「う……ん……」
 右耳のすぐ近くで声がした。
 疲れて眠ってしまった智史に肩を貸していたはずなのに、いったいいつの間に、私はその頭の上に自分の頭も重ねてしまっていたんだろう。

「あっ……」
 慌てて頭を起こす。
 ちょっと寝苦しそうだった智史が、またスウスウと軽やかな寝息をたて始めた。

 冷たいコンクリートの壁に寄り掛かり、床にじかに座っているため、投げ出した足から気温の低さが体に直接伝わってくる。
 智史が風邪をひかないようにと肩に掛けてあげていたコートを、もう一度しっかりと掛け直して、私はやっぱりほんの少し自分の頬を智史の頭につけて目を閉じた。

 背中を預けた壁の向こうからは、まだ賑やかな声が聞こえてくる。
『HEAVEN』主催のクリスマスパーティーは、予定時間の半分以上が過ぎた今も、まだまだ盛り上がっているようだ。

「残念だったね……」
 この日のために智史が必死で準備したオーロラのホログラフィーを、雪がひどくて今日は使えないと貴人が決断した時、智史はがっかりしたそぶりは見せなかった。
 案の定、ニッコリ笑った。

「うん。わかった。しょうがないよね」
 まるでそんなこと、なんでもないというように笑った。
 でもいつもと同じその笑顔が、実は全然いつもどおりではないことなんて、私にはよくわかってた。

「あーあ……でも、ま……しょうがないか……」
 疲れたとみんなのところを辞して、一部解放された教室に入ってきてから、私の肩に頭を乗せて目を閉じた瞬間にもれた、小さな小さな本音。

 一見、ソツなくなんでもこなしてしまうように見える智史は、実は与えられた仕事には全力でとり組む。
 それこそ、自分の持つ知識や技術を余すことなく全部発揮して――。

 そんな熱い自分なんて、智史本人はきっと認めたくないだろうけど、それが本当は、一番彼の彼らしい姿だと私は思っている。

(オーロラ……みんなに見せてあげたかった……)
 眠る智史の髪を手で梳いて、首を捻って背後の窓から空を見上げたら、真っ暗な空から侵略して来るエイリアンのように、雪がどんどん降ってきていた。

 その雪をちょっと恨めしく見上げながら、また智史の髪に頬を乗せる。
「悔しいね……さと……」

 智史以上に自分が残念に思っているということも。
 みんなが思っているほど、自分は物事に執着しない人間なんかじゃないということも。
 私にはよくわかってた。
 

 
 いつから一緒にいたのかなんて、正確には思い出せない。
 ただ、気がついた時には、私の傍にいてくれた。

 私は、よく周りから言われるように感情が鈍いわけではない。
 頭の中で考えていることはたくさんあるのに、それを上手く言葉に表現することがなかなかできなくて、そのうち口を開くこと自体が億劫になっただけだ。

 智史はそんな私の、ただ一人の理解者。
 何も言わなくても、私が考えていることをわかってくれる人。

 私にとって彼は唯一無二の存在だが、彼にとって私はいったいなんなのだろう――。
 少しの不安を抱えながら問いかけた子供の頃、智史はなんの迷いもなく『一番大切な人』と、あの笑顔で答えてくれた。

 その瞬間に自分の中に芽生えた感情を、上手く言葉で表現することはやっぱりできない。
 でも私にとっても智史が、もうずっと前から『一番大切な人』だったことには、自分でも気がついていた。

 誰もいない放課後の教室で、まるで中学生か高校生の恋人同士のように唇を合わせたあの日から、私たちはずっと二人で寄り添っている。
 智史さえいれば、智史さえいてくれれば、私の世界はそれで完結している。

 でもそれが大きく変化したのは、貴人が『HEAVEN』に誘ってくれてから。
 私にも友だちと呼べる人が、智史以外に初めてできてからだった。

 友好的な笑みを浮かべながらも、心の中では何を考えているのかわからない人が多い中で、琴美にであえたことに、私は本当に感謝している。
『HEAVEN』のみんなとめぐり会って、仲間と呼んでもらえるようになれたのは、貴人が与えてくれた奇跡だ。

 だから私がどれだけ『HEAVEN』を大切に思っているか。
 智史はきっとわかってる。
 わかっているからこそ、その活動に、智史だって全力でとり組んでくれている。
 だから――。

「オーロラ……見たかった……悔しい……」
 本人以上にしつこくこだわり続ける私の姿は、全然感情が淡白なんかではないと、自分でも笑ってしまう。
 

 
 ピリリリリリリリ

 いつの間に眠ってしまっていたのだろう。
 自分のスマホの無機質な呼び出し音にビックリして、私は目が覚めた。

 智史を起こしてしまったのではと、慌てて肩の上の淡い色の髪の頭を見下ろす。
 寝起きがあまりよくない智史は大きな目をパッチリと開いて、すでにすぐ近くから私の顔を見上げていた。
「誰……?」

(あ……やっぱり不機嫌……)
 スカートのポケットからひっぱり出したスマホに表示された名前を確かめて、私は智史にも見えるように彼の目の前にかざした。

「繭香か……早く出たほうがいいんじゃない……?」
「うん……」
 他人に対して従順なように見えて、実は傲岸不遜な智史が、本当に一目置いている数少ない相手。
 ――というより繭香には、智史は初めから逆らうことを諦めている気がする。

 私だって、繭香のあの相手を射竦めるような瞳で真っ直ぐに見つめられると、何も悪いことはしていなくても胸がドキドキし、思わずなんでも頷いて肯定したくなってしまう。

「もしもし……?」
 聞くほうにはとてもそうは聞こえないかもしれないが、これでもドキドキしながら口を開いたら、スマホの向こうで繭香が一気にまくしたてた。

「うらら! 大晦日の夜、十一時に神宮に集合! みんなでカウントダウンして初詣して初日の出を見る! 時間厳守だからな! 智史にも伝えてくれ! じゃっ!」
「うん……」
 私が返事をした時には、通話はもう終わっていた。
 あくまでも決定事項の伝達で、こちらに拒否権はないということだろうか。

 繭香の声のうしろでは、
「繭香……おおーい、繭香……勝手にそんなこと決めても、みんなにだって予定が……」
 と笑い混じりの貴人の声も聞こえていたが、繭香は一切無視していた。

「さと……」
 指示されたように智史にもことの次第を伝えようとしたら、クスリと笑われた。

「全部聞こえたよ。繭香の声はよく通るから……」
 繭香のせいばかりじゃなく、智史がいまだに私の肩の上に頭を乗せているせいもあると思うのだが、そこには言及せずにおく。

「どうやら今年は、いつもみたいに僕の家で年越しはできないみたいだね……?」
 両親が海外赴任中で、マンションに一人暮らしの私が寂しくないようにと、ここ二年ほどは智史が、年末年始、私を自分の家に招いてくれていた。

 智史の優しい両親も、弟には喧嘩腰なのに私のことは可愛がってくれるお姉さんも、私はとても大好きなので、それはそれでちょっと寂しい。

 言葉にはもちろん、表情にだってそんな気持ちを出したつもりはなかったのに、智史が私の肩から頭を起こして、あっという間に逆に私の頭を自分の胸に抱きこんだ。

「大丈夫だよ。初日の出を見たら、一緒にうちに帰ろう。母さんが作ったおせちを食べて、こたつで丸くなって……あ……でも姉さんが、元旦にはうららに晴れ着を着せるってはりきってたから、それにだけはつきあってやって……?」
「さと……」

 智史は優しい。
 彼を囲むあの家の人々もみんなみんな優しい。
 感謝の気持ちで頷いたら、智史が私の手を取った。

「これ……僕からのクリスマスプレゼント……大きなヤツは見せれなかったけど、うららだけのぶん……」
 勝手に左手の薬指につけられた指輪には、石の変わりに四角い黒い立方体がついていた。
 よく見たら、中に幾重にも折り重なった光の帯が見える。

「これ……!」
「うん。オーロラ」
「綺麗……」
「うん。その顔が見たかった。よかった……」

 自分ではたいして表情が変わったようにも思えないのだが、智史は心からホッとしたように息をついて、また私の肩に頭を乗せる。
「ゴメン。やっぱりまだ無理みたい……もうちょっと寝かせて……」

 あまりよくない顔色で、珍しく弱音を吐かれるから、私は慌ててもう一度智史の体にコートを掛け直した。
「……さと……ありがとう……」
「うん」
 智史がちょっと頭を上げて私にキスをした。

「来年はちゃんと本物の指輪を渡すから、今は予約……誰にも取られないように……」
(予約なんて、そんなもの必要あるだろうか? ……他の誰かなんて考えられない……私には智史しかいないのに!)
 思いは溢れるほどに湧き上がっても、どう言葉にしたらいいのかわからない。考え、考え口を開こうとした時、またピリリリリリとスマホが鳴った。

 智史がクスリと笑って、私の肩から膝の上へと、頭を乗せる位置を移動した。
「もしもし……?」
 そんな智史に感謝しながら、ロックを解除したスマホの向こうでは、今度は琴美が叫びだす。

「ちょっとうらら! 聞いてちょうだい! さっき繭香から連絡あった? それを伝えたら、諒ってばねぇ……!」
 クスクスクスと、背中を向けた膝の上の智史の頭が、愉快そうに揺れている。

「うん……うん……」
 気の利いた相槌なんてまるで打てない私相手に、琴美は懸命に話し続ける。
 そのことがとても嬉しい。

「よかったね、うらら……」
 いつの間にか笑うのをやめた智史が、小さな声で呟いた。
 スウスウと肩が規則的に揺れているところを見れば、ひょっとしたら寝言かもしれない。

(智史ったら……!)

「でね! ……それでね!」
 いよいよ白熱する琴美の話に重なるようにして、可憐からメールが送られてきた。
 美千瑠からも。
 夏姫からも――。

 大切な仲間たちとの確かな繋がりを感じて嬉しくなる。

「ちょっと! うらら……聞いてる?」
「う、うん。聞いてる……」

 本当は好きなのになかなか素直になれない諒に対して、また何か憤慨しているらしい琴美に、精一杯の言葉を返しながら、私は膝の上の自分の大好きな人を見た。
 ゴロリと寝返りを打って、今度は私に顔を向けた天使のような寝顔。

(……守りたい……!)
 いつもは言ってもらってばかりの言葉が、心に浮かんだ。
 ――何よりも誰よりも大切に、ずっとずっとこうして見守っていたい。

 外では雪が降り積もる中、こうして二人だけで隠れるように寄り添って。
 それでもこれまでとはちょっと違う。
 今はもう――私たちは世界に二人だけではない。

「ねえ……どう思う?」
 だから私も少しずつでも変わらなければ、勇気を持って歩き出さなければ。

 私の遅い返事を、待ってくれている琴美に向かって口を開く。
 精一杯頑張って言葉を紡ぎだす。
「うん……あの……」

「がんばれ……うらら……」
 膝の上の智史が、また起きているんだか寝ているんだかよくわからない励ましを口にする。

「うん」
 意を決して口を開く時、また私の狭い世界がほんの少し広がる。
 ――それは決して嫌なことではない。全然嫌なことではない。