ぱきん、とか。

 あるいはパリンとかグシャリとか、ガラガラ、ポッキリ、とか充てるオノマトペはなんでもよかったりするけれど大切なのは彼女の中身が壊れてしまったということなのですよ。





 さて。

 厳冬の候、皆様にはますますご清栄のこととお慶び申し上げます。

 このたび、わたくしの大切な大切な、それはもうわたくしの命やこの世なんかよりもはるかに大切にしていたわたくしの半身が急逝いたしましたことをご報告申し上げます。



 端的にいいますと、わたくしはイマジナリーフレンドだったもの(・・・・・)です。

 だったとはいいますが、この国は魔力の龍脈がありますし、彼女は親愛なる隣人ようせいの加護を持つ愛し子でしたから彼女の幻想に肉がついてわたくしになったのはなんら不思議なことではありません。肉といっても体は彼女のもので言ってしまえば二重人格みたいなものなんですけどね。

 そして彼女が愛し子であったことを知っていたのはご両親、ご兄弟、神殿の最高位の枢機卿数名だけですがね。

 ああ、この国には生きているだけで誰かを不幸にせずにはいられない大変ボンクラな皇帝一家がおりますがことの発端はその皇家にございます。

 今回はさすがにまずいですよ。なんてったって妖精王が大変にお怒りですからね。きっと公爵家は状況が分かり次第亡命か革命の準備をなさることでしょう。





 なにがなんだかわからないと思いますので最初から説明させていただきますと、まずこの体(・・・)の本来の持ち主はアイネス・ランカスターという公爵家のご令嬢です。

 生まれた時から魂の質感を気に入られて、妖精と妖精王に加護をいただいたそうです。公爵家は大変清く正しい、高位貴族には珍しい人格者の家系ですので妖精たちとは親しいのだそうです。それ自体は国の誰もが知っています。



 アイネスは本が好きな子供でした。二人の兄と二人の姉がおり、兄姉らにおいていかれまいと勉学に打ち込んだ結果、趣味としてたくさん本を読む子供になりました。当然のように想像力というか妄想力の豊かな子供になり、そうしてわたくしが生まれたというわけですね。



 わたくしのことを、アイネスはクリスと呼んでいました。しがないイマジナリーフレンドですので性別はないです。なのでクリスというジェンダーフリーな名なのでしょうね。アイネスもそこまで考えなかったんでしょう。多分。



 イマジナリーフレンドに知性というか、人格というかができてしまったのは完全に妖精のせいでして、ご両親とご兄弟は結構早いうちからわたくしと会話ができました。アイネスが起きていればアイネスを主人格に脳内で会話ができるのですが、アイネスの意識が落ちているとわたくしが表に出てこれるという具合です。悪いことですか? しませんよ。あくまでもわたくしはアイネスの半身なのです。



 双子の娘、あるいは妹みたいだと公爵家の皆様はイマジナリーフレンドの存在を否定しなかったので環境がよかったのでしょう。わたくしは表に出ないだけで「個人」のような立場を与えられ、ますますその姿が明確になったのです。(わたくしは概念なので見えるわけではありませんがね!)



 そして良き淑女として立派に成長したアイネスを一番そばで見守り、ついには皇子と婚約をいたしました! アイネスの体を借りてご両親、ご兄弟と泣いて喜びましたとも。次の日の朝になって目が腫れてしまっているじゃないの、とアイネスからお叱りをうけましたが大変幸せそうに笑っていたので本気で怒ってはいなかったのです。ええ、半身ですから、よくわかりますとも。



 皇帝一家に名を連ねるのですからその教育は熾烈を極めました。挨拶、礼儀作法、姿勢、話し方、単語選び、目線の使い方、行っていいこと悪いこと、帝王学、政治学、経済学、倫理学、宗教学、隣国の様子、貴族の交友や因果関係、国内の特産品、名産品、需要供給から果てはまばたきの仕方まで!

 別に教育係の皆様はひどいことはしませんでしたよ。大変でしたがアイネスは教育係の教師や夫人や侍女とも仲良くやっていましたし。わたくしがたまには代わってあげようかと尋ねてみても自分でやりたいと頑張っていましたとも。



 最初はよかったのですよ、それで。

 習い事も、学舎へ通うのも、お友達も家族も婚約者も婚約者の友人たちも、なにもかもが良好だったのにある日そこに亀裂が入りました。



 男爵家の、それも斜陽も斜陽と言った没落まで首の皮一枚でも危ういような男爵家の庶子が編入してきたのですがこいつがまあとんでもない悪女でした。

 おそらくは男爵の入れ知恵と生来の性悪なのでしょうが、まあわたくしの半身をいじめる貶す貶める悪しきように仕立てては皇子に泣きつきさも被害者は自分であるかのように。質が悪いことに頭がいいのでたいへん厄介でしたが、申し上げました通り皇家はボンクラですので、いわく「純真で、天真爛漫で、平等。庶子なのだから貴族の行いに明るくないものを虐げるとは何事か」と。



 バカはお前だ! と叫びださなかった学舎のご子息ご令嬢方は貴族として大変すばらしい忍耐力をお持ちだと感心いたしましたが、何度も何度もフォローをしてくれた友人や正しい目を持つ学生諸子には申し訳なくも思いますが、学院主催の音楽会での婚約破棄、しかもアイネスに瑕疵があるかのような言い方のそれのせいで、もうアイネスは耐えきれないほど傷ついていた心をこの世から失ってしまったのです。ちゃんちゃん。



 というのがつい、一分前、いましがたの出来事でして、完全にこの体からアイネスの「こころ」が消えてしまいました。本来なら心労、なんて理由でここで死んだのでしょうね。ええ、わたくしがいたから体までは死ねなかったと。なるほどなるほど。



 生まれて初めて本当の独りぼっちを味わっています。なんせ今までは一つの体に同居していたので、干渉しあわない時間は設けたとしても背中越し、カーテン越し、扉越しの距離感にアイネスがいたのです。逆もそう。あの子の背中越しにわたくしがいたのです。



 ひとつのからだに、ひとりでいることのなんと心細いことか。

 きっとわたくしがいるから平気だろうと彼女は思っていたのでしょうが心の許容量が増えたわけではないのでいきなりぱりんといってしまったのでしょう。なんせわたくしはイマジナリーフレンドですからね。



 でもだからこそ、愛し子の被造物に妖精の魔力で受肉したわたくしは、こと魔法に関してだけは、わたくしの最も愛しい最大の自慢であった半身よりももっともっと優秀なのです。ええ、それはもう、妖精王がしくったと苦笑いするくらいには。威力ですか? 四個師団が三秒で壊滅すると思っていただければよいのではないでしょうか。



 とはいえそんな力を使う日なんて来ないはずだったのです。わたくしはアイネスの半身として今後もアイネスのそばにだけ存在し、彼女がわたくしに頼らなくなったときにそっと消えるはずだったのです。

 それを、それを、それをそれをそれをそれを独りよがりにぶち壊してくれたこの下賤な人間どもにどうして心穏やかでいられましょうか。



「どうした、アイネス! この悪女め! 黙っていないでなんとか言ったら……」





『平伏なさいませ』





 わたくしがごく普通の声量でそう告げると会場中の誰もが頭を垂れました。影響されていない方々もいらっしゃいますがあの辺はアイネスの本当に親しい、本当に味方だった方たちのようです。壁際で無表情にジュースを傾けている男性がこちらを見て表情を変えました。妖精王が混じっていたようです。お暇なのでしょうか。



「き、さま、アイネス・ランカスター! なにをしたのだ!」



「わたくしはアイネス・ランカスターではございません。アイネスの別人格のクリスと申します。どうぞお見知りおきを!」



 声高に、淑女ではなく紳士の礼をします。別人、というかアイネスではないと明確にしなくては彼女の名誉に関わります。そんなことがあっていいのでしょうか、いいえ、いけません。



「こたびはわたくしの半身を殺害されましたことに大変遺憾に……そんな可愛い表現ではいけませんね。アイネスの口を借りているのでこういういい方はあまりしたくないのですが、よくもわたくしの半身をズタボロにして殺害してくれたなこのゴミムシ野郎。いまどうやって殺してやろうか考えているので震えるほど楽しみにして泣いて喜べ下種皇子。その取り巻きお前らも細胞の一つまで残らず蹂躙してやるので感謝してより深く頭を垂れろ人間のふりをして生きている下等生物め」



 皇子と性悪女、取り巻きだけが大理石に頭をのめりこませる勢いで体ごと頭を下げています。東洋の島国にこういう作法があるのだとアイネスが本で読んでいたことを思い出しました。なんでしたっけ、ドゲザ?



「ご存じないようですので非常に慈悲深いわたくしが教えてさしあげますと、アイネス・ランカスターは貴様らがどうこうしていい人間ではなかったのです。王族の青い血などちゃんちゃらおかしい妖精の庇護下に住まう少女をどうして言いなりにできると思ったのですか? ああ、知らなかったのですか。それは残念です、無知だったのでは天の父も貴様らのようなゴミは救うどころかその魂に苦痛を与え続けねばなりません。ああ、天にまします偉大なる我らが父よ、なんてお可哀そうなんでしょう」



 よよよ、と泣き真似をしてみせれば一部の貴族たちが震えだします。当然です、妖精に愛されている公爵家、とりわけ妖精の力を濃く頂戴する愛し子は国益どころか人命さえその指一つで好きにできるのです。これは文字通りの意味でして、殺すとか生かすとかではなく半永久的に発狂しそうな痛みを与え続け発狂さえ許さない拷問のようなことさえ可能なのです。

 今は怒っているのでそんな言い方をしましたが逆もあるんですよ。死ぬしかない、死んでもなお解決しないそんな痛みを負って空っぽになってしまった人間を救う癒しのちからさえその指一本、声かけひとつ、涙の一粒で可能なのが愛し子なのです。



 まあそういう利己的な使い方しないから愛し子になれるんですけどね!



 愛し子の前には人権なんてないのですよ。妖精というのはこの国ではそれだけの力をもつ存在なのです。まるで綺麗なもののように語られますが、強大なちからをもった生き物なんて自種族でなければ妖精も天使も神も化け物と同義ですからね。



「弁明をさせていただきますと、ああ、いやあ、折角ですから体験(・・)していただきましょう! わたくしは妖精の加護を持つアイネスによって生み出された存在ですのでみなさまにアイネスの追体験(・・・・・・・・)をしていただくことなど赤子の手をひねるより、というやつでございます」



 パチン、と指を鳴らせば同時にあちこちから悲鳴が上がります。そうそう、本当はこれは音楽会の集まりなのでしたね。ピアノやヴァイオリンには遠く及ばない不協和音ですがこれもアイネスへの鎮魂歌だと思えば悪くありません。



 頭を垂れている皆様にだけ、こころの痛みがダイレクトに痛覚に作用するような魔法を発動させております。見ているものは一緒ですよ? 加害者に仕立てられ、ひどい言葉を浴びせられ、それでも妃教育のために日々泣き言も言わず。アイネスはそもそもちょっとばかし心の強い子だったようですけれど、彼女が受けた痛みが他人の痛みに換算されると何百倍にも膨れ上がるのですから驚きです。



 アイネスが紙で指を切った、程度に感じた痛みは、ほらあの取り巻き男Aに換算すると失禁して血を吐いてそれでもなお悲鳴がやまないほどの苦痛のようです。今日までのすべてを追体験させたら人間は何度死ぬことができるのでしょうね。試してみたい気もしますが今はやめておきましょう。



「やめでええええ!! もういやああああ!! わたじがわるがっだがらぁぁぁ!! あああああああ!! いだいいだいいだいいいいいっやめでぇぇぇぇ!! あああっあぁあああああ!!」



『汚い音を発しないでくださいませんか』



 そういうと性悪女の舌が消えました。切ったとかじゃないですよ。黙れと命じたから舌が消えてしまったのでしょう。細かい指示をしないとまあまあ使いにくいのが魔法というものです。不便ですね。



『楽にしてくださっていいですよ』



 そう告げると平伏していた皆様は呼吸を整えたり、なんとか意識を保っている紳士もいれば白目をむいて顔をかきむしり血だらけで失神している淑女まで様々いらっしゃいます。取り巻きBとCは無事なようです。ADEは廃人のように口を開けて呆然としています。



 皇子ですか? あれはほら、曲がりなりにも皇族ですので膝をついて呼吸を整えてはおりますがそれでも生きております。しぶといですねえ。性悪女は失神していましたがまだ終わりではないので『起きて』いただくことにいたしましょうか。



『では続きを聞いてくださいませ』



 そういうと瀕死だった全員がまた先ほどまでのきれいな恰好をして何事もなかったかのようにその場に立っています。顔を真っ青にして逃げ出そうとする方々もいらっしゃいますが窓もドアも締め切られているようですねえ。いやいや妖精王も人が悪い。



 本来愛し子に限らず妖精は人間を愛している種族なのですが、アイネスと比べたのではそんな慈悲深さも泡のごとしといったところでしょうか。ああ、なんておいたわしいただの人間の貴族の皆様。

 善良な、それはそれは善良な一部の参加者の皆様は先ほどの追体験で痛みこそ感じませんけれどもアイネスの傷の深さに泣いてくださっています。そうです、それが正しい反応です。少なくともどこぞのゴミムシ野郎のような恐れおののいている表情は大いに「間違って」います。



「こういとき本来でしたら「ざまあ」とかいうことをするそうなのです。なにかの本で読みました。が、それでは巻き込まれてしまう善良な方々がお可哀そうなのであとで『すべてなかったことに』しておきますね。今お尋ねしたいのはこれからどうなりたいか、ですので」



「どう、なりたいかって……どういう意味だ、アイネス……!」



「だからわたくしはクリスですってば!」



 イマジナリーフレンドが受肉したものです、とかいってもわかってもらえないだろうと思いますので丁寧な説明はいたしませんけれどもあんなに清く正しく美しいわたくしの半身をわたくしと同じように語らないでいただきたいものです。



 たしかにわたくしはアイネスの半身ですし、アイネスの想像によって生まれたものですが別人格のような作用をしていたというのはつまり彼女の中の悪感情をすべて担っていたということでもあります。

 皇子妃になるのですから、汚らしい、自分のための気持ちを彼女は押し込めて押し込めて押し込めて生きてきました。だけれども人間ですから、それをなくすことはできません。表に出さないためには、表に出てこない入れ物にいれておけばいいのです。つまりわたくし!



 そうしてわたくしは彼女の黒い心を何年も、何度も、いくつもあずかって飲み込んできたのです。わたくしは彼女の半身です。彼女ではないけれど彼女の心の在りかを知っている唯一の存在なのです。皇子を殺せばすべてが終わる、と深層心理が本気で思うほど憎まれていたのですよそこのゴミムシとゴキブリ女?



「アイネスが勉強していたのですが、人間の本能的欲求は深層心理で形成されても抑圧されるよう構成されているのだそうで、そのタガが外れていると倫理外の非道ひどいことができるのだそうですよ。まれにそんな人間がおりますからね。アイネスは善人でしたのでそんなことできませんでしたが」



「おまえは、おまえは! それをしようとでもいうのか!? 悪霊め! いや悪魔かなにかだろう!? アイネスの体からでていけ、化け物め!」



「貴様なんかより長く供にしているのです、図に乗るなよただの肉塊の分際で」



 アイネス、すみませんね。本当はこんな汚い言葉をあなたの口を使って発したくないのですが手段がないのです。私に体があったならあなたが消える前にこんなやつらさっさとどうにかしていましたよ。

 ああ、ごめんなさい、ごめんなさい。言い訳がましいことをしました、役立たずのあなたの半身をどうか許してくださいませ。



 あなたに、あなただけが、この世界に生きていればわたくしはそれ以外のものの価値なんてしりません。あなたさえいれば、あなたが生きているからこの世界に価値があったのです。あなたが世界なのです。あなただけが、わたくしを、わたくしの世界のすべてなのに。



 あなただけが、わたしの世界だったのに。



「クリス。もういいよ」



「妖精王、ええ、ああ、よかった! もうアイネスの口から反吐を吐き出さなくていいのですね」



「ああ、ありがとうクリス。アイネスを、妖精を愛してくれて」



 何度でも申し上げますが、わたくしはアイネスの想像と妖精の魔法のかたまりみたいな存在なので妖精そのものといっても過言ではない存在です。ゆえに妖精王自ら生み出した「子」のような立場でもあります。

 人間ではありませんし、かといって妖精でもありません。非常に危うい立場です。今だって生みの親のアイネスがいなくなってしまったのですからわたくしを保つ核がないようなもの。いつ消えてもおかしくありません。



 ああ、痛ましい。なんておいたわしいのでしょうか、アイネス。あなたのために泣きたいと思うのにあなたの体を借りねばなりません。また叱られてしまいますね、また泣いたのねクリス、腫れてお化粧が上手く出来ないわ、なんて。

 もうそんな日はこないのに。



「この国には未来永劫妖精は住まわない」



「まっ、待ってください妖精王陛下!」



「皇族を! 皇族をどうにかすればわたくしどもは!」



「この国に皇族など必要ありません! 妖精王閣下! どうか、どうかご再考を!」



 絶叫にも似た声があちこちから聞こえますが皆様の意見はもっともなのです。なんせこの国が発展したのは妖精の加護があってこそ。近隣諸国に潤沢な土地と資産を狙われ続けて早数百年。戦争にでもなって、たとえ勝てたとしても何かを失わずにはいられません。



 人間たちは、失うことを恐れているのです。



 いいですね、当然のように与えられると信じているのは平和な証ですよ。わたくしだってそうでした。今日だって帰ってから風呂で寝所で今日も頑張った話をアイネスとするだろうと思っていたのです。



 おやすみの挨拶をして、一緒に目覚めて、また新しい明日を2人で過ごせるだろうと思っていたのです。本当に。つい、さっきまで。



「余の愛し子に手を出したそこな人間ども、お前たちはクリスの宣言通り細胞の一つまでこの私が蹂躙してやろう。喜べ、人間が何百年も生きることなどそうあるまい?」



「ひっ……よ、妖精王陛下、どうか……どうかご慈悲を……!」



「余がアイネスだったらよかったのだがなぁ」



 冷たく笑う妖精王の目は視線だけでこの国を焦土にできそうなほどでした。妖精は神ではありませんが、三位一体の概念のもと神に準ずる、あるいは同等の力と権利を持っています。

 父たちと比べて頭が硬いですからこうときめたことはもう変えないでしょう。ああ、かわいそうに。



「クリス、アイネスが心配だ。そばに行ってやるといい」



「その前に公爵家の方々にご挨拶を申し上げねばなりますまい。わたくし、これでも公爵家の皆様に家族としての地位をいただいておりました」



「クリス!」



 いつの間にか開いている扉からなだれ込むように公爵家の皆様がいらっしゃいます。ああ、入れるけど出れないのですね。なにもかもお見通しなのでしょう、やはり妖精というのは化け物です。本当にお人が悪くていらっしゃる。

 ああ、奥様、そんなに駆けていらしてはヒールが折れますよ。お嬢様方も、そのドレスはお屋敷で着るためのものではないのですか? 公爵家の紳士淑女が顔面蒼白でわたくしに駆け寄るものですから周りの皆様の表情といったらおかしくておかしくて。



「ああ、クリス。クリスは無事なのね。ああ。よかった、よかった……」



 ウテナ様とエレノア様がはらはらと、というにはあまりにも、滂沱というほどの涙を流して淑女らしからぬ大きな声をあげてないていらっしゃいます。

 いけませんね、もうすぐ嫁がれるのに。婚約が白紙になってはアイネスが悲しみます。



「申し訳ありません、イーノック様、オーランド様。アイネスをお守りできませんでした」



「よくは、ないが、いいんだ。いいんだよクリス。お前が気にすることではないんだ」



「奥様、アイネスの口を借りてはばかるようなことを申しました。お詫び申し上げます」



「仕方がないわ。それがあの子の心なのだもの」



「旦那様」



「…………アイネスは、どこへ行ったんだ?」



「父のもとへ参りました。ねえ、妖精王」



 静かにうなずく妖精王を見て旦那様は深いため息をつかれました。鉄面皮で有名な旦那様のこんなお顔を外で拝見する機械などもう二度とないでしょう。ええ、無いほうがいいに決まっていますがね。



「アイネスが心配なのでおそばに行って慰めてこようと思います。どうか皆様もお元気で」



「本当に、いってしまうの? あなただけでもここに残っていたら」



「私の半身が独りぼっちでは、きっと心細いでしょうから」



「そう、そうね、そうね。あなたたちは、ずっと、二人でいたものね」



 アイネス、わたくしのこれは忠誠ではなく、愛情でもありません。なんせわたくしはあなたであり、あなたあってのわたくしであり、わたくしもあなたであるのです。

 わたくしたちはそろって完璧、というのは少しおこがましいかもしれませんがそれだけ長くいたのですからこれからもあなたが必要としなくなるまで永く永く供に歩まねばなりません。なんせ私の存在はあなたの一存で決まるのですから。



 ねえアイネス、あなたがあの皇子を慕っていたことをどんなに必死で隠していても、忠義ゆえの政略結婚に頷いただけに繕っていても、妃教育は国のためだと虚勢を張っていたのだとしても、心の奥の、もっともっと底のほうに蓋をしていても、自分の命より深く愛していたことをわたくしだけは知っています。

 だからあなたが壊れてしまったことも、わたくしだけが知っています。あなたがどんな思いで今日まで生きていたのか、そのすべてをわたくしだけが知っているのです。



「あ、あのあたりのご子息やご令嬢は大変心根の良い方です。一族ごとご慈悲をお願いいたしますね。それではまた」



 体なんて持っていないのですが体が消えていくような感覚がします。はて、そういえば想像でしかない私も父の身許に赴くことを許されるのでしょうか。考えても仕方ありませんね、アイネスに会うために説得すればいいだけです。だめならアイネスに出向いていただきましょう。まあそんなことしなくともすぐ見える場所でわたくしを待っていてくれるのでしょうがね。なんせわたくしは彼女の唯一無二の半身ですから。











 さて。

 生き物の住めぬ死の土地に、響く絶叫はなんでも数百年前の妖精の愛し子の殺害によって恨みを買ったという今は亡き皇族一家とそれに近しかった人間たちのそれであるという。

 まあ最も、足を踏み入れると気が狂いそうなほどの痛みに襲われるこの呪われた土地に入ることなどできないのでらしいとかだろうとかそんなおとぎ話のようになっているが、作物も育たぬこの土地は生きている人間には何の価値もないのでそれでいいのだろう。



 この公国には、それはそれは多くの妖精が住んでいる。

 空の隣人、花の隣人、海に、森に、木々に、大地に、生活のありとあらゆる場所に親愛なる隣人たちの姿を見ることができる。その姿は古来より変わらない愛らしさのままであり、また彼らは当然のように人間という種族を愛している。

 公国の始祖である公爵家はなんでも生来、妖精に愛された血筋でありその正しさによって国を切り開いたとされている。悲劇の公女の死が今の豊かな国の礎だと知らぬものはあらず、毎年春の生誕祭では丸一ヶ月のあいだ、愛し子である公女のためにのために盛大な祭りが行われている。



「ずいぶん脚色されたのですねぇ、親愛なる隣人の皆様あなたたちはそれでいいのですか?」



「今日まで長かったなあ、なんせ父がアイネスを離してくれなかったそうじゃないか」



「奥様と旦那様が苦労しておられました。まったくおいたわしいことです」



「君はもう、アイネスの半身ではないだろう?」



「ええ、半身ではありません、それに先代も今代もアイネスではありませんので」



「なら今日こそ、この数百年で一番盛大に祝わなくては」



 けらけらと笑う妖精王はまったくその姿を変えていない、らしい。

 姿絵に残っている妖精王の姿はずっとこのままだというのだから考えるだけ無駄なのだろう。生きる時が違うのだ。



「クリス、妖精王もいいけれど僕のほうにも構ってくれないと」



「はい、殿下。では妖精王、今日の結婚発表楽しみにしててください」



「今、言われてしまったんだが……」



 この公国の血筋はいまもまだ妖精に強く愛されている。

 当主の性別は関係なく、原則、末の子が継承するという変わった風習も妖精王の提案により続いているのだそうだ。



 そして伴侶もまた必ず、クリスという名前であるそうだ。