ゴーン、ゴーンとどこからか除夜の鐘が聞こえ始めた。
 今頃はみんなと一緒に、新しい年の訪れを今か今かと待ってるはずだったのに、どうして私は神社の中を全力疾走をしているんだろう。
 それも、とっくに見えなくなった背中を、泣きそうな思いで追いかけているんだろう。

(嫌だ……嫌だ……!)
 心の中でくり返し叫んでいたから、思わず声になってしまった。

「行かないでよ、諒!」
 気力だけで走り続けていた足が、もう動かなくなった。

 境内いっぱいに集まってる大勢の人が、何事かと言わんばかりに私に注目する。
 けれど、そんなことはどうでもいい。

「待って! 話を聞いてよ諒!」
 溢れだした涙が止まらなくなってしまったので、私は両手で顔を覆って、その場にしゃがみこんだ。

 やっぱり、泣いてる姿を人に見られるのは苦手だ。
 いつもならこんな時、たくさんの視線から私の姿を隠してくれる人がいる。
 いつもいつも、不思議なくらいに私の気持ちをわかってくれて、何も言わずに頭から上着を掛けてくれる。
 その温かさは、彼の優しさそのもので、口ではどんなに文句ばかり言ってても、私はいつだって感謝してたのに――。

(どうしてさっさと言わなかったんだろう……!)
 好きだよって。
 私が好きなのは、他の誰でもなくて諒だよって。
 せめて真っ先に伝えていたら、こんなふうにはならなかった。
 ――私の貴人への思いを、諒が変なふうに誤解して、怒っていなくなっちゃうことはなかった。

(……ん? ……待って? ……でも、私が貴人のことを好きだって、諒が誤解したとして……それで、なんでいなくなちゃうわけ……?)
 ふと、涙が止まった。

(それじゃまるで……諒が私のことを好きみたいだよ……?)
 辿り着いた結論に、むしろ呆然とする。

(そんなこと、あるはずがない!)
 だいたい諒には中学の頃からずっと想っている人がいると、私は本人から聞かされたのだ。

(……あれ? ……でも、そしたらどうして……?)
 さっぱりわけがわからない。
 でも諒がいなくなってしまった――それだけは事実。

(うん。まあいいや……今はやっぱり……とりあえず追いかけなきゃね!)
 意を決して、手の甲で涙をグイッと拭った時、ふわっと頭の上から温かな物がかけられた。
 それが藍色のダッフルコートだと知って、せっかく止まりかけていた涙がまた溢れだす。

「諒……」
 涙声で呼んだら、大きなため息が頭上から聞こえた。
「お前なあ……二日前まで熱出してた人間から、上着を奪うなよ……」
 呆れたような、それでいて優しい声に、私は夢中で両手を伸ばした。

「うわっ!」
 勢いに押された諒が、しりもちをつく。
 それにも構わず、私はコート越し、まるで圧し掛かるように諒に抱きついた。
(だって! またいなくなっちゃったら、嫌だもの!)

「お前なあ……」
 コートの上からポンポンと私の頭を叩いた手も、ため息混じりの声も、やっぱり胸が痛くなるくらいに優しかった。
 

 
「ちょっと離れろよ」
「やだ」
 境内に敷き詰められた砂利の上に直に座りながら、私はもう絶対に逃がすまいと、諒に抱きつく腕を緩めない。

「痛いんだけど」
「我慢して」
 はあっと大きく、諒が息をついた。

「もう逃げないよ……っていうか、なんでお前……追いかけて来んだよ?」
「…………」

 私だって言いたいことはあるが、今この体勢でというのは困る。
 非常に困る。

 黙ったまま答えないでいたら、諒が私の頭に掛けたコートを少しめくった。
 大きな黒い瞳と、ビックリするほど近くで見つめあうことになってしまって、心臓がドクドク鳴る。

「何か……俺に言いたいことでもあんの?」
 直球で聞かれて息が止まりそうだった。
「ある……」

 絶対、私の顔は真っ赤になっているだろうし、こんなにくっついているんだから、ひょっとしたら心臓の音だって聞こえているかもしれない。
 なのに諒は大真面目な顔で、私の次の言葉を待っている。
 もうここまで来て、今さらあとにはひけないとばかりに、息を詰めている気配がする。

(でも……! だけど……!)
 想いを告白するには、あまりのタイミングのような気がして、私はうしろめたく思ってさっき言い出せなかったことのほうを、口にした。

「冬休み初日に、図書館で柏木と会ったの……そこであいつに、貴人が進学する気になったことを教えてもらった。あいつと会うなって諒には言われてたから、なんだか言い難かったんだけど……」
 ガクッとあきらかに諒の体から力が抜けた。

「そうかよ……わざわざ追いかけてきて、それを伝えたかったのかよ……そりゃ、どうも……」
「う、うん……」
 それは確かにそうなのだが、なんだか微妙に違う気がする。

 ゆるゆると諒が地面に座り直そうとしたので、私もようやく抱きついていた腕を解いた。
 それからすっかり乾いてしまった涙の跡を指で拭って、貸してもらっていたコートを諒に返した。
「これ、ありがと……」
「ああ」

 なんだか脱力しきっている諒が、ノロノロとコートに腕を通す。
 その脱力具合が、やっぱり私にはどうしても謎で、仕方がないから本人に聞いてみた。
「ねえ、そもそも……なんで逃げたの?」
 諒が驚いたように私の顔を見た。

 たっぷり三秒間ほど、しげしげと表情を眺めて、それからプイッと顔を逸らす。
「絶対、お前には教えねえ……自分で考えろ」
 あからさまな態度にムッとした。

「なにそれ。考えてもわかんないから聞いたんじゃない……!」
 諒がちょっと眉を寄せながらふり返って、私の顔を軽く睨む。

「簡単に答えに辿り着こうとすんな。自分の頭を使って考えろ。ってのは数学の山ちゃんの口癖だけど……同じことだ。勉強以外にも、ちょっとはこの頭を使え」
 ピンと人差し指で額を弾かれた。

「痛っ!」
 私が額を押さえたら、「フンッ」と意地悪く笑われる。
 その笑顔にさえも、不覚にもドキリとさせられた。
 そのまま諒が立ち上がってしまいそうな気配が急に寂しくなって、コートの裾をひっぱる。

「ねえ……」
 甘い語らいとはほど遠いが、ほんの少しだけ。
 あとほんの少しだけ、二人で他愛もない話をしていようと、もちかけようとした時、私のバッグの中で、スマホが爆音で鳴りだした。

 ハッとしたように諒が、ズボンのポケットから自分のスマホを取り出す。
「やべっ! もう11時55分!? ……繭香に殺される!」

 私は液晶画面に繭香の名前が映し出された自分のスマホを、泣きたいくらいの気持ちで諒の前にさし出した。
「どうしよう……!」

「どうしようって……急ぐしかないだろ! ほら! さっさと立て!」
 すかさず立ち上がった諒に、腕を掴んで引き立たされる。
 背中を向けて先に走り出そうとした諒の手を、私は何も言わずに掴んだ。

「…………!」
 ふり返った諒が、火がついたように真っ赤になった。
 だけど私は自分から掴んだ諒の手を放さなかった。
 もう絶対に放さないという決意をこめて、ギュッと握り締めた。

「しょうがねえな……もう!」
 赤くなったままの諒は、私の手を引き走りだす。
 混雑する人垣をかきわけるようにして、みんなが待つさっきの場所へと戻る。

「だから……放っとけないんだよ……」
 聞こえるか聞こえないかくらいの小さな呟きは、しっかりと私の耳に届いて、ドキドキする鼓動にさらに拍車をかけた。
 

 
「ほおう……さんざん待たせておいて、今度は仲良く手を繋いでお帰りか?」
 両腕を組んでふんぞり返った繭香の、見上げているのに見下しているような視線が痛い。

 慌てて私から飛び退いた諒につられて、絶対に放すもんかと思っていた手を放してしまって、私はちょっと残念だった。
(あーあ……)

 けれども、なんとか今年中に、みんなのところへ帰ってこれたことにホッとする。
 さっきと同じように円陣を組んで、もうカウントダウンに入った周りの声に合わせて、私たちは十二人で数を数えだす。

 60、59、58…
「ねえ琴美、やっぱり前言撤回。きっとすぐに上手くいくって……ガンバレ!」
 パチリと片目を瞑って囁く夏姫に、私はそっと頷き返す。

 50、49、48…
「来年も楽しいこといっぱいやろうな!」
 順平君の声に、みんな一斉に「うん」とか「ああ」とか返事をする。

 40、39、38…
 それにしても、とっくに眠ってしまったうららを抱えながら、顔色一つ変わらない智史君は凄い。
 凄すぎる。

 30、29、28…
(確かに受験もあるけれど……順平君の言うとおり、きっと来年も楽しいことがいっぱいなんだろうな)
 そう思って、この上なく嬉しい気持ちでみんなの顔を見渡した時、正面にいた貴人と目があった。

 20、19、18…
「琴美……」
 いつも笑みを浮かべている貴人が、珍しく真剣な顔で私の名前を呼ぶから、どうしたのかと思う。

「え? 何?」
 何気なく答えたら、グッと腕を引かれた。
 つんのめるようにして貴人の胸に倒れこんでしまう。

「きゃっ、ゴメン……どうしたの?」
 貴人の顔を見上げた瞬間、隣からフッとため息が聞こえた。

「約束を守ったには違いないが……遅い……もう10秒切るぞ……」
(繭香?)
 繭香に顔を向けようとした私の顎を、貴人がそっと指先で上向かせた。

 10、9、8…
 境内を揺るがすようなカウントダウンの合唱は、もう一桁に突入している。

「た、貴人? ……年が明けるよ?」
 なんだかいつもとは違う雰囲気にドキドキして、どうでもいいようなことを口走る私に向かって、貴人はゆっくりと耳に口を寄せた。

「琴美。俺は、琴美が好きだよ」

 7、6、5…
 なんか今、とんでもない幻聴を聞いた気がする。
 いったい何をどう聞きまちがえれば、そんな言葉に聞こえるのだろう。

「はい?」
 私から離れた貴人は、首を捻る私に向かって微笑む。
 それは、いつもの花が綻ぶような見惚れるほどの笑顔だった。

 4、3、2…
「本気だよ。俺は琴美と同じ大学に行くからね」
「え?」

(ち、ちょっと待って? 何が? ……本気って? ……何が?)

「ええええええええっ!?」
 懸命にめぐらした思考が、私が理解できる範囲を超えたのと、貴人がついに我慢できなくなって肩を揺すって大笑いを始めたのと、「1」という叫びと同時に、たくさんの人が一斉に歓声を上げたの。
 ――全てが同時だった。

「あけましておめでとう!!」
 みんなに肩をバンバン叩かれながらも、石になったように固まってしまった私に、繭香がスッと近づいてくる。

「まちがいなく、ヤツの初恋だからな。まあ、今のところ勝算はないだろうが、これからの出方によっては……どう変わるかはまだわからないだろ? 琴美……覚悟しとけ」
 小さな囁きが、とっても嬉しそうに聞こえるのは何故だろう。

(だって繭香は貴人のことを好きなはずで……!)

「繭香……?」
 恐る恐る目を向けた私に、繭香は唇の両端を吊り上げて、ニヤッと彼女独特の笑い方をした。

「私ならとっくに卒業したからな。そんな子供っぽい執着。……まあ、私のほうがあいつよりは先輩ってことだ」
 胸を反らしながら、大威張りで、まだ笑い転げている貴人を見やる。

 確かに。
 その視線が余裕たっぷりに見える。

「繭香……ねえ繭香……」
 声が震えるのを必死にこらえて、私は彼女の名前を呼んだ。

「なんだ?」
「貴人には……今はちょっと聞けないから、何がどうなってるんだか説明してくれる?」
「いいだろう」
 偉そうな腕を急いで掴んで、私はちょっとみんなの輪から外れた。

 諒が何か言いたげにこちらを見ていることには気がついていたが、今はとても平気な顔で接するなんてできそうにない。
(どうしよう……! ねえ、どうしたらいいの……?)
 
 ちょっぴり幸せ気分に浸っていた私に、貴人がとんでもない爆弾を落としてくれた、驚天動地の年明けだった。