人きりになること自体結構珍しいことだ。大体私たちはいつも4人でいるから。
「あの歌詞さ」
「うん?」
あの歌詞、つまりきっと私が初めて作詞した歌詞のことだろう。
「───領に向けて?」
「えっ」
びっくりして、思わず持っていた肉まんを落としそうになってしまった。反射的にぐっと力をいれたから、それはなんとか阻止できたんだけれど。
「あれ、完全に片思いの曲だろ。リアルだし、綾乃の気持ち出てる。いい歌詞だけどね」
「えっと……」
「領のこと、好きなんだろ?」
「……」
どうしよう。
素直に頷いていいんだろうか。
確かにあの歌詞を書いたとき、頭の中にはいつも領がいた。デートの日に気づいてしまったけれど、私はどうしようもなく、高城領という人間に惹かれてしまっているんだ。
「隠さなくていーって、悪いことなんかじゃないじゃん?」
「でも、」
はるとうたたねで私が歌を歌う理由は、"領が好きだから"じゃない。自分の意思で、3人と夢を見たいと思ってる。それを勘違いされたくなかった。
「わかってるよ、綾乃のこと、案外ウチ信用してんだからさ」
「怜……」
「綾乃は言いにくいかもしれないけど、同じオンナとして、頼ってくれよって話!……友だち、だろ?」
怜を見る。赤くなった頬を見て、少し照れているのがわかった。
友だち。今更な単語のような気もするけれど、言葉にするとその重みがしっかりと伝わってくる。女の子同士が当たり前にしているような恋の話。誰かにしたことなんてないから。
「うん……わたし、領が好き、だと思う、」
「やっと言った」
「ごめん、隠してて……」
「まあモロバレだったケドな」
「領には黙ってて欲しい……」
「んー、つーか告白とかしないの? 付き合いたいとか思わねー?」
「告白なんて……私じゃ釣り合わないよ」
そうだ、バンドに誘って貰って、こうして同じ時をたくさん過ごしているけど、これはほとんど奇跡みたいなもの。調子に乗るのはよくない。領のまわりには綺麗な女の子がたくさんいるんだし。
「バカだなー、領のこと、わかってるようで全然わかってねーな、綾乃」
「そう、かな」
「まあ、伝えるのも伝えないのも綾乃の自由だけどさ」
「うん、」
「伝えないで後悔だけはすんなよ?」
伝えないで後悔、か。
領への気持ちは明確なものじゃない。そもそも恋とか好きとか、そういう類いの気持ちを明確にしたことがないし、よくわからない。
けれど、何故だか目で追ってしまっている。何故だか領の笑顔をいつも思い出してしまう。心の底から、尊敬していて、カッコいいと思っている。一途にバンドやギターに向き合う姿勢、誰の前でもやさしく明るく振る舞う性格、全部、領のこと、尊敬しているんだ。
「うん、ありがとう、怜」
怜の方を見て微笑むと、「ま、なんでも相談してよ、ウチは綾乃の味方だからさ」と、屈託のない笑顔を向けてくれた。
◇
「綾乃、そこちょっと音上がりしすぎ」
「ごめん、歌ってるとつい……」
「浩平は序盤のリズムが速くなりがちだからもっと性格にテンポとれるよう練習して、怜はのってくると周りの音聞こえなくなってる」
「ゴメン、気をつける」
「領も割と勝手に飛ばすから気をつけて」
みんな、今までないくらい真剣に合わせていく。合わないところは全部言い合って、その曲にベストな演奏方法を模索していく。
「ここはあくまで綾乃メインだから、目立たないで」
「ギターソロもうちょい派手でもいいと思う」
「ピッチ合ってない、チューニングして」
「指まわってないよそこ」
「もう一回合わすよ!」
何度も、何度も繰り返して、楽譜はメモ書きだらけで黒くなっていく。私も夏休みよりは長く歌えるようになってきたけれど、一日に気持ちよく歌える時間は3時間未満。それもこまめに休憩を挟みながらだ。
意見を言い合えること、ダメなところもいいところも一緒に乗り越えていけること、きっとこれが仲間っていうやつなんだろう。
───そして私は、その仲間の一員にいる。
今までじゃ、考えられなかった。
「──今のいいじゃん、合ってる」
「うん、サイコーに気持ちいい」
そうだ、思えば、私がここにいること、この人たちの中で一緒に音楽を作っていること。
「綾乃、高音の伸びもよくなったし低音もしっかり出てる」
「あー、本番楽しみ、」
「もう一回いこ!」
それこそ、奇跡、なんだよ。
◇
文化祭前日、スタジオ練習と本番での体育館練習を終えると、もう時刻は20時をまわっていた。他の部活動や出し物をするグループも残っていて、その中にはいくつかバンドもあった。
「ついに明日、緊張する……」
「これだけ練習したんだからダイジョーブ! 綾乃、最初よりすっげえ上手くなったし!」
帰り道、怜が気を利かせたのか浩平と帰ると言い張ったので、領とふたりで歩く。暗い夜の道、月に照らされてうっすら2人の影が映る。
「ありがとう、嬉しい、」
「うん、お母さんには明日来て欲しいって言えた?」
「一応ね、部活の発表するから来て欲しいとは伝えたんだけど……」
「来てくれるといいね、お母さん」
「うん、」
一週間前くらい。毎日帰りが遅い私に、お母さんから『部活、忙しいの?』と問いかけられた。
普段ほとんど会話をしない中で、気にしてくれただけでも心臓が痛くなる。勇気を出して文化祭のチラシを渡して、『見に来て欲しい』ときちんと伝えた。
お母さんは一瞬黙って、『……あけとくわ』とひとこと言ってくれた。
「領が誘ってくれなかったら、こんなこともなかっただろうな、」
「全部綾乃が頑張ってるからだよ」
「ううん、本当に、奇跡みたいなことなんだ、今のこの状況も、」
「バーカ、綾乃。奇跡なんかじゃないよ。おれ、最初に綾乃の歌声を聞いたときから、『ああこの子、仲間になる子だ』って思ってたよ」
「何それ、運命ってこと?」
「そう。きっと必然ってこと」
領の、この白い歯を見せて笑う表情が好きだ。たぶん、誰よりもずっと。
───明日は本番、文化祭。
◇
───パンパンッ
開始時刻と共に鳴ったピストルの音に続いて、どこからともなくあがる風船たちやカラフルに飾り付けられた校内。教室からは一斉にみんなが飛び出していく。
待ちに待った、文化祭当日。
本番までは時間があるので、私も領と一緒に廊下に出ると、派手に飾り付けられた校内に、食べ物を売り出すクラスからいいにおいが漂っていた。
「焼き鳥いかがですかー?!
「ここのお化け屋敷、めっちゃ怖いですよー!」
「映画研究会でーす!」
「美術部展示してるので見に来てくださいー!」
どこからも勧誘の声が聞こえてくる。私たちもした方がいいのかな?と領に尋ねると、だいじょーぶ、絶対満員になるから、と笑顔で返ってきた。
そういえば、私のクラスの出し物はたこ焼き屋さんだけど、領と私は一切手伝いナシになっている。本来ならシフト制で店員担当しなきゃいけないんだけどね。
人徳のある領が説得してくれたんだ。バンドの練習があるから、って。
「おい綾乃、メイクすんぞ」
「え、」
いきなりグイッと後ろから肩を引かれたと思うと、そこにはいつもより派手にメイクした怜が立っていた。
「怜!」
「領もみたいだろ? もっと可愛くなった綾乃」
「これ以上可愛くなったら困るけど、怜に任せるー」
「えええ……」
「んじゃいくぞ、ぜってーかわいくしてやるから」
強引に手を引かれて走り出す。特別な日の始まりだ。
◇
連れて行かれたのは音楽準備室。自前の大きな鏡にたくさんのメイク道具、髪を巻くコテにヘアオイル。怜の美意識の高さには毎回驚く。本番前はいつもこれだ。
鏡の前に座らされて髪を巻いてもらうと、自分が自分じゃないみたいに思えるんだ。
いつもはワンピースに着替えるけれど、今日は制服。校則違反だけれどスカートは限界まで短くして、胸元のボタンは2つあけた。リボンはゆるめに。これも怜のセッティング。
「本番まで、あと何時間?」
「ん、1時間半」
「え、ホントに?!」
「綾乃がもたもたしてっからー」
「う、ゴメン」
そんな、なんて思いながら、私の心臓はうるさい。最低でも30分前には本番裏に集まらなきゃいけない。その30分前には4人でチューニングを兼ねた最終確認だ。
歌詞、間違えずに歌える? 音程外さずに歌える? 周りの音、ちゃんと聞ける? 失敗しない? 大丈夫?
───"大丈夫″
どこかから、声がしたような気がした。
「今……声しなかった?」
「ん? してないけど?」
じゃあ、今の声は……きっと、私の心の声だ。
私の心の中が、今までの経験や練習が、大丈夫だ、って言ってるんだ。
ふう、とひとつ大きく息を吸い込む。
できる、やれる、大丈夫だ。
本番20分前。十分にチューニングと最終確認を終えてから、舞台裏で待機。出演順ひとつ前のバンドを聞きながらケータイを見る。
お母さんからの連絡は、ない。
今朝、『今日、文化祭だから』とは伝えたものの、いつも通り冷たい反応で、来るともこないとも言われなかった。この前渡したチラシに、一応私たちの出演時間と出演場所はメモとして書いておいたけれど……伝わっているかは謎だ。
「綾乃、お母さんから連絡あった?」
こそ、と。小声で領が耳打ちした。
「ううん、ない。来てくれないかも……」
手の震えを抑えるように、右手に握ったケータイを左手でぐっと押さえる。来て欲しいと思っていた。見て欲しい、変わった自分のこと、変わりたいと思っている自分のこと、誰より近くにいるようで、一番遠い場所にいる家族に。
「じゃあさ、」
「……うん?」
「ステージに立ったら、まずは深呼吸して」
「うん」
「それから、目を閉じて」
「うん」
「3秒数えたら目を開いて、観客全員の顔をしっかり見るんだ」
ひとりひとり、確実に。
いつものステージとは違う。クラスメイトや、見たことのある生徒たち、お世話になっている先生方、他校からファンもやってくるかもしれない。知っている人たちで構成される観客席だからこそ、見なきゃいけないものがある。
「おれたちの音楽を聴きにきてくれてる」
「うん、」
「その中にお母さんがいるかはわからないけど、どんな状況でも、どんな人たちでも、全力で伝えたいと思わない?」
「ベストを、尽くしたいと思う」
「うん、大丈夫だ。綾乃、目が強くなったね」
───「はるとうたたね、本番3分前です、舞台裏最前出てくださいー」
本番は、もう目の前だ。
出演順ひとつ前のバンドが最後の1音を弾き終わると、ステージのスポットライトが消える。運営の生徒に促されてステージへとあがる。
「次は、最近巷で大人気のバンド、"はるとうたたね"です───」
司会者の男の子が場を繋ぐ。観客からは歓声がおこって、「領ー!」と個人名を指す声も聞こえた。もちろん私の名前を呼ぶ人はいないけれど。
セットし終わって、領が舞台裏へと手を挙げて合図する。運営に、準備オーケー、の合図だ。
まだステージが暗いうちに、お決まりの長いイントロが始まる。領に言われたことを思い出して、ぐっと右手を握った。
ライトがつく3秒前、大きく深呼吸する。
ライトがつく1秒前、目を閉じる。
ライトが光った2秒後、ゆっくりと目を開いた。
───体育館を埋めるほどの観客が、こちらを見ていた。
クラスメイトも、他クラスの派手な子も、他学年でかわいいと噂のあの子も、いつも数学を教えてくれる先生も、よくライブを見に来てくれている他学校のあの人も───みんな、目を輝かせて、こちらをみている。わたしたちの歌を、聞こうとしてくれている。
だめだ、泣きそう、ちゃんと聞け!
イントロの旋律を奏でる領のギター、それを支える怜のベース、曲のテンポをすべて牛耳っていく浩平のドラム。
───聞こえる、だから、歌える。
大きく息を吸い込んで、最初の1音を声にしたらもうあとは自然に身体がついてくる。何度も何度も歌った。何度も練習した。何度も、3人の奏でる音楽と合わせた。
だから、歌える。
思えば、私ってこんな人間だった?
人生の成功者を気取っていたくせに、たった2度の失敗で何もかもがダメになってしまった私。
対人関係もうまくいかなくなって、ひとりでいることが多くなって、誰かに頼る方法を忘れてしまっていた。気づけば暗くて地味で、かろうじてなんとか毎回とり続ける『1』文字だけで存在価値を見出していた。
努力しなきゃ、他に何の取り柄もない、本当に出来損ないだと思っていた。
───だけど、変わった。
例えば、授業中の空の色。誰かと「また明日」と次の日の約束を交わすこと。夕日に並んだ影、夏休みの蒸し暑さ、帰り道に食べる秋の肉まん。そして、ステージから見るこの景色。
自分がいるこの世界が、こんなに美しいって、知らなかった。
人と関わること、会話をすること、意思を伝えること、誰かと何かを作り上げること、誰かを好きになること、誰かと思いを共有すること、仲間、という言葉の意味。
全部、はじまりは『ボーカルやらない?』というきみの一言だった。
それがやがてだんだん大きくなって広がって、"はるとうたたね″のひとりになった。
世界が、変わった。
――――……ジャンッ
「今日はありがと―――!!!」
大きな歓声と拍手が会場を包む。いつもそうだ。歌っているときはほとんど無意識の領域にいて、最後の1音と領のこの声で目が覚める。
まるで夢を見ているみたいな感覚。
「最後に、覚えていって!俺たちの名前───」
領のが私のマイクを奪って、叫ぶ。観客は今までにないくらいの歓声と拍手で私たちを包んでいる。全部見える。笑顔も、涙も、汗も、全部。
私たちの音楽を、聴いてくれた。
「───はるとうたたね!」
領がステージの少し後ろにいる浩平と怜を私の隣まで連れてきて、全員横に並んで手を繋いだ。そのまま両手を思いっきり上に挙げて、勢いよく頭と一緒に振り落とす。
4人で手を繋いでお辞儀する。顔をあげるまでずっと歓声は鳴り止まない。スポットライトの明かりと会場の熱気で頬が熱くなる。
涙が出る、今この瞬間、私がここに立っていること、認められたみたいで。
◇
まだ歓声は鳴り止まないけれど、出演時間は決まっているので運営に舞台裏へと促され、戻る。アンコールの声と拍手はここまでまだ聞こえている。どうしよう、泣きそうだ。
「あー、ホント、サイッコー!」
「やっと終わったな、」
怜と浩平の言葉に、領が「まだ、」と呟く。私たちはそんな領を見る。
「綾乃、ケータイ見た?」
「え……」
領に言われてケータイを開く。そこには一件の新着メッセージ。
―――――――――――――――――
件名:綾乃へ
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
よかった
歌、こんなに上手くなったのね
―――――――――――――――――
手が震えた。差出人は、お母さんだ。
「領、なんで……」
「見えなかった? 観客席に綾乃とそっくりの人いるんだもん、おれはすぐわかったよ」
「ウソ……」
あんなに観客席を見渡したのに、お母さんの姿を見つけられなかった。やっぱり私はまだまだ領には敵わない。
「今走れば間に合うんじゃない?」
「でも、」
「言わない後悔より言って後悔!」
「……っ」
「綾乃が帰ってきたら、打ち上げな!!!」
「ありがとう、」
トン、とやさしく押された背中。怜と浩平もすべてを悟って、私をやさしい目で送り出してくれている。
「───頑張れ」
話をしなくちゃならない。今日という日、領が、はるとうたたねが用意してくれた奇跡のような日。
もう逃げない、向き合う姿勢が、私には足りてなかった。
◇
走った。色とりどりに飾られた校舎内、いつもより人で溢れかえっている。そんな人ごみの中をかき分けて走る。
時々、「ねぇ、アレ、はるとうたたねのボーカルの子じゃない?!」なんて声が耳に入ったりしてきても、足を止めるわけにはいかなかった。
体育館から校門まで一番わかりやすくて近いルート。まだ学校の中にいるなら、この道のどこかにいるはず。
走って、探して、目をこらして、───見覚えのある背中を、見つけた。
「───お母さん!」
久しぶりに呼んだその単語。驚くように振り向いた顔。名前を呼んだわけじゃないのに。私の声がわかったんだ。
「っ……はぁ、っは、……話を、しよう?」
全力で走ってきたせいで息が切れる。数メートル手前で足を止めて、膝に手をつく。ぎゅっと目をつぶった。
何を言われたって構わない。私は、私のできることをする。自分の意思で、行動するんだ。
「……そこにいたら通行人の邪魔になるわよ、こっちへいらっしゃい」
お母さんは、そう言って私を手招いた。
◇
「座りなさい」
こんな日でも人通りの少ない校舎裏のベンチに腰かけた。途中、息が切れている私を見かねて冷たいお茶のペットボトルを買ってくれた。
それを握りしめて、お母さんの横に並ぶ。
遠くで、にがやかな文化祭の音が聞こえる。ここだけ、しんと静まりかえっている。家以外で顔を合わせることなんて何年ぶりだろう。
重たい空気に、負けたくない。
「……あのね」
少しの沈黙、息をしっかりと整えた後、口を開いたのは私だった。
言わなくちゃいけない。言いたかったこと。言えなかったこと。
───『頑張れ』
領の言葉が浮かんできた。私の背中を押したときの優しい手のぬくもり。それを見守っていた浩平と怜の強い眼差し。
わたし、もう、一人じゃない。
「私、ずっと、1位をとることが自分の存在価値だと思ってた。そうしなきゃ、この家にいちゃいけないって、生きてちゃいけないって、そう思ってた」
言った瞬間、涙が出た。
お母さんが聞いてくれてる、私の言葉を、想いを。
どう思われるか、何を言われるか、そんなことわからないけど。
もう、黙っているだけの生活は終わりにしたい。
「お母さんやお父さんの期待を裏切りたくなくて、勉強ばかりしてた」
「……」
「受験で失敗して、プライドも、自信も、家族の期待も、全部失って、」
受験合格発表の日。自分の番号がそこになかったあの日。友だちと距離を置いたあの日。お母さんと上手く話せなくなったあの日。お母さんとお父さんが私のせいで喧嘩をはじめたあの日。
何度も、何度も何度も自分のことをせめて、泣いて、思った。『生まれてこなきゃよかった』って、何度も。
「だけど、ね。わたし、変わった。変えてくれる人たちに、出会った」
そう、今、この瞬間だってそうだ。こうやって、自分自身に向き合うきっかけをくれた。逃げ出さない勇気をくれた。
「あのバンドに入って、私、変われたの」
「……」
「お母さん、お母さんの期待通りに生きれなくて、ごめん。何度も失敗して、ごめんなさい。だけど私、もう、自分の意思で歩ける。歩いて行ける」
自分の道は、自分で決める。誰かの物じゃない。
少しの沈黙。お母さんの方は見れなかった。そこは私のまだ弱い部分だ。
「……私の話も、聞いてくれるかしら」
「……うん」
「綾乃は昔から本当に素直で、何をやらせても人より器用にこなして、正直私もお父さんも誇らしかった。同時に、過度な期待もしていた」
キッパリと言われた言葉。私が、今まで演じ続けてきた自分。
「……でも、完璧なんてあるはずないのよね」
完璧を追い求めてきたけれど、結局ずっと、掴むことができなかった。
「今まで上手くいっていた分、失敗したあなたのこと、上手く励ますことが出来なかった」
「……うん、」
「期待していなかったといえば嘘になるけれど、本当はこうして、私からあなたに言葉をかけなくちゃいけなかった」
「え……」
「お父さんもお母さんも、受験に失敗してるの。上手くいかなかった過去があるからこそ、あなたには厳しくしてしまった。……本番が苦手なのは、親子そろって一緒だったね」
「おかあ、さん、」
「今まで、いろんな事、はき違えて、すれ違って、過ごしてしまっていた」
テストのことしか頭になかった。今まで、授業中も、家に帰ってからも、結果を残すことがすべてだと。
お母さんの言葉をちゃんと聞いたのは、きっとこれが初めてだ。
「あの日、部活をやりたいと、私に言ってきた時のこと、覚えてる?」
気のせいか、お母さんの声は震えていた。
「あの日のあなたの目を見たとき、思った。初めてあなたの意思を聞いた。それが本当は、たまらなくうれしかった」
顔をあげることができなかった。
あの日、私は初めてお母さんに意見した。自分の意思を伝えた。冷たくあしらわれたと思ったけれど、違った。なにもわかろうと、理解しようとしていなかった。
「綾乃、歌、最初よりずっと、上手くなったわね。お風呂や部屋で大声で歌ってること、気づいていないとでも思ってた?」
───お母さんの涙に気付いたのは、零れ落ちたしずくが私の手に落ちたからだ。
私の目からも同じように熱いものがこぼれ落ちる。とめようとしたって無理だ。お互いずっと、素直になれなかっただけだった。
鼻の奥がつんとして、喉が痛くて、目頭が熱い。言葉を発しようとしてもうまくできない。
お母さん、わたしたちずっと、本当はこうして話をするべきだったんだね。
「今日のステージ、すごくよかった」
体が温かいものに包まれる。ずっと感じたことのなかった、ほとんど忘れかけていた、お母さんのぬくもり。私は子供のようにお母さんにすり寄る。あたたかい。ひとって、こんなにも、あたたかかったんだ。
「綾乃、素敵な仲間ができたのね、」
ひどくやさしく私の髪をなでる。その手が心なしか震えていること、気づかないフリをしよう。
お母さんの胸の中でとまらない涙を拭う。
失敗して、すべて失って、存在価値がわからなくなって、何度も生まれてこなきゃよかったと思った。同時に、こうしてまたお母さんのぬくもりに触れられる日がくればいいと願った。これは、何度も何度も頭の中で描いたシーン。
「おか、あさん、」
「こんな母親でごめんなさい。自分の娘のことも大事に出来ないなんて、親失格、ね」
「……それなら、私も、娘失格、だよ」
私の言葉に、ふふ、と笑った。お母さんが、笑った。
私たち、親子失格かもしれない。だけど、遠回りしても、わかり合えなくても、存在を認めてくれるだけでいい。
そういう関係があったっていい。
「あの子たちのところ、行くんでしょう」
「……うん」
「……夜ごはん、何がいい?」
「ハンバーグ、」
「うん、わかった」
お母さん、私のこと、わからないふりをして、ずっと本当は気にかけてくれていたんだよね。私が関わり方を見失っていたように、お母さんも同じような葛藤を抱えていたんだよね。
今ならわかるよ。今だから、わかるよ。
「───いってらっしゃい、綾乃」
久しぶりに呼ばれた自分の名前にまた涙をあふれさせながら、私は走り出した。お母さん、私まだ、伝えなきゃいけない気持ちがある。
私を変えてくれた人たちに。
◇
「───領っ」
走って階段をかけあがって、いつもの場所、音楽準備室の扉を勢いよく開けた。ここにいるってわかっていたからだ。全速力で駆け上がったからか息が荒い。
今日、私は走ってばかりだ。
「綾乃! おかあさんどうだ───」
「───好き!」
え、と。領の声にかぶせた私の言葉に、目を丸くした。口をぽかんとあけて固まる。
はあはあと息を整える。どうしよう、いろんな感情でぐちゃぐちゃだ。涙も出る。
だけど、今、きみに伝えたいと思った。伝えなきゃいけないと思った。
「……領が好き、人として、……異性として、好き」
両手でいつもより随分短いスカートの裾を思いっきり握って。まだ整いきっていない声は震えていて、息も荒い。目頭は熱いし、汗はとまらないし、ビジュアルは最悪。状況も最悪。勢い余って、溢れてしまった、だけどもうとまることなんて出来ない。
「え、っと、」
「領、私に、最初に言ってくれた言葉覚えてる?」
「え?」
「"音が、曲が、音楽が……誰かの心に伝える事だって、できると思うんだ!"って。泣きたくなるくらい真剣な顔で、私に言ったよね」
「ああ、そうだったね」
「……本当だった。音楽が、私を変えてくれた。音楽を通して、お母さんの心に伝えることができた」
「……」
「全部、領のおかげ。全部、はるとうたたねのおかげ!」
やっと言えた。ずっと言いたかった。
好きという気持ちも、領への感謝も、はるとうたたねへの想いも、全部。
領、きみがいなかったら、私はずっと言いたいことも言えないまま、生きる意味も見いだせないまま、信じられないくらい暗い世界で生きていたと思うんだ。
「ありがとう、私のこと、誘ってくれて、見つけてくれて、導いてくれて……ありがとう、領のおかげで、世界が変わりました」
言葉の最後は尻つぼみで、言っている間に段々冷静になって恥ずかしくなってきた。勢いって怖い。こんな風に全部言葉にするなんて。
ちらりと領を見ると、まだ驚いた顔のまま固まっている。
どうしよう、穴があったら入りたい。
「え、っと、じゃあ、それだけ、なので、」
「え、」
「で、では」
「ちょっと、綾乃、」
まって、と。扉に手をかけた私の肩をグイッと引いた。その瞬間、力に引かれて領の腕の中に倒れ込む。一瞬のことで何が起ったか理解できなくて、私は目をぱちくりさせる。
「……返事、聞かないの?」
「え、っと」
「自分だけ言うなんてずるいって」
ほとんど後ろから抱きしめられているような状況で、領は私を受け止めた状態のまま放そうとしなかった。声が直接耳にかかってくすぐったい。
自分が気持ちを伝えることばかり考えていて、相手から返事がくることを忘れていた。
「ご、ごめん、」
「……おれの気持ち、ずっと気づいてなかったの?」
「え、気持ち、って?」
「……」
「ご、ごめん、」
「天然タラシって、綾乃のこと言うんだよ」
「いや、それは領だよ、」
「んーん、おれね、綾乃のこと、声かけたときから好きだったよ」
え、と。
その言葉に固まったのは、今度は私の方だ。
「その様子じゃ本当に気づいてなかったんだ」
「え、ちょっと、理解できない……」
「おれ、けっこーわかりやすいって言われるんだけどなあ」
「わかりやすい?」
「うん。たぶん、おれが綾乃のこと好きなのなんて、みんな知ってると思うけど」
「ええ……」
なんだそれ。つまり私って、すごく鈍感? 人の気持ちに無頓着?
「合唱コンのオーディションで、綾乃の歌声を聞いたときから、きっとずっと綾乃に惹かれてた。───今もずっと、どうやったらおれの彼女になってくれるかなって、考えてる」
なにそれ、ずるい、ずるいのはずっと、領の方だ。
「……領、」
「うん?」
「彼女、になりたい」
「うん」
「領の、彼女になりたい」
「うん、なって」
ぎゅっと、後ろから抱きしめられる。ふわりと香る領のにおい。骨張った固い腕。背中に感じるあたたかさ。耳元で聞こえる息遣い。
どうしよう。わたし、いとおしい、という言葉の意味を、知ってしまった。
「あの曲さ、」
くるっと、一瞬にして、後ろから抱きしめられている体制から、真正面で領と向き合う体制へと変えられる。ぱちくりと目を開くと、そこには少しだけ顔を赤くした彼がいて。
「……あの歌詞、おれに向けて?」
あの曲、と指す物が。私が夏休み最終日に徹夜で書き上げた曲を指すことは、容易に想像できる。
「……うん、そうだよ」
「はは、やっぱり」
「気づいてたの?」
「ううん、そうだといいなって、勝手に思ってただけ」
それは、恋を春に例えたバラード曲。きみのおかげで世界は色づきはじめる。それは、青でも、ピンクでも、オレンジでもない。
「……まあ、これの相手がおれじゃなかったら、相当焼いてたけどねー」
「また、そういうこという」
「ほんとの話、ごまかさないのー」
曲名、
───"偏にきみと白い春"
"White spring with you"───
きみと一緒に色づけていく。日常を輝かせていく。青春と言うより、白春、きっとそれがわたしたちには一番似合う。
───20XX年、東京。
道行く自動車のエンジン音と溢れかえる人々の騒音がやまない渋谷スクランブル交差点にて。一際大きなビル広告の映像が4人組バンドに切り替わる。
街を流れるその音楽に、ふと足を止めた。深くかぶっている帽子を少しだけ上にずらし、そのビル広告を目にとめる。
「ねえ、この曲知ってる?」
「ああ、あのバンドの?」
「知ってる知ってる!」
「あたし超好き! 確か、オリコン1位だよね?」
「最近人気だよねー、ライブ行ってみたい」
「バンド名なんだっけ?」
「えっと確か───」
流れる映像と音楽に、周りの数人も同じように足を止めてビルを見上げる。その音は曲は街中を魅了し、やがて日本中に衝撃をあたえることとなる。……そんな気がしている。
ふと、震えたケータイを見ると一件の新着メッセージ。領とマネージャーから鬼のようにメッセージが届いている。大学が長引いて、本番前のセッティングに遅れてしまっているんだった。こんなところで足を止めている場合じゃない。
帽子を元に戻して再び歩き出すと、さっき近くで話していた女子高生の会話の続きが耳に入った。
「───はるとうたたねじゃない? ひらがなで!」
◇
会場のテレビ局につくなり、マネージャーと領に小言を言われた。授業だって元から言っていたんだから、そんなに怒らなくても。
「はるとうたたねさん!もうすぐ本番です!スタジオ入ってください!」
楽屋までやってきた荒々しいスタッフの声とともに、私たちはスタジオへ向かう。領のギターで音合わせはしてもらった。喉の調子も悪くない。
「はえーなー、もう?」
「何言ってんだよ、怜。生放送なんだから遅れは許されないの!」
「それにしても、スケジュールハードすぎ」
「昨日も深夜までラジオゲスト出演だったもんなー」
こんな会話は、もう日常茶飯事だ。
私たちが「はるとうたたね」としてメジャーデビューしてもう1年が経つ。
あの日、文化祭の次の日出演したb-stationを経て武田さんに目をつけられた私たちは、日本一と言われるレコード会社と契約を結んだ。曲のテイストや歌詞のあり方、ビジュアルから売り方までデビュー前にしっかり仕込んで貰って、高校を卒業と共にメジャーデビュー。瞬く間に人気急上昇。
CMや歌番組出演の依頼。この春にはドラマの主題歌にも抜擢されている。
そして来月には、1stアルバム発売が決定。今はその準備と宣伝活動で大忙しだ。
◇
スタジオに着いてセッティングを済ませると、慌ただしくスタッフたちが定位置につきはじめる。もうすぐ本番、この空気にももう慣れた。
「あと1分でCM明けます!位置確認してください!」
全員の定位置を確認する。
中央奥に浩平のドラム。その右斜め前に怜のベース。左横に領のギター。
そして、ステージの中央、ボーカルの私。
ずっと変わらずにやってきた。
「───ねえ、領」
あと30秒というところで、隣にいる領に話しかける。周りは気づいていないくらいの小さな声だ。緊張をほぐすため、とでも思っていて欲しい。
「ん?」
「こんなことになるなんて、出会った頃の私たちは何にも知らなかったね」
「んー、おれはちょっと信じてたけどなー」
なにそれ、領らしいね。CM明け15秒前。私は静かに目を閉じる。
「でも、あの頃からずっと変わらないことがひとつ」
「……何?」
「───綾乃が好きなこと」
領の声と同時に、カウントするスタッフの声がスタジオに響く。それに合わせて、わたしはゆっくりと目を開く。
───3、2、1。
画面が変わる。空気が変わる。司会者がベストなタイミングで声をあげる。
「さあ次は、今人気急上昇中のバンド、はるとうたたねの登場です!」
打ち合わせ通り、その声と共にイントロ、浩平のドラムが始まる。
───曲が始まる。
私は大きく息を吸った。
こんなことになるなんて思いもしなかった。
歌を、音楽をこんなに好きになれるなんて思わなかった。
こんなに信じ合える人たちと出会えるなんて想像も出来なかった。
それを変えてくれた。
きみが、きみたちが私を変えてくれた。
───例えば、世界がもっと綺麗だったなら。
もっと、息を吐くことは楽だったと思う。笑うことは楽しい事だったと思う。ひとの優しさがきちんと感じれたと思う。
朝起きたとき窓から差し込む光が眩しく思えたかもしれないし、通学路で見るパンジーがかわいく見えたかもしれない。落ちていく夕日を綺麗だと感じて、光る星に微笑んで、今日もいい日だったと幸せな気持ちで眠りにつく夜が増えたかもしれない。
そんな風に捻くれた考えをして、毎日自分のことを恨んで、この世界のこと、ずっと嫌いだった。
───でも、あまりにも、このステージから見える景色は綺麗だ。
「───ありがとー!!」
領の声にワッと歓声があがった。その音で我に返る。これも学生時代からずっとかわらない。歌っているとき、いつも夢を見ているような気分で、ほとんど無意識の領域にいる。
見上げれば、泣きたくなるくらい綺麗な光景が広がっている。私たちの曲を聴いて、歓声をあげてくれるひとたち。
こんな景色を教えてくれた。こんな世界を教えてくれた。
「領、私も、あの頃からずっと、はるとうたたねと領のことが大好きだよ」
領はいつもの笑顔で笑った。汗だくで、熱くて、胸が苦しい。だけどこの達成感があるからこそ、歌うことをやめられない。やめたくない。
きっと、ずっと続いていく。
領、浩平、怜、の顔を順番に見て。アンコールの声が鳴り止まない会場をもう一度しっかりと隅まで見渡す。
ああ、綺麗だ。
───この景色が、世界でいちばん、きれいだ。
この景色を教えてくれたきみたちがいるこの世界は、きっとルイアームストロングが歌ったあの曲通りなんだろう。
『What a wonderful world』───この世界は素晴らしい!
【偏にきみと白い春 完】
四つ葉のクローバーなんて見つけたことがない。
世の中のラッキーと呼ばれるもの。四つ葉のクローバーにラッキーセブン、茶柱や流れ星。そういうものとは無縁の人生。ラッキーとかハッピーとかきっと似合わない人種なんだろう。
だって、例えば。
小学校のマラソン大会で、練習は毎回1位をとっていたのに、本番でこけて10位になるとか。兄弟と食べたプリンが自分だけうまく型から落ちなかったとか。いつも見ない朝の星占いで、たまたま見た時に限って12位だったとか。
昔から器用貧乏で、なんでもそこそこにはこなせるけれど、誇れるものが何もないこととか。
数えたらきりがないくらい、多分自分の人生って"ツイてない"ことが多いと思う。
───『春がすきなんだ、人と出逢えるから』
だけど多分、そこそこ、いや、結構。普段ツイてない割には、思わぬところで大きなラッキーを拾っているんだろうな、と思う。矛盾してるかもしれないけどね。
そう思えるようになった、たぶんそれだけでも、自分は結構ラッキーだったりするんだ。
【ラッキーセブンより春がいい】
「好きです、初めて見たときから気になってました」
───歌番組のリハーサル。楽屋から出たトイレへ続く人通りのない通路脇。
突然肩をたたかれたと思えば、テレビでよく見かけたことのある可愛らしい女の子が立っていた。と、状況を理解する前に言葉を紡がれた。
「……え、」
「えっと、いきなりで、ごめんなさい」
「人違いじゃないですか?」
「え! 違います! ……"はるとうたたね"の、ドラム、ですよね?」
はるとうたたね───自分が所属しているバンド名。パートはドラム。合ってる。間違ってない。
だけど俺は、この子と関わった記憶が一切ない。というか、今初めて話した。テレビではよく見かけるけれど。
……多分、今売り出し中の大人数アイドルグループのひとりだろう。顔を知っているということは、人気はトップの方。踊っているのは最前列。
「そうですけど、すみません、話したの、初めて、ですよね?」
「えっと、そうです、」
「……アイドルは恋愛禁止じゃなかった?」
「そう、なんですけど、」
「ていうか、こんなところで話してたら週刊誌とられますよ、気をつけた方がいい」
「あ、あの、でも!」
「……はい」
「好きなんです、高沢 浩平さん、あなたに会いたくて、芸能界に入ったんです……!」
◇
「はあ? それで、何も言わずに逃げ出したの?!」
本番終了後の楽屋にて。
リハーサル前にあったさっきの出来事を"はるとうたたね"のメンバーに話すと、想像以上に驚かれ、同時に罵られた。
「あっりえない、相手はあの平石 結衣ちゃんデショ? コーへー、あんた日本中の男に刺されるぞ」
ベーシストの怜が信じられないといった表情でこちらを指さす。女子なんだからもう少しおしとやかな話し方をしたらどうなんだ、と出会ったときから思っているけれど変わらない。それはそれで怜の個性でもある。
───ヒライシ ユイ。通称ユイユイ、というらしい。最近売り出し中の50人組アイドルグループで、トップ7にランクインする人気アイドルだ。最近は女優業にも励んでいるとかいないとか。
「……いや、喋ったことないし」
「関係ナイだろーが、せっかくのチャンス逃してバッカだなー」
人のことをとやかく言う前に、怜はその男口調を治したら、とは口に出さないでおく。
「なあ領、どう思う? ありえねーよなあー」
「えー? うーん、どーなのかねー、駆け出しバンドの俺らと売り出し中アイドルのあの子じゃ、週刊誌にすぐとられちゃいそうだけど」
まあ、いいんじゃない? 浩平次第でしょ、と。学生時代、というより出会った頃から変わらない笑顔でギターの高城 領が言う。
「いや、つーか、付き合う気とかない」
本当に申し訳ないことをしたとは思うけれど。あの時、『好きです』と叫ばれた声が予想以上に大きかったので、周りを気にした俺はそのままくるりとその子に背を向けて楽屋へと一目散に逃げてしまったのだった。
「コーへーって本当に色恋沙汰ねーよなー」
怜がベースを拭いて大切にケースにしまいながらそんなことを言うけれど、こればかりは仕方がないだろう。
「浩平、顔カッコいーのにな」
「背も高いし」
「てかモテてるっしょ、よく告られてんじゃん」
「ファンもガチ恋してる人多そうだよねー」
昔からそうだ、俺の人生は基本的に"ツイてない"のだ。
それはもちろん、恋愛も例外ではなく。
自分で言うのもなんだけれど、見た目はそんなに悪い訳じゃないだろう。というか、幼い頃からなんとなく自分が異性に好意を持たれやすいことは知っていた。
けれど毎回、自分が好きな子は違う誰かを好きになる。
これはもう、ほとんどジンクス、決まったこと。いくら大勢に好意を持たれても、自分の好きになった人に振り向いてもらえなければ意味がない。
「ね、綾乃もそう思うっしょ?」
そう、例えば。
「ああ、うん、浩平はカッコいいと思うよ。領がいなかったら好きになってたと思う」
こういう風に、一番好きだと思った相手が、一番信頼している親友と付き合っている、とかね。
「おい綾乃ー!冗談でもそういうこと言うなー!この天然タラシが!」
「もー、浩平だからでしょ、他の人には言わないって。領うるさい」
「領、いちいち嫉妬すんのはカッコわりーぞ」
片桐 綾乃。はるとうたたねのボーカル。そして、───領の彼女。
「……俺も領がいなかったら綾乃と付き合ってるんだけどね」
「はあー? 浩平ものるなってー!」
「ハイハイ、領ウッセー」
怜が領を冷たくあしらうと、綾乃はくすくす笑っている。
冗談、だ。
もうずっと、学生時代からずっと、出会った頃からずっと、俺の好意は"冗談"、だ。
領と綾乃が付き合いだしたのは、はるとうたたねが4人組バンドになって半年後、文化祭のステージを終えた後、だった気がする。そこらへんは何度も聞いたけど、あんまりよく覚えていない。多分うまく聞くことができなかった。
誰かを好きになる、ということは、たぶん、誰かに好きになられることよりも、ずっと難しい。
「もう帰り支度おわった? わたし帰るよー」
口だけ達者に動かしている怜と領に綾乃が呆れた声で促す。明日も朝から大学なんだろう。俺もそうだ。
高校卒業と共にメジャーデビュー。1stシングルの売上げはそこそこだったものの、tiktikという短い動画配信のSNSで一躍有名になって、そこからは早かった。CMソングが決まって、歌番組が決まって、2ndシングルは1stシングルの倍売れて、PVの再生回数は月間で1位になった。
デビューして1年以上経った今でもその波は消えていない。ツアーライブも決まったし、1stアルバムは来月発売。領は明るいキャラとトーク力で、最近はバラエティにも呼ばれている。
そんな中で、綾乃は都内の有名私立大学に、俺は同じく都内の医大に進学して、このライブ活動と並行して大学生活を送っている。
二兎追うものは一兎をも得ず、ということわざがたまに頭をよぎるけれど、4人組バンドのうち2人が現役大学生、加えて二人とも名のある有名大学ともなれば、話題性は十分にあった。
「綾乃まって、今日おれ泊まってっていー?」
「ダメだよ、明日小テストあるから勉強しなきゃだし」
「えー、最近冷たい……かまって……」
「だからここでイチャついてんなって」
高校卒業してから一人暮らしを始めた綾乃の家に、領はよく行きたがっているけれど、その大半を断られているのが実情だ。
付き合っているくせにしっかりしている。綾乃のそういうところが、きっと惹かれるところなんだろう。
「じゃあ家まで送るから!ね!」
「はいはい、ありがとうねいつもー」
「んじゃ帰るぞー」
領と怜はギターとベースを抱えて、ガチャリと楽屋の扉を開けた瞬間。
「……あ」
思わずそう声がこぼれたのは、いつでも空気がうまく読めない領だ。
はるとうたたねの控室、楽屋の前、廊下の隅。3人の後ろからでも誰が立っているのかわかった。
「……ユイユイ?」
「あ、えっと、そうです」
さっきは長い黒髪をポニーテールに結んで、煌びやかな衣装を見に纏っていたけれど。今は帰る途中なのだろう、ストレートロングを真っ直ぐ下ろして、メンズサイズのキャップを深くかぶっている。服装はパーカーにジーンズと思いがけずボーイッシュだ。
「もしかして、浩平に用?」
「は、はい、すみませんいきなり……」
芸歴、とかそういうのはよくわからないけれど、初対面のアイドルにその言葉遣いはないだろ、怜。
心の中で睨みつつ、さてこの状況をどうしようかと口を尖らせた。
「とりあえずここだと目立つし、中入りなよ」
領がいつもの笑顔を振りまいてそう言うと、ユイユイとやらは「いいんですか?!」と目を輝かせている。歳はどのくらいだろう。同い年か、少し年下か、はたまたまさかの年上か。
帰るところを引き返して全員楽屋へと戻る。怜と領に押されてユイユイとやらも中へ。なんだこの状況は。
「ごめんねー、浩平って無口で冷たいとこあって! 仲良くなれば大丈夫なんだけどー」
「あ、はい、大丈夫です! というか、ファンなので……」
「カワイー。もしかしてコーコセイ?」
「えっと、今年卒業して、18です!」
俺が一言も話さないうちに話が進んでいく。領と怜は嬉しそうに雑談しているけれど、綾乃は明日のテストが気になって仕方ないんだろう。時計を何度も確認している。
「綾乃、帰る?」
「え、」
盛り上がっている3人の目を盗んで、こそりと綾乃に話しかける。こういうところ、気がつかえるのはこのメンバーで俺と綾乃だけだと思う。
というか、境遇が似ているからこそ、なんとなくわかるのだ。俺と綾乃は、よく似ている。
「でも、せっかく浩平のこと好きっていう子が来てくれてるし……」
「いーよあんなの、気にしないで」
「でも……」
「……それとも、気になる?」
溢れるなよ、と思うけれど。
揺さぶりをかけるように、時々こぼれ落ちてしまうものがある。それは我に帰った時にはもう遅い。
「そりゃあ気になるよ、浩平の彼女になるかもしれない子だもん」
「……まあね」
ほらね、大抵こうやって、揺さぶりをかけたこと、後悔する。
「でもさ、なんか……」
「え?」
「浩平に彼女ができたらちょっと寂しいかも、」
───これだから、相当タチが悪い。
溢れないようにしているのに、時々こぼしてしまう俺の気持ちには見向きもしないくせに、時々こうやって馬鹿みたいに期待させるようなことを言う。
わかっている。その『寂しい』が、仲間として、バンドメンバーとして、友達として、だということ。
わかっているからこそ、叶わないそれに、俺はもうずっと何年も囚われているのだろう。
「おいコーヘー、オマエ目当てに来てくれてんだから、こっちきて喋れって」
怜の声に顔をあげると、ユイユイとやらが真っ直ぐにこちらを射抜いていた。帽子を外すと顔の印象が随分と明るくなる。
人気アイドルなだけあって、本当に可愛らしい顔立ちをしていた。きっと、今までだって恋愛になんて苦労したことないだろう。
俺のことも、落とせると思ったんだろうか。
「……あ、あの、浩平さん、」
「……」
「さっきはいきなりごめんなさい、廊下で後ろ姿を見かけて、舞い上がっちゃって……、いきなりあんなこと、気持ち悪い、ですよね」
「別に、そんなことはないですけど」
いちいち返しが冷たいんだよ、と怜から冷たい言葉が飛んでくる。初対面相手に優しくできるほど、俺はできた人間じゃない。
「コーヘー、もうちょっと優しくできないのかよ? 少なくともはるうたとコーヘーのドラムのファンなんだぞ?」
怜の言葉に、それもそうか、とも思うけれど。
「……じゃあ、今度会う約束でもすればいいの?」
我ながら酷い言い方、だ。
だけど隣に座る綾乃の視線を、どこかでずっと、気にしている。最低だとは思う。というか俺は昔からずっと最低だった。
領のことも、綾乃のことも、同じくらい大切な存在なのに、どこかでずっと、いつかは、なんて、馬鹿げたことを考えていたりした。
そのいつか、が来てしまったら、いろんなことがもう、うまくいかなくなるのにな。
「おい浩平、そんな言い方……」
「あ、いいんです! 私がいきなり話しかけたし、ファンだから、浩平さんが初対面の人に冷たいなんてこと、わかってるので……」
「ごめんねユイユイ、ほんっとアイツ不器用な奴なんだよね、いい奴なんだけどさ」
領のフォローにも俺のこんな態度にもうまく対応して、18歳とは到底思えない。俺の方がずっと子供だな、と思う。
いい子、なんだろう。きっと、すごく。
憧れてくれているんだろう。そういう好意にずっと、目を向けないで生きてきたのは、やっぱりどこかでまだ、くるはずのない「いつか」を思い描いているからなのかもしれない。