放課後の『HEAVEN』。
 部屋のど真ん中にある繭香特別席の横に、いつものようにドア側を向いて座り、先日の交流会に発生した大量の領収書を仕分けていると、廊下の向こうから軽やかな足音が聞こえてきた。

(可憐と夏姫か……?)
 顔をあげないまま判断し、そのまま作業を続行していると、案の定二人分の声が部屋に入ってくる。

「おっ剛毅! 今日も早いな!」
 まるで男同士のような声のかけ方をしてくるのは夏姫。

「ちょうどよかったぁ、まだ渡してない領収書があったの……ほら」
 妙に艶のある声で、甘えたように話しかけてくるのは可憐。

 いくら学園一、ニを争う美女といったって、可憐の色仕掛けなんて、俺にはまったく興味がない。
「ああ、そうか」と軽く聞き流そうとしたのに、その内容はどうしても聞き流せるものではなかった。

「領収書まだあんのか!? 今回の交流会で、いったいいくら使ったと思ってるんだ!」
 思わず大声で叫んだら、両耳を塞いだ夏姫の隣で、可憐が泣きそうな顔をした。

(う、ヤバイ……これは泣かしたな……)
 もともと強面の上に、日頃から部活で太い声を出しまくっている体育会系。
 クラスの女どもは「恐い」とか言ってまったく話しかけてこない自分をすっかり忘れていた。

「す、すまん……言い過ぎた……」
 慌てて謝ったら、可憐はすぐに笑顔になった。
 その変わりようが、妙に早過ぎると思うのは俺だけだろうか――。

「いいの、私がいけないんだもん……この領収書、私が自腹を切るね」
 あくまでも見た目は健気に涙を拭きながら、そんなふうに言われれば、俺だって鬼じゃない。
 仕方がないから可憐に向かって手をさし出す。

「わかったから、こっちに渡せ……」
「ありがとう! 剛毅!! 大好き!」
 嬉しそうに叫んで、俺の手に領収書を乗っける可憐の動作が、早すぎはしないだろうか――。

(気のせい……か?)

「じゃあ私、今日はダンスのレッスンだから、もう帰るね……バイバーイ」
 おそらくは校門で待っているだろう彼氏のもとへと、急いで去っていく可憐の背中を俺と一緒に見送りながら、夏姫がポツリと呟いた。

「ふーん……剛毅でも、泣き落としにひっかかるんだ……ふーん……」
 さも意外とでも言わんばかりに呟きながら、夏姫までさっさと部屋から出ていく。
 つまりは俺に領収書を押しつけるつき添いのためだけに、ここに来たというわけだ。

「……泣き落とし! やっぱりそうか!!」
 今さら悔しがってももう遅い。
 俺は仕方なく可憐が置いていった領収書を、山の一番下に加えた。



「ねえ剛毅……うららが提出し忘れてた領収書があるんだけど……いいかな?」
 部屋に入って来るなり挨拶もなしにスッと自分の席に行ってしまったうららの代わりに、俺の前に立ったのは智史だ。

 画材屋の名前が書かれた、いまどき珍しい手書きの領収書を、俺の目の前にさし出し、ニッコリと笑う。
「遅くなって悪いね……」

 しかし残念ながら、一部の女子に絶対的人気を誇る天使の微笑みは、俺には通じなかった。

「智史……うららから直接話を聞きたいから、ちょっと起こしてくれ……」
 席に着くそうそう、窓に頭をもたれかけて寝てしまった、おそらくうちの生徒会で一番やる気のない彼女にご登場願おう。
 なぜなら――。

「えっ? どうして? 何かおかしなことがあったかな?」
 ニコニコと笑顔で応待しつつも、実は全然目が笑っていない智史が、見た目ほどは清廉潔白でないことを俺は知っている。

「いいから」
 念を押すと、フッと薄く笑んで、すぐに天使の微笑をひっこめてしまうのがその証拠。

「まったく……そんななりして、剛毅って実は堅物だよね……」
 うららを起こしには行かず、智史が制服の胸ポケットから出したのは、書いてある金額がさっきの半分しかない領収書だった。

「智史……この文房具店のおばさんに、お前、何を渡した……?」
 筆跡も日付もまったく同じなのに、金額だけがあまりにも違う領収書を見比べながら尋ねたら、智史はあっさりと白状した。

「貴人と諒と僕の写真……安いもんでしょ? ねえ折角だから、金額の高いほうで申請しない?」
「却下」
「まあ、そうだと思った……」

 俺は正しいほうの領収書を山の一番下に加え、不当に金額を水増ししてもらったほうを、腹の中は決して純白ではない『白姫』が、これ以上悪用しないようにビリビリに破って捨てた。



「剛毅! すごいぞ! すごくいいことを思いついた!」
 俺が女だったらまちがいなく惚れていたであろう笑顔で、嬉しそうに部屋に駆けこんで来たのは、わが『HEAVEN』のボス――貴人だ。

「交流会の次のイベント! 時期的にクリスマスかな……って思いながらテレビを見てたら、すごくいいことを思いついた!」

 いつだって貴人の頭の中は、いかにして全校生徒の『希望書』を実現するかってことでいっぱいだ。
 しかしさすがに、テレビを見ている時もとは恐れ入る。

「へえ……どんなのだ?」
 感嘆しながら問いかけたら、文字どおり、目をキラキラ輝かせて教えてくれた。

「もみの木って、本当はかなり大きいんだよな……だから本物のもみの木で、巨大クリスマスツリーを作ろう! そしてその下で、みんなで盛大にクリスマスパーティーをしよう!」

 貴人のひらめきはいつだって楽しそうで、聞いているだけで俺だってワクワクしてくる。
 だが、いかんせん現実離れしている。

「もみの木っていったって……うちの学校には生えてないぞ?」
 怪訝な顔をする俺に、貴人はニッコリ笑顔のまま「ううん」と首を横に振った。

「持ってくればいいよ! 山から切り出して、ダンプカーに乗せて、ここまで運んだらクレーンで立てよう! どう? よくないか?」
 スーッと熱の引いていく思いを実感しながら、俺は短く告げた。

「よくない。金と手間がかかり過ぎ。却下」
 その答えが帰ってくることは、あらかじめわかっていたらしく、「ハハハッ」と笑いながら貴人は自分の席に着く。

 俺もようやく先が見え始めた領収書の山から顔を上げ、大きく背伸びをした。



「なんであんたが先を行くのよ!」
「こっちのセリフだっ!」
 傍から聞いていたら、二人の会話はまるで痴話喧嘩にしか聞こえないのに、本人たちはまるで気がついていないという、奇跡のカップルのお出ましだ。

 同じクラスで席も隣同士という諒と琴美は、何かにつけていつもやりあっている。
 お互いに好意を持っているのに、そんなことは有り得ないとそれぞれが信じきっているものだから、まったく進展しないところが少し気の毒で――すごく面白い。

 二人を見ているとついついいつも笑ってしまいそうになる俺に向かって、諒が真顔で問いかけた。
「恐っ! そんなに睨むなよ、剛毅……俺なんかしたか?」
 自分でも、柔和な顔じゃないことは重々承知だが、かりにも笑いをこらえている時に、この言われようは腹が立つ。

「したに決まってるでしょう! じゃなきゃこんなに睨まれるわけないじゃない!」
 悪意のない声で、琴美がさらに肯定すればなおさらだ。

「お前らな……!」
 怒りを収めようと、内心必死の俺に向かって、琴美が最終爆弾を落とした。

「わかった! 事後処理の仕事が多くてイライラしてるんでしょ? 私手伝うからっ!」
 確かに頭の回転は早いのかもしれないが、解釈の方向があまりにも独特なのと、思いこみの激しさが琴美の欠点だ。
 今も、あっという間の早さで俺の隣に腰を下ろして、さっさと領収書の仕分けを始める。

 全然そんな心配はいらないのに、チラチラと俺を気にしている諒が、哀れというかなんというか――。

 俺はちょっとため息をつきながら、夏からこっち、いつかは琴美に聞いてみなければと思っていたことを、思い切って口にした。
「琴美……俺の『HEAVEN』での役職知ってるか?」

「体育部長でしょ?」
 琴美は「なんで今さらそんなこと?」と問うような顔で、俺を見た。

 その先の反応がもう見えたような気で、俺は再びため息をつきながら問う。
「じゃあ、お前は?」

「会計だけど……?」
 こいつが学年三位の成績だなんて、と虚しくなる俺の目の前で、諒がキョトンとしている琴美の肩を、トントンと叩いた。

「つまり……領収書整理も、帳簿づけも、もともとお前の仕事なんだよ! いつも剛毅のほうが手伝ってくれてるんだろ!!」
「えええええっ!!」

 別にそんなこと今更もう気にしてないから、できればもうちょっと静かにして欲しいと、俺はやっぱりため息をつきながら、願わずにはいられなかった。


 
 結局、「ごめんなさいごめんなさい!」とくり返しながら働いた琴美と、「ほんとにお前は……!」と悪態をつきつつも手伝った諒のおかげで、山のようだった領収書整理は終了した。

 一時は予算内に収まるはずがないと思っていた支出額が、なんとか収まりそうで、自分の手腕に、自分で惚れ惚れしてしまう。

(やっぱりあそこで智史に騙されなくてよかった! ……他にもいくつか突っぱねたのが、功を奏したな……)

 大満足で『HEAVEN』を出て、どこにいるのか今日は姿を見せなかった美千瑠を探しに行こうとしたら、思いがけず本人がドアの向こうに立っていた。

 杉原コーポレーションの令嬢である美千瑠を、学園内で守ることは俺の義務であり、仕事でもある。

「なんだ……遅かったな? 帰るぞ?」
 勤め先のお嬢様に対する口のきき方としては、かなり無作法だが、こうでなければ本人が怒るのだから仕方がない。

「うん」といつものように笑ってついてくるとばかり思っていたのに、美千瑠は『HEAVEN』の入り口から微動だにしない。
 俺は怪訝な思いで、そんな美千瑠をふり返った。

「なんだ? どうした?」
 問いかけると、一枚の紙切れをそっと両手で俺の前にさし出す。

「遅くなっちゃったんだけど……この間の交流会での領収書……みんなに出したお茶代のぶん……」

 正直、他の奴だったら、「遅い!」と怒鳴るところだし、折角バッチリ合った帳尻を乱すのも嫌なので、「もう無理だ!」と突っぱねるところだ。
 でも本当に申し訳なさそうな顔で、心配げにこちらを見ている美千瑠に、そんなことできるはずがない。
 俺はそんなに鬼じゃない。

「わかった」
 領収書を受け取ると、不安そうな顔がパッと晴れた。

「よかった……」
 本当に胸を撫で下ろしながら、俺の隣に並んで一緒に歩き始める笑顔に、ついついこれでいいんだと思ってしまう。

(まあいいか……あとで誰かに領収書をつっ返そう……玲二か諒あたりなら、なんとでもなるだろう……)
 勝手に被害者に決定された二人には申し訳ないが、これが俺の仕事だ――。

(美千瑠の笑顔を守るためなら、俺はなんだってする!)
 きっと口に出して言うことはない決意を、心の中でくり返しながら、迎えの車が待っている校門までの道を、美千瑠と一緒に歩いた。

 空には、今にも雪が降りだしそうな重い雲がたちこめている。

「次はクリスマスイベントだって、貴人が言ってたぞ……」
「すごい! 楽しみ!」

 パチパチと両手を叩く美千瑠の姿を見ていると、ほんのついさっきまで、(ああ……また終わったあとの処理が面倒だな……)なんて思っていた自分が消え去る。
 だんだん俺だって楽しみになってくる。

「どんなことするんだろうね?」
 まさに天使のように笑いながら尋ねてくるから、
「明日、くわしく聞いておくよ……」
 答えながら、俺は頭の中で、もう違う計算を始めていた。

(ダンプカーもクレーン車も、生徒会予算からは無理だけど自腹でならいけるか……もみの木が自生してるような山が、近くにあったかな?)

 一高校生としての『澤田剛毅』ではなく、小さな頃から親父に武術・剣術・護身術を叩き込まれた、杉原家のSPとしての顔で、俺は真剣に考え始める。

 迎えの車に辿り着いた美千瑠が「剛毅も乗って帰ったら?」といつものように誘ったが、俺もいつものように断わった。
 何事も、手回しするなら早いほうがいい。
 途中でハプニングが起きてもすぐに対処できるように――。

(よし! やるか!)
 くるりと踵を返して、俺は走りだす。

 明日の放課後。
「もみの木が確保できたぞ」と言ったら、貴人が満面の笑顔で「きっと剛毅ならやってくれると思ってた!」と答える顔が見える気がした。