俺の脅しが成功したことで、芹那は嫌がらせがなくなったと喜んでいた。そんな無邪気に笑う芹那を見て、誰かの役に立ったという感情を、俺はまだ持てることに気づいた。

 自動相づちマシーンになりながらそんなことを考えていると、急に芹那に会いたくなった。理由はわからないが、漠然と胸の奥底から両手が伸びてきて、芹那を必死に求めている感じだった。

 次の日も次の日も、芹那に会うためにユニック車に向かった。だが、芹那はいなかった。メモもなく、ぽっかりと空いた穴は目前の漆黒の闇と同じだった。

 仕事も手につかず無収入になり、仕方なく資材置き場から建築工具を盗んで質に入れた。わずかな金で酒をあおっても、気分が晴れることはなかった。

 芹那はもう来ないのだろうか。嫌がらせが止んだから、もう夜の世界をさ迷う必要はなくなったのだろうか。

 人は生きている限り、他人と関わり影響し合うという。とすれば、泥棒の俺にとって芹那との関係は何になるんだろうか。

 芹那が笑うとなぜか嬉しかった。他愛もない話をしながら、白くなり始める街並みを眺めるのが心地良いと感じる自分がいた。

 主夫や自動相づちマシーンになっている時には、決して味わうことのできない安らぎを感じることができた。

 そんな気持ちに気づいた瞬間、俺の中で芹那の存在が確実に大きくなっていた。

 恐らくそれは、芹那という存在が俺を変えようとしてくれたからだろう。孤独に泥棒人生を生き続ける俺に、芹那は人としての温もりを与えてくれたのかもしれない。だとしたら、俺は芹那に何かしてやれたのだろうか。

 そんな悶々とした日々を過ごす中、ようやく畑山から決行日の連絡があった。決行日は明後日の昼間。成功すれば人生を変えるチャンスが手に入る。俺は胸の蠢きをさとられないように、淡々とした口調で受け答えを繰り返した。

 加奈子の介抱を終えて霧雨に煙る町に出ると、自然と足は資材置き場に向かっていた。建築工具を盗んでからはしばらく訪れていなかったが、最後の大仕事をやる前にどうしても芹那を一目見ておきたかった。

 芹那がいるかどうかはわからない。会える可能性は低いだろう。そんなマイナス思考に満たされた俺だったが、ユニック車に小さな灯りが見えた瞬間、俺の心臓は一気にはね上がった。


 ――芹那!


 気がつくと俺は走り出していた。全身の血が沸騰しているかのように熱かった。汗が目に入って視界が滲んだが、確かにルームライトに照らされた顔は芹那に間違いなかった。

 全力でユニック車に近づき、肩で息をしながら悲鳴をあげる足の筋肉を落ち着かせた。


「秋人、久しぶり。なんだか久しぶりに秋人の顔が見たくなって来たんだけど、って、どうしたの? そんな怖い顔して」


 運転席のドアを開けると、芹那ののんきな顔があった。座席に飛び乗ると、抑えきれずに芹那を抱きしめた。


「ちょっと、痛いんだけど」


 最初は抵抗していた芹那だったが、すぐに力を抜いて俺の胸に顔を埋めてきた。

 どれくらい抱きしめていただろう。芹那の温もりを貪るように、細い肩を抱きしめ続けていた。


「泥棒、やめることにした」

「え?」


 俺の言葉に顔を上げた芹那と目が合った。ルームライトの淡い光を反射した強気な瞳を、素直に綺麗だと思った。


「よかったじゃん。ついに決心したんだね」


 からかうことなく、芹那が嬉しそうに呟いた。あどけなさが残る顔に広がる笑みに、胸の中で燻っていた感情が消えていくのを感じた。


「で、何をやるの?」

「まだ決まっていない」

「だと思った」


 芹那の返しはあっさりしていたが、ただ、俺を馬鹿にしているというわけではなく、素直に喜んでいることだけは伝わってきた。


「私は改めて一般入試で大学を目指す。秋人は泥棒をやめて真面目に生きる。なんだか秋人と出会って色々あった気がするけど、結果は良かったと思えるかな」

「そうだな」


 芹那の締めくくりに頷いて返す。芹那の言う通り、芹那と出会ったことで俺は変われたような気がした。

 あの日、薄霧に世界が滲む午前三時に現れた芹那。今思えば、そんな世界で出会った芹那だからこそ、俺は変わるきっかけを教えられたのかもしれない。


「秋人」


 不意に名前を呼ばれただけなのに、全身が痺れるように震えた。

 視線が絡み合った。自然と顔が近づいていく。芹那の甘い香りと温かい吐息に触れた瞬間、何もかもが弾けていった。

 だが、夢の終わりは唐突に訪れた。口づけよりも先に、視界の隅に心臓を鷲掴みする物が見えた。


「秋人?」


 目を閉じていた芹那が不安げな声と共に目を開けた。俺は、人差し指を鼻と口に当てたまま資材置き場の周囲を見渡した。

 資材置き場の周囲には、小さな黒いボックスが等間隔で囲むように設置されていた。前回来た時にはなかったはずだと思いながら、ユニック車を降りて調べてみた。黒いカバーのついた見慣れたそれは、警備会社が設置したと思われる赤外線センサーの警報装置だった。


「芹那、いつここに?」


 不安げな表情でついてきた芹那に、俺は暴れ打つ心臓を飲み込んで確認する。芹那は俺が来る直前に来たと答えた。


 ――だとしたら


 俺は周囲の町並みに目を向けた。資材置き場は山を背にしているが、表にはいくつもの道が広がっている。その道を、不自然な数のベッドライトがこっちに向かって走っているのが見えた。

 警備会社からの通報。しかも、今は警察から即時通報を指示されている。赤外線センサーに芹那と俺が反応したとしたら、110通報はもうされているだろう。

 町中から僅かに離れているとはいえ、警察の到着は十五分を上回らない。とすれば、間もなく警察が押し寄せてくる。ここで捕まれば、即実刑の道は避けられなかった。


 ――どうする?


 周囲に目を向けながら逃げ道を探す。幸いなことに、裏は山だから隠れる場所も逃げ道にも困らないだろう。


 ――だが


 それは俺一人ならという話だった。俺一人なら、闇雲に逃げればチャンスはある。だが、芹那と一緒なら間に合わないだろう。山に着く前に警察に見つかることは明白だった。


 ――どうする?


 ここで芹那を見捨てれば、俺が助かる可能性は高い。明日になれば大金を手にして生まれ変わることもできる。ここで芹那を裏切ったとしても、後の人生を考えたら大したことではないはずだ。

 だが、芹那を置き去りにした場合、芹那はどうなるだろうか。ごめんなさいで済む問題ではないことは、考えなくてもわかる。警察に捕まれば、大学受験どころの話ではなくなるのは明らかだった。


 ――貴方はいいよね。自分のことだけ考えていればいいんだから


 不意に浮かぶ加奈子の言葉。その意味を考えることもなかった俺は、ここにきて初めてその意味を思い知ることになった。

 目の前の芹那が、かつての自分の姿と重なっていく。ささいなつまずきから、一気に転落していった俺の人生。その過ちを、芹那にも背負わせるわけにはいかなかった。


「芹那、よく聞いて」


 俺は不味い状況を説明しながら、芹那に逃げるように伝えた。俺が足止めになれば警察も俺にしか興味を示さないはずだ。とすれば、芹那の足でも十分に逃げきれるだろう。


「でも、秋人は?」

「俺はいい。こういうことは慣れている。泥棒はしてないだろ?」

「でも」

「いいから。芹那は夢があるんだろ? 大学に行って夢を叶えるんだ。こんなことでつまずいたら、大学も行けなくなるぞ」


 近づいてくるヘッドライトに焦りながら、俺は芹那を説得した。


「またすぐに会える?」

「もちろんだ。ここでまた会おう」

「じゃあ、待ち合わせは午前三時ね」

「ああ、午前三時にまた会おう」


 すぐには無理だという言葉を飲み込んで、俺は芹那に手を振った。赤外線センサーをつけたということは、俺が建築工具を盗んだのもばれているかもしれない。被害届が出ていれば、最低でも二年は刑務所に沈むことになる。

 山の中に消えていく芹那を見届けた後、俺はパトカーのベッドライトをいくつも浴びることになった。

 お決まりの職質。人定により判明する俺の素性。前科だらけの泥棒とわかり、どよめく警官と刑事。建造物侵入による問答無用の現行犯逮捕――。

 一連の流れが終わると、両手首にずしりと冷たい手錠がはめられた。

 何度目かの逮捕。もう慣れたはずなのに、なぜか今回だけは体の震えが止まらなかった。

 パトカーに乗せられた俺は、白くなり始めた空をぼんやりと見つめた。

 明日には変わっていたかもしれない俺の人生。明るくなる町並みとは対象的に、暗く沈んだままとなった俺の未来。

 そんなことを考えた瞬間、体中に言い様のない感情の渦が巻き起こり、俺は両腕に顔を沈めて堪えきれない涙をこぼした。

 これまでの俺は、いつも逃げ回っていた。

 警察から、社会から、人の目から。

 破滅の瞬間から俺は、人生の坂道をただ転がり落ち続けてきた。

 希望の見えた未来。だが、そんなものは幻に過ぎなかった。孤独に生きる泥棒人生の休止符を打つのに、泥棒を選んだ時点で俺の運命は決まっていた。

 人生はミステリーでも何でもなかった。ただ、泥棒でつまずいた俺は、結局また泥棒でつまずいただけの話だった。

 そんな俺の転落人生――。

 俺はこの時、初めて自分の人生を後悔した。