君はまるで雪のように

昇格した者達は初日でうまくいかない部分もあったようだが、なんとか午前の業務はそつなくこなせていた。

休憩をするため母屋に向かおうとした俺の背後から声を掛けられる。

「加賀見、ちょっといいか…」

この声は。
真瀬だ。
また何か因縁をつけるつもりか?
何を言われても俺は。
俺を信じてくれた親方と頭、そして雪穂のために。
これ以上の問題は起こさないと決めたんだ。

「はい…。なんですか?」

「ちょっと、こっちへ…」

真瀬は蔵を出て、死角になっている裏へと回った。

まさか人気のない場所でまた何か俺に仕掛ける気じゃないだろうな…。
冷静さを装いながらも最大級の警戒モードに自分を置いた。

「加賀見。今回の昇格…なんか聞いてるか?」

いきなりの真瀬の質問にどう答えるべきなのか。
やはり親方の意を汲んでおくべきだろう。

「いえ。何も…。今朝親方が言われたとおりなんじゃないんですか?」

「お前…。納得してんのか?」

「何がです?昇格は親方が決めたんです。俺が納得するとかしないの問題じゃないでしょう」

「けど俺は…」

俺は、なんだよ?
嘘ついて俺をはめて。
ここから追い出そうとしたって告白する気か?


真瀬は少し俯き加減で黙ったままだ。

「あの…食事の時間がなくなっちゃいますよ?用がそれだけなら俺は…」

「悪かった!」

「え?」

「このとおりだ!加賀見!俺のつまんない嫉妬心で…最低なことをした…。ほんとに…ごめん…」

コイツは…
本気で謝ってるのか?それとも…
雲行きが怪しくなる前に俺を懐柔しようとでもしてるのか?

「あの件ならもう解決したので…」

「お前、俺を恨んでんだろ?当たり前だよな?俺が嘘ついたせいでブタ箱にぶちこまれたんだから」

「滅多とできない貴重な経験でしたね」

「嫌味か…」

「いえ。そうじゃありません…。最初は何がなんだかわかりませんでしたよ。いきなり警察署に連れて行かれて犯人にされたんですから。でもね…。辛い中でわかったんですよ。人のありがたみを、ね」

「どういう意味だ?」

「一言では言えませんが…自分を見つめ直し、他人を見つめ直すいい機会になりました」

「……」

「俺にできるのは…とにかく仕事を頑張る。それだけです…。今は早く皆さんに追い付きたい。それしか考えていません」

「フゥ…お前…ホントに…」

「何ですか?」

「変なヤツ」

「ええ?」

「…もう二度と…あんなバカなことはしないよ。約束する…。俺もお前に追い付かれないように…頑張るわ」


急いで母屋に向かい、玄関を開けるとちょうど雪穂が靴を履いているところだった。

「あっ、雪穂さん。どこかへお出かけですか?」

「加賀見さん…。遅いから見に行こうと思って…」

「スミマセン…同僚と話してたんです」

「…同僚って…」

「大丈夫ですよ」

雪穂は疑いを孕んだ瞳で見ている。

「ちゃんと説明します」

食堂で親方と雪穂にさっきのことを話して聞かせた。

「そげか…。真瀬が謝ったんか…」

親方がそう言うと雪穂が怪訝な表情で言う。

「ほんとに反省してるのかな。表面上だけじゃないの?」

「うん…」

「だってあの人、若いけどしたたかなところがあるし、野心家だし…」

「お前がそう思うのは無理ねが…。あれはあれで仕事は真面目にやっちょる」

「そうかしら…」

そこで俺も口を挟む。

「親方が言われるとおり仕事は真面目ですよ」

「加賀見さんが大丈夫ならいいんです」

「案外、いい友達になれるかもしれません」

「えっ!」

「それはまあ…今後の真瀬さん次第ですけどね」

俺達の会話を親方が微笑みながら見守っていた事など知る由もなかったが、あの一件以来着実に雪穂との距離は縮まっている。
…ような気がする…。

俺の希望的観測かもしれないが…。


「今日から搾りの工程に入る。交替で見守りするけん。皆、体調は万全での」

親方がそう言うと、皆は気合いの入った声で「はい!」と答えた。

そう。
搾りとは、発酵が終わった(もろみ)を搾り、原酒と酒粕に分ける上槽(じょうそう)のこと。

上槽には主に三つの方法がある。

一つ目は自動圧搾機を使う方法。
これは上部から醪を注入し、空気圧で搾り出すから安定した搾りができる。

二つ目は槽。
木製の舟型に醪を入れた袋を並べて緩やかに圧力をかけていく。
最初は醪の自重だけで落としていく。
昔ながらの方法である。

そして三つ目が袋吊り。
醪を入れた袋を吊るし、圧力はかけずに自然に落ちる雫を集める。
うちの蔵はその雫を斗瓶と呼ばれる容器に入れる。
これは最も手間がかかるやり方だ。

それぞれの方法には特徴があり、かかる圧力によって原酒に移る醪内の成分が異なってくる。
だから、元は同じ酒であっても搾り方によってその味わいも異なるのだ。

もちろん、搾りの最初から最後まででも味が違う。
最初のものを「あらばしり」、真ん中を「中取り」、最後のものを「責め」と言って、一番品質が安定しているのは中取りと言われている。

この搾りをいつするのか。
それは杜氏、つまりは親方の采配で決まる。
親方が「搾る」と言うまで搾りは行われない。


俺にとっては初めてとなる今日の搾り。
嫌が追うにも緊張が高まる。

「加賀見。そげん緊張しちょったら体が持たんぞ」

頭が笑いながら俺に声を掛けた。

「ですよね…」

「まぁ初めてのときは誰もがそんなもんだがの。端正込めて造った酒が出てくる瞬間は、子供が産まれるときみてぇに緊張するもんだわ」

そうだよな…。
長い時間を手間隙かけて造り上げたんだ。
当然、楽しみやら不安やら、数多の感情が押し寄せてくるに違いない。

「けど加賀見。搾りが終わったからいうて、酒造りが終わったんではねぞ。そっからまた長い工程があぁけん」

そうだった…。
搾りが終わった後、オリ引き、濾過、火入れ。それから寝かせる作業がある。
それを行ってから原酒を調整もしないといけない。

だからこれは中間地点であり、ゴールまではまだ果てしなく遠いんだ。
それでも。
造った酒と初めての対面。
俺は直接携わってはいないが、常に追廻をしながら皆の仕事を見てきた。
皆がどれほど真剣に造り上げたかを具に、
見てきたんだ…。

技術だけじゃない、心を込めて造っている姿を。
目の当たりにしてきた。

皆の思いが詰まった大切な酒。
どうか、素晴らしい酒でありますように。

俺は心の中で真摯に祈った。


いよいよだ。

大きな袋を手慣れた様子で次々と吊るしていく。
すべてがこの搾り方ではなくて、槽で搾るのもある。

俺は今回この袋吊りを見守る役割を担っている。
半人前だから他にも熟練の職人が一緒にではあるが。

俺の持ち場を担当するのは搾り担当である船頭の中田さん。
先般の昇格で二人が釜屋に上がったため、彼が初めてリーダーとして手腕を見せることになる。
そうはいっても彼は高校卒業後にこの蔵へ来て今年で四十年を越えるベテランだ。
心配する必要などない。

「加賀見。ええ顔しとるな」

「えっ?」

投げかけられた”ええ顔”という部分に思わず反応してしまう。

「イケメン、いう意味違う。責任ある男の顔になっちょるいう意味だわ」

「……」

俺のトラウマになっている意味での”ええ顔”じゃなかった…。
ホッと安堵した俺に中田さんが突っ込みを入れてきた。

「なんや、イケメン言われた方が嬉しいか?」

「ち、違います!…そうじゃなくて…」

言葉に詰まる俺に中田さんは優しく続ける。

「確かにアンタはイケメンだわね。でもなぁ、ワシは顔がええいうんはどうでもええ。仕事しとる男っちゅうんは顔にその仕事に対する責任やら誇りが出てこらんといけんのよ。この仕事に限った事でねぞ?どんな仕事しとってもただ流されるんでねくて、常に何か新しいもんを発見する、いう気持ちで、感謝して反省してやってくもんだとワシは思うちょる」

「はい…」

「そりゃ長い間仕事しちょったら、そうできんときもあぁけどの。うまくいかんこともあぁし、人間関係で悩むこともある。でもな、そこで腐っちゃいけん。立ち止まってもええ、休んでもええから、また立ち上がって進めばええんじゃ」


「ほんとに…そのとおりだと思います…」

「だけんな。アンタの顔はそういう顔になってきちょる、言うてんのだ」

それは。
俺にとって何よりの褒め言葉だ。
今までこの顔で得をしなかったかと言えば嘘になる。
でも反対に、俺という人間を容姿以外の面から見てもらったことは数少ない。
だから俺はこの顔を自慢はできなかった。

今なら…
少しだけ…好きになれるかもしれない。
長年苦しめられてきた、この顔を…。

「ほな、そろそろだけん」

「はい」

一つ目の斗瓶に液体がゆっくりと落ちてくる。
乳白色のそれは艶がある。

「全部で八本の斗瓶に取る。最初に出てくるんはだいぶ白いけんな。二十リッターほど先に取ってから本格的に取るけん。大体、そげだの…三時間くらいかの」

「三時間!」

「一人じゃトイレも行かれんけん。何人かで見とかないけん」

「はい…」

言いながら中田さんが二十リッターになった瓶を見せてくれる。

「だいぶ白いだろ?なんぼ上澄みを取っても最初に出た分は味が荒すぎるけんの。これを取ってから次の分が本格的に斗瓶囲いになる分だわ」

最初に出てきたものを「あらばしり」と呼ぶのはそういう理由もあるのかもしれない…。
よく鑑評会に出品する大吟醸は「中取り」と呼ばれる真ん中あたりで取る分だと聞く。
袋吊りでない搾り方で搾った最後の「責め」は最後一気に圧をかけて搾るから少し雑味があるのは否めない。

元は同じタンクの醪。それが搾りの段階で同じタンクのものとは思えないくらい味が変わるのだという。

俺はまだ、そこまで味の違いがわかるほど日本酒を味わっていないんだが…。
いずれはその違いもわかる日が来て欲しい。




次々と瓶に溜まっていく滴を眺めながら中田さんがふと呟く。

「ようやくここまで来たなぁ…」

「やっぱり…中田さんほどの職人さんでも感慨深いものですか?」

「えぇ?そりゃぁそげだわの。今年はエライ夏が暑かっただろ?おかげで米が硬うてなぁ。米のでき具合に合わせんといけんから大変だったわ」

その年の気温によって酒米のでき具合が変わる。
これは自然の摂理だから人間風情にどうにもならない。

気温が高いと米が硬くなり逆に低いと軟らかくなる。
米のでき具合によって精米も洗米も、その後の浸漬も、ひいてはすべての工程が変わってくる。

それだけ繊細なものなのだ。

「うちはな。大吟醸だけはすべての工程を手作業でするけん。今年の米は気を遣うたわ…」

フゥ―と大きな息を吐きながら中田さんはそう言った。

「すべての工程を手作業で、ですか?」

「そげだわの。精米だけはできんがな?精米された米を洗う。これは手でやらんとただでさえも削って割れやすくなっとる米だ。丁寧に扱わんと割れて使いモンにならんだろ?」

「確かに…」

大吟醸は心白を残してギリギリまで削った米を使用する。
その精米歩合は五十パーセント以下と決められている。
うちの蔵で扱う大吟醸は平均四十パーセントだ。

それだけギリギリまで削った米は手で洗ったとしても気を抜けば割れてしまう。
心白が割れてしまえば旨味の元がなくなってしまう。



「厳密に言えばな。精米して枯らしをやった後でも乾いた米は驚くほどのスピードで吸水するんじゃ。だけん洗米している間も水を吸うとる。洗米の段階から浸漬時間に組み込まれとるけん。最初っから気を抜けんだ」

「うちは精米は他所でやってもらってるんでしたよね?」

「そげだ。自分とこで精米できればそれが一番ええが…。精米機を管理するのは金も労力もかかるけんの」

「一日中精米機を動かして、一旦冷やしてまた動かして、ですもんね…」

「それに大量に出る糠。それもなんとかせないけんしな。まぁ精米する業者を信頼してねと難しいの。大吟醸用、吟醸用、普通酒用と何段階かに分かれとるから」

「うちはその点大丈夫なんですか?」

「ずっと決まったトコに頼んどるけん。大丈夫だろ。どのみち米自体が同じ生産者であっても同じ田んぼであっても味が違うけん。まったく同じ状態で酒造りはできねぇってことだわ」

「大変ですよね…」

俺がしみじみそう言うと中田さんは豪快に笑い飛ばす。

「大変かぁ…。こうやって話してみると大変そうに聞こえるかもしれんけど、実際ワシは大変や、思ったことがねぇなぁ。面白い、とは思うだども」

「面白い?」

中田さんの言葉が俺には意外だった。
さっきの話は誰が聞いても大変だと思うだろうにまさか「面白い」なんて言葉が出るとは。