「ねえ……まだかな?」
「うん。もう少しだと思うよ」
「佳世ちゃん、さっきもそう言った……」
「ははっ、ゴメンね……」
 
 ダメだ。
 いくら体がきついからって、佳世ちゃんに当たるなんてよくない。
 よくないってわかっているのに、彼女以外には私のグループには、まともな会話が成立するメンバーがいないもんだから、ついつい佳世ちゃんにばかり話しかけてしまう。

「私こそゴメン……」
 後悔しながら呟いたら、佳世ちゃんが私と繋いだ手にぎゅっと力をこめた。
「ううん。あ……ほら、琴美ちゃん! 見えてきたんじゃない?」
 佳世ちゃんの嬉しそうな声につられて、ずっと自分のスニーカーの先ばかり見ながら歩き続けていた視線を上げてみたら、本当に遥か先にそれらしきものが見えてきた。

「ほんとだ!」
 俄然元気になって、それまでどちらかといったら私の手をひっぱってくれていた佳世ちゃんを、逆にひっぱるように歩き始める自分は、自分でも本当にげんきんだと思う。

「よし! あともう少し!」
 それまで死んだように無言で歩き続けていたくせに、目的の場所が見えた途端、揚々と叫んだ諒と、こんなところまで似てなくてもいいのにと、ため息をつく。

「なんだよ?」
 私の反応を目ざとく察知して、諒が喧嘩を売ってきた。
「なんでもないわよ」
 ここで挑発に乗ったら、無駄に体力を消耗するだけだと自分に言い聞かせ、私は冷静に諒から目を逸らした。

 でも次のチェックポイントに着く順番を負けたくないだなんて、無駄な闘争心には火が点いた。
「佳世ちゃん、ちょっと先に行くね」
 佳世ちゃんの手を離して、歩く速度を上げた私に、なぜだか諒もピッタリとついてくる。

「なんなのよ?」
「お前こそなんだよ?」
 お互いに息を弾ませながら、これ以上ないほどの速さで早歩きを続ける私たちに、他のメンバーは誰もついてこない。

「俺たちおんなじグループなんだから、無駄なことすんなよ!」
「あんたこそ! ついてこなけりゃいいでしょ!」
「……………!」
 大きな瞳をカッと怒りに見開いて、なおさらスピードを上げた諒に、遅れをとるまいと私は必死にがんばった。

「ちょっと待ちなさいよ! 待てっ! ……諒!」
「バーカ。誰が待つか」
「なんですって!」
 ハアハアと息を切らしながらも、罵りあう会話はやめず、私と諒は周りの誰もが目を見張るスピードで、次のチェックポイントに駆けこんだ。
 
 

「やった! 勝ったっ!」
 巨大な公園の駐車場だというその場所に着いた途端、地面に座りこんで息も絶え絶えに呼吸しながら、私は歓喜の思いに酔いしれた。

「くそっ!」
 一回目のチェックポイント同様、汚れるのも構わず地面に大の字になった諒は、悔し紛れに地面を叩いている。

 駐車場に入ろうかという寸前で、ついに歩くことをやめ走り始めた私は、タッチの差で諒に勝利したのだった。

「走るのは反則だろ……それじゃ夜間『遠行』じゃないじゃないかよ……!」
 そう。
 この遠行では長時間歩かなければならないのだから、誰も途中で走ろうだなんてことは思わない。
 そんなことをすれば、後半に疲れることはわかっているのだから、暗黙の了解どころではない、常識中の常識ルール。
 でも別に、走ることを禁止されているわけではなかったと思う。
 たぶん。きっと――。

「うるさい! 注意書きに明記されてるわけじゃないんだから……やった者勝ちよ!」
「ひでえ女……」
 生意気な口をひっぱってやろうかと諒の上に体を乗り出して、私はハタと固まった。
 一つ目のチェックポイントと同じ体勢。
 私を見上げる諒と、またもや真正面からしっかりと見つめあってしまって焦る。

(……………!)
 全身に火が点いたかのように顔が熱くなって、私は慌てて諒の上からどいた。
 その途端、後ろから冷ややかな声がかかった。

「琴美……チェックポイントのたびに、暗闇に乗じて諒を押し倒すのは、いい加減やめろ」
 怒るでもからかうでもなく、心底呆れているかのように繭香の声に、私は夢中でふり返った。

「「そんなんじゃない!!」」
 自分でも懸命に否定しているのに、諒の嫌そうな声はなんだか少し悲しかった。
 

 
 そのチェックポイントで待っていた地理の沢上先生が、私たちに渡してくれたのは、地図と思われる絵と一枚の暗号文だった。
「なにこれ?」
 あまり美術の成績が良さそうには思えない人が描いたふうの風景画と、奇怪な文章。
 
 
      『きみがけがをするくらいならぼくがとびおりる。
     なぜかっていまさらきくの? そんなことわかってるだろ?』
 
 
 横から覗いて読んだだけで、私は思わず照れてしまったくらいだったが、問題文を持つ繭香の手はブルブルと震えていた。
「なんだ……これは……!」

 心底怒ったような声に、このまま握り潰されてはたまらないと私が慌ててその用紙を取り上げた途端、繭香はキッと貴人を睨み上げた。
「本当に今回はアイデアを出しただけで、お前は問題制作には関わってないんだろうな?」

「もちろんだよ」
 貴人はニッコリ笑って頷いた。

「だとしたら、お前並みに頭が沸いている教師が、残念ながらうちの学校にはいるということだな!」
「ハハハッ……なかなかひどいな、それ……!」
 繭香にどんな暴言を吐かれても、どうして貴人はいつも笑っていられるんだろう。
 それが凄いとつくづく思う。

「芳村君じゃないよ……」
 私の手から問題文を取り上げながら、渉が呟いた。
「芳村君は自分のこと『俺』って言うだろ? ほら……これは『僕』だ……」

 そういえばそうだなんて思いながら、私ももう一度渉の手に握られた問題文を覗きこんだ。
「自分のことを『僕』って呼ぶ上に、そんな臭いセリフを真顔で吐ける人間を、俺、一人だけ知ってるけど……絶対言いたくない……!」
 キュッと唇を噛み締めた諒の顔を見て、私もドキリとした。

 笑った顔は天使のように清らかなのに、縁なしの眼鏡をかけた途端、ビー玉みたいな薄い色の瞳が冷淡に輝き始める『白姫』のことを、ハッと思い出した。

(そういえば……この夜間遠行には智史君は参加してないのよね……?)
 だからといって、彼が一枚かんでいるとは、実を言えばあまり考えたくない。
 一筋縄でいかない智史君が考えた問題なんて、簡単に解けるような気がまったくしない。

「き、気のせいよ……偶然の一致よ、きっと……!」
 自分に言い聞かせるかのように呟く私を見て、諒はハアッと大きなため息をついた。

「できればそう願いたいもんだ……」
「とりあえず、この絵の場所を捜してみたらどうかしら? この公園の中なんじゃないかな? ほら……」
 佳世ちゃんが指差したのは、地図に描かれた何本もの道の分岐点に、その都度置かれている河童の像らしき物だった。

 私たちが今いるこの広大な公園は、その名も『河童王国』。
 入り口から入ったばかりのこの駐車場にだって、何体もの河童の像が建っている。

「確かに……」
 私たちは顔を見あわせて頷いた。
「じゃあ……この地図に一致しそうな場所がないか捜そう」
「わかった」
「OK」
 渉の手に地図を残し、他のメンバーは頭の中にその図を写し取って、私たちは駐車場をあとにした。
 

 
 しかし――。
「河童の像、多すぎだろ、ここ!」
「しかもわかれ道も多すぎ!」
 十五分も歩かないうちに、投げだしてしまいそうになった。

「あのさ、みんなで一緒にいてもあまり意味がなくない? ここは三組にわかれて、別々の道を行ったほうが効率的だと思うよ」
 渉の提案に、私たちは全員頷いた。

「そうだな」
「うん。そうしよう」
 ところが、誰と誰が組むんだろうなんて、心臓に悪いことを私が考え始めた時には、繭香はもう諒をひきずるようにして歩き出していた。
「行くぞ。さっさとしろ」

「え? お……俺!?」
 諒はまさか繭香が自分を選ぶとは思っていなかったらしく、ひどく面食らいながらも彼女のあとについて行く。

「じゃあ、またあとでね。三十分後にさっきの駐車場に集合でいいかな?」
 渉と佳世ちゃんが手を繋いで行ってしまった以上、私と一緒に行ってくれるのは貴人しかいない。

「俺たちも行こうか、琴美」
 軽やかな声にふり返って、いつもの極上の笑顔を目にした途端、どうしようもなく心臓がドキドキし始めた。

「う、うん」
 貴人のあとをついて歩きだしながら、まるで雲の上でも歩いているような、実に足元がおぼつかない気分だった。
 
 

 貴人は、うしろからついてくる私が急いだりしないでいいくらいの速さで、ゆっくりゆっくりと歩きながら、ずっと歌うように何かを話している。
「琴美……河童の好物って知ってる?」
「……きゅうりでしょ?」
「うん。でも魚や他の野菜でもいいらしいよ……」
「ふーん」
「じゃあ、河童の指って何本だと思う?」
「えっ? 五本じゃないの?」
「うん。四本なんだってさ。指と指の間には水かきもあるし、人間っていうより、蛙の手を思い出すよね」

 際限なく続く貴人の河童話に、私は思わず足を止めた。
 貴人はふり返ったわけでもないのに、その気配を背中で察知したらしく、自分も歩くのをやめ、私をふり返った。
「どうしたの?」
「ううん。貴人、河童に詳しすぎ……」
「ハハッ、違うよ。ほら。河童の像に色々と書いてあるだろ? 俺はそれをそのまま読み上げてるだけ……」
「なんだ……」
 そこで貴人が、初めて私に目を向けた。

 これまでは背中を見ているだけだったから、なんとか落ち着きを取り戻しつつあった私の心臓が、貴人の綺麗すぎる顔を真正面から見てしまって、どうしようもなく暴れる。
「そうでもしてないとなんか落ち着かなくって……ゴメン」
「ううん……! 私こそ、ごめん……!」
 全然そうは見えないけれど、貴人だって私と同じくらいにドキドキしているのかなんて思ったら、ますます胸の鼓動が速くなった。

「ちょ、ちょっと急ごうか? みんなとの待ちあわせに間にあわなくなったらいけないから……」
「ああ」
 焦って歩きだそうとした途端、木の根に躓いて転びそうになった。

 私の体を支えてくれた貴人が、クスッと笑って私に向かって右手をさし出す。
「はい。お手をどうぞ……けっこう暗いから、一人で行っちゃうと危ないよ」
「う、うん……」
 素直に貴人の手を取る自分がなんとも不思議だった。

 たとえばこれがもし諒だったら――。
(もちろん諒は貴人みたいに優しい言い方はしないし、そんなことされても気味が悪いんだけど!)
 私はきっと意地を張って、諒の申し出を断わり、一人でさっさと歩きだすんだろう。

 そう考えながら、貴人に初めて声をかけられて、座りこんでいた場所から立ち上がった時のことを思いだした。
(そうだ……あの時だって、そのあとだって……私はいつも貴人の手を取ることには迷いがなかった……)
 自分の手を引いて、歩き始めた貴人の大きな手を見つめる。

(なんで……? なんでだろう……?)
 それはとても重要なことのような気がするのに、ずっと考えるのを拒否していた時間があまりにも長すぎて、全然、思い当る答えが浮かんでこない。

「琴美、ほら。星が綺麗」
 あいかわらず笑い混じりな声に促されて、見上げた夜空には本当に満天の星が輝いていた。

「綺麗……」
 思わず呟いた私を、ひどく嬉しそうに見下ろす貴人の瞳も、星にも負けないほどにキラキラしている。
 
 ――その輝きにいつになくドキドキした。なんだかとてもドキドキした。