何の前触れもなく、彼女は言ってのけた。
「わたし、春日野 妃希は、本作をもって芸能界を引退します」
淡々とした口調で、悠然とした様で、つらつらと言葉を並べていく。
もしかしたら宇宙語を話しているのかもしれない。そう本気で疑うくらいには動揺しているし、頭が回らない。
引退。その2文字が思考にずしんとのしかかり、受け止めきれずに沈んでいく。
隣で彼女は、ほほえんでいた。
晴れやかな感情をにじませた表情を、正面のカメラがばっちり収める。
ゆるやかに垂れていく目元はあどけなく。
ひかえめにほぐされた口許はどこか儚げで。
少女であり、女性である──まさに、彼女の演じたアオイのようだ。アオイと同じ、子どもと大人の境に立つ顔つきをしている。
そういえば、彼女は、おととい18になったばかりだった。
まだまだ成長していく年齢だ。
すでに主演を張ることはめずらしくないとしても、10代の彼女には無限の可能性がある。今後どのような役者になっていくのか、次はどんな顔を見せてくれるのか、誰もが期待していた。あたしが、一番、期待していた。
引退はあまりにも早すぎる。
すべての期待を振り切るかのごとく劇場をあとにした彼女は、控え室に寄ることなく去ろうとしている。
この、芸能界から。
あとを追おうと走るものの、なにぶんイベント用のドレスとヒールを着用していて、思うように走れない。もどかしくてたまらない。
共演者、そして遅れて劇場から飛び出した記者たちに目もくれず、彼女は先へ先へと歩いていく。
速度で追いつけないのならと、手を伸ばし、引き止める――が、ガタイのいい男性に阻まれた。彼女のマネージャーだ。
彼女を護るように付き従い、外に待機させていた黒のハイブリッド車の後部座席に彼女を乗せた。
「あ……、ひ、妃希さ」
バタン、と扉が閉まった。
車窓越しにようやく彼女と目が合った。きらきらとした黒い瞳が、やさしげな三日月にかたどられる。
なんてきれいなんだろう。あたしは、なんて、伝えたかったんだろう……。
エンジン音がうなった。はっとする。そのときにはすでにタイヤは回っていた。走り去る車が見えなくなると、よりいっそう現実味がなくなる。
果たしてこれは、本当に現実なのか。
だって。
これこそ、まるで。
今ごろ上映されているであろう作品よりもずっと劇的なドラマではないか──。