翌日は捜索をしなかった。学校があったから探せる時間があまりなかった。それならいっそ休みということにして、明日から始まるゴールデンウィークに備えようということになったのだ。
 そして一日空いて、真の捜索二日目。
「あのさ、一昨日見た家の中で篠崎の言っていた門扉のある家に行ってみないか」
「いいけど、でもどうして?」
「いや、その、名字変わってる可能性もあるのかなって」
 推測だけでこんなことを言うのはあまり良くないのだけど、普通にみつけられなかった以上、別の可能性も視野に入れていかないといけない。
「とりあえずまだ引っ越しの線を省いたとして、僕達がみつけられなかった理由は何でだろうって、昨日考えてみたんだ」
 足りない頭で必死に考えた。
 その結果、僕達がみつけられなかったのはそこが真の家であると認識出来なかったからなのではないかと思った。
「僕達は篠崎の言う門扉と『岡野』という表札を目印として探していた。でもその目印が違っていたとしたら」
 違う家なのだと思い込む理由には充分になりえる。
「だから今日は黒い門扉の家を順番に訪ねていこうかと思うんだけど」
 白状すると、これを話すかどうか僕は悩んだ。もし僕の考えがあっていて真の住んでいる家を突き止めることが出来たとしたら、僕は篠崎の恋の手助けをすることになってしまうから。
 真が篠崎のことをどう思っているのかなんてわからない。でも再会を果たすことが出来れば、篠崎は真に告白してしまう。結果がどうであれ、篠崎が誰かに想いを告げている姿なんて見たくはない。それが僕の知っている相手なら、なおさらだ。
 だけどいつまでもこの日常に甘えている訳にもいかない。これ以上、篠崎から笑顔を奪う訳にはいかない。
「どう、思う?」
 若干声が震えてしまったのは、往生際の悪い僕が真のことを諦めてくれることを望んでいるから。
 でもきっと篠崎は。
「うん。少しでも真くんに会える可能性があるのなら」
 諦めたりしないのだろう。
「考えてくれてありがとう」
「僕は別に」
 お礼を言われるようなことはしていない。だってこれも罪滅ぼしの一つなのだから。
「……じゃあそういう感じで」
 僕達は黒い門扉のある家を順番に回った。対象となる家はそう多くはなかった。だからもしかしたらすぐにみつかってしまうのではないかと思った。けどそんな簡単にいくはずもなく、どの家もはずれだった。
 そしてついに最後の一軒となった。
「見覚えはあるか?」
「あるような、ないような。同じようなのを見過ぎてゲッシューしてるのかも」
 まさかとは思うけど、ゲッシューってゲシュタルト崩壊のことだろうか。そんな略し方するようなやつ前代未聞だぞ。
「とりあえず押してみるぞ」
「よし、来い!」
 小さく息を吐いて、インターホンを押す。
 が。
「…………出ないね」
「…………出ないな」
 もしかしたら気付いてないとか、手が離せないとかかもしれないと思いもう一度押してみる。けどやはり誰も出ない。
「留守みたいだね」
 最後の最後で留守とはどうしたものか。住人が帰ってくるまで待つとなるといつになるかわからないし、ずっと家の前で待つとか不審者まっしぐらだから出来ることなら避けたい。
「出直すしかないか」
 いないものはしょうがない。ここは素直に一旦引こうと思ったとき。
「お兄さん、私の家に用事?」
 女の子の声がした。その声のした方に身体を向けると、小学生くらいの女の子が不思議そうな顔をして僕を見上げていた。
「…………芽衣(めい)ちゃん?」
「え?」
 今名前を呼んだということは、篠崎はこの子のことを知っているということになる。でもこんな小さい子と一体何処で。
「……もしかして」
 思い浮かぶのは一つだけ。
「真の妹、なのか?」
 篠崎が頷いて。
「お兄ちゃんのこと知ってるの?」
 少女が答える。
 一応念のため表札を見る。書かれている名字は『宮下』。読み方は『みやした』だろうか。いずれにしろ真の名字である岡野ではない。どうやら僕の考えは当たっていたらしい。
 そしておそらく、この子は篠崎の姿が見えていない。篠崎が瞬時に真の妹だとわかったのだから、二人はそれなりに見知った間柄のはず。でも名前を口にしたのは篠崎の方だけで、真の妹は僕のことしか口にしていない。これはもう見えていないと判断していいだろう。
 横目でこっそり篠崎のことを見る。もしかしたら見えていないことにショックを受けているかもしれないと思ったけど、さすがにそれに関してはもう慣れているのか特に落ち込んでいる様子は見られなかった。そのことに安心し、僕は用件を話し始める。
「あの、僕、真の小学校のときの友達で。えっと、真って今何処にいるかわかるかな」
 相手がまだまだ子供ということもあり、なるべく優しい言葉遣いを心がける。普段の口調で話して怖がらせてしまったら、ここまでの苦労が台無しになってしまうと思った。
「お兄ちゃんのいるところ?」
「そう。真のいるところ」
「わかんない」
 うん、まあ想定の範囲内だ。わざわざ妹に出先を教えるとも思えないし、この子と入れ違いで出かけたのかもしれないのだから知らなくても別に変ではない。
「じゃあさ、真がいつも家にいる時間って何時くらい?」
「わかんない」
「わからない?」
 もしかしてわかりづらい聞き方をしてしまっただろうか。いやでもこれより簡単な聞き方なんて思いつかない。どういうことだと思考を巡らす僕に、彼女が言う。
「だって、お兄ちゃんとはもうずっと会ってないから」
「…………え?」
 ちょっと待て。今「もうずっと会ってない」って言ったのか? 
だって、それって。
「……ずっと会ってないのって、真だけ、じゃないよな?」
 変わった名字に、ずっと会っていないという発言。
「うん」
「それは、どっち(、、、)なんだ?」
 つまりこういうことだろ。
「お父さんだよ」
 二人は別々に引き取られた。
 そしてこの街に、真はもういない。

 篠崎の後ろを黙ってついて行く。その背中は心なしか普段よりも小さく見える。
 真の家はみつけた。でもそこに真はいなかった。何処にいるのかもわからない。落ち込むのも無理はない。
「残念だったね」
 まとっている雰囲気とは違って、その声はいつもよりも明るかった。
「せっかく探してくれたのにごめんね」
「何でお前が謝るんだよ」
 だってしょうがねえだろ。
「…………諦めろってことなのかな」
 ぽつりと篠崎は言った。
「だってこんなにしてもらったのに会えなかったんだよ。それってさ、そういうことじゃん」
「篠崎」
「私、意外と平気なんだよ。こういうのってやっぱり巡り合わせだし、仕方のないことなのかなって」
 全然平気とは思えない。
 なのに気の利いた言葉一つかけてやることが出来ない。慰めてあげられない。なんて無力なんだろう。
 それだけじゃない。
 僕は。
 安心してしまったんだ。
 真がいないことを知ったあの瞬間、僕は心の底で安心したんだ。会わなくて良かったと、そう思ってしまった。篠崎の不幸を、僕は喜んだんだ。
 もう嫌だ。消えてしまいたい。どうして僕はこんなにも酷い人間なんだ。篠崎のために動きたいのに。篠崎のことを応援したいのに。篠崎に笑っていて欲しいのに。心と行動がちぐはぐで、最後には傷付けてしまう。
 僕なんて、大嫌いだ。
「……あ、れ?」
 何か急に息苦しい。酸素を上手く取り込めていないような感覚がして必死に息を吸うけど、口からは吸い込んだ量以上に漏れ出ていく。足元がおぼつかなくなり、ついにその場にしゃがみ込んでしまった。
「洸基? どうしたの?」
 僕の異常を感じ取ったのか、篠崎が血相を変えて僕の元にやってくる。
「大丈夫? 気分悪いの?」
 篠崎の手が僕の額に触れる。
「凄い熱」
 そういえば篠崎側は僕の体温を感じ取れるんだっけ。言われてみれば、何となく身体が熱い気がする。
「どうしよう。ここ人通り少ないし」
 今にも泣きそうな声が聞こえてくる。もしかしたらもう泣いているかもしれない。駄目だ。これ以上篠崎に悲しい思いをさせたら。そう思って立ち上がろうとするけど足に力が入らずよろけてしまう。
「無理しないで」
「これくらい大丈夫だって」
「全然大丈夫じゃないよ。息も苦しそうだし、立ち上がれないじゃん。私ずっと病気してたからわかるもん。大丈夫じゃないって知ってるもん」
「でも」
「でもじゃない。とりあえず端に寄ろう。道の真ん中じゃ危ないよ。手、貸すから」
 僕の前に篠崎の手が差し出される。
「……ごめん」
 その手を借りて何とか路肩に寄る。誰の家かもわからない塀に身を預けると、幾分かは楽になったような気がした。けどそんなの誤差の範囲でしかなくて、息はどんどん上がっていく。
「洸基」
 篠崎の目に何かが灯る。
「私、助けを呼んでくる」
 そう言って僕から離れようとした彼女の手を掴んでしまったのは、ほとんど無意識だった。
「どうしたの?」
「…………行かないで」
 口からこぼれ出た僕の声は酷く弱々しかった。
「ここにいて欲しい」
 何処にも行かないで。このまま僕の傍にいて欲しい。そんな本音を隠すことすら出来ないくらい心も体も弱っていた。
「お願いだから」
 僕をみつめるその目に必死に訴えかける。
 でも篠崎は静かに首を横に振り、僕の手を強く握り返し言う。
「大丈夫。すぐに戻ってくるから。絶対、助けを呼んでくるから」
 優しい笑みを浮かべ、同時に僕の手を離す。
 そして篠崎は真っ直ぐに前だけを見て、何処かへと行ってしまった。
 そうだった。篠崎は僕の手だけで止められるような人じゃない。どんなときでも誰かを思いやることが出来て、前を向いて走って行ける人。それが彼女の本来の姿なんだ。
 視界が眩む。あまりの気分の悪さに耐え切れなくなって、ついにその場に倒れ込む。目を開けているのも何だか辛くて自分の意思とは関係なく目を閉じた。
 僕は死ぬのだろうか。このままここで、誰の目にも触れずに息絶えてしまうだろうか。
 それもいいかもしれない。
 死んだら今度こそ篠崎の傍にいられる。いつまでも一緒にいられる。彼女が鳥籠を必要としないのなら、僕も鳥籠から飛び出してしまえばいい。
 もういいだろ。
 僕は暗闇に身を委ねた。

 自分の身に何が起きたのかよくわからなかった。けどどうしてだか、僕は何かしらの危機から脱したのだということが直感でわかった。
 重たい瞼をゆっくりと持ち上げる。真っ先に視界に飛び込んできたのは知らない天井だった。
「目、覚めた?」
 声のした方に顔を向ける。
「……結城?」
 そこには何故か結城がいた。何でお前がいるんだ。てか、ここ何処だ。
「自分がどうなったかわかる?」
「えっと」
 確か篠崎と真の家を探してて、みつけたのはいいけど真はいなくて。それで。それでどうしたんだっけ。あまりよく憶えていない。
「もしかして憶えてないの?」
 言い当てられた僕は素直に頷く。
「あんた高熱出して倒れたんだよ。それであんたが倒れた場所っていうのが私の家の近くだったから、椿が私に助けを求めに来たって訳」
「そうだったんだ」
ということは、ここは病院なのか。やっと自分の居場所がわかった。
「それで気分はどう?」
「……良くはない、かな」
「でしょうね。だって四十度近い熱だったんだから」
 そんなにもあったのか。本当に全然記憶にない。
「……ていうか寝てないで大丈夫なの?」
「え、ああ、うん。普通に話せるくらいの元気はある」
「じゃあそれのおかげだね」
 結城が僕の腕を指差す。そこでようやく僕の腕に点滴が刺さっていることに気が付いた。
「本当にびっくりしたんだから。いきなり椿が訪ねてきたと思ったら、洸基が熱出して動けないから早く来てって言われて、実際にその場所に行ってみたらあんたは意識失ってるし」
「……すみません」
「何でそんな状態で出歩いてるのよ。しかも意識失くして記憶もぶっ飛ぶレベルまでほったらかしにして。ほんとバカじゃないの」
「いや、少なくとも僕が憶えている時点までは平気だったっていうか。自覚症状は何一つなかったというか」
「あーじゃあ急にきたってパターンね。それじゃ咎めてもしょうがないか」
 結城が深く溜め息を吐く。許されたというよりは、呆れられたという方が近いような気がする。
「ご、ご迷惑をおかけしました」
「別に。南波には借りがあるから。それを返しただけだし」
 借りというのは、この前の水族館のことだろうか。僕は全然貸しだとは思っていなかったのだけど、結城がそう言うのならそういうことにしておこう。
「というか、あんなところで何してたの? 南波の家、全然方向違うじゃない」
「ちょっと人探しをしてて。その、篠崎関係の」
「誰を探してたの?」
「岡野真っていうんだけど」
 瞬間、結城の顔が固まった。
「岡野……真? その名前、何処かで聞いたような」
「篠崎から聞いたんじゃないか? 真、小学校が一緒だったんだよ。学年は一つ下だけど、僕と篠崎と同じ製菓部に入ってたから」
 篠崎なら仲の良い友人のことを、それまた仲の良い友人に話していたとしてもおかしくはない。ましてや真は篠崎の好きな人。二人が恋バナとかするのかは知らないが、一度くらいは話題に上がっていそうではある。
「そう、なのかな」
「結城?」
 何故か結城の顔は晴れない。難しい顔をして、何かを考えこんでいる。
「どうかしたのか?」
「ああ、ううん。何でもない。そう、椿の」
「そう、篠崎の」
 あれ。
「……そういえば篠崎は?」
 目を覚ましてからまだ篠崎の姿を一度も見ていなかった。篠崎は一体何処に行ったのだろう。まさかまたホラー映画の真似事でもしようとしているのではと身構えたが、一向に現れる気配はなかった。
「椿ならきららを迎えに行った」
「早乙女を?」
「一応伝えといた方がいいと思ったの。そしたらすぐ来るって言って、それで椿が迎えに行くことになったの」
 まあ篠崎か結城なら、結城が僕のところに残るべきだろう。篠崎は幽霊だから誰かが訪ねて来たり僕の身に何かあっても、何も出来ないし誰かに伝えることも出来ないのだから。
「今南波が目を覚ましたって連絡を入れたんだけど、あ、もう着くって」
 結城がそう言い終えた瞬間、病室の扉が勢いよく開かれた。
「南波くん!」
 飛び込んできたのは早乙女、それから篠崎。
「南波くん大丈夫なの?」
「なんとか」
「良かった。でも倒れるくらい体調が悪いんだったら、ちゃんと家で寝てないと駄目じゃない」
「その話はもう終わったんだよ」
 結城といい早乙女といい、何で寝起きにこうも注意されないといけないんだ。いや倒れたのは事実だし体調管理を怠ったという面では悪いのかもしれないが、僕だって倒れたくて倒れた訳じゃない。理不尽だ。
 でも二人共、僕を気遣ってそう言ってくれているんだよな。
「心配かけてごめん。来てくれてありがとう」
「いいよ。南波くんにはお世話になってるから」
「世話?」
 世話になっているのはむしろ僕の方じゃないのだろうか。沢山相談に乗ってもらって、篠崎のことも手伝ってもらって。今だってこうして駆けつけてくれた。
「いいの。私が勝手に恩を感じてるだけだから」
「それはそれで気になるんだけど」
「南波さ、そこでそういうこと言うからモテないんだよ」
「決めつけんなよ」
 確かにその通りなんだけどさ、指摘されるのはまた違うっていうか普通に腹が立つ。ずっと篠崎のことしか見てなかったんだ、ほっといてくれ。
「…………篠崎」
 ただ黙って僕達のやり取りを見ていた彼女の名前を呼ぶ。決して忘れていた訳ではない。話しかけるタイミングが掴めなかったんだ。一番心配をかけてしまった相手だからこそ、どう接したらいいのかわからなかった。
「見ての通り、僕は大丈夫だから。まあまだ熱っぽいし倦怠感もあるんだけど、こうしてふざけたりも出来るくらいには回復したから」
 僕がどれくらい重傷だったのかは憶えていないけど、少なくとも倒れた瞬間よりはかなり元気になっていると思う。その証拠に意識もはっきりしている。
「だから篠崎もいつも通り絡んでって、え、ちょ、篠崎?」
 篠崎は号泣していた。見たこともないくらい大粒の涙が篠崎の頬を伝っていた。これには僕だけじゃなくて結城と早乙女も困惑の表情をしている。
「ごめん。ちょっと安心しちゃって」
「いや、僕の方こそごめん」
「洸基が無事で良かった」
「……うん。ありがとう。僕を助けてくれて」
「助けるのは当然でしょ。だって洸基は」
 とびっきりの笑顔を浮かべて篠崎は言う。
「私の大切な幼馴染みなんだから」
 大切な幼馴染み。
 そこに込められた意味が違っていることを僕はもう知っている。
「……僕も篠崎のこと、凄く大切に思ってるよ」
 言ったところで意味なんて伝わらないけど、それでも言いたかった。

 急な高熱でしかも一時的だが意識を失ったということもあり、僕は二日程入院することになった。医者からは絶対に安静と釘を刺され、母からは何故そんな体調で出かけたのかとまた同じことを言われてしまった。だから僕だって体調不良になるなんて思ってなかったんだよ。しかもそれを聞いていた結城達には爆笑されるし、見舞いに来てくれたのが女子ばっかりということを母にいじられるし、本当に散々な一日だった。
 そんな人生史上でも一、二を争うレベルで最悪だった一日も眠りにつけば勝手に終わってくれる、というのに全然眠れそうになかった。目が完全に冴えてしまっていた。夜に限って寝れなくなるって病人あるあるだと思う。
 夜の病院はとても静かだった。静かすぎるくらいだった。家だと外を通る車の音や野良猫が喧嘩をする声なんかが聞こえてくるのに、そういう何かしらの存在を感じられるような音すら聞こえてこない。しかも個室だから同じように入院している人の気配すら感じられない。
 まるで世界にただ一人取り残されたような感覚だった。病室の暗さが余計にそんな気分にさせているように思った。けど消灯時間はとっくに過ぎていて灯りをつけることが出来ない。仕方がないので閉じられていたカーテンを開こうと立ち上がったとき。
「寝てなきゃ駄目じゃん」
 ふいにそんな声が聞こえてきて顔を向ける。
「篠崎、何で」
 そこには篠崎がいた。
「何でここに。だって僕達、夜は」
 夜は会うことがないはずだった。
「確かに私は夜に洸基の部屋に入ることを禁じられてるけど、ここは洸基が入院している病室であって洸基の部屋じゃないし」
「ものは言いようだな」
 そういうのを世の中では屁理屈って言うんだぞ。
「それに洸基のこと心配だったから」
「心配?」
「入院中の夜って、何か心細くなっちゃうから」
「……ああ」
 なんだ、僕のことなんてお見通しって訳か。凄いやつだよ、本当に。
「…………何でそう思ったんだ?」
「私が入院してるときがそうだったから。夜になるとやっぱりどうしてもね。それでもしかしたら洸基も同じような気持ちになってるかもしれないって」
 経験に基づく考察だった。それじゃ見破られても仕方がない。
「まあ理由はそれだけじゃないんだけど」
「それだけじゃないって?」
「だって洸基、私が助けを呼んでくるって言ったとき、私の手を掴んで言ったでしょ。行かないで。ここにいてって。だから今も寂しがってるんじゃないかなって思ったの」
「え、僕、そんなことを? ごめん。実は倒れたときのこと、よく憶えてなくて」
 本当なのだとしたらめちゃくちゃ恥ずかしい。いくら熱に浮かされて気が滅入っていたとはいえ、そんなことを口走るとかどうかしている。女子がやるなら可愛げがあっていいかもしれないが、あいにく僕は可愛げとは無縁の男。しかも言った本人に記憶が残っていないのだから質が悪い。最悪だ。今すぐ僕を何処かの穴に埋めて欲しい。
「大丈夫だよ。きっと急に熱が出て、自分でもびっくりしちゃったんだよ。それでつい人肌を求めちゃったとか、そういうことだよ。うん」
 篠崎が必死に僕をフォローする言葉を並べてくれる。その優しさが今は心底辛い。
「いや、もういいよ。今心細く思ってたのは事実だし、たぶん、そのときのも本心だと思うから」
 ここまで証拠が出揃っているのなら、隠したところで無駄だ。いいさ。僕は病人なんだ。多少甘えたって許されるはずだ。
「それで、篠崎は僕に何をしてくれるんだ?」
「実はそこまで考えてなかったんだよね。とりあえず来てみたって感じ」
「何だそれ」
 でも篠崎らしい。
「そういう洸基はベッドから下りて何しようとしてたの?」
「カーテン開けようと思って」
「カーテン?」
「えっと、真っ暗なのが何か落ち着かなくてさ。カーテン開けたら、少しは明るくなるかなって思ったんだ」
 ひとりぼっちで寂しがっていただけじゃなくて、暗闇にも怯えていただなんてさすがに引かれただろうか。幻滅されたかもしれない。そう思ったが、篠崎は全く気にしてないらしく「確かに病室ってちょっと暗いよね」と言ってきた。どうやらただ僕が過敏になっていただけらしい。そのことに安心しながら、僕はようやくカーテンを開けた。
 真っ暗だった病室がほんの少しだけ明るくなる。月と星の光というのは本当に偉大だと思う。昔の人達が頼りにしていた気持ちがわかるような気がした。
「……篠崎、お前」
 ベッドの端に腰を下ろし、篠崎の姿を見た瞬間息が詰まった。
「何? どうしたの?」
「お前、身体」
 窓から差し込む月明かりは篠崎をすり抜け、僕の病室だけを照らしていた。
 自覚は、していたつもりだ。
 僕の中で、篠崎椿が死んで幽霊となったという事実が、徐々に消失しつつあるということを。
 こんなにもはっきりと見えて、こんなにも近くにいて、言葉を交わすことが出来て、手を伸ばせば触れることすら出来る。生きているのと何ら変わらない。だから不意に忘れてしまいそうになる。
 今だって頭ではちゃんとわかっているのに、普通に会話をしてしまっていた。注意力が足りていない証拠だ。もしここが個室じゃなかったら、僕は精神病棟へ移されていたかもしれない。
 でも忘れられたら、君が死んだというどうしようもない事実を忘れてしまえたなら。
 僕は今抱えているこの悩みに振り回されないでいいのかもしれない。
 けれど、そうはいかないことも僕はわかっていた。
 だって僕は。
 綺麗だと思ってしまったんだ。
 淡い月光に包まれた姿も、その身体をすり抜けていく光の粒も、全てが酷く綺麗だった。まるでおとぎ話の一ページのように、篠崎は光り輝いていた。
「洸基? どうして泣いてるの?」
 言われて、そこで初めて僕は泣いていることを自覚した。
 気付いてしまったら、もう駄目だった。
 涙が際限なく出てきて、僕の頬とシーツを濡らしていく。止め方がわからなくてむせ返った僕の背中を篠崎が優しくさすってくれる。
「大丈夫だよ。私、ここにいるから」
 何度も何度も、篠崎はそう言ってくれた。だけど僕の心は全然穏やかになってくれない。
「少し熱上がったんじゃない。大丈夫? 辛くない?」
「篠崎」
「うん、何?」
 我慢出来なくて、ついに言ってしまう。
「…………綺麗だ」
 凄く、凄く綺麗だ。
「綺麗だよ、篠崎」
 どうしようもなく涙が止まらないくらい。
「…………ごめん。今の、忘れて」
 僕は今熱に浮かされている。それでいい。そういうことにしてしまえばいい。
 ならいっそ、篠崎へのこの気持ちも、抗えない現実も。
 全部、熱のせいにしてしまえればいいのに。