夏合宿が終わっても、みんなで集まって毎日数時間でも練習をした。もちろん予定が合わない日もあるので、そういう日はそれぞれ個人練習。

私も、お母さんが家にいない時間を狙って発声練習や滑舌をよくする舌の運動、音程をきれいにとるための音感トレーニング、ひとりでもできることを領に教わった。お風呂の中や階段付近は、自分の声が響いて歌っているのが気持ちいいってことも。

3人の伴奏と合わせる度に、自分の声量や技術力のなさに情けなくなるけれど、そんな私に3人は決して嫌な顔をしない。

音程を間違えても、歌詞を間違えても、タイミングやリズムがずれても、どれだけだって、何度だってやり直していちからちゃんと教えてくれるの。



『綾乃の声は本当に綺麗だし、何より領のギターの音色にいちばんマッチしてる』


浩平がこの間そう言ってくれたな。


『綾乃、自信持って歌えばいいんだよ。オーケストラで言えば、綾乃は指揮者なんだ。俺らはね、綾乃が気持ちよく歌えるように、どれだけだって合わせてやる。信用して』


領はそう笑ったな。



『ワタシのベースに合わせられんの、この2人だけだと思ってたケド。綾乃の歌声、合ってんのよ、うちらのバンドに必要』


怜はそうやって、私の頭を撫でてくれたな。


こんなふうに、自分を認めてくれる場所、今までなかった。そんなことに、毎日涙が出るくらいうれしくて、どうにかして、はるとうたたねの、必要な1人になりたいって、私思ってるんだよ。






「いい朝だなー! バンド日和!」

「なんじゃそら」



領がぐいっと空に向かって両手を伸ばす。呆れたように笑う怜のツッコミもお構いなしだ。



「綾乃、緊張してる?」

「う、うん……」

「ガッチガチだなー、もっと気楽でダイジョーブだって!」




朝早く、借りた小さなスタジオに集まって最終打ち合わせを済ませた。何度も歌った既存バンドのコピー曲と、領が作詞作曲したはるとうたたねオリジナル曲のふたつ。


───そう、ついに始めてのライブの日がやってきた。


歌うのは2曲、時間にしたら15分にも満たないけれど。




「綾乃、初ステージだもんなー」

「領は無邪気すぎだ」

「浩平がいつも冷静すぎるんだろー?!」

「ハイハイ、時間ねーからサッサと行くよ」




怜のひとことに「はーい」と領が返事をしてスタジオを出る。本番まであと数時間、まずは会場へと向かわなきゃ。


実は、昨日から緊張が解けない。毎日練習してるとはいえ、ひとりで人前で歌うのなんて人生で初めてのことだ。




「つーか、その前に衣装でしょーが。ウチが綾乃のことめっちゃかわいくすっから」



怜が誇らしげにそう言うと。



「それもそうじゃん! たのしみだなー」



と無邪気に領はわらう。上機嫌だ、きっとステージに立つのがすごく楽しみなんだろうなあ。






「んじゃ、急ぐよ綾乃」



そう言って怜が見上げたのは、電車を乗り継いでやってきた、今時のオシャレ女子が集うショッピングビル。最近近くにできたんだってクラスの子が言っていたのを聞いたことがある。人気のファッションやコスメブランド、女の子が好きそうなカフェがそろっている。

本番まで数時間なのに大丈夫なのか尋ねると、領は笑って「もちろん!」と言ってくれた。本番前に練習しすぎるのもよくないんだとか。緊張しないように、こうして楽しいことをして過ごすことが多いみたい。




「綾乃は綺麗な黒髪だから、黒がいいと思ウンだよねー。綾乃はなんか好きな系統とかあるん?」

「私こういうの疎くて……全部怜に任せる」

「んじゃ、黒がベースな!」




怜のこういう強気な喋り方も、頼りになるところも、同じ性別なのにすごくカッコいいと思ってしまう。

一見派手な見た目をしているけれど、自分に似合うオシャレを貫いているんだろうなあ。

だって、こういう話をするときの怜は、バンドの話をするときと同じくらい生き生きしていて輝いてる。



「つーか、オマエらは邪魔だからどっか行ってろ」



怜はふたりにそう言ってひらひらと手を振った。やれやれと肩を落とす浩平と、「オッケー!」と嬉しそうな領。

私と怜が衣装を選んでいる間、領と浩平はショッピングビル内のファストフード店で待っていることになった。





とは言っても無限に時間があるわけじゃないので、怜おすすめのお店を早足でぐるぐると回った。考える暇もなくあれもこれもと鏡の前で合わせたり、試着したり。そのどれもが可愛くって、こんな風に自分の見た目に気を使ったことなかったな、と思う。


「いいなー綾乃は。なんでも似合う」

「ええ?! 怜のほうが背も高くてスタイルも良くて綺麗で、何でも似合うよ、」

「ありまえだろ、努力してんだから」


怜は決して褒めても謙遜なんてしない。ベースもお洒落も、自分が好きで努力している事に対して真摯だ。


「つーか、キレイと可愛いは別物なんだよ、覚えとけ」

「ハイ……」


言われるがまま、怜が持ってきた服を次々に試着して。気がついた頃にはすでに1時間が経過していた。


「うん、コレにしよ。サイコーにカワイイ」

「うん……かわいい、」


鏡に映る自分を見て、思わず頬が緩む。好きな服を着て、心があたたかくなるのなんて初めてのこと。

私が試着している間にお会計を済ませてしまった怜は、「次行くよ」と私の手を引く。お金は今まで貯めてきた私のお年玉やらお小遣い。友だちもいないし使い道もないから、今までの分がほとんど貯めてある。


「次は髪な。ココ、ドライヤーとか貸してくれる店あっから。行くぞ」


初めて着た、真っ黒なミニ丈のワンピース。制服のスカートより短いものを身につけたのは初めてだ。白い靴下と厚底のローファー。確かに、服がこんなに可愛いのに髪は毎朝適当に整えているストレートのまま。

トイレのメイクルームに連れられて、借りてきたドライヤーとコテで巻髪を作っていく。前髪もくるんと巻いて。軽くパウダーをつけて、ピンクのアイシャドウに目尻のライナー、睫のカールにマスカラは忘れずに。ハイライトとチークをそろえて軽くリップを塗ったら完成だ。


真っ白だったケーキがデコレーションされていくみたい。信じられない。自分じゃないみたい。



「よし、完璧」

「怜、すごい……自分じゃないみたい」

「当たり前じゃん?ウチがプロデュースしてんだからさ」

「ありがとう、うれしい、」

「綾乃はかわいーんだから、素材活かさなきゃ損っしょ」



さあ急ぐよ、とまた怜に手を引かれて。待っている二人の元へ走る。時々窓や鏡に映る自分が信じられなくて、何度も頬が熱くなった。





「ジャーン、どーだ、超かわいくなったろ?」



ファストフード店へと急いで、領と浩平の前に私を差し出す。背中をトンと押されて思わず前のめりになったところを領が咄嗟に支えてくれた。



「領ごめん! もう、怜押さないでよー…」

「いーじゃん、コイツら見てみなよ」

「ええ……」



ちらりとふたりを見ると。領と浩平は、目を丸くして私を見て、それから同じタイミングで視線を逸らした。



「ほら、照れてんだよコイツら、カワイーね」

「照れてる?」

「綾乃がカワイーから。な、そーだろ」



怜の言葉に視線を戻した領の頰は心なしか赤く染まっている。



「ほんとにカワイーからどうしようかと思ったー、綾乃、めちゃくちゃ似合ってる!」

「ありがとう……」



かわいい、なんて言い慣れていないからどうしたらいいかわからない。お世辞だってわかってるけど、面と向かってこんなふうに言える領はすごいな。



「コーヘーは?なんかないの?」



怜がそう浩平に詰め寄ると、視線をこちらに向けてから「……うん、可愛い、似合ってる」と小さくこぼした。



「あたりまえでしょ? このアタシがプロデュースしたんだからな」



どや顔でそう言う怜には頭が上がらない。今後の私服も全部決めて欲しいくらいだ。



「えっ、と、怜、選んでくれてありがとう」

「ウン、ウチも楽しかった。またかわいくさせて」



いいなあ、こういうの、女の子同士の楽しみみたいですごくたのしい。怜がうれしそうで、わたしもうれしいよ。




【はるとうたたね】


殴り書きでそう書かれた白い紙が、雑にセロハンテープで貼られている。

大きいビルの地下一階。ライブ会場舞台裏の奥の奥の廊下の突き当たり。狭いけれど、バンドごとに控え室がある会場はかなり珍しいらしい。もちろん、学生バンドの学生ライブだからこそだけれど。


「芸能人みたい……」

「はは、ゲーノージン! なれたらいいけどねー」



領の声にみんな笑う。

何組もの学生バンドが集まって主催されているこのライブは、何ヶ月かに一度開催されるイベント。来客は友人や家族が多いけれど、人気バンドにはファンがいたりするらしい。



「はるとうたたねにもファンがいたりする?」



わたしの問いに、「あー」と怜が手を止める。



「ファンつーか、応援してくれてんのは領の友達とかが多いな。アイツほんっと顔が広いから」

「なるほど……」

「あんだけフレンドリーで顔もいいし、本当に領のこと好きな女子も多いだろうけどね」

「そ、そうなんだ」

「ま、でも基本は知人ってわけ。うちらの目標はできる限り多くのファンを作ること。やるからには大勢に聴いてほしいじゃん?」

「そうだよね」



ライブ会場は、決して広いとは言えないけれど。

私にとっては、すごく大きな場所に思える。


ここで、歌う。


他のボーカルと並んで、下手だって思われないかな。私の歌なんかを、聴いてくれるんだろうか。

不安と緊張で押しつぶされそう。うまくいかなかったら、って、そんなことばかり頭によぎってしまう。

ぐっと手のひらを握ると、横から領に肩をポンッと叩かれた。




「綾乃、大丈夫、やれるよ」





わたしだけに聞こえる声。

同じ部屋にいるけれど、きっと浩平と怜には聞こえなかったと思う。

わたしが緊張していること、不安に思っていること、気づいてくれていて。その不安を2人にまで伝染させないようにしてくれてるんだ。


領がにこりと笑う。



───『大丈夫、やれるよ』



領の言葉は、なんでこんなに説得力があるんだろう。頼れるリーダーだから。いつも1番近くで練習に励んできたから。でもそれだけじゃない。

誰よりもギターが好きで、誰よりも音楽が好きで、誰よりもバンドが好きで、誰よりも努力している領だからこそ。


彼の見ている世界を、ほんの少しだけでも、一緒に見てみたいと思えた。


さっきの不安は、一気に吹っ飛ぶ。だって、私だって、この夏ずっと一緒に頑張ってきたんだ。

努力だけは、誰にも負けない。才能なんてなくたって、コツコツ頑張ること、ひたすら努力すること、それは誰よりもわたしの得意分野なんだから。



やれる。
 

───やってやる





「spring nap……」



ふと、パンフレットを見る。パンフレットといっても、A4の紙に今夜でるバンド名がずらりと並んで書いてあるだけだけれど。


spring nap───はるとうたたね。




「あー、ひらがな表記にしてって言ったのに英語になってる」

「英語でもひらがなでもいいの?」

「基本はひらがな、たまーに英語、気分だよ」

「気分なんだ……」

「俺は季節の中で春がいちばんすき。たくさんの人に出逢えるから」

「領はすぐ友達になれるもんね」

「まあそうだけど……」




バンド名の由来、そういえばあまり聞いたことがなかったな。

話している間に怜がピッチ調整に入ったので、領もギターを片手にそちらへ向かう。そういえば以前領はチューナーよりも自分の耳の方が正しいと言っていたな。絶対音感があるらしい。

ベースと合わせて最終調節。私もギターに音を分けてもらう。領が奏でるギターは誰よりもやさしい音色をしている。




「次の次にはるとうたたね入りまーす、最終準備おねがいしますー」




楽屋まで呼びにきたスタッフの声に身が引き締まる。ちらりと3人を見ると、全員私を見ていた。まるで「大丈夫だ」って言っているみたいに。


───本番は、目の前だ。





「じゃあいつもの円陣いきますか」

「いつもの……?」

「これから"いつもの"になるんだよ」

「はい輪になってー」




領の掛け声にあわせて、肩を組んで円陣を組む。




「んじゃ今日も、サイッコーに楽しみましょう!」

「はーい」

「うん」

「は、はい……!」


「「「おうっ」」」





最後の声出しとでも言うようにタイミングよく3人がそう大声をだして足を踏み出した。びっくりしたけれど笑う3人を見てつられて笑う。

わたし、やっと一員になれるね。



スタート、初のステージだ。







場面転換のため、スポットライトの消えた暗いステージへと足を進める。暗くても、すぐそこに観客が大勢いるのは肌で感じる。会場内はすごい熱気で溢れている。


セッティングし終わると、明かりがつくカウントダウンがすぐに始まる。

裏方の人が右手を挙げて5本指をひとつずつ折っていく。




「綾乃、」




ボーカル、ステージのど真ん中。横にいるのはギターの領。ピッチ合わせに少しだけ音を鳴らして、私へと合図する。今日歌う最初の曲の、最初の一音。



ラスト1本の指を折る。ステージの明りが灯る。──浩平のドラムを合図に、イントロがはじまる。


マイクを持つ手に力をいれる。どうしよう、練習と全然違う。

聞こえてくる音も、会場の雰囲気も、自分自身のコンディションも何もかも。観客からの歓声と、ホールの反響、会場の熱に飲み込まれる。飲み込まれてしまう。

自分の手が震えているのを感じて、ぎゅっと目を閉じる。



───『大丈夫、やれるよ』



聞こえたのは、楽屋で言われた、領の声だ。


ぱっと目を開くと、さっきよりもクリアに周りの音が聞こえた。



勢いに乗せて、普段よりも少し早いテンポでリズムを刻む浩平のドラム。

それに合わせるようにベースが間をとって、領のギターはいつもよりも気持ちよさそうに伸び伸びとイントロの旋律を奏でていく。




────聞こえた、歌える






すっと息を吸い込んで、最初の一音を声に出したらもう迷いなんてない。


たくさん練習したんだ。初心者の私に合わせて何度も何度もギターを弾いてくれた領。メトロノームのように正確なリズムを刻んでくれる浩平と怜。どれだけだって練習に付き合ってくれて、いつだって私の声が一番「はるとうたたね」の音に合っていると言ってくれた。


3人が奏でる音楽に沿って歌う、私の声。


今まで、人前に出ることなんて嫌いだった。ましてや、音楽なんて大の苦手科目。人前で歌うことが、私の人生にあるだなんて思わなかった。




それでも、今この瞬間。

このライトの下で、このメンバーで、音楽をつくることが、こんなにも楽しくって、こんなにも心が震えるなんて、信じられない、幻みたいだ。





「今日はありがとー! 次は夏フェスで!」


観客席に向かってそう叫ぶ領の声とともに、浩平のドラムが終わる。気づけば全曲歌い終わっていて、全身汗だく、喉もからからだ。時間にしたら数十分。だけど、ステージの上がこんなに暑くて時間が過ぎるのは一瞬なんだって、初めて知った。


ふと見上げた先。───そこにはさっきまでとは全く違う世界が広がっていた。


まるで光がはじけ飛んで、しゃぼん玉のように浮遊しているみたい。観客席ひとりひとりの顔がしっかりと見える。満面の笑みで手をたたく人、さいこうだった、アンコール、と汗だくで声援を叫ぶ人、両手で顔を包んで涙を拭いている人、まっすぐにこちらを見てきらきらと目を輝かせている人。


───きれい、だ。


小さいころに見た夕暮れの海より、帰り道に見かけた雨上がりの虹より、誰かが称賛した芸術作品より、あの日見た授業中の空より───ずっと、





きれいだ、この景色が、世界で一番きれいだ。










場面転換のため舞台が暗くなる。それでも尚歓声の声は止まない。各バンドに制限時間があるからアンコールには応えられないけれど、再登場の声は裏まで聞こえるくらい、ずっと続いている。


泣きそうだ。ううん、涙、止まらないや。



「はあ、つっかれたーー!!」


楽屋に戻ると、一番に領がそう叫んでぐっと拳を上にあげる。見渡せば三人とも汗だくで、やりきった、という表情。澄んでいて、晴ればれとして、誰よりかっこいい。3人が、いちばんかっこいいよ。



「え、てか、綾乃泣いてんじゃん」

「え、」

「…初舞台だしね」



三人が私を取り囲む。よしよし、と怜が頭をなでてくれると、領も浩平も笑った。



「大成功、だな」



浩平がTシャツで汗をぬぐいながら言う。泣いている私の気持ちを、三人とも何も言わなくてもわかってくれたんだろう。



「うん、もちろん! 綾乃の初舞台、大成功!」



領の声にあわせて、浩平と領は宙で手を合わせる。


ねえ、すごいね。


世界って、こんなにも輝いてたんだ。

私は今まで、何も知らずに勉強だけで生きてきた。「1」の文字以外で自分を満足させられるものなんてないと思っていた。それ以外すべて価値なんてないものだって。


だけど、それだけじゃなかった。


順位とか、1番とか、そんなことどうでもよくなる世界がここにあった。




教えてくれたのは、ほかでもない、「はるとうたたね」───3人だ。