僕には何も残っちゃいなかった。夢も希望も愛する人も。
六畳一間。僕は親戚に借りたその一室でただひたすらに横になっていた。夏だというのに敷物もないフローリングの上はあまりに冷たくて、僕の体温と床がまるで一体化しているような錯覚を覚える。
ネオンが煌めき、揺らめく人の群れに憧れて十八の頃の僕は夢を抱いてこの地に足を踏み入れた。家族の反対を押し切って、今を時めく時代の人に僕にもなれるのだと、若かりしあの頃、自分自身の可能性を信じて無謀にも芸事の世界へ飛び込んだ。
夢を追いかけて数年は楽しいものだった。同じ目標を目指す仲間たちと、苦悩し笑い合い、お金がなくとも好きという情熱はやはり僕の心を満たしてくれた。
けれど、それも初めの内だけだった。
年を重ねると見えない焦りに襲われてくる。親もいつまでも若いわけじゃない。貯蓄もなければ、経歴もない。同級生との格差に苛まれて、僕は自分だけがその場に足踏みをしている現実に、酷く打ちひしがれていた。
「なんであなた、こんなところにいるの?もっとなんでも出来そうなのに」
僕は自分が器用な方だと思っていた。もっとなんでも出来ると思っていた。そんな言葉を僕は人生において、たくさん聞いてきた。はずだった。
不合格。見送らせていただく。残念ながら。
そんな文字を幾度も目に映し、がむしゃらな自分を否定され続けた末、僕の心はいつしかぽっきり折れてしまった。
気づけば自分よりも若さを武器にした人間が、初々しさときらめきを携えて僕が夢見た世界で輝いている。
誰かが夢を叶える。
その度に、「待ってろ、僕だって。いつかはそこに。その場にいくんだ、絶対。ぜったいに」という闘争心は薄れ、「ああ、よかったね。おめでとう。今の内だよ。今の内だけだよ。どうせ、どうせ」という皮肉に変わったのはいつからだろう。
僕にはもう何も残っていない。金も、夢も、希望も。
窓の外から聞こえる電車の音と、照り付ける日差し。床はこんなにも冷たいのに、世界はこんなにも熱を孕んでいる。
どれほどの時が経ったのだろう。僕の誕生日ですら、誰も僕を祝おうとしない。何も持たない僕を、いつの間にか誰もが見放していた。
責められることが怖くて、優しい言葉をかけられることが辛くて、電話すらしなくなってしまった両親。自分の人生が惨めだと思い知らされるからと連絡しなくなってしまった友人。幾度も、もうそろそろ他の道を考えてみてもいいんじゃないかと現実を突き付けてくる恋人。
一人でこの世に生まれたわけじゃないのに、僕はいつの間にか一人ぼっちで世界に置いて行かれていた。
春、夏、秋、冬。
僕は絶望の淵を彷徨いながら、たくさんの夢や希望が雑多な人込みによって踏みつぶされてしまうこの大都会で、ただひっそりと落ちぶれていた。
ある日。僕の部屋に来訪者がやってきた。目が合うこともなく、彼女は部屋の隅に腰かける。かつて、恋人だった女性だ。別れたあとも彼女はたまに僕の部屋を訪れて、こうして顔を見せに来てくれた。
今思えば、僕にはもったいないくらい出来た人だった。僕が夢に向かってひたむきに頑張る姿を好きだと言い、僕が落ち込んだ時も折れそうな時もひたすら、傍で支えてくれるような献身的な人。
僕の人生で唯一自慢できるものが彼女との関係だった。
肩までで揺れる黒髪に端麗な横顔がやけに懐かしく、僕は必然的に涙が溢れた。彼女との日々は、それは楽しくて、こんな時間が永遠に続けばいいのにと、ずっとずっと願っていた。
「ねえ、結婚とか考えてる?」
彼女のその言葉に、そんな儚い時間は脆くも崩れ去る。彼女のことは大好きだ。愛していた。だけど、未だ夢さえ掴めず、足元さえ覚束ない僕に彼女の手を握る資格など傍から見ても、自分から見ても持ち合わせちゃいなかった。
「あなたのこと両親に紹介したいの。だから」
ぎくりとした。全身から血の気が引いた。この瞬間がついに来たかと身を強張らせるくらいには彼女の言葉がどう続くかその時の自分にはわかったのだ。
「そろそろ、夢を変えてみない?」
彼女なりに考えて出した言葉だったのだろう。言葉の輪郭に優しさを最大限に孕ませ、気を使うような彼女の表情が未だに忘れられない。僕は共に歩いている気だった彼女にさえ、その瞬間、置いて行かれている現実を突きつけられた気分だった。
「そうでないと私……もう、あなたとこれ以上、一緒にいられない」
足並みがそろっているつもりだった。僕と彼女の波形はいつの間にか全く噛み合わず、不協和音を奏でている。けれどその原因は全て、僕にあることも、僕自身はわかっていたから尚更苦しかった。
部屋を飛び出した。立ち止まって、辺りを見回した。音や光がさんざめく世界で涙が溢れてとまらなかった。
夢を見た。希望を抱いた。
けれど僕の描いていた未来を、この場所で生み出すことが出来なかった。
何をしているんだろう。何しにきたんだろう。涙で霞んだ視界に広がる空は曇っていて星なんて一つも見えなかった。これなら田舎で見上げる空の方が遥かにマシだった。
なんて僅かな時間か。どうして夢を追える時間はこんなに短いのだろう。
もっと、いろいろ出来たかもしれない。やれたかもしれない。けれど僕は結局、力が及ばなかったのだ。
思えば思うほど悔しくて苦しくて、諦めの悪い僕は一頻り泣いた。
そしてそんな僕に、人生最後のスポットライトがようやく当たる。ラッパのような音がまるで歓声が上がるように響き渡り、僕の悲惨な顔を照らす。
ネオンの世界に呑まれていく僕のぐちゃぐちゃな想いは、くすんだ空に舞い上がった。
それからずっと僕はこの六畳一間に横たわっている。世界が揺れ動く様を、季節がわかる様をその四角窓から眺めて何も敷かれていないフローリングの冷たさをただ全身で受け止めるだけだった。
「今度、引っ越すことになって」
先ほど部屋の隅に座った彼女が静かに告げた。線香の香りが部屋に充満する。いつしかこの独特の香りが心地の良いものとなっていた。この香りがすると、必ず彼女が僕の前に現れるから。仏壇の前で彼女がお鈴を鳴らし、手を合わせる。左の薬指には指輪がついていた。
僕はその姿を、ただ眺めることしか出来ない。引き留めることすら、もう、出来ない。
「あなたのもとに来られるのは、これで最後かもしれない」
僕が選んだ。僕が決めて、僕が夢を抱き、自分の足でこの街にやってきた。
だから、ずっと支えてくれた彼女を、もう解放するべきなのかもしれない。
僕は床の上で頷いた。音にもならないそれは、窓を叩く風にかき消される。
涙が溢れて止まらない。大好きだった、愛してた、本当は君と共に生きていきたかった。
でも僕は結局、何も持たなかった。持てやしなかった。
「さようなら」
さようなら。また会える日はもう二度とないけれど。
幸せになって。彼女の行く末が、僕のようにはならないように。
やがて彼女が、僕の部屋から出て行った。その姿を見送ってようやく、肩の力が抜けたような気分だった。未練や後悔だらけの日々が、僕をここに縛り付けていたのだとその瞬間、ようやく理解したのだ。
やっぱり僕には何も残らなかった。夢も希望も愛する人も。
世界にも見捨てられて、僕はこの大都会の片隅でひっそりと涙を流す。どうか僕のような人が、僕のような人生を歩まないことを願いながら。
その記憶を最後に、僕は天に向かって闊歩したのだった。