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翌日の昼休み、僕はまた早乙女を誘って例の空き教室で弁当を食べていた。今回も大事を取って窓際の席を利用している。
誘った理由は結城から聞いたことをまだ話せていなかったから。篠崎にも話を聞きたかったのだけど夜は僕の部屋に来ないという約束があったから、確認を取ることすら出来なかったのだ。それで昼休みを利用することにした。
「え、触れなくなった?」
「って結城から聞いたけど。実際どうなんだよ、篠崎」
僕の弁当を凝視して今にも涎を垂らしそうな篠崎に問いかける。
「洸基の言う通りだよ」
篠崎は僕の弁当から一切目を逸らさずに言った。だから僕の弁当を狙うな。お前食事する必要もなければ出来ないだろ。このままだと話が進みそうにないので、残りのおかずを一気に腹の中に流し込む。篠崎の「あー」という声が聞こえた気がするけど、きっと幻聴だ。
「篠崎自身に何か変わったこととかあるか?」
ようやく目が合って篠崎が答える。
「変わったこと? 桃花に触れなくなった以外でだよね。うーん。わかんないや」
「そうか」
まあ初めから篠崎に期待はしていなかった。
「早乙女はどう思う?」
「昨日結城さんからその話を聞いたとき、他に何か言ってなかった?」
質問を質問で返されてしまった。でもきっと考えをまとめるのに必要な質問なのだろう。そう思って素直に答える。
「何で触れなくなったのかって聞いたら、私はもう大丈夫だからって、そう言われた」
「結城さんはちゃんとわかってるんだね」
まるで僕だけがわかっていないという言い草だった。実際そうなのだろうけど、こうも同じような態度を取られると何だか気に食わない。
「洸基くーん、お顔が怖いですよー」
言われて窓ガラスを見ると、僕はいかにも不機嫌ですという顔をしていた。
「……ごめん」
「南波くん、そういうの気にしないでいいって言ったよね」
「ああ、うん、ごめん」
「だから」
「今のはしょうがねえだろ!」
つい強めの口調になってしまったが、早乙女は正解というような笑顔を浮かべていた。何か、調子狂う。
「洸基もしかして照れてんの?」
「照れてねえし。てか今お前の話してるんだよ。変な話挟んでくるなよ」
「私は洸基がきららちゃんに嫌われないようにと思って言ったの」
「はいはい。それはどうもありがとうございました」
「清々しいくらいの棒読みだね」
もう本当に一回黙って欲しい。
「仲良いね」
「何処が」
でもちょっとだけ嬉しかったりする。
「えっと、話し戻すけど、僕本当に何もわかんなくてさ。だから僕にもわかるように説明してくれないか」
喜びを悟られないように平常心を装う。
「結城さんの言葉のままだよ」
「だからそれがわからないんだよ」
だいたいわかっていたらこんなこと聞かない。
「つまりね、未練が一つ消えたってこと」
どくんと心臓が跳ねた。
「篠崎さんも結城さんも、喧嘩別れになっちゃったことを悔やんでいたでしょ? それが解決したってことは、未練がなくなったというのと同じ意味になるよね」
「でも何で未練がなくなったら触れなくなるんだよ」
結城は今だって篠崎のことが見えるし会話も出来ている。それら全てが同じように出来なくなっているのなら、まだ納得がいった。でも実際出来なくなったのは触れることだけ。もう訳がわからない。
「ごめんなさい、篠崎さん。少し席を外してもらえないかな」
「え?」
そう言った声は重なっていた。
「どうしても南波くんと二人で話がしたいの」
いつもの百割増しの真面目な顔だった。
「……うん。わかった。じゃあ先に教室戻ってるね。どれだけ大事な話でもサボったらこの先ずううううううっとつきまとうからね!」
篠崎のことだから本気でやりかねないと思った。
「大丈夫だよ。時間もあまりないから簡単に済ませるつもり」
「ならいいんだ。またあとでね」
ご丁寧に扉をすり抜けて出て行った篠崎を身送って、僕達は目を合わせる。
「これで少しは話やすくなった?」
早乙女の目尻がほんの少しだけ下がった。優しげな表情。けど何処か悲しそうで、どうしてそんな目をしているのか僕には全くわからなかった。
「南波くん、篠崎さんのこと気にしすぎて上手く話せないみたいだったから。私の勘違いだった?」
「…………いや、あってるよ」
「良かった。それじゃあ話すね。どうして篠崎さんに触ることが出来るのか、また触れなくなってしまったのかについての私の仮説を」
覚悟はいい? 早乙女が聞いてくる。
数瞬だけ時間をもらって、僕は頷いた。
「この現象の原因は篠崎さんじゃない。こっち側にいる人」
「どういう意味だよ」
「だからね」
また悲しそうな顔をして、早乙女は言った。
「原因はね、貴方自身だったんだよ、南波くん」
「…………僕、自身……?」
ここまで言われてもなお、僕はまだ理解が追いついていなかった。いやこれこそ僕が理解したくないだけなのではないだろうか。
「触れるというのは、相手を繋ぎ止める行為だよ。結城さんは、篠崎さんと喧嘩しちゃったことを酷く後悔していた。謝りたいと心の底から願っていた。そこに篠崎さんが現れた。結城さんは、後悔を、篠崎さんへの未練を払拭出来るチャンスを手に入れた」
「ちょっと待てよ。あのとき手を掴んだのは結城じゃなくて篠崎の方だ」
「うん。だからね、掴ませたんだよ」
「掴ませた?」
どういうことだ。
「再会した瞬間、結城さんは無意識に思ったんじゃないかな。逃げ出せば、きっと私を追いかけてきてくれる。私を引き留めてくれるって」
「それで篠崎は結城を掴むことが出来た」
自分自身を篠崎に掴んでもらうことで、篠崎を繋ぎ止めようとした。
「……だから未練がなくなれば触れなくなる」
結城は篠崎と仲直りすることが出来て、篠崎をこの世界に繋ぎ止める理由はなくなった。もう触れる必要なくなった。「私はもう大丈夫」というのは、こういう意味だったんだ。
「あくまでも仮説だよ。そもそも幽霊自体がイレギュラーな存在だから、あっているという保証はない。でも、もしこれが正しかったとしたら」
ビー玉のように丸い瞳が僕を真っ直ぐみつめる。
「ねえ南波くん。貴方は本当に篠崎さんに対して何もないの?」
僕は答えられない。
遠くの方で予鈴が鳴っていた。
結局僕は五時間目をサボって保健室にいた。
「南波くんがサボるの久々だね」
養護教諭の仁藤先生が柔らかな笑みを浮かべながら言ってくる。
「サボりって決めつけないでくれますか」
「じゃあ違うの?」
「……違わないです」
僕の返事を聞いて仁藤先生はくすくすと小さく声をあげる。
「ベッド使っていいですか」
「はい、どうそ」
僕は三台あるベッドの中で入口から一番遠いベッドに迷わず潜り込んだ。そのベッドは、僕がよくお世話になっていたところだった。
目を閉じて、過去にふける。
去年、僕は一時期軽く病んでいた。思えば父との関係に溝が出来たのも、この時期からだったからかもしれない。
人と関わるのが億劫だった。話すのも顔を合わせるのも怠かった。何もかもがどうしようもなく嫌で、消えてしまいたかった。僕はこの通り性根が終わっているから、消えたところで何も変わりやしないと本気で思っていた。
教室にいたくなかった。というより人が近くにいる空間にいられなかった。上手く笑えなくて、取り繕えない自分が心底嫌だった。
それで僕はたびたび保健室に行くようになった。仁藤先生は僕を怒ったりせず「ベッドで寝ていいよ」と優しく言ってくれた。それがとても心地良かった。一番目立たない、入口から最も離れたベッド。カーテンで仕切られて学校社会から断絶されたようなその場所こそが、僕の居場所なのだと思えた。
そんなどん底でも、何故か篠崎のことだけは頭から離れなかった。篠崎のことを想うと、ほんの少しだけど心が軽くなるような気がした。
やがて僕の症状も時間が解決してくれたのか、徐々に治まっていった。
けどきっと、篠崎の存在がなければ、僕はいつまでも心を閉ざしていたかもしれない。
篠崎椿。
僕の好きな人。
僕のひかり。
「サボってんじゃん」
もう二度と聞けないはずだった、泣きたくなるくらい愛しい声で目を覚ます。
「篠崎」
「サボったらずっとつきまとうって言ったのに」
つきまとってくれよ。
ずっと一生、僕が死ぬまでつきまとってくれたらいいのに。
どうして僕は。
「ごめんな」
君を傷付けることしか出来ないのだろう。
そのまま六時間目、終礼もサボった。どうせまともに授業なんて聞いてられないし、仁藤先生も僕の選択を咎めたりはしてこなかった。おかげでだいぶ気持ちも落ち着いた。
「南波くん」
僕を呼ぶ声は先生のものではない。
「入ってもいい?」
僕に断りもなく入ってきた篠崎とは大違いで彼女がカーテン越し聞いてくる。こういう律義なところが彼女の美徳だと思う。
上体を起こして、ベッドに腰かけるような体勢になる。
「いいよ」
中に入ってきたのは早乙女。彼女の腕にかけられていた僕の鞄が差し出される。
「荷物、これだけでいいよね?」
受け取って中を確認する。
「大丈夫。ありがとう」
「いいよ。半分は私のせいみたいなものだし」
「早乙女は全然悪くない」
悪いのは弱い僕の方。
「そういえば篠崎さんは?」
「あー篠崎は」
「いるよー」
にゅっと天井から逆さまになって篠崎が落ちてくる。そのまま床を貫通。こいつ何がしたいんだろう。
「どう? 今の登場の仕方」
今度は床から顔だけ出して聞いてきた。
「どうって聞かれても」
「怖かったとか何かあるでしょ」
「特にないけど」
「私もないかな」
「えー」
だって相手は篠崎だって最初からわかっているし、だいたい床突き抜けた時点で失敗だって気付かないのかな。普通のホラーだったら、床を貫通したりせずに這って近付いてくるものなのではないだろうか。
「ホラーの真似事はいいから」
「こっちは真剣なのに酷い!」
「とりあえず移動しよう」
無視して話を進める。いくら篠崎の声は聞こえないからといって、これ以上ここに留まって話を続ける訳にもいかない。いい加減動かないと仁藤先生に怪しまれそうだ。
「でも何処に行くの?」
「きららちゃんは私の味方だと思っていたのに」
「あの空き教室でいいだろ。どうせ誰もいないだろうし」
「私が悪かったから無視しないでよお」
「いや外にいるときは無視する約束だっただろ」
最近緩くなっていたけど、元々はそういう約束だった。だから別に悪気があって無視している訳ではない。つまり僕達は何一つとして悪くない。
「教室に人がいなかったら構ってやるから」
「言質取ったから」
もう言質でも何でも好きにしてくれ。
それで僕達はいつもの空き教室へ行った。
案の定教室内に人はいなかった。もし誰かいたら篠崎に喚き散らされていたと思うと、軽く寒気がした。人がいなくて本当に良かった。
そしてまたいつもの席に座る。
「とりあえず来てみたけど、何を話すか」
正確には何から話すべきか、なのだがたいして差異はない。
「昼間の続きは?」
何も知らない篠崎が言ってくる。
「続き、か」
続きを話すということは、つまり篠崎に起きた現象について説明するということになる。そしてそれは同時に、僕が篠崎に対して触れてまで繋ぎ止めたい未練があるということも話すということだ。
そもそも篠崎は原因が僕達側にあるということに気付いているのだろうか。それとも僕のように全然わかっていないのか。もしまだ気付いていないのであれば、このまま隠したいと思ってしまうのはさすがに往生際が悪いか。
「あのさ篠崎」
「ねえ篠崎さん」
早乙女の声が僕の声をかき消した。
「もしかしてだけど結城さんに謝りたいみたいに、誰かに何か伝えそびれたことあるんじゃない?」
「伝えそびれたこと?」
「結城さんとのことを見て、未練ってそういうことを指すんじゃないかって思ったんだけど」
「なるほど。確かにそうかも」
今。
「だからね、何か伝えたいことがある人はいないか考えてみたらいいんじゃないかな」
「わかった。ちょっと考えてみる!」
僕を庇ったのか?
「早乙女」
スマホが鳴る。見ると早乙女からだった。篠崎には秘密の話ということなのだろう。覗いてきたりはしないだろうけど、それでも一応気付かれないよう注意を払いながら届いたメッセージを確認する。
『篠崎さんにはまだ言わないでおこうと思う』
『どうして』
『南波くんのため』
じゃあやっぱり、さっきのは。
『何で僕を庇ったんだ』
『逆に聞くけど言っても良かったの?』
それは。
『もし全部話したとして、篠崎さんに私と同じ質問をされたら答えられる?』
僕は何も返せない。
『南波くんが答えられるようになるまで、私からは言わない』
『でも忘れないで』
『貴方が未練を消せない限り、篠崎さんが成仏出来ないということを』
そんなこと言われなくてもわかってんだよ。
でも言い出せない。
「二人ともいいかな」
決意をしたという顔が僕達に向けられる。
「もう一人だけどうしても伝えたいことがある人がいるの」
僕はそれが誰なのかもう知っている。
「その人の名前は」
篠崎のノートにあった名前とその内容。見えてしまった、結城の次に書かれていたそれは。
「岡野真くん」
僕に向けられたものではなかった。
「私」
つまりこういうことだ。
「好きな人に気持ちを伝えたい」
篠崎椿の中に僕はいない。