ピンポーン
夕食の後片づけの最中、突然鳴った玄関のチャイムに私と母は顔を見あわせた。
「誰?」
恐る恐る確認しあわずにはいられない。
時刻は夜の八時。
誰かが家を訪ねて来るには、すでにちょっと遅い時間だ。
父はまだ会社から帰ってきていない。
そろそろ夜間遠行に出発するため、学校へと向かう準備をしなければならない私に頷き、母がインターホンの応対に出る。
「はい?」
訝しげな母の声に続いて、疑わしい気分なんて全部一掃してしまうような、晴れやかでキリリとした声が、インターフォン越し、私にも聞こえてきた。
「夜分遅くに申し訳ありません。琴美さんと同じ星颯学園に通っています、芳村と言います。琴美さんを迎えに来ました」
(えっ! 貴人!? )
聞きまちがいようのない貴人の声に、持っていたお皿を落としてしまいそうなくらい私は慌てた。
インターホンのモニター越しに、どうやら貴人に笑いかけられたらしい母は、大好きな韓流ドラマを見ている時のようなとろける笑顔で、大興奮してこちらをふり返る。
「ちょっと琴美! もの凄くかっこいい子が迎えに来たわよ! 王子!! まるで王子様!」
(はいはい……確かに貴人は『王子』と呼ばれてるけど……そのインターホン、ちゃんとスイッチは切ったんでしょうね?)
嫌な予感は的中した。
私に負けず劣らずうっかり者の母は、インターホンのスイッチを切らないままに思ったことをそのまま叫んだらしく、指差されるまま覗いて見たモニターの中では、貴人が上半身を折り曲げるようにして、声を殺して大爆笑している。
「お母さん……」
隣に立つ母を軽く睨んで、いかにも苦しそうな貴人に私は声をかけた。
「すぐに準備するから、ちょっと待っててね、貴人」
「OK」
涙を拭きながらなんとか手を上げてみせた貴人に、隣で母がほうっとため息をついた。
「ねえ琴美……急いでお化粧するから、私もついて行っちゃダメ?」
「ダメに決まってるでしょう!」
ええーそんなーと唇を尖らせる母を完全無視して、私はエプロンを外して二階の自分の部屋に駆け上がった。
夜の九時に学校を出発する夜間遠行の、集合時間は八時半。
そろそろ自転車で出発しなくちゃと思っていたところに、貴人が現われたのにはビックリだった。
なぜなら貴人の家は、学校を挟んでほとんど我が家と正反対と言ってもいい方角にあるのだ。
特に約束をしていたわけでもないのに、迎えに来てくれたことにちょっととまどいながら、玄関を出てみたらそこにいたのは貴人だけではなかった。
「繭香!」
学校指定のジャージを着た貴人のうしろから、ニヤリと笑いながら顔を出したのは、同じジャージを着た繭香だった。
「いたんだったら、繭香がチャイム押してくれればよかったのに!」
そしたらあんなに母のテンションが上がることも、明日帰ってから貴人のことを根掘り葉掘りと聞かれるんだろうと憂鬱に思うこともなかった。
「いいじゃないか。琴美にそっくりな母上で、なかなか楽しませてもらった」
人の悪い笑みを浮かべる繭香の横で、貴人が「俺じゃ嫌だったの?」と笑う。
「嫌じゃない! 嫌じゃないわよ!」
慌てて首を振る私を見て、繭香はいよいよニヤリと笑った。
「行くぞ。うちのお抱え運転手が待ってる」
「えっ? 繭香んちにも運転手さんがいるの? 美千瑠ちゃんちみたいに?」
家に行った時には全然そんなふうには見えなかったのに、実は繭香もお嬢様だったのかと思いながら門を出ると、家の前で待っていた普通のワンボックスカーでハンドルを握っていたのは、繭香にそっくりな中年の女性だった。
「繭香……」
肩を震わす私に向かって、繭香があっさりと言ってのける。
「ああ。私の母だ。こっちは琴美。いつも話してるだろ」
「まあ、あの……!」
そう言って、感激したように絶句した繭香のお母さんが、心の中でなんと言葉を続けたのかをぜひ知りたいところだ。
「いつもお世話になってます。この子ったらわがままばっかりでしょう? ごめんなさいね。これからも仲良くしてくださいね」
顔は繭香にそっくりでも、全然違う優しげな微笑みでそんなふうに話しかけられれば、思わず感嘆のため息が出る。
「いえ。こちらこそ、よろしくお願いします」
後部座席に乗りこみながら、私は頭を下げ、繭香には聞こえないように呟いたつもりだった。
「繭香もお母さんぐらい邪気のない笑い方はできないものなのかしら?」
「……うるさい」
聞こえていないと思ったのに、助手席からふり返った繭香に鋭い視線で睨まれて、心臓が止まるかと思った。
「ひええええっ!」
「琴美、あとで覚悟しておけよ」
「そんなぁ……」
私の隣では相変わらず貴人が、声を殺して笑い死にそうになっていた。
「じゃあ出発するわね?」
繭香のお母さんがそう言った瞬間、ふとあることが心にひっかかった。
ちょっと気になって、私は我が家から一番近い電信柱の下を見てみる。
そこに人影が無いことを確認して、ホッとすると同時に小さく落胆した。
(そうだよね。別に約束したわけじゃないもん……いつもいつも私を迎えに来るとは限らないわよね……)
そこでひょっとしたら諒が私を待っていやしないかと思ったのだ。
でも薄暗い外灯の下に諒の姿はなかった。
(まあそうだよね……)
少し寂しく思いながら、私は繭香と貴人と一緒に学校へと向かった。
『HEAVEN』の催しで、夜の学校に行くことも多くはなったが、学校行事となるとやっぱりちょっと違った緊張感がある。
校庭に名簿順に並びながら担任が出席を取っていく中、諒がまだ来ていないことに私はドキリとした。
(まさか……!)
「勝浦ーおーい勝浦はまだかー?」
クラス全員の出席を確認して、担任がそのあとで諒の名前を呼ぶのももう三度目になろうかという時、諒が大晦日の夜を彷彿とさせるもの凄いこぎっぷりで、自転車で校庭に突っこんできた。
「すいません、遅くなりましたっ! ちょっと自転車停めてきます!」
担任に向かって頭を下げるとすぐに、また遠くなって行く背中に私はドキドキしていた。
(まさか……ね……?)
再び校庭に帰ってきた諒は、遠行に出発する前から疲れきった顔で、ゼエゼエと肩で大きく息をくり返している。
「諒……」
近づいてきた私を見て、一瞬目を丸くした諒は、次の瞬間、思いがけずちょっと笑った。
「なんだ。先に来てたのか。ならよかった……」
その可愛い笑顔と、言葉の意味に思わず赤面する。
「ひょっとして、迎えに来てくれた?」
「まあな……通り道だからな。俺が行かなかったばっかりに……ってことになったら目覚めが悪いからな」
大晦日の時と同じ言い訳をくり返しながら、それでもやっぱり思ったとおりに来てくれたんだと思ったら、申し訳なくってたまらなかった。
「ゴメン。繭香のお母さんが車で送ってくれて……」
「そっか。よかったじゃないか」
額の汗を拭きながら、あっさりとそう言いかけて、次の瞬間、諒の動きが止まった。
何かに思い当ったかのように、私に問いかける。
「貴人も一緒だった?」
「う、うん……」
正直にそう返事するのには、かなりの勇気が必要だった。
また諒が私と貴人のことをヘンに誤解して、ふいっとどこかにいなくなってしまったらどうしようなんて、そんなことばかり考えていた。
なのに――。
「じゃあ、帰りは俺が送ってく。いいな?」
怒りも照れもせずにそんなふうに念を押されて、かえってドキリとした。
「え?」
真っ暗な校庭で、体育館の入り口にある照明に背を向けている諒の表情は、はっきりとは見えない。
しかしどう見ても、真剣な顔で私にそう言ったらしいことだけは確かだ。
「いいな?」
もう一回念を押されて、私は慌てて頷いた。
「うん」
心臓が口から飛び出してしまいそうに私がドキドキしていることなんて、諒には伝わりっこない。
それはわかっているのに、火照った頬を自然と隠すように、両手で押さえずにはいられない。
(どういうこと? ええっ? これってどういうことなの?)
いくら考えても自分にとって都合のいい答えしか浮かんで来ず、私はとまどうばかりだった。
「ね……ねえ……どう……解釈したら……いいと思う……?」
息も切れ切れに問いかける私に向かって、同じく佳世ちゃんも途切れ途切れに答えを返してくれる。
「別に……そのままの意味で……いいと思う……よ? ……変に……深読みしなくても……いいんじゃ……ない?」
ダメだ。
傾斜三十度と言われる坂を登りながら会話を続けるなんて、やっぱり無理がありすぎる。
でもこの機会を逃すと、いつ二人きりで話せるかはわからない。
夜間遠行の何が過酷かって、足を止めて休憩する時間が、ほとんどないことだ。
十二時と六時の食事の時以外は、三時に休憩があるだけ。
その他の時間は、ちょっと水分補給する以外は、ほぼ歩きっぱなしなのである。
グループ活動な以上、六人で一緒に歩くのだが、さすがに繭香は全部を歩きとおすのは無理ということで、最初のこの心臓破りの坂は免除されている。
あまりにも体力に差がありすぎて、男の子たちには先に行ってもらったため、佳世ちゃんと二人きりでいられるのは、この坂が終わる所までだけ。
その中で女の子同士の秘密の相談をしようと、私は思っていたのだが、あまりの過酷さにこれ以上は断念した。
「わかった……ちょっと……今はもう、頭もまわんない……あとにする……」
「うん……そうしよ……」
そこからは歯を食いしばって、ひたすら坂を登り続けた。
足には履き慣れた運動靴。
背中にはリュック。
首にはタオルを巻いて、傍目にはまるで登山のような格好だが、「両手は空けておきなさい」と担任に念を押された意味がよくわかる。
(杖! どっかに、杖になりそうないい感じの棒はないの?)
必死に足を動かしながら、私はそんなことばかりを考えていた。
(これが終わったら、私絶対に運動を始める! こんなに運動不足の体に、歩きっぱなしの学校行事なんて辛すぎる!)
去年も思った同じことを心の中で叫びながら、なんとか四十分かけて、私は夜間遠行の最初の難関――心臓破りの坂を登りきった。
坂のてっぺんでは、男の子たちと繭香が、私と佳世ちゃんを待っていた。
「よくがんばった。偉い偉い」
佳世ちゃんの頭を撫でる渉の姿を見ると、ちょっとチクリと胸が痛むのは仕方ない。
だって去年は、あの愛情たっぷりの激励を受けていたのは私なのだから。
「何をぼさっとしてるんだ。今のうちにさっさと汗を拭け。すぐに体が冷えて風邪をひくぞ」
繭香が乱暴に私の顔を自分のほうに向かせてくれてホッとした。
「うん」
言葉は悪いながらも私に気を遣っての発言に感謝しながら、しょっていたリュックからちょっと水筒を出して水分補給しようとして、私は硬直した。
「あ。水筒忘れた……」
「ほんっとバカだな。お前は!」
途方に暮れる私の前に、諒が自分の水筒をさし出してくれ、私がそれをありがたく受け取った瞬間、繭香がボソッと呟いた。
「お前たち、間接キスだな」
「「ぎゃああああ!!」」
ひさしぶりに諒と悲鳴が重なった。
「な、何言ってんのよ!」
「そんなことがあるか!」
でも本当だ。
蓋を開けて直接口をつけて飲むタイプの諒の水筒だと、確かに二人で共有すれば、それは紛れもなく――間接キス。
「べ、べ、別にそんなこと!」
「お、おう! 俺も気にしないぞ!」
ダメだ。
お互いに無理しきっていることが見え見えのようで、貴人がピクピクしながら笑っている。
「なんなら、俺のを貸そうか?」
震えながら貴人がさし出してくれた水筒だって、結局結果は同じだ。
「俺とだったら、今さらそれぐらい……」
と言いかけた渉のことは、精一杯睨んで、それ以上は口を滑らせないように繭香に負けないくらいの眼力で念を押した。
(いきなり何を言い出すのよ! このド天然!)
ただでさえメンバーに難ありのこのグループの中で、佳世ちゃんとまでギクシャクしてしまったら、もうどうしようもない。
「ごめんね。私ははじめから持ってきてないから……」
と謝る佳世ちゃんには笑顔で「気にしないで」と返事し、私は繭香に手を合わせた。
「ごめん、繭香……繭香さま! 水分わけてください!」
瞬間、繭香はニヤッと笑って水筒ばかりかリュックまで私にさし出した。
「いいだろう。その代わり、次の休憩ポイントまで、琴美が荷物を持ってくれるんだよな?」
「はい。そうします……」
しょっぱなから体だけではなく心まで疲れきった私の夜間遠行は、まだまだ続く――。
夕食の後片づけの最中、突然鳴った玄関のチャイムに私と母は顔を見あわせた。
「誰?」
恐る恐る確認しあわずにはいられない。
時刻は夜の八時。
誰かが家を訪ねて来るには、すでにちょっと遅い時間だ。
父はまだ会社から帰ってきていない。
そろそろ夜間遠行に出発するため、学校へと向かう準備をしなければならない私に頷き、母がインターホンの応対に出る。
「はい?」
訝しげな母の声に続いて、疑わしい気分なんて全部一掃してしまうような、晴れやかでキリリとした声が、インターフォン越し、私にも聞こえてきた。
「夜分遅くに申し訳ありません。琴美さんと同じ星颯学園に通っています、芳村と言います。琴美さんを迎えに来ました」
(えっ! 貴人!? )
聞きまちがいようのない貴人の声に、持っていたお皿を落としてしまいそうなくらい私は慌てた。
インターホンのモニター越しに、どうやら貴人に笑いかけられたらしい母は、大好きな韓流ドラマを見ている時のようなとろける笑顔で、大興奮してこちらをふり返る。
「ちょっと琴美! もの凄くかっこいい子が迎えに来たわよ! 王子!! まるで王子様!」
(はいはい……確かに貴人は『王子』と呼ばれてるけど……そのインターホン、ちゃんとスイッチは切ったんでしょうね?)
嫌な予感は的中した。
私に負けず劣らずうっかり者の母は、インターホンのスイッチを切らないままに思ったことをそのまま叫んだらしく、指差されるまま覗いて見たモニターの中では、貴人が上半身を折り曲げるようにして、声を殺して大爆笑している。
「お母さん……」
隣に立つ母を軽く睨んで、いかにも苦しそうな貴人に私は声をかけた。
「すぐに準備するから、ちょっと待っててね、貴人」
「OK」
涙を拭きながらなんとか手を上げてみせた貴人に、隣で母がほうっとため息をついた。
「ねえ琴美……急いでお化粧するから、私もついて行っちゃダメ?」
「ダメに決まってるでしょう!」
ええーそんなーと唇を尖らせる母を完全無視して、私はエプロンを外して二階の自分の部屋に駆け上がった。
夜の九時に学校を出発する夜間遠行の、集合時間は八時半。
そろそろ自転車で出発しなくちゃと思っていたところに、貴人が現われたのにはビックリだった。
なぜなら貴人の家は、学校を挟んでほとんど我が家と正反対と言ってもいい方角にあるのだ。
特に約束をしていたわけでもないのに、迎えに来てくれたことにちょっととまどいながら、玄関を出てみたらそこにいたのは貴人だけではなかった。
「繭香!」
学校指定のジャージを着た貴人のうしろから、ニヤリと笑いながら顔を出したのは、同じジャージを着た繭香だった。
「いたんだったら、繭香がチャイム押してくれればよかったのに!」
そしたらあんなに母のテンションが上がることも、明日帰ってから貴人のことを根掘り葉掘りと聞かれるんだろうと憂鬱に思うこともなかった。
「いいじゃないか。琴美にそっくりな母上で、なかなか楽しませてもらった」
人の悪い笑みを浮かべる繭香の横で、貴人が「俺じゃ嫌だったの?」と笑う。
「嫌じゃない! 嫌じゃないわよ!」
慌てて首を振る私を見て、繭香はいよいよニヤリと笑った。
「行くぞ。うちのお抱え運転手が待ってる」
「えっ? 繭香んちにも運転手さんがいるの? 美千瑠ちゃんちみたいに?」
家に行った時には全然そんなふうには見えなかったのに、実は繭香もお嬢様だったのかと思いながら門を出ると、家の前で待っていた普通のワンボックスカーでハンドルを握っていたのは、繭香にそっくりな中年の女性だった。
「繭香……」
肩を震わす私に向かって、繭香があっさりと言ってのける。
「ああ。私の母だ。こっちは琴美。いつも話してるだろ」
「まあ、あの……!」
そう言って、感激したように絶句した繭香のお母さんが、心の中でなんと言葉を続けたのかをぜひ知りたいところだ。
「いつもお世話になってます。この子ったらわがままばっかりでしょう? ごめんなさいね。これからも仲良くしてくださいね」
顔は繭香にそっくりでも、全然違う優しげな微笑みでそんなふうに話しかけられれば、思わず感嘆のため息が出る。
「いえ。こちらこそ、よろしくお願いします」
後部座席に乗りこみながら、私は頭を下げ、繭香には聞こえないように呟いたつもりだった。
「繭香もお母さんぐらい邪気のない笑い方はできないものなのかしら?」
「……うるさい」
聞こえていないと思ったのに、助手席からふり返った繭香に鋭い視線で睨まれて、心臓が止まるかと思った。
「ひええええっ!」
「琴美、あとで覚悟しておけよ」
「そんなぁ……」
私の隣では相変わらず貴人が、声を殺して笑い死にそうになっていた。
「じゃあ出発するわね?」
繭香のお母さんがそう言った瞬間、ふとあることが心にひっかかった。
ちょっと気になって、私は我が家から一番近い電信柱の下を見てみる。
そこに人影が無いことを確認して、ホッとすると同時に小さく落胆した。
(そうだよね。別に約束したわけじゃないもん……いつもいつも私を迎えに来るとは限らないわよね……)
そこでひょっとしたら諒が私を待っていやしないかと思ったのだ。
でも薄暗い外灯の下に諒の姿はなかった。
(まあそうだよね……)
少し寂しく思いながら、私は繭香と貴人と一緒に学校へと向かった。
『HEAVEN』の催しで、夜の学校に行くことも多くはなったが、学校行事となるとやっぱりちょっと違った緊張感がある。
校庭に名簿順に並びながら担任が出席を取っていく中、諒がまだ来ていないことに私はドキリとした。
(まさか……!)
「勝浦ーおーい勝浦はまだかー?」
クラス全員の出席を確認して、担任がそのあとで諒の名前を呼ぶのももう三度目になろうかという時、諒が大晦日の夜を彷彿とさせるもの凄いこぎっぷりで、自転車で校庭に突っこんできた。
「すいません、遅くなりましたっ! ちょっと自転車停めてきます!」
担任に向かって頭を下げるとすぐに、また遠くなって行く背中に私はドキドキしていた。
(まさか……ね……?)
再び校庭に帰ってきた諒は、遠行に出発する前から疲れきった顔で、ゼエゼエと肩で大きく息をくり返している。
「諒……」
近づいてきた私を見て、一瞬目を丸くした諒は、次の瞬間、思いがけずちょっと笑った。
「なんだ。先に来てたのか。ならよかった……」
その可愛い笑顔と、言葉の意味に思わず赤面する。
「ひょっとして、迎えに来てくれた?」
「まあな……通り道だからな。俺が行かなかったばっかりに……ってことになったら目覚めが悪いからな」
大晦日の時と同じ言い訳をくり返しながら、それでもやっぱり思ったとおりに来てくれたんだと思ったら、申し訳なくってたまらなかった。
「ゴメン。繭香のお母さんが車で送ってくれて……」
「そっか。よかったじゃないか」
額の汗を拭きながら、あっさりとそう言いかけて、次の瞬間、諒の動きが止まった。
何かに思い当ったかのように、私に問いかける。
「貴人も一緒だった?」
「う、うん……」
正直にそう返事するのには、かなりの勇気が必要だった。
また諒が私と貴人のことをヘンに誤解して、ふいっとどこかにいなくなってしまったらどうしようなんて、そんなことばかり考えていた。
なのに――。
「じゃあ、帰りは俺が送ってく。いいな?」
怒りも照れもせずにそんなふうに念を押されて、かえってドキリとした。
「え?」
真っ暗な校庭で、体育館の入り口にある照明に背を向けている諒の表情は、はっきりとは見えない。
しかしどう見ても、真剣な顔で私にそう言ったらしいことだけは確かだ。
「いいな?」
もう一回念を押されて、私は慌てて頷いた。
「うん」
心臓が口から飛び出してしまいそうに私がドキドキしていることなんて、諒には伝わりっこない。
それはわかっているのに、火照った頬を自然と隠すように、両手で押さえずにはいられない。
(どういうこと? ええっ? これってどういうことなの?)
いくら考えても自分にとって都合のいい答えしか浮かんで来ず、私はとまどうばかりだった。
「ね……ねえ……どう……解釈したら……いいと思う……?」
息も切れ切れに問いかける私に向かって、同じく佳世ちゃんも途切れ途切れに答えを返してくれる。
「別に……そのままの意味で……いいと思う……よ? ……変に……深読みしなくても……いいんじゃ……ない?」
ダメだ。
傾斜三十度と言われる坂を登りながら会話を続けるなんて、やっぱり無理がありすぎる。
でもこの機会を逃すと、いつ二人きりで話せるかはわからない。
夜間遠行の何が過酷かって、足を止めて休憩する時間が、ほとんどないことだ。
十二時と六時の食事の時以外は、三時に休憩があるだけ。
その他の時間は、ちょっと水分補給する以外は、ほぼ歩きっぱなしなのである。
グループ活動な以上、六人で一緒に歩くのだが、さすがに繭香は全部を歩きとおすのは無理ということで、最初のこの心臓破りの坂は免除されている。
あまりにも体力に差がありすぎて、男の子たちには先に行ってもらったため、佳世ちゃんと二人きりでいられるのは、この坂が終わる所までだけ。
その中で女の子同士の秘密の相談をしようと、私は思っていたのだが、あまりの過酷さにこれ以上は断念した。
「わかった……ちょっと……今はもう、頭もまわんない……あとにする……」
「うん……そうしよ……」
そこからは歯を食いしばって、ひたすら坂を登り続けた。
足には履き慣れた運動靴。
背中にはリュック。
首にはタオルを巻いて、傍目にはまるで登山のような格好だが、「両手は空けておきなさい」と担任に念を押された意味がよくわかる。
(杖! どっかに、杖になりそうないい感じの棒はないの?)
必死に足を動かしながら、私はそんなことばかりを考えていた。
(これが終わったら、私絶対に運動を始める! こんなに運動不足の体に、歩きっぱなしの学校行事なんて辛すぎる!)
去年も思った同じことを心の中で叫びながら、なんとか四十分かけて、私は夜間遠行の最初の難関――心臓破りの坂を登りきった。
坂のてっぺんでは、男の子たちと繭香が、私と佳世ちゃんを待っていた。
「よくがんばった。偉い偉い」
佳世ちゃんの頭を撫でる渉の姿を見ると、ちょっとチクリと胸が痛むのは仕方ない。
だって去年は、あの愛情たっぷりの激励を受けていたのは私なのだから。
「何をぼさっとしてるんだ。今のうちにさっさと汗を拭け。すぐに体が冷えて風邪をひくぞ」
繭香が乱暴に私の顔を自分のほうに向かせてくれてホッとした。
「うん」
言葉は悪いながらも私に気を遣っての発言に感謝しながら、しょっていたリュックからちょっと水筒を出して水分補給しようとして、私は硬直した。
「あ。水筒忘れた……」
「ほんっとバカだな。お前は!」
途方に暮れる私の前に、諒が自分の水筒をさし出してくれ、私がそれをありがたく受け取った瞬間、繭香がボソッと呟いた。
「お前たち、間接キスだな」
「「ぎゃああああ!!」」
ひさしぶりに諒と悲鳴が重なった。
「な、何言ってんのよ!」
「そんなことがあるか!」
でも本当だ。
蓋を開けて直接口をつけて飲むタイプの諒の水筒だと、確かに二人で共有すれば、それは紛れもなく――間接キス。
「べ、べ、別にそんなこと!」
「お、おう! 俺も気にしないぞ!」
ダメだ。
お互いに無理しきっていることが見え見えのようで、貴人がピクピクしながら笑っている。
「なんなら、俺のを貸そうか?」
震えながら貴人がさし出してくれた水筒だって、結局結果は同じだ。
「俺とだったら、今さらそれぐらい……」
と言いかけた渉のことは、精一杯睨んで、それ以上は口を滑らせないように繭香に負けないくらいの眼力で念を押した。
(いきなり何を言い出すのよ! このド天然!)
ただでさえメンバーに難ありのこのグループの中で、佳世ちゃんとまでギクシャクしてしまったら、もうどうしようもない。
「ごめんね。私ははじめから持ってきてないから……」
と謝る佳世ちゃんには笑顔で「気にしないで」と返事し、私は繭香に手を合わせた。
「ごめん、繭香……繭香さま! 水分わけてください!」
瞬間、繭香はニヤッと笑って水筒ばかりかリュックまで私にさし出した。
「いいだろう。その代わり、次の休憩ポイントまで、琴美が荷物を持ってくれるんだよな?」
「はい。そうします……」
しょっぱなから体だけではなく心まで疲れきった私の夜間遠行は、まだまだ続く――。