人生ってのは、まあ簡単に言えばミステリーなんだよ――。


 二階の窓枠で足を滑らせ、勢いよく地面に叩きつけられた俺は、そんな馬鹿げた言葉を思い出していた。

 泥棒歴十数年。前科は片手に収まらないくらいにある。そんな俺が、素人でも落ちそうにない窓から落ちた。冗談だったとしても、あながちその言葉は間違いではなさそうだった。

 薄霧に世界が滲む午前三時。月明かりが微かに灯る曇り空の下、機械警備が設置されていない優良泥棒物件である建築資材庫の下で、俺は予定外に足の痛みに悶えるはめになった。

 幸いなことに高さがなかった。着地もバランスを崩したが、なんとか背中から落ちるのだけは避けることができた。



 四十を過ぎればガタが出るか――。


 七十過ぎのノビ師が呟いていた言葉。人間は四十を過ぎると急激に衰えるらしいが、どうやら俺は、四十を前にして既にガタがきているようだ。

 そんな何の得にもならないことを考えていたところで、不意に人の気配を感じた。深夜とはいえ、今夜は僅かに月明かりがある。情けなく転がっている姿は、近くに寄ればすぐに気づかれるだろう。


「おじさん、何してんの?」


 案の定、声をかけられた。だが、その声が意外にも若い女の声だったため、反射的に身をよじって声のした方に懐中電灯を向けた。

 光に照らされたのは、まだあどけなさの残る少女だった。ショートカットの黒髪に、意思の強そうな瞳。白のTシャツにジーンズ姿は、午前三時という時間帯でなければどこにでもいるような少女に見えた。


「ちょっと散歩していたら、つまづいてしまってね」


 とりあえず危険はないと判断し、痛みに耐えながら体を起こす。こんな時間に建設会社の敷地を散歩するという不自然な言い訳は、残念ながら少女には通用しなかった。


「嘘だね」


 少女は、勝ち気な瞳を細めて視線を僅かにずらした。その視線を追いかけると、見事にマイナスドライバーやロープといった泥棒道具が地面に散乱していた。


「泥棒してたんでしょ?」


 ずばりの言葉に、俺は生唾を飲み込んだ。窓から落ちるところを見られていなければ、いくらでも誤魔化せる自信はあった。だが、泥棒道具を見られたからには、どんな言い訳も通じないのは明らかだった。


「あれ? おじさん認めないんだ。そんな態度なら」


 言葉の端に険を含ませた声に、背筋に悪寒が走る。少女が取り出したのはスマートホン。薄桜色の唇を意味深に歪めた笑みに、少女の企みが見えた。


「ちょっと待ってくれ」


 鼻歌が聞こえそうなノリでスマートフォンを操作し始めた少女に、俺は自分でも情けなくなるような声を出した。


「何?」

「俺が悪かった」


 もはや逃げるタイミングも口実も失った俺は、仕方なく少女の言葉を認めるしかなかった。


「最初から素直になる。わかった?」

「最初から素直になる奴は、泥棒なんかしない」


 小さくため息をついてひねくれた態度で返すと、少女は目を見開いた後に蔑んだ瞳を返してきた。

 呆れたようなため息の後、少女は高橋芹那と名乗ってきた。年は非公開。さらに言えば正体不明。ただ、こんな時間にうろついていい身分ではないことだけは、勝ち気な顔に残るあどけなさから読み取れた。

 とりあえずの自己紹介が終わると、芹那は近くにあったにユニック車の座席へ移動した。こうした建設会社のトラックは、鍵をつけたままのことが多い。勝手知ったる我が家のごとく助手席に乗り込んだ芹那は、当然のように俺にもユニック車に乗るよう手招きしてきた。


「おじさんは?」

「あ?」

「名前だよ」

「ルパン三世」

「死ね」


 軽い冗談を返した俺に痛烈な返しをしてきた芹那は、そのまま俺を睨みながらスマートフォンを取り出した。


「秋人だ。秋に産まれたから、秋の人と書く」


 通報されては不味いと思った俺は、仕方なくいつもの偽名を口にした。身分証を見せろと言われないか冷や冷やしたが、芹那は満足そうに頷くだけだった。


「単純な名前だね」

「俺の人生と一緒さ」


 断りを入れるか迷ったが、断りを入れずに煙草に火をつけた。

 単純な俺の人生。大学卒業後、それなりの会社に就職して病気の親を安心させた。親の介護に理解のある婚約者もでき、平凡な幸せはまさに絵に描いたようだった。

 だが、破滅は一瞬だった。事務所の机の上に置かれていた同僚の財布。介護と生活の両立で生活費に苦しんでいた俺は、つい魔が差してしまった。

 それだけで、全てを破滅させるには十分だった。全てを失った俺は、刑務所を何度も出たり入ったりを繰り返し、気がつくと四十を目前にして足を滑らせ、正体不明の少女にからまれる始末となった。


「ねえ、時々会えない?」

「あ?」

「待ち合わせは午前三時ね。泥棒の秋人にも都合がいい時間でしょ?」

「いきなり呼び捨てかよ」


 俺の事情などお構いなしに、勝手に話を進める芹那。そもそも、若い女が深夜に出歩くのは間違っているし、泥棒と話をしたいと考えるのもおかしいとしか思えなかった。


「いいよね?」


 芹那は、スマートフォンをひらひらとさせながら、有無を言わせない瞳で俺を睨んできた。


「泥棒と話をしてもつまらないぞ」


 通報の脅しに屈した俺は、捨て台詞を吐きながらも渋々引き受けることにした。

 蒸し暑い夜、霧に滲む世界に現れた不思議な少女。

 これが、人生を見失った泥棒の俺と訳あり少女芹那との出会いだった。