深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。
         フリードリヒ・ニーチェ 











 人の心の奥底なんて誰にもわかったものではないが、奥底に眠る無意識というものは誰しも共通して持っているものだ。

 僕らは意識的に活動し、意思を持って日々を生きている。その過程で個性が生まれ、いつの間にか区別されていく。

 出来る子。出来ない子。

 恵まれている子。恵まれていない子。

 社会の中に投げ出され、コミュニティに所属すれば優劣ははっきりと分かれる。自分の価値を決めるのは、いつだって他人だ。



「はい。最初はぐー、じゃんけんぽん。あー、百鬼《なきり》の負けだ。んじゃ脱いで~」

 日々の反射で、咄嗟に手を差し出した僕、百鬼《なきり》灰《かい》にクラスのスクールカースト上位に立つ男子生徒が早口に告げた。「ぁ」と瞬きをして俯いた僕の机を蹴り上げて「はーよ」と言う。

 その男子生徒には勿論仲間がいて、身体を叩かれるように揺らされながら僕の席はあっという間に取り囲まれていた。

「ほら早くしろよ」

 腕を取られて、そのまま乱暴に立たされる。抵抗したら、また更に酷いことをさせられてしまう。それがわかっているから、僕は何も言い返せなかった。

 誰も止めない。みんな見て見ぬふりをして、矢面には立たないように、慎重に自分たちを守っていた。

 ベルトを取られて、思いっきりズボンを脱がされる。足首にズボンが絡まったままパンツ姿の身体を引き倒されて、僕は後ろの席に頭から突っ込んだ。

 物凄い音が鳴った。きゃあ、と女子生徒の悲鳴も小さく聞こえる。血が、出ているような気がして、額を触ろうとした時、遠くにとある女子生徒が見えた。

 窓際から、こちらを眺めている彼女の名前は瀬屑《せくず》光《ひかり》。このクラスで、いやこの学校で、最も有名な彼女は人気俳優の両親を持つ娘だ。

 嵯峨鼠《さがねず》色の長い髪は綺麗に手入れをされていて、華奢な背中に沿って流れている。色白のすらりとした肢体は、まさにモデルのようで、どこにいたって映えるような人物だった。


 そんな彼女は、その自分の美貌や立場を鼻にかけることもしない。故に人気もあったが、彼女と一緒にいることによって生まれる恩恵を受けようと周りには絶えず人がいた。

 けれどどんなに特別な人間だろうと、こんな時にする反応は周りと差して変わらない。特に彼女の立場的にトラブルごとは何としても避けたいだろう。

 目を合わせるつもりはなかったが、その整った美しい顔と視線がかち合った。……こういう時、いつも彼女と目が合うのはなんでだろう。

 意識していたわけじゃないが、同じ年で、同じクラスで、同じ空間をともにしているとは言えど、彼女と僕の立場は天と地ほど違う。

 彼女のことが羨ましくて仕方がなかったから、自然と目が向いてしまっていたのだろうか。

 彼女の様に、初めから生まれた環境がよかったらどんなにか、と常々考えすぎなのだと思った。



「おいキモオタ、なーに光のことジロジロと見てんだよ!」

 僕をよく虐めてくる集団の主犯格、八大《はちだい》が僕の胸倉を掴んだ。

 こいつはこのクラスで瀬屑さんに出会ってから三か月。彼女にしようと、いつも気色の悪い口説き文句を瀬屑さんに投げかけている。下の名前で呼んでるってことは付き合っているのだろうか?そんなこと、どうだっていいけど。









 僕はそのまま後ろの鞄入れまで身体を投げつけられる。「おいアレよこせ」と八大が仲間の一人に告げた。そして仲間から……あれはコーラか?


 ペットボトルのコーラを渡されて、思いっきり振った。そして僕に向かってそれを思いっきりばしゃばしゃとかけたと思ったら「くっさ!!」とそいつらが騒ぎ出した。

「おいやっぱやべえな!犬のうんこ入りコーラ!!」

 ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てているそいつらと、その異臭に「え、マジでやばいんだけど!」「臭っ」とクラスの奴らのほぼ全員が僕から離れて怪訝そうにこちらを見ていた。

 どうしよう、制服…………。なんて、他にも心配すべきことはあるのに、僕の頭には制服の心配しかなかった

 周りからの視線も、次から次へと浴びさせられる罵声も、僕の身体を突き抜けて足元へ堕ちていく。傷つく心すら、もう持ち合わせちゃいなかった。

 後から入って来た教師は、僕のそんな悲惨な姿に「ふざけるのも大概にしろよ」と保険をかけたような一言をつけて換気を促した。

 これは全て悪ふざけの範囲であって、決していじめではない。

 そうやって都合の悪い事には蓋をして、誰もが気づかないふりをする。

 それは僕自身も例外ではない。僕にとってこの底辺の日常は、もはや普通のことなのだ。今更騒ぎ立てる気力も到底ない。

 僕は何でもない顔で、制服を洗うために廊下に出た。そんな僕を気にするふりをしつつ、教師はそのままHRに入る。

 僕はいつだって、いるようでいない存在なのだとこういう時に思い知る。













 放課後になり家に帰れば、十一歳の弟と七歳妹が喧嘩をしていた。僕の教科書があちこちに散らばり、ノートは破けて、僕が幼い頃に遊んでいたお気に入りの人形は引きちぎれている。

 僕が趣味で描いていた内緒のイラストまで引っ張り出されて、仕舞いにはジュースが掛けられていた。

「ごめんね。灰くん、セイもナオも喧嘩止まらなくって」

 母がいつもの調子で謝った。いっぱいいっぱいという顔で、この六畳と五畳半の畳の部屋が繋がった貸家で僕は僕自身の部屋もなく、弟と妹と母と暮らしている。銀行員の仕事をしていた父は賭博にハマり、莫大な借金を作って蒸発するように出て行った。僕が確か十二歳くらいのことだったか。もう六年ほど前のことになる。

「灰くん、今日、バイトは……?」

 探るように母が訊いてくる。最近、そればかりだ。お金が足りないのだと、遠回しに言われているようだった。








「……今から行くよ」

「そう、遅刻しないようにね」

 ほっとしたように頷く。僕がジャージで帰ってきても、もう何も言わなくなったのはいつからだっただろうか。「制服、替えがないから綺麗に着るのよ」と言われたのもいつ頃だったっけ。

 もう、何も覚えてないな。

 女でひとりで馬車馬のようになって働く母に「灰くん、お母さんのために一緒に頑張ってくれる?」と時々言われるようになった。

 事あるごとに幼い弟と妹を見せつけながら「灰くん、お兄ちゃんだもんね」と呪いの様に告げて、「しっかりしないとね」なんてまるでそうであることが僕の役目であるかのように付け足してくる。


「そういえば、灰くんって体力ってあったっけ?お母さんね、職場の人にいろいろ伝手当たってるんだけど、引っ越し業者ってなかなかお給料いいみたいなんだけどどう?灰くん興味ある?」

 母とは進学の話など一切したこともない。こうやって、毎日毎日高校を卒業したらどこに就職するかという話しかしない。


「灰くんが稼いでくれたら、セイたちにももう少しいい教材とか買ってあげられるし……進学したいなんて言われたらお母さん一人じゃどうしようも出来ないけど、灰くんいてくれたら心強いし」

 情けない顔で笑われる。進学……こいつらにはそんな話をするんだ。


「にいちゃんの鞄くっせー!!」

「ねえママ、ナオのジュースはぁ?」

 僕の鞄に近づいて声を上げる弟。僕のノートに落ちたジュースを眺めながら訊ねる妹。


「はいはい今出すから、じゃあ。灰くん。バイト頑張ってね。あとお母さん、明日の夜は家あけるからセイたちのお世話よろしくね」

「……うん」


 ジャージから私服に着替えて、外へ出る。僕は日の落ちかけた薄暗い空の下を歩きながら、どうしようかな。と空を見上げた。

 バイトは、クビになった。と、また伝えられなかった。原因は、八大たちが僕の働いているコンビニに煙草を買いに来たのが原因だった。無理矢理売るように言われて従ったら、それが店長に見つかり、そのまま辞めてくれという流れだった。

 仕方ない。その前から薄々嫌われていたから、僕をあの場から追い出すための何かきっかけを探していたのも知っていた。

 遅かれ早かれ、僕はあそこから追い出されていた身なのだ。

 僕は薄暮《はくぼ》の中をふらふらと歩く。曇天に見舞われた空からは今にも雨が降ってきそうだった。

 学校の近くまでやって来た頃にはすっかり日が落ちていた。帰宅する部活動生も殆ど少なくなっている。前はこの辺に来ると、吐き気を催していたのに、今や何の感情もわかなくなっていた。









 校舎の中に入り、三階までやってくる。静寂に包み込まれた教室は、昼間の喧騒が嘘かの様にひっそりとしていた。

 窓を開けると、湿った風がぶわりと吹いた。ああ、そう言え今夜から明日の朝にかけて台風が来るんだっけ。

 窓をよじ登り、庇の上に立つ。屋上まで行きたかったが鍵がかかっていて入ることは出来なかった。

 外に立つと、風が強くなっていることを思い知った。ぽつぽつと、蜘蛛の糸のような雨が僕の頬を掠めていく。


「死ぬの?」


 すん、と空気を裂くような声だった。僕は驚いて振り返る。それまで凪いでいた僕の心臓は一度、大きく跳ねた。何故なら、声を掛けてきた人物はあの瀬屑光だったからだ。

「ねえ、知ってる?ここって高く見積もってもせいぜい八メートルくらいの高さしかないの。上手くいけば死ねるかもだけど、君くらいの体型なら生き残ってしまう可能性もゼロじゃないよ」

 嵯峨鼠色の綺麗な髪が、この薄暗がりの中だと何色なのかよくわからなかった。振り返ったままの僕の背中には風がずっと吹き付けている。


「中途半端なことになると思うけど、それでもそこから飛ぶ?」

 彼女は淡々とした物言いで首を傾げている。僕は数秒ほど固まったあと「――」と俯いた。


「つまらないでしょ」

「……え?」

「それだけじゃ、つまんないよ」

 長い睫毛で縁取られた目を細めて、彼女は僕のいる窓際に更に近づいた。風が彼女の髪や制服を背中側に揺らす。


「どうせなら、もっと楽しいことして確実に死のう?」


 初めて向けられる彼女からの笑顔は、人を惑わすには十分で、僕はその一瞬で目的を見失った。

 差し出された白い手。今の今まで存在しなかった選択肢は眩い光に包まれているようだった。

 気づけば僕はその手をとって、彼女と共に学校の外を歩いていた。雨の降る中、あの瀬屑光と共に肩を並べて歩いている。そんなこと、天地がひっくり返ってもあり得ない出来事だ……と思っていたのに。


「もっとこっちにおいでよ、濡れちゃうよ」


 肩を引かれる。甘い香りがする。女の子って、こんなに柔らかいのか。って瞬時にいろんな考えが駆け巡って、僕は「い、いやっいいです」と慌てて離れた。


「あは、百鬼くん。普通に喋るんだ」


 皮肉られているわけじゃない。僕が今のように、彼女に向かって声を出したのは初めてのことだから、彼女にとって他意はないのだろう。


「百鬼くんさ、本当に死ぬ気ある?」

「え……」

「最終確認したいの」


 雨が強くなっている。問いが聞こえづらくて固まってしまったが、僕はすぐに頷いた。

 意味を感じない。この世を生きることに。もう、疲れた。







「そっか。じゃあ、よかった」

 にっこり笑って、彼女はばしゃりと水溜まりを踏みつけた。あまりに乱暴に踏みつけるので、彼女の靴や靴下に容赦なく泥が飛んだ。


「中途半端な気持ちだったら、どうしようかと思った」

 にこやかな口調のまま、美しく視線をこちらに流す。


「私たち、共犯になれるよ」

 どういう意味だろう。

 今の話の流れで、どうしてそこに落ちるのだろう。わけがわからなくて、立ち止まる。

 傘の外に出てしまった僕を振り返り「どうしたの?」と彼女が訊ねるので、「どういう意味?」と聞き返す。

 すると彼女はくすり、と笑って構わず言葉を続けた。


「私ね、前々から百鬼くんに興味があったの。この人はどっち側なんだろう、ってずっと目で追ってた」

 傍観者の中で彼女はいつも、人知れず僕を見つめていた。振り返ればあの時も、あの時も、目が合うことが多かった。

 あれは、偶然なんかじゃなかったんだ。



「でもさっき確信しちゃった」

 綺麗に手入れされた髪の毛や肌、美しい容姿に、恵まれた環境。


「あなたは私とおんなじだって」

 何をどう差し引いたって、僕らは対等じゃない筈だ。


「……全然、違う……瀬屑さんは、みんなから、慕われて、ずっと恵まれてる……」

 それなのに、おんなじだなんて、口が裂けても言ってほしくなかった。


「……百鬼くん」

 暫し間を空けたあと、彼女が僕の名前を呼んだ。顔を上げると「うちおいでよ」と彼女は微笑んだ。


「行くところないんでしょ?それとも普通にお家帰って、また明日から今までの生活をする?」

 明日からまた、はさっき全てを捨てる予定だった。そんなものを提案されても、僕は怪訝な顔をするしかない。


 「からかってます?」と顔を逸らせば彼女はふふ、と可憐に笑って「ううん。本気だけど」と答える。


「同情なんて僕はいらない」

「同情?そんなもの反吐だよ」

 吐き捨てるように言われて、驚いてそちらを見れば彼女はまたにっこりと笑った。なんだろう、聞き間違い、か?

 いや―――、

「ね、百鬼くん。選んで」


 また手を差し出される。僕の全身はいつの間にか雨でびしょ濡れになっていた。


「今までと同じ生活をして孤独に死ぬか、私と共犯者になって楽しく死ぬか」

 ―――聞き間違いなんかじゃない。


 無言の時間が暫く続いた。

 気づけばその手を取って、共に繋いで歩いていた。

 彼女の家に辿り着く。どこからどう見ても豪邸のそこは、どうあがいてもボロボロの僕の家とは比べ物にならないほど恵まれたものだった。

 騙されているような気がした。でも、僕は例え彼女に騙されたとしても、どんな酷い仕打ちを受けようとも、既に明日を迎える気はなかったから、どうでもいい話だった。



「静かだね、家族の方はこの時間いないの?」

「…………いないよ」


 廊下を歩きながら、僕の何気ない問いに答える。軽やかな声が、この薄暗さの中では違和感を抱かせた。


 電気がついていないからだろうか?いや、そういうことじゃない。

 もっとなんか―――。


「ねえ、百鬼くん。この部屋開けてみて」


 僕は言われるがまま、その部屋を開く。そして、電気を点けて驚いた。


「ここの壁ね、一面私の写真なの。やばいでしょ?」

「え、これ、なに……」

「父親の趣味。あいつ、世間じゃ硬派気取ってるけど、実の娘に手出すやばい男だから」

「え……え?」

「んでこっち」







 壁のいたるところに瀬屑さんの写真が貼ってある部屋を出て、また離れたところにある部屋を案内される。そして、また同じように扉を開けて電気を点けられて、驚愕した。

「ここは母親の部屋。私の写真がたくさん切り刻んであんの。やばいよね」

 先ほどと似たような文言で、まるで淡々と告げる。動揺しながら彼女を見れば、「びっくりした?」とあっけらかんと笑った。

「そうだ、見る?」

 そう言いながら、彼女は制服を突然脱ぎ出す。僕がどんなに慌てても、彼女は簡単に服を脱ぎ捨てて、下着姿のまま背中や腕やお腹の痣や痕を見せつけてきた。綺麗な白い肌だと思っていた、のに。

 見えない所には痛々しい傷跡がいくつもある。


「両親につけられたの。見えないところとか姑息よね」

「……」

「――触る?」

「え……」

 手を取られる。僕が何を言う暇もなく、指先が彼女の肌に当たった。その冷たい手先と違って、温かく、柔らかな肌だった。


「痛く、ないの?」

「全然。慣れた」

「そう。……えっと、いいの?」

「何が?」

「その彼氏とか、に、誤解、され、たり」

「彼氏なんていないよ。っていうか誤解って面白いね。まだ悪い事何もしてないのに」

「でも八大、と、付き合って」

「あり得ないでしょ。あんな野蛮人。人間として欠陥品だよ」

 顔を上げると、彼女がもう片方の手を僕の頬に添えた。


「私はあんな無能な男より、君みたいな子のが好みだよ」

「いや、それ、は」

 どういう意味、と、聞こうとしたら、彼女の唇が重なって僕は目を見張った。


「……百鬼くん」

「は、い」

「初めて?」

「あ……う、ん」

「そっか。嫌だった?」

「嫌って、いうか、まず、びっくりした」

「そう」

「うん」

 彼女が離れてくす、っと笑う。その毒牙が身体のに浸透しつつあることに、内心気づきつつあったけど、僕は知らないふりをしていた。


「……ちょっと着替えてくる」


 彼女が廊下に落ちた制服を拾い上げ、歩いていく。僕はその背中を見つめながら、唇に触れた。なんだったんだ、今のは。

 不意に、開きっぱなしの扉が気になり、閉めようとした。ところで、部屋の入口側にクーラーボックスが置いてある不自然さに目がいった。そう言えば、先ほど瀬屑さんの写真がたくさん貼ってあった部屋にもあったな。

 こんな季節に冷房がついていて、すっかり冷え切っている。

「どうしたの?」

 服を着替えた彼女が、気づけば背後に立っていた。


「瀬屑さん、この中って……」

「ああ…………見る?」

 首を傾げて、彼女はゆっくりと続ける。


「もう、戻れなくなるけど」







 瀬屑光は僕の中で、もっと幸せな人なんだろうと思っていた。

 僕より恵まれていて、周りに助けられて、羨まれて、けれど、そうじゃない。

 そんなんじゃなかった。


「戻る気はない」

「そう」

 彼女は僕の横を通り過ぎ、クーラーボックスの前に座った。

「これね――」

 お か あ さ ん


 そう口が動いた時、僕の心の中にすとん、と何かが落ちた気がした。


「……あれ?あんまり驚かないんだね」

「そうかな、って……でも、ただ驚き過ぎて正直反応できなかったのが本音……」

「あはは、正直~。百鬼くんってそういうので損しそう」

 クーラーボックスに手をかけていた動きを止めて、立ち上がる。そして部屋を出ると、そのまま扉を閉じて「お腹空いたね」とさも普通の声のトーンで話を続けた。


「ちなみに向こうの部屋にはお父さんもいたんだよ、気づいた?」

「……なんかあるなとは思った」

「そっか」

 リビングに入り、そのまま彼女は豪快に窓を開ける。大粒の雨が部屋の中に入ってこようがお構いなしだった。



「雨って最高。余計な音が耳に入ってこないもの。鬱屈として、みんなが不幸せって感じがして、雨の日だけは私は幸せかもって思える」

「……」

「ねえ、百鬼くん。私はみんなの理想でも、君が羨むほどの人間でもない。正直自分以外の人間なんてどうでもいい。死にたいなら死ねば?って思う」

「……じゃあ、なんで」

「百鬼くんってさ、自分がどうでもいいって思ってるよね。私は自分以外がどうでもいいけど、そこが違うからすごく気になったの」

 彼女は裸足のまま窓の外に出て、大粒の雨に打たれる。僕はそれを窓際で眺めていた。


「だって勿体ないよ。君自身がどうでもよくなる必要なんてどこにもないのに。全部周りが悪いのに。なんで自分の世界を自分で諦めないといけないの?」

 僕の顔にも雨が降りかかる。視界が一瞬、不透明になりかけたとき、彼女がゆっくりと振り返った。


「まあ、こんな世界、生きる理由《かち》ないけど」

 息が詰まりそうになる。彼女の美しさと、その囁きに。


「でも、造り替えることは出来るかもよ。一ヵ月、一週間、いや明日で終わるかもしれないけど。でも一回好きに生きてさ?どうせ死ぬつもりなんでしょ?だったら、私みたいにあいつらに復讐でもしてやんなきゃ、勿体ないよ」

 心臓がうるさい。こんなにうるさくなったのは初めてで、緊張かなんなのか。僕にはどうにもその理由がわからない。


「百鬼くんが、せっかく生まれてきた意味がないでしょ」


 風が吹き荒れる。気づけば、雨と一緒に涙が滲んでいた。生まれてきた意味なんて、考えたこともなかった。

 生きる理由ばかりを探して、その度に死にたくなった。

 でもそうか、生まれてきた理由か。


「もしも百鬼くんが私の手をとってくれたら、私はこれが生まれてきた理由になる」

「…………」

「君に出会うために、私は生まれてきたんだって、そう思わせてほしい」

 学校で差し出してきたみたいに、彼女は僕に向かって手を差し出した。


「勿論、君にもそう思って欲しいし、私を生きる理由にしてほしい」

 一歩。

「共犯者になってくれたら、私も君のために生きるから」

 一歩。と。

「そして死ぬときは、一緒に死のう」

 僕の足は、濡れた芝を踏みつけて、彼女の前へ向かっていた。

「私たちは運命共同体になるの」


 仄暗い心の中に、ぽつりと光の雨が落ちていく。空はこんなにも暗いのに、僕の心の中は人生で一番晴れやかなものとなっていた。

 思えばこの時、無意識に覗き込んだ彼女の心の中に、僕はいつの間にか身体を委ねて落ちていったのだ。

 孤独を嫌う死神が、道連れを選び、招き入れるかのように。



「ね、お願い」



 僕は、選ばれたのだ。

 彼女の孤独を共に過ごすパートナーに。

 僕が死のうとしていたから。

 僕が自分を諦めていたから。

 この人なら、共に過ごしてくれるだろうといつの間にか選別されていたのだ。


 でもだからなんだというのか。

 僕にとってそれは非常に刺激的で、光栄で。

 どうしようもなく生を感じさせてくれたのだから、断る理由など、どこにも存在しなかった。



「……僕で、いいの」

「百鬼くんがいいの」

「……そっか」

「私じゃ不満?」

「まさか」

「そっか」

 手を取って、そのまま指の隙間を縫うように繋ぎ合わせる。目が合うと、どちらともなくキスをした。

 大粒の雨に叩かれるように湿ったそれは、涙に濡れて少ししょっぱかった。