芹那との密会は、大半が霧雨に包まれていた。ユニック車に乗り込み、二人で白くなる町並みを待ち続ける。その間、他愛もない話をしながら俺は煙草を吸い続け、芹那は持参したキャンパスに絵を描いていた。


「タイトルは決まったのか?」


 無言で鉛筆を走らせる芹那に、そっと問いかける。芹那は、今度のコンクールに全てをかけているとのことだった。そのせいか、絵の構図は決まっているのにタイトルが決まらないと嘆いていた。


「失われた風景」


 ぼそりと呟いた芹那が、感想を求めるようにじっと俺を睨んできた。


「なんか聞いたことあるタイトルだな」

「え? マジで?」

「ああ、確か何かの曲のタイトルだった気がする」

「それって、どんな曲なの?」


 身を乗り出して顔を近づけてきた芹那に、声が詰まって言葉が出なかった。微かにはね上がった心音をさとられないように、慌てて煙草に火をつけた。


「昔の曲だから覚えていない」

「なにそれ」


 芹那がため息をつきながら、シートに深く倒れ込んだ。よほど自信がないのか、絵に対する不安が簡単に見てとれた。


「芹那は、どんな想いを込めてタイトルをつけたんだ?」

「え?」

「曲のタイトルと同じだとしても、中身が同じとは限らない。だから、芹那自身の想いはどうなんだ?」


 俺の問いに、キャンパスで顔を半分隠した芹那が低い唸り声を上げた。強気な性格のくせに、自分のことを伝えるのは苦手なようだ。


「ここから見える町並みは、今は夜に沈んでほとんど見えないよね?」


 煙草一本分の沈黙の後、ようやく芹那は描いている絵を見せながら口を開いた。


「でも、朝が来ると太陽が町並みを照らして失った色を取り戻していくの」

「それで?」

「今は失われているんだけど、太陽によって輝きを取り戻していくんだって想いを込めてるの」


 芹那の不安な目が、急に真剣な眼差しに変わっていった。


「太陽には何か意味があるのか?」

「教えない」

 そう口にしてはにかんだ芹那に、俺の心音は一気にはね上がっていった。


「今は失われているものも、太陽によって再び輝きを取り戻す。って、ちょっとダサいかな?」


 照れながら語る芹那に、俺は苦笑いしかできなかった。芹那を否定するのではなく、純粋に芹那の想いに心を動かされただけだった。


「間違って入賞するといいな」

「うん。って、さらりとひどいこと言うよね。ま、今度のコンクールは何が何でも入賞してみせるんだから」


 勢いよくガッツポーズを決める芹那に、俺はおかしくて声を出して笑った。

 そんな俺を芹那は不満そうに睨んできたが、すぐに俺と同じように笑い声を上げた。


 ○ ○ ○


 コンクールの作品の仕上げに全力を尽くすということで、芹那はしばらく姿を見せなくなった。代わりに、最後に置かれていたメモには、絵に対する情熱やコンクールにかける意気込みが書かれていた。このコンクールで何らかの賞を獲れば、推薦で大学に入学することができるらしい。ただ、賞を獲ることができなければ、一般入試で大学受験することになる為、その門はさらに狭くなるという。

 あの日見せた芹那の意気込みの意味を知った俺は、寂しさを感じながらも自動相づちマシーンと主夫業に専念していた。といっても、考えていたのは畑山の誘いを受けるかどうかだった。おかげで目の前で酔いつぶれている加奈子の話は、いつも以上に頭に入らなかった。

 適当に相づちを打ちながらも、ふと、俺は加奈子の話に初めてまともに耳を傾けてみた。加奈子は毎日同じことを話しているような気がするが、何を話しているのかはわからなかった。

 初めて加奈子の話を真面目に聞いて、俺は目眩がするような感覚に陥った。加奈子の話は、大半が会社の人間関係に関する愚痴だった。名の知れた企業の管理職でありながら、加奈子は上司と部下の板挟みにあって苦しんでいるようだった。

 毎日会社の為に身を削って働く加奈子。その愚痴を、加奈子は誰にでもなく俺にだけぶつけていた。いや、俺にしかぶつけることができないでいた。仕事もプライベートも充実させているように見えたが、その正体は、泥棒にしか本音を語れないか弱い女でしかなかった。

 だが、それでも加奈子は毎日を懸命に生きている。泥棒の俺には考えられない重圧の中で、加奈子は何かと戦いながらも毎日を送っていた。

 その姿を目の当たりにしてしまうと、まともな生活に戻ることを躊躇してしまう。今さら人間関係に辟易しながら生きるとなると、そこに意味があるのかどうかわからなくなっていった。

 ――いや、意味なんか最初からあるわけがない

 人生に意味を見出だそうとした自分に、俺はおかしくなって鼻で笑った。加奈子がぎろりと睨んできたが、適当に誤魔化した。

 人生の意味など考えるまでもなかった。捕まるまで泥棒を繰り返す俺の人生に、高尚な意味などあるわけがない。とすれば、俺の人生など破滅の時から意味を失っているといってよかった。

 いつものように加奈子をベッドに寝かせ、考えるのをやめて久しぶりに仕事へ出る準備を始めた。

 なぜかはわからないが、今夜は夜の町がやけに恋しく思えてならなかった。