「ねえ……さっきから見てたんだけどさ。一人? 誰か待ってんの? よかったら、一緒にご飯食べに行かない?」
あと少しでメッセージを打ち終わる時に声をかけられたから、顔を上げるのも返事をするのも一瞬遅れた。
それをどんなふうに解釈したのか。
声の主はスマホを見つめたたままの私に、どんどん話しかけてくる。
「いい店知ってんだよー。すぐ近くなんだ。もちろんおごるから……ね?」
(三十点……)
声と話し方とその内容から、とりあえず予想点を点けてみた。
私の予想はあまり大きくはずれたことはない。
打ち終わったメッセージを送信して、スマホをバッグにしまって、顔を上げてみたら、ニヤケた顔の男が目の前に立っていた。
根元が黒くなってきている長めの金髪に、耳たぶにズラッと並んだリングのピアス。
鼻にも鼻ピ。
(うっ……二十点だったかも……!)
心の中で眉間に寄せた皺は、実際に顔には浮かべず、社交辞令として頭を軽く下げた。
「ごめんなさい。友だちを待ってるから……」
もちろんここで微笑なんて浮かべちゃいけない。
押せばどうにかなるんじゃないかなんて、相手を調子づかせてしまう。
だからセリフのわりにはかなり冷たい顔で、キッパリと断わったつもりだったのに、相手はそんなことに気がつかないタイプだったみたいで、私に向かって一歩踏みこんだ。
「友だちって男? それとも女? 女の子だったら、その子も一緒でもいいよ?」
(…………!)
最悪。
この手の相手は、こちらが何を言っても聞きはしない。
とにかく「うん」と答えるまで、しつこく誘ってくる。
心の中で小さくため息をついた。
こんなふうに声をかけられることが多いから、外での待ち合わせなんていつもだったら絶対しない。
デートの時は彰人さんが家まで迎えに来るし、学校の帰り道は、家の近くまで諒ちゃんが送ってくれる。
『だって……絶対にヘンな奴らを近づけるんじゃないぞって、俺、脅されてんだよ!』
幼馴染の権限を奮って、いったいどんなふうに彰人さんは諒ちゃんに頼んだんだろう。
考えてみれば面白い。
――そして嬉しい。
五つ年上の私の大好きな彼は、いつも私を好きだという気持ちを照れもせず前面に出してくれる。
今みたいな場面だって、遠くからでも見つけたならきっと飛んできてくれるはずだけど、残念ながら今日の待ち会わせの相手は彼じゃない。
(相手が女の子だってバレたら……またちょっとめんどくさいことになりそうだな……)
そう思った矢先、道路の向こうから元気な声が聞こえた。
「可憐さーん! ごめーん! 待ったー?」
大きく手を振りながらこっちに走ってくる琴美ちゃんが、私の名前を呼んでしまったからガックリした。
(ああ……名前までバレちゃった……)
予想どおり。
声につられて琴美ちゃんをふり返ってから、もう一度私に視線を戻した目の前の男は、ニヤニヤと笑ってる。
「へえー……キミ、可憐って言うんだ……ピッタリだね。友だちも一緒でいいよ。行こ?ね?」
腕を捕まれてゾッとする。
「行きません。用事があるから!」
キッパリと断わっても、思ったとおり、男は腕を放してくれない。
「いいじゃん。ちょこっとだけだから!ね?」
駄目だ。
やっぱりしつこいタイプ。
「……どうしたの? 可憐さん」
様子がおかしいことに気づいてくれた琴美ちゃんに、私は助けを求める視線を向けた。
(助けて!)
なのに、学年トップクラスの成績のわりにはどこか天然の琴美ちゃんは、そんな私を見ながら呑気に首を傾げる。
「……お友だち?」
『そんなわけないでしょう!』という叫びを呑み込んで、私は必死に首を横に振った。
「え? ……じゃ……誰?」
琴美ちゃんの視線が、私の腕をがっちりつかんだ男の手に注がれる。
(ナンパよ! ナンパ! それもかなり強引に、しつこく絡まれてるの!)
なりふり構わずにそう叫んでしまおうかと思った声を、私は再び呑みこんだ。
頭上から、この場面ではおそらく一番頼りになるだろう人物の声が聞こえてきたからだった。
「可憐……何やってんだ? 琴美も……あんまり遅いから美千瑠が心配してるぞ?」
目の前のナンパ男のせいで、まだ琴美ちゃんが来るのを待ってるというメッセージを送るのが遅くなって良かったと心から思った。
きっと美千瑠ちゃんが迎えによこしてくれたんだろう。
彼女のボディガードを、私は天の助けとばかりにふり返った。
「剛毅!」
そこには我が『HEAVEN』一の巨体。
ラグビー部所属で、黙って睨めばちょっとガラの悪い人たちだって目を逸らしてしまうほど強面の剛毅が、腕組みして仁王立ちで立っていた。
驚いたように、私の腕をつかんでいた男の手から力が抜ける。
そのチャンスを逃がさず、私が剛毅に駆け寄って背中に隠れると、男は二、三歩じりじりと後退った。
「な、なんだ……やっぱり男待ちか。そりゃそうだよな。ハハ」
乾いた笑いを浮かべながら一人で納得すると、脱兎のごとくこの場から逃げだしていく。
「じゃ!」
転がるように自分の横を走り抜けて行った男を見て、「なんなの?」と首を傾げる琴美ちゃんの鈍さは、もう表彰ものだ。
それに対して――。
「お前も、大変だな……」
どうやらわざと作っていたらしい厳しい顔を崩して、少し笑いながら私の肩を叩いた剛毅は、さすがあの美千瑠ちゃんのボディガード。
きっとこんなことにも馴れているんだと感心した。
「可愛いね」と言われるのは嫌いじゃない。
横を通り過ぎた人がわざわざ私をふり返って、もう一度見返していくのも。
男の子たちが意味深な視線を投げかけてくるのも。
自分に魅力があるんだと思えば、嬉しくさえある。
ただ私の場合は、こんなふうに声をかけてくる男の子が、あまり褒められた雰囲気の人じゃないことが多くて――煩わしいだけだから、一人ではあまり外出しない。
そのへん、美千瑠ちゃんはどうなんだろう。
「美千瑠か? まあ……一人でフラフラしてたら同じように苦労してるかもしれないけど、俺が傍にいないってことは有り得ないからな」
「……有り得ないんだ?」
「ああ」
剛毅に尋ねてみたところ、さも当たり前のように説明されて閉口する。
私から見たら、剛毅のほうはどう見たって美千瑠ちゃんに好意を抱いているに違いないんだけど、そのへんのところはどうなってるんだろ。
あくまでも仕事の範疇なのか。
それとも他の男を近づけたくないっていう私情が少しは挟まれているのか――。
(まあいいっか……)
聞いてみたところで、明確な答えが返ってくるとは思えない。
琴美ちゃん同様、剛毅もそれ系の話に関してはかなり鈍い気がする。
(琴美ちゃんもねえ……)
私の隣を歩く、ちょっと小柄な彼女の頭を見下ろしてみた。
学年トップスリーに入る頭の良さにしては、あまりにも色恋沙汰に関してだけ鈍すぎる。
貴人にしたって諒ちゃんにしたって、見ているこちらのほうが可哀相になってくる。
(結局、どうするんだろう?)
誰が見ても明確な三角関係は、本人以外には丸わかりの琴美ちゃんの本心を考えれば、貴人に勝算はまったくないんだろうけど、私は正直どうなるかわからないと思っている。
だって、琴美ちゃんに好意を寄せられてる諒ちゃん自身が、彼女と負けず劣らずの鈍感なのだから。
(両思いだって、本人たち以外はみんな知ってたんだけど、見ててあまりにも面白くって、ちょっと長く放置しすぎちゃった……ごめんね……)
本来ならとっくに落ち着いていたところを、そうなってなかったもんだから、貴人が入りこむ余地があったというわけ。
なんでもできる学園の王子様――貴人が本気で琴美に迫るなんて、私は絶対ないと思ってたから、諒ちゃんには悪いけど面白い。
(ごめんね……ほんとは諒ちゃんを応援してあげたいんだけど……貴人の本気も叶えてあげたいから、私はどっちにもつかないわ……)
私と身長はそれほど変わらないけど、とりあえず護衛係として毎日一緒に帰ってくれている諒ちゃんには、心の中だけで手をあわせた。
「で? 何を作るんだ?」
小さな体なのに誰よりも大きな態度で、腕組みをしてふんぞり返る繭香に、夏姫ちゃんがパラパラとレシピ本をめくりながら返事する。
「えっと……生チョコ? ……このチョコブラウニーってやつでもいいな……あ、やっぱ、トリュフ!」
「自分の好きな物を、片っ端からあげてるんじゃないだろうな……? 玲二は何が好きなんだ?」
「え? ……そんなの知らないよ」
「は?」
一瞬、呆気に取られた表情になったあと、何かを叫ぼうと大きく口を開ける繭香の行動を予測して、私は素早く二人の間に割って入った。
「大丈夫、大丈夫! 玲二君だったら……意外と甘い物全般大好きだから、何を作ったって大喜びまちがいなし! ね? 美千瑠ちゃん?」
ただでさえ予定時間を大幅に過ぎて始まったこの『バレンタインのお菓子作り講座』が、繭香の怒りが爆発することでこれ以上遅くなってはたまらない。
でも間に入ったはいいものの、さすがに一人では手に余って、急いで今日の講師に助けの手を求めた。
「ええ、そうね。いつも何を作っても美味しいって食べてくれるわ。夏姫ちゃんが作るんなら、それだけで何でも大丈夫よ……」
ニッコリと笑って、私が望んだとおりのセリフを言ってくれた美千瑠ちゃんのおかげで助かった。
「そっかな……」
真っ赤になって再びレシピ本をめくり始めた夏姫ちゃんを見ながら、繭香も諦めたかのようにため息をつく。
「なんでもいいから早くしてくれ……」
可愛らしいエプロンにお揃いの三角巾まで身につけた姿は、いつもの迫力満点の目力さえも少しは和らげてくれているのに、今日の繭香は不機嫌極まりない。
「だいたいなんで私までつきあわされなきゃならないんだ……」
ブツブツと文句を言っているわりには、美千瑠ちゃんの指示に従って素直にバターを練り始めた繭香の怒りは、もっともだと思う。
繭香が年末に貴人に告白して、キッパリとふられたということを、私たちは他ならぬ本人の口から聞いた。
その繭香に向かって、「バレンタインのチョコを一緒に作ろう!」と誘える夏姫ちゃんは、さすがに神経が太いというか、怖いもの知らずというか。
「できた……美千瑠。これでいい?」
六人で好きなように動き回っても、全然余裕たっぷりの杉原家のキッチン。
着いてすぐから黙々と作業に集中していたうららは、どうやらもう何かが出来あがったらしい。
それにひきかえ――。
「どうしよっかな? ねえ……やっぱチョコケーキが美味しそうじゃない?」
玲二君のためと言うより、自分が食べたい物から頭が離れない夏姫ちゃんと、
「うん、そうだよね……うん」
絶対、その夏姫ちゃんの言葉なんて聞いてはいなくて、あきらかに、何を作るかより誰にあげるかで悩んでるふうの琴美ちゃんは、まだ作業に入ってさえいない。
(ほんっとに個性バラバラ……面白い……)
みんなからは少し離れた壁際の椅子に腰掛けてクスクス笑っていたら、美千瑠ちゃんが長い髪を揺らして、思いがけず私をふり返った。
「可憐さんは? 何を作る?」
「えっ? 私?」
ビックリして、思わずいつもより多めに瞬きしてしまった。
「玲二にあげるバレンタインのチョコを作るからみんなつきあって!」という夏姫ちゃんからの電話に、これは面白いことになりそうだと思って出かけては来たけれど、私自身も作るんだって発想はまったくなかった。
だってバレンタインといえば、いつも彰人さんが私にプレゼントをくれて、美味しい食事に連れて行ってくれて、夜景の綺麗な場所までドライブしてという、定番中の定番のデートの日だ。
女の子が男の子にチョコレートをあげるなんて風習は、日本だけ、それもごく近年の習慣でしかないんだから――なんて笑いながら話していたら、だんだん痛いぐらいの視線が私に集まってきた。
「まさに余裕の発言だな……」
「いいな、可憐は……」
「はあっ……ほんとにうらやましい!」
繭香や夏姫ちゃんや琴美ちゃんはともかく、どうして美千瑠ちゃんやうららまで、そんな責めるような目を私に向けて来るんだろう。
「可憐さん……あのね、時々はね……」
小首を傾げながら何かを言いかけた美千瑠ちゃんを片手で制して、うららが私の前までやって来た。
いつもほとんど口を開かない、何にも関心を示さないうららの突然の行動に、みんなが一斉に注目した。
「可憐」
何を映しているのかよくわからない、色素の薄い瞳に真っ直ぐに見つめられて、思わず背筋がピンと伸びる。
「な、何?」
らしくもなくドキドキしながら答える私に、うららは次の瞬間、予想もしていなかった表情を見せた。
つまり――ニコリと小さく笑った。
「大好きな人の喜ぶ顔……見たくない?」
無表情に覆われていることの多いうららの思いがけない笑顔に、なぜだかときめいてしまいながら、つられるように私は答えてしまった。
「……見たい」
頷いたうららは、もういつもの表情に戻っていて、一瞬さっきのは錯覚だったんじゃないかとさえ思ったんだけど、作業台へと私の手を引いて行く細い腕を、振り払う気はなんだか起きなかった。
うららに問いかけられた瞬間、頭に浮かんだ彰人さんの笑顔を、本気で見たいと自分でも思ってしまった。
「じゃあ、うららちゃんと同じでいいかな? まずね……」
美千瑠ちゃんにさし出されたエプロンを素直につけて、セットするのに二十分もかかった自慢の巻き髪を、無造作にうしろで束ねる。
誰かのために腕まくりをする自分なんて想像もつかなかったんだけど。
本当に今日は、見ているだけのつもりだったんだけど。
(まあ、いいか……)
きっとこれからも毎年毎年やってくる彰人さんとのバレンタイン。
時には私のほうから彼にチョコレートをプレゼントする――そんな年があってもいい。
私に対する好意を示すことに照れのない彼は、きっと貴人にだって負けないくらいの笑顔で喜んでくれるに違いないのだから。
(うん。喜ぶ顔……見たいかも!)
作り終わったチョコレートをさっさと器用にラッピングして、私が今まで座っていた椅子に入れ替わりで腰を下ろした途端、もう静かに目を閉じたうららを、私は感謝の気持ちでふり返った。
(まあ、毎年期待されても困るんだけど……とりあえず今年は、私の気まぐれってことで……)
ほんとに気まぐれな私に誰よりも慣れている彰人さんだったら、そんなふうに注釈つけて渡したチョコだって、きっと喜んでくれるはず。
とびきりの笑顔で。
(よし……じゃ、がんばっちゃおうっかな!)
今日は見学だけのつもりだった私も、結局『HEAVEN』の女子による『バレンタインのお菓子作り講座』に、上機嫌で参加することになった。
まあもちろん、今年だけの気まぐれのつもりだけど……
あと少しでメッセージを打ち終わる時に声をかけられたから、顔を上げるのも返事をするのも一瞬遅れた。
それをどんなふうに解釈したのか。
声の主はスマホを見つめたたままの私に、どんどん話しかけてくる。
「いい店知ってんだよー。すぐ近くなんだ。もちろんおごるから……ね?」
(三十点……)
声と話し方とその内容から、とりあえず予想点を点けてみた。
私の予想はあまり大きくはずれたことはない。
打ち終わったメッセージを送信して、スマホをバッグにしまって、顔を上げてみたら、ニヤケた顔の男が目の前に立っていた。
根元が黒くなってきている長めの金髪に、耳たぶにズラッと並んだリングのピアス。
鼻にも鼻ピ。
(うっ……二十点だったかも……!)
心の中で眉間に寄せた皺は、実際に顔には浮かべず、社交辞令として頭を軽く下げた。
「ごめんなさい。友だちを待ってるから……」
もちろんここで微笑なんて浮かべちゃいけない。
押せばどうにかなるんじゃないかなんて、相手を調子づかせてしまう。
だからセリフのわりにはかなり冷たい顔で、キッパリと断わったつもりだったのに、相手はそんなことに気がつかないタイプだったみたいで、私に向かって一歩踏みこんだ。
「友だちって男? それとも女? 女の子だったら、その子も一緒でもいいよ?」
(…………!)
最悪。
この手の相手は、こちらが何を言っても聞きはしない。
とにかく「うん」と答えるまで、しつこく誘ってくる。
心の中で小さくため息をついた。
こんなふうに声をかけられることが多いから、外での待ち合わせなんていつもだったら絶対しない。
デートの時は彰人さんが家まで迎えに来るし、学校の帰り道は、家の近くまで諒ちゃんが送ってくれる。
『だって……絶対にヘンな奴らを近づけるんじゃないぞって、俺、脅されてんだよ!』
幼馴染の権限を奮って、いったいどんなふうに彰人さんは諒ちゃんに頼んだんだろう。
考えてみれば面白い。
――そして嬉しい。
五つ年上の私の大好きな彼は、いつも私を好きだという気持ちを照れもせず前面に出してくれる。
今みたいな場面だって、遠くからでも見つけたならきっと飛んできてくれるはずだけど、残念ながら今日の待ち会わせの相手は彼じゃない。
(相手が女の子だってバレたら……またちょっとめんどくさいことになりそうだな……)
そう思った矢先、道路の向こうから元気な声が聞こえた。
「可憐さーん! ごめーん! 待ったー?」
大きく手を振りながらこっちに走ってくる琴美ちゃんが、私の名前を呼んでしまったからガックリした。
(ああ……名前までバレちゃった……)
予想どおり。
声につられて琴美ちゃんをふり返ってから、もう一度私に視線を戻した目の前の男は、ニヤニヤと笑ってる。
「へえー……キミ、可憐って言うんだ……ピッタリだね。友だちも一緒でいいよ。行こ?ね?」
腕を捕まれてゾッとする。
「行きません。用事があるから!」
キッパリと断わっても、思ったとおり、男は腕を放してくれない。
「いいじゃん。ちょこっとだけだから!ね?」
駄目だ。
やっぱりしつこいタイプ。
「……どうしたの? 可憐さん」
様子がおかしいことに気づいてくれた琴美ちゃんに、私は助けを求める視線を向けた。
(助けて!)
なのに、学年トップクラスの成績のわりにはどこか天然の琴美ちゃんは、そんな私を見ながら呑気に首を傾げる。
「……お友だち?」
『そんなわけないでしょう!』という叫びを呑み込んで、私は必死に首を横に振った。
「え? ……じゃ……誰?」
琴美ちゃんの視線が、私の腕をがっちりつかんだ男の手に注がれる。
(ナンパよ! ナンパ! それもかなり強引に、しつこく絡まれてるの!)
なりふり構わずにそう叫んでしまおうかと思った声を、私は再び呑みこんだ。
頭上から、この場面ではおそらく一番頼りになるだろう人物の声が聞こえてきたからだった。
「可憐……何やってんだ? 琴美も……あんまり遅いから美千瑠が心配してるぞ?」
目の前のナンパ男のせいで、まだ琴美ちゃんが来るのを待ってるというメッセージを送るのが遅くなって良かったと心から思った。
きっと美千瑠ちゃんが迎えによこしてくれたんだろう。
彼女のボディガードを、私は天の助けとばかりにふり返った。
「剛毅!」
そこには我が『HEAVEN』一の巨体。
ラグビー部所属で、黙って睨めばちょっとガラの悪い人たちだって目を逸らしてしまうほど強面の剛毅が、腕組みして仁王立ちで立っていた。
驚いたように、私の腕をつかんでいた男の手から力が抜ける。
そのチャンスを逃がさず、私が剛毅に駆け寄って背中に隠れると、男は二、三歩じりじりと後退った。
「な、なんだ……やっぱり男待ちか。そりゃそうだよな。ハハ」
乾いた笑いを浮かべながら一人で納得すると、脱兎のごとくこの場から逃げだしていく。
「じゃ!」
転がるように自分の横を走り抜けて行った男を見て、「なんなの?」と首を傾げる琴美ちゃんの鈍さは、もう表彰ものだ。
それに対して――。
「お前も、大変だな……」
どうやらわざと作っていたらしい厳しい顔を崩して、少し笑いながら私の肩を叩いた剛毅は、さすがあの美千瑠ちゃんのボディガード。
きっとこんなことにも馴れているんだと感心した。
「可愛いね」と言われるのは嫌いじゃない。
横を通り過ぎた人がわざわざ私をふり返って、もう一度見返していくのも。
男の子たちが意味深な視線を投げかけてくるのも。
自分に魅力があるんだと思えば、嬉しくさえある。
ただ私の場合は、こんなふうに声をかけてくる男の子が、あまり褒められた雰囲気の人じゃないことが多くて――煩わしいだけだから、一人ではあまり外出しない。
そのへん、美千瑠ちゃんはどうなんだろう。
「美千瑠か? まあ……一人でフラフラしてたら同じように苦労してるかもしれないけど、俺が傍にいないってことは有り得ないからな」
「……有り得ないんだ?」
「ああ」
剛毅に尋ねてみたところ、さも当たり前のように説明されて閉口する。
私から見たら、剛毅のほうはどう見たって美千瑠ちゃんに好意を抱いているに違いないんだけど、そのへんのところはどうなってるんだろ。
あくまでも仕事の範疇なのか。
それとも他の男を近づけたくないっていう私情が少しは挟まれているのか――。
(まあいいっか……)
聞いてみたところで、明確な答えが返ってくるとは思えない。
琴美ちゃん同様、剛毅もそれ系の話に関してはかなり鈍い気がする。
(琴美ちゃんもねえ……)
私の隣を歩く、ちょっと小柄な彼女の頭を見下ろしてみた。
学年トップスリーに入る頭の良さにしては、あまりにも色恋沙汰に関してだけ鈍すぎる。
貴人にしたって諒ちゃんにしたって、見ているこちらのほうが可哀相になってくる。
(結局、どうするんだろう?)
誰が見ても明確な三角関係は、本人以外には丸わかりの琴美ちゃんの本心を考えれば、貴人に勝算はまったくないんだろうけど、私は正直どうなるかわからないと思っている。
だって、琴美ちゃんに好意を寄せられてる諒ちゃん自身が、彼女と負けず劣らずの鈍感なのだから。
(両思いだって、本人たち以外はみんな知ってたんだけど、見ててあまりにも面白くって、ちょっと長く放置しすぎちゃった……ごめんね……)
本来ならとっくに落ち着いていたところを、そうなってなかったもんだから、貴人が入りこむ余地があったというわけ。
なんでもできる学園の王子様――貴人が本気で琴美に迫るなんて、私は絶対ないと思ってたから、諒ちゃんには悪いけど面白い。
(ごめんね……ほんとは諒ちゃんを応援してあげたいんだけど……貴人の本気も叶えてあげたいから、私はどっちにもつかないわ……)
私と身長はそれほど変わらないけど、とりあえず護衛係として毎日一緒に帰ってくれている諒ちゃんには、心の中だけで手をあわせた。
「で? 何を作るんだ?」
小さな体なのに誰よりも大きな態度で、腕組みをしてふんぞり返る繭香に、夏姫ちゃんがパラパラとレシピ本をめくりながら返事する。
「えっと……生チョコ? ……このチョコブラウニーってやつでもいいな……あ、やっぱ、トリュフ!」
「自分の好きな物を、片っ端からあげてるんじゃないだろうな……? 玲二は何が好きなんだ?」
「え? ……そんなの知らないよ」
「は?」
一瞬、呆気に取られた表情になったあと、何かを叫ぼうと大きく口を開ける繭香の行動を予測して、私は素早く二人の間に割って入った。
「大丈夫、大丈夫! 玲二君だったら……意外と甘い物全般大好きだから、何を作ったって大喜びまちがいなし! ね? 美千瑠ちゃん?」
ただでさえ予定時間を大幅に過ぎて始まったこの『バレンタインのお菓子作り講座』が、繭香の怒りが爆発することでこれ以上遅くなってはたまらない。
でも間に入ったはいいものの、さすがに一人では手に余って、急いで今日の講師に助けの手を求めた。
「ええ、そうね。いつも何を作っても美味しいって食べてくれるわ。夏姫ちゃんが作るんなら、それだけで何でも大丈夫よ……」
ニッコリと笑って、私が望んだとおりのセリフを言ってくれた美千瑠ちゃんのおかげで助かった。
「そっかな……」
真っ赤になって再びレシピ本をめくり始めた夏姫ちゃんを見ながら、繭香も諦めたかのようにため息をつく。
「なんでもいいから早くしてくれ……」
可愛らしいエプロンにお揃いの三角巾まで身につけた姿は、いつもの迫力満点の目力さえも少しは和らげてくれているのに、今日の繭香は不機嫌極まりない。
「だいたいなんで私までつきあわされなきゃならないんだ……」
ブツブツと文句を言っているわりには、美千瑠ちゃんの指示に従って素直にバターを練り始めた繭香の怒りは、もっともだと思う。
繭香が年末に貴人に告白して、キッパリとふられたということを、私たちは他ならぬ本人の口から聞いた。
その繭香に向かって、「バレンタインのチョコを一緒に作ろう!」と誘える夏姫ちゃんは、さすがに神経が太いというか、怖いもの知らずというか。
「できた……美千瑠。これでいい?」
六人で好きなように動き回っても、全然余裕たっぷりの杉原家のキッチン。
着いてすぐから黙々と作業に集中していたうららは、どうやらもう何かが出来あがったらしい。
それにひきかえ――。
「どうしよっかな? ねえ……やっぱチョコケーキが美味しそうじゃない?」
玲二君のためと言うより、自分が食べたい物から頭が離れない夏姫ちゃんと、
「うん、そうだよね……うん」
絶対、その夏姫ちゃんの言葉なんて聞いてはいなくて、あきらかに、何を作るかより誰にあげるかで悩んでるふうの琴美ちゃんは、まだ作業に入ってさえいない。
(ほんっとに個性バラバラ……面白い……)
みんなからは少し離れた壁際の椅子に腰掛けてクスクス笑っていたら、美千瑠ちゃんが長い髪を揺らして、思いがけず私をふり返った。
「可憐さんは? 何を作る?」
「えっ? 私?」
ビックリして、思わずいつもより多めに瞬きしてしまった。
「玲二にあげるバレンタインのチョコを作るからみんなつきあって!」という夏姫ちゃんからの電話に、これは面白いことになりそうだと思って出かけては来たけれど、私自身も作るんだって発想はまったくなかった。
だってバレンタインといえば、いつも彰人さんが私にプレゼントをくれて、美味しい食事に連れて行ってくれて、夜景の綺麗な場所までドライブしてという、定番中の定番のデートの日だ。
女の子が男の子にチョコレートをあげるなんて風習は、日本だけ、それもごく近年の習慣でしかないんだから――なんて笑いながら話していたら、だんだん痛いぐらいの視線が私に集まってきた。
「まさに余裕の発言だな……」
「いいな、可憐は……」
「はあっ……ほんとにうらやましい!」
繭香や夏姫ちゃんや琴美ちゃんはともかく、どうして美千瑠ちゃんやうららまで、そんな責めるような目を私に向けて来るんだろう。
「可憐さん……あのね、時々はね……」
小首を傾げながら何かを言いかけた美千瑠ちゃんを片手で制して、うららが私の前までやって来た。
いつもほとんど口を開かない、何にも関心を示さないうららの突然の行動に、みんなが一斉に注目した。
「可憐」
何を映しているのかよくわからない、色素の薄い瞳に真っ直ぐに見つめられて、思わず背筋がピンと伸びる。
「な、何?」
らしくもなくドキドキしながら答える私に、うららは次の瞬間、予想もしていなかった表情を見せた。
つまり――ニコリと小さく笑った。
「大好きな人の喜ぶ顔……見たくない?」
無表情に覆われていることの多いうららの思いがけない笑顔に、なぜだかときめいてしまいながら、つられるように私は答えてしまった。
「……見たい」
頷いたうららは、もういつもの表情に戻っていて、一瞬さっきのは錯覚だったんじゃないかとさえ思ったんだけど、作業台へと私の手を引いて行く細い腕を、振り払う気はなんだか起きなかった。
うららに問いかけられた瞬間、頭に浮かんだ彰人さんの笑顔を、本気で見たいと自分でも思ってしまった。
「じゃあ、うららちゃんと同じでいいかな? まずね……」
美千瑠ちゃんにさし出されたエプロンを素直につけて、セットするのに二十分もかかった自慢の巻き髪を、無造作にうしろで束ねる。
誰かのために腕まくりをする自分なんて想像もつかなかったんだけど。
本当に今日は、見ているだけのつもりだったんだけど。
(まあ、いいか……)
きっとこれからも毎年毎年やってくる彰人さんとのバレンタイン。
時には私のほうから彼にチョコレートをプレゼントする――そんな年があってもいい。
私に対する好意を示すことに照れのない彼は、きっと貴人にだって負けないくらいの笑顔で喜んでくれるに違いないのだから。
(うん。喜ぶ顔……見たいかも!)
作り終わったチョコレートをさっさと器用にラッピングして、私が今まで座っていた椅子に入れ替わりで腰を下ろした途端、もう静かに目を閉じたうららを、私は感謝の気持ちでふり返った。
(まあ、毎年期待されても困るんだけど……とりあえず今年は、私の気まぐれってことで……)
ほんとに気まぐれな私に誰よりも慣れている彰人さんだったら、そんなふうに注釈つけて渡したチョコだって、きっと喜んでくれるはず。
とびきりの笑顔で。
(よし……じゃ、がんばっちゃおうっかな!)
今日は見学だけのつもりだった私も、結局『HEAVEN』の女子による『バレンタインのお菓子作り講座』に、上機嫌で参加することになった。
まあもちろん、今年だけの気まぐれのつもりだけど……