一か月後。
 絹子は白無垢姿で、山道を歩いていた。

 ここは三笠家が所有する山だ。三笠家はかつてこのあたり一帯を治めていた地主だったらしいが、今所有しているのはこの山だけで、他にはふもとに別荘を一つを残すのみとなっている。生活の拠点は東京の本宅に移って久しい。

 そのため、絹子がここに足を踏み入れるのは二回目だった。祖父の七回忌のために別荘にきた子供の頃以来だ。

 列の先頭には婚姻の儀をとりしきる神主が歩く。次に紋付き袴の茂と、同じく紋付きの黒留袖に身を包む蝶子が続く。そのあとに白い角隠しをかぶり白無垢を着た花嫁姿の絹子が重い足取りで歩いていた。絹子の隣に、本来いるべき新郎の姿はない。
さらに後ろには名門私立女学校のセーラー服を着た美知華が歩いているが、ときおり楽しそうな鼻歌が聞こえてきていた。それにごく近い親類たちを加えた短い列だった。

 楽しそうな美知華に比べて、絹子の気持ちは沈んでいた。
 今日は、絹子の婚姻の日なのだ。とはいっても、夫となるべき人がいない奇妙な結婚式だった。

 数日前、絹子は父・茂に呼び出されて突然言われた。
『お前は、山神様に嫁ぐんだ』と。

 いまから百年ほど前。絹子と同じように三笠家から山神様に嫁いだ祖先の女性がいた。
 彼女はこの山の中腹にある家で生涯を山神の妻として過ごし、それにより三笠家は山神の加護を受けてずいぶん栄えたのだという。

 三笠家はそのとき築いた財産を取り潰して生きながらえてきたようなもの。
 その財産がついに蝶子たちの浪費によって尽きてしまったため、再び山神様に身内から妻を捧げ、加護を得ようというのだ。

 ほとんど獣道のような山道を抜けて着いた山の中腹には、想像以上に古い、ほとんどあばら屋と言っていいほどの小さな平屋があった。

 さすがの美知華もごくりと生唾を飲み込むと、このときばかりは同情的な目を絹子に向けてて、取り繕うように笑顔を張り付けて話しかけてきた。

「お、お姉さま。素敵な新居ですわね。神様と結婚するなんて、うらやましいですわ」

 そんなこと微塵も思っていないだろうに、親戚たちの手前、美知華は良い妹を演じようする。

(だったら、あなたが嫁げばいいのに……)

 喉まで出かかった言葉を絹子は飲み込んだ。もう彼女たちと会うこともないだろう。自分は一生涯をここで、このあばら屋で過ごすのだ。

 きっと美知華たちはこれから東京の本宅に戻って、いままでと変わらない華やかな日常を続けるにちがいない。絹子の犠牲によって得た、山神様の加護を食いつぶしながら。

(本当に、加護なんてあるのかしら。山神様といったって……)

 そんなものあるはずがない。絹子はそう思っていた。
 いまはもう迷信がまかり通る時代ではなく、近代化した明治の世。
 かつて信じられていた迷信や風習を、科学的ではないとして切り捨ててできた新しい世の中なのに、それでもまだ困ったときだけ神にすがる彼らを滑稽だとすら絹子は思っていた。

(でも……いいの。あの家から離れられるなら、なんでも)

 あばら屋ではつつがなく婚姻の儀が行われた。

 斎主(さいしゅ)である神主が祝詞をあげ、朱色の盃でお神酒をいただき、榊の枝でできた玉串を奉納する。
 本来であれば隣にいるはずの新郎がいない。
 新婦だけで行われる、奇妙な結婚式だった。

 絹子もただ言われた通りの手順を淡々とこなす。そこに感情も何も伴ってはいない。
 ただ、窓辺に一羽の白い雀がとまっているのを見た時だけ、ほんの一瞬、その可愛らしさに頬が緩んだ。あの雀のように自由に生きられたらと、ほんの少し羨ましかった。

 式が終わると、絹子一人をあばら屋に残して、みなは早々に山を下りて行ってしまう。

 あばら屋に一人残された絹子は、持ってきた唯一の荷物を開く。風呂敷一包みのみの嫁入り道具。中には、いつも着ている粗末な着物一枚と、母の形見のカンザシが一本入っているだけだった。

 このカンザシは母が大切にしていたものだった。
 母が棺に入ったときにこっそりその中から持ちだして以来、ずっと絹子の宝物となっていた。どんなに辛い時もこのカンザシを見ていると涙をこらえることができた。
 でも……。

(こんな嫁入り姿、お母さんが見たら一体どう思うだろ)

 とりあえず絹子は白無垢を脱いで部屋の片隅に置くと、いつもの粗末な着物に着替える。
 あばら屋にはそこかしこに隙間があり、初春の冷たい風がそこかしこから入り込でくる。寒さに絹子は両手で身体を抱いた。

 室内を見渡す。
 一応、布団や生活用具一式など最低限のものは運んできてくれているようだ。
 食料も、野菜や米などしばらく過ごせるだけの蓄えは置いて行ってくれた。
 家の隅にはカマドもあるし、そのそばにはクワやスキも置いてあるのが見える。
 これなら畑をつくればなんとか自分一人が生きていくだけの食料は確保できるかもしれない。

 何よりここには、自分を邪険にする継母も、こき使う妹も、見て見ぬふりする父もいないのだ。
 それだけでも、ずっと頭の上にのしかかっていた重石が取れたような身軽い気持になれた。

(とりあえず、明日は畑を耕してみよう。あの食料が尽きる前になんとか自活できる道をみつけなくちゃ。なんにしろ、ここで生きていくしかないんだわ)

「よしっ。がんばろうっ」

 と小さくコブシを握って自分に活を入れたところで、突然、男性の声が聞こえた。

「何を頑張るんだ?」

 よく通る、張りのある声だった。

「え?」

 絹子が声のしたほうに目を向けると、いつの間にか戸口のところに一人の男性が立っている。

 背の高い細身の人だった。
 銀糸のような長くたおやかな髪はゆるく一つに纏められて、肩から胸元に垂れている。鼻梁がすっと通る色白の美しい中性的な顔立ち。

 三笠家にもさまざまな人が訪れ、ときには芸能人なども客人として招かれることがあったが、ここまで美しい人を絹子はいまだかつて見たことがなかった。
 見た目だけなら女性に間違いそうだが、

「だから、何を頑張るんだと聞いているんだ」

 穏やかだが低いその声は、彼が男性であることを示している。
 男は一目見ただけでわかる上質な羽織に身を包んでおり、ゆったりと腕を組んで悠然とした様子で戸口にもたれかかっていた。

「え、えと……その、どちらさまでしょうか」

 まさかこのあばら屋に訪れる人があるなど考えてもいなかった。
 絹子は表情を硬くして彼を見つめる。
 しかし、彼はそんな絹子を見て、ふわりと優しげな笑みを返した。

「そんなに怖がらなくてもいい。私は君の夫だ」

「………え?」

 彼の言葉の真意がわからず、ますます表情を強張らせる絹子。
 男はあばら屋の中へと入ると、上がり框で草履を脱いで絹子の前へとやってくる。
 そして絹子に右手を差し出した。

「先ほど、婚礼の儀式をあげただろう。私は加々見(かがみ)という。この地を統べる山神だ」