璃鈴は、寝支度をするといつものようにお茶の用意を始める。いつ来るともしれない龍宗のための茶だ。その姿を、秋華は少し悲しそうに見る。
「璃鈴様、あの、私が用意いたしましょうか?」
秋華が声をかけると、璃鈴はゆるりと首を振った。
「ううん、いいの。私がやりたいの。夜って、長いのね。手持無沙汰なのよ」
はんなりと微笑んだその姿に、秋華はわずかに面食らった。
姿そのものが変わったわけではない。だが、わずかに憂いを帯びたその顔は、あきらかに幼い少女のものではなかった。
「璃鈴様……?」
「どうしたの?」
ぱちりと瞬いた次の瞬間には、もう普段の璃鈴に戻っていた。
「璃鈴様こそ……あ、いいえ。なんでもありませんわ」
不思議そうな顔をした璃鈴は、ぽすんと長椅子に腰掛ける。
「ねえ、秋華」
「なんでございましょう」
「お化粧を、教えてくれない?」
ぼんやりと視線を落としたまま、璃鈴が言った。
「お化粧……ですか?」
「ええ。妃の方々は、みんなきれいにお化粧をしていたわ。私も……お化粧したら、あんな風にきれいになれるかしら」
後宮に入った三人の妃たちは、性格はともかくそのかんばせは、女の璃鈴でも見惚れるほどに美しかった。
里にいた時も、英麗や瑞華、他の巫女たちを美しいと思っていた。けれど、後宮の妃たちの美しさは、巫女たちのそれとはだいぶ違うものだった。
それぞれの顔立ちの美点を最大限に生かした色とりどりの化粧に、しっとりと油を塗りこめてつややかにまとめられた髪の毛。それぞれの衣に焚き染められた独特の大人の香り。その様子を目の当たりにして、色気という言葉の意味を璃鈴は初めて実感した。
(きっと龍宗様だって、妻にするならああいう女性の方がいいに決まってる)
沈み気味の璃鈴を見つめた秋華は、しばらく考えたあと、鏡台にあった化粧箱を持ってくる。それは璃鈴用にと用意されたものだが、結婚式以来、ほとんど使われたことはなかった。
「璃鈴様は、お化粧などしなくてもおきれいですよ」
かたり、と卓の上で化粧箱をあけながら秋華が言った。璃鈴は、その言葉に不満そうに口をとがらせる。
「秋華ならきっとそう言ってくれると思っていたわ。でも、それじゃだめなの。私は、龍宗陛下の正妃なのですもの。やっぱり、あの方たちと比べられても……ううん、他の誰と比べられても、遜色のない女性でなければならないわ」
「他の方々と同じになる必要などないと思いますが……」
秋華は、ぐにぐにと璃鈴の頬に下地を塗っていく。
「でも、陛下のために美しくありたいと思われる璃鈴様は素敵だと思います」
「だって、子供だから龍宗様に釣り合わない、なんて言われたくないもの」
やはりそのことを気にしていたのかと、秋華は妃たちの言動を思い出していら立ちを覚えた。
「皇后は、後宮で一番の地位なのよ。なのにその私が一番美しくないなんて……龍宗様に、申し訳ないわ……」
そう言っている璃鈴の瞳が潤み始める。
「璃鈴様、お化粧している間は、泣いてはいけません」
「え? なんで?」
いくつかあった頬紅から明るい桃色を選んで、秋華は璃鈴の頬に丁寧にはたいていく。
「泣くと、目元や頬につけた化粧が流れてそれはそれは大変なご面相になります。なにより」
璃鈴の目元に黒い線を引きながら続けた。
「化粧をする時は、璃鈴様が一番美しくなる時です。そういう時は、泣き顔より笑顔の方が絶対に似合いますでしょう?」
最後に唇に赤い紅を乗せると、秋華は璃鈴に手鏡をもたせた。
「こんな感じではどうでしょう?」
「まあ」
最後に秋華は、赤い筆で璃鈴の額に花鈿をつける。
「結婚式の時の化粧とは違うのね」
「あの時は儀礼用の化粧を施されたので、通常のものよりもさらにみばえがする派手な化粧だったのです。璃鈴様の普段ですと、これくらいがよろしいのではないでしょうか」
璃鈴は、鏡の中の自分を、じ、とみている。
「自分で言うのもなんだけど、とてもかわいいと思う。でも……」
秋華には、璃鈴の言いたいことがわかるような気がした。璃鈴は絶世の美人という顔立ちではないが、だからと言って決して他の妃に見劣りするような見目はしていない。だが、自分自身の美しさを知り尽くしている彼女たちに比べたら、圧倒的に経験値が足りないのだ。
浮かない顔のままの璃鈴に、秋華は言った。
「璃鈴様には璃鈴様の美しさがあります。人と比べて優越を誇っても、それは本当に璃鈴様の求める美しさではないような気がします」
璃鈴は、顔をあげて秋華を見つめる。
「目標とするのはよいです。けれど、同じだけを目指していたら、絶対にそれは越えられません。あなたが知らなければいけないのは、化粧の仕方ではなく、璃鈴様自身の持つあなただけのお美しさです」
「秋華……」
ようやくにこりと微笑んで、璃鈴は言った。
「そうね。そこまで言われるとなんだか面映ゆいけれど、私にだっていいところはあるかもしれないものね」
「はい。私は璃鈴様のかわいらしいお顔が大好きですよ」
「ふふ。秋華ったら、ほめすぎ」
「ある程度の自信を持つのも、美しくなるためには必要なことです」
そう言われて、璃鈴は他の妃たちを思い出す。
「あの方たちは、自分のことにとても誇らしげだったわ」
「きっとそれだけの努力をなさっている方たちなのでしょう」
「私もがんばらないとね。……本当に、ここに一緒に来てくれたのが秋華でよかった。私一人では、きっとやっていけなかったわ」
笑いながら言った璃鈴は、ふいに秋華がひどく悲しそうな顔になったことに気づいた。
「秋華……?」
璃鈴がさらに声を掛けようとしたとき、かたり、と小さい音がした。
二人が振り向くと、ちょうど龍宗が部屋へと入ってくるところだった。最近はもう先ぶれがないことにも二人は慣れてきた。
「龍宗様!」
ぱ、と璃鈴が顔をほころばせる。秋華は気をきかせてか、龍宗と入れ違いに部屋を出て行った。秋華の様子が気にはなったが、璃鈴の意識はすぐに、久しぶりに会えた龍宗に向く。
(お化粧していること、何か言ってくれるかしら)
璃鈴はどきどきしながら龍宗を迎える。龍宗は璃鈴を見てわずかに目を瞠ったが、特段何も言わず部屋へ入ってきた。
その様子に璃鈴は少しだけ落胆を覚える。
(気づいておられないのかしら。それとも、やっぱり龍宗様の望むような美人じゃないから興味を持ってもらえないのかしら)
璃鈴の落胆には気づかずに、龍宗はいつも通りの長椅子に腰掛ける。
「息災であったか」
「はい。龍宗様は」
言いかけて、璃鈴はそれ以上の言葉を飲みこんだ。他の妃のことを、龍宗の口から聞きたくなかった。そう思う一方、龍宗が他の妃とどう過ごしているのか、知りたくてたまらなかった。
相反する気持ちを、龍宗にどう説明していいのかわからない。
黙り込んだ璃鈴をいぶかしく思いながら、龍宗は慣れた仕草で背もたれによりかかるとようやく落ち着いたように長く息を吐いた。
「仕事が終わらなくてな……執務室を出たのも久しぶりだ」
「え……お仕事、ですか?」
では、龍宗はここへ来ない間、他の妃のところへ通っていたわけではないのか。璃鈴はなんとなく安堵すると、無意識のうちに表情を緩める。
そんな璃鈴の様子を目の端に入れて、龍宗は飛燕の言葉が正しかったことを知った。
(やはり気にしていたのか。無理をしても今日こちらに来てよかった)
「仕事ではなく、何だと思っていたのだ?」
気持ちに余裕ができた龍宗は、からかうような言葉を口にした。複雑な心境を見透かされて、璃鈴は、か、と頬を染める。
「別に……龍宗様がお忙しいことなど、とうに知っておりましたから」
むっとしながら、ふい、と顔を逸らした璃鈴を見て、龍宗に軽い嗜虐心が湧いた。めったに見られない璃鈴の拗ねる顔が、たまらなくかわいらしいと思ってしまったのだ。誤解を解かねばと思う一方で、その顔をもう少し見ていたいという意地の悪い欲求が彼を支配した。
「ほう。では俺が来なくても寂しくないのか」
「龍宗様など、いない時の方が多いではありませんか。わたくしは平気です」
「では、明日は別の妃のもとへ通うとしよう」
それを聞いたとたん、璃鈴の胸に刺すような痛みが走った。
龍宗が別の妃のもとへ行く。その妃に微笑みかけ、璃鈴と同じように同衾するのだろう。
その想像は、驚くほどに璃鈴の胸に痛みを与えた。
「か……かまいません」
震える声は、涙を呼んだ。潤み始めた瞳を見られないように、璃鈴はさらに龍宗から顔を背ける。そ、と袖で涙を拭こうとした璃鈴は、そこに黒い染みがついてしまったことに気づいた。
(そうだ! 今は、化粧を……)
『化粧をしている間は、泣いてはいけません』
秋華の言葉が頭に響く。
(きっと今、私の顔って大変な事になっている!)
背を向けた璃鈴を見て、さすがにやりすぎたことに気づいた龍宗は体を起こした。
「璃鈴……」
「来ないでください!」
動揺した璃鈴は、とっさに心にもない言葉を龍宗に投げつけてしまう。龍宗は、眉をひそめながら言った。
「聞け、璃鈴」
「嫌です! あっちへ行って!」
「な……!」
璃鈴の態度で、龍宗の頭にも瞬時に血がのぼってしまう。
「聞けと言ってる! 妃たちのことなら、あれは官吏が勝手にやったことで俺は知らなかったんだ!」
化粧の事に加えて他の妃たちのことまで持ち出された璃鈴は、さらに激しく動揺して完全に冷静さを失ってしまった。
「そ、そんな言い訳しなくたっていいです。ここは龍宗様の後宮なんですから、お好きな妃のところへ行けばいいじゃないですか! それで、私のところに来なくたって……別に……!」
心に浮かんでいた不安を投げつければ、もう言葉が止まらなくなる。と同時に、我慢していた涙が一気にあふれてきた。
(もうダメ……!)
「だから俺は……!」
「知らない! 龍宗様なんて、大っ嫌い!」
そう言って璃鈴は、その場に座り込んで大声で泣き始めた。売り言葉に買い言葉で冷静さを失ってしまった龍宗も、派手な音を立てて卓に手をつくと立ち上がった。
「ああ大嫌いで結構! だったら二度と来るもんか!」
そう言い残して、足音も荒く龍宗は部屋を出て行った。
「……璃鈴様」
龍宗が出て行ったことに気づいた秋華があわてて部屋をのぞきこむと、璃鈴はまだ泣き続けていた。
(龍宗様……)
崩れた化粧を見られたくなかったとはいえ、自分が駄々っ子のように拗ねたことはわかっている。けれど、龍宗が他の妃にも璃鈴と同じように優しく笑いかけることを想像すると、自分でも驚くほどに感情が高ぶってしまった。
(これじゃあ、本当に子供みたい)
璃鈴はまだ、嫉妬、という言葉を知らなかった。だから、自分の内から湧いてきた堪えがたい衝動の意味がわからない。
ただ、悲しかった。
崩れてしまった化粧は、秋華がきれいに落としてくれた。そうして一人で布団に入ってからも、璃鈴の涙は止まらなかった。
☆
ばんっ。
乱暴に扉が開けられた音に、飛燕は顔をあげた。足音も荒く部屋に入ってくる龍宗を見て、書類を手にしたままぽかんとする。
「今夜は皇后様のところにおいでではなかったのですか?」
声をかけられてようやく飛燕に気づいた龍宗は、気まずそうに目をそらした。
「やめた」
龍宗は、どすん、と椅子に腰掛ける。
「お前こそ、こんな時間にこんなところでなにをしている」
「明日の朝議にかける資料の整理です。これが終わったら、私も後宮の宿直に行こうと思っておりましたが……それより、何かあったのですか?」
いぶかしげに言われて、龍宗は大きくため息をついた。
「璃鈴を……怒鳴ってしまった」
飛燕は目を丸くした。そして黙り込んでしまった龍宗の様子を、じ、と見つめる。
「後悔しておられるのですね?」
後宮からここまで歩いて来る間に、龍宗もほどほどに頭が冷えた。時間が立てば、むきになってしまった自分を恥じる気持ちがわいてくる。
些細な痴話げんかだ。悪いのは自分の方だとわからないほど、龍宗は子供ではなかった。
今日ほど、短気な自分の性格を恨めしく思ったことはない。
「……大人げないことを、した」
言って頭を抱えた龍宗からぽつぽつとことの顛末を聞いて、飛燕は笑んだ。
「かわいらしいではないですか。皇后様は、他の妃嬪の方々に嫉妬されたのですね」
「嫉妬……?」
「皇后様が自覚されているかはわかりませんが……今頃きっと後悔されていますよ。あなたと同じように。皇后様を、明日までそんな気持ちにさせておかれるおつもりですか?」
龍宗は、しばらく何か考えていたが、すく、と立ち上がった。
「明日は、昼の朝議まであなたの仕事はありません」
歩き始めた龍宗に、飛燕が声をかけた。
「そんなはず……」
「ありません。ですから、ゆっくりしていらっしゃいませ」
龍宗は、自分の机の上に乗っていた書類の山にちらと視線を流す。
「わかった」
飛燕は、去っていく後ろ姿に頭を下げて見送った。
☆
ふわり、と甘い香りがして、璃鈴は目が覚めた。いつのまにか、泣きながら眠ってしまっていたらしい。腫れた瞼を無理やりあけると、月明かりの部屋の中、目の前にぼんやりと淡い紅の色が視界に入ってきた。
(これは……桃?)
なぜか、璃鈴の枕元には、蕾をほころばせた桃の花が一枝、置いてあった。起き上ってそれを手に取った璃鈴は、庭へと通じる扉が薄く開いていることに気づく。枝を手にしたまま冷たい空気の入ってくる扉へと近づくと、璃鈴は庭をのぞいて目を見開いた。
そこには、桃の木を見上げる龍宗の背中があった。
気配に気づいて、龍宗が振り返る。璃鈴と目が合うと、気まずそうに龍宗が口を開いた。
「起こしてしまったか」
その息が白い。
「龍宗様……?」
「桃が、見ごろだ」
そう言うと、龍宗はまた桃の枝を見上げてしまう。月明かりに照らされて、枝についた花が薄闇の中に白く浮かんでいる。
「そうですね」
「後宮の南に、桃園があるのを知っているか?」
「いえ……まだ、見たことはありません」
「そうか。では、朝になったら見に行こう。一緒に」
「龍宗様、お仕事は?」
戸惑う璃鈴を振り向くと、さく、と芝を踏んで龍宗が近づいてくる。
「明日は午後からだ。……先ほどは、すまなかった」
璃鈴の泣きはらした瞼を、龍宗は指でそっとなぞる。
「妃の後宮入りは、官吏が勝手にやったことだ。だから一度も、俺はあれらのもとへは行っていない」
静かな龍宗の声に、今度は璃鈴も素直にその言葉を受け取った。
「龍宗様が望んだことではなかったのですか?」
「ああ。俺も知らなかった。国費を使わずすべて私財で賄ったと言われれば、経費削減という俺の反論は弱い。とにかく妃を置けば、いずれ手がついて後継の問題も明るくなるとでも思っているのだろう」
いまさらながら、それが後宮という場所の役割だと痛いほどに認識して、璃鈴は言葉を詰まらせる。
その璃鈴の腰を抱き寄せて、龍宗はすべらかな頬を片手で包んだ。
「化粧などしなくても、お前は十分美しいぞ」
「……気づいていらしたのですか?」
「もちろん」
(だったらさっき何とか言ってくれてもよかったのに)
ぷ、と頬を膨らませた璃鈴に、龍宗は笑う。
「璃鈴。妬いてくれたか?」
「妬いて……とは?」
意味がわからず、璃鈴はきょとんとする。龍宗は、先ほどまでの荒ぶる感情が嘘のように凪いでいるのを感じた。見上げてくる澄んだ瞳が、こんなにも愛おしい。
くるくると変わるその表情こそ、化粧よりもよほど璃鈴の美しさを際立たせる。
「俺が、他の妃に触れるのは嫌だったか?」
璃鈴は、龍宗と言い争った時の胸の痛みを思い出してもの憂げに目を伏せる。
「はい。なぜでしょう。その場面を想像しただけで胸が痛みます」
「それは、嫉妬、だ」
耳慣れない言葉に、璃鈴は顔をあげた。
「嫉妬……?」
「俺を他の妃に渡したくないと思う感情。それが、嫉妬だ」
確かに言われてみれば、それが苦しい胸の原因だ。しかしそんな気持ちは、後宮の妃としては持ってはいけない感情だという事も璃鈴はわかっている。
璃鈴は、すがるように龍宗の袖をつかんだ。
「でも、ここは後宮です。他の妃に触れて欲しくないなんて、そのようなわがままは申せません」
「言って欲しいと思う俺もわがままなのだから、ちょうどいい。……お前だけは、言っていい。俺が聞きたいのだ。俺を欲しがれ。俺のことを、愛しているのだろう?」
その言葉に、璃鈴は胸をつかれた。
(愛している……? 私が、龍宗様を?)
璃鈴は、秋華が好きだ。里のみんなが好きだ。独占欲のない愛しか知らない璃鈴が、嫉妬を胸にはらむほどに誰かを深く愛したのは、これが初めてだった。
「違うのか?」
間近に見える龍宗の目は、璃鈴が初めて見る優しい色をしていた。
「私は」
「愛して、いるのだろう?」
「私、は……」
言いながら龍宗は、璃鈴に顔を近づけていく。あまりの至近距離に、璃鈴がその緊張に耐えられず、ぎゅ、と目を閉じると、二人の唇が静かに重なり合った。
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「璃鈴様、お起きになっておられますか?」
一夜が明けた。
夕べの事もあり、少し早めに秋華は璃鈴の部屋にやってきた。声をかけて、やけに部屋の中が冷えていることに気づく。
「璃鈴様……?」
おそるおそるのぞきこんだ寝床の中に、璃鈴の姿がない。
「璃鈴様?!」
不安になって秋華があたりを見回すと、庭へ続く扉が開いていた。急いで外に出た秋華は、意外な光景を目にして思わず微笑んだ。
「まあ」
咲きほこる桃の木の根元に、璃鈴と龍宗が二人、幹にもたれて寄り添い眠っていた。とても、穏やかな表情で。
靴音も荒く歩いていく龍宗のあとを、飛燕は早足でついて行く。
「お待ちください、陛下」
「くだらん時間をつぶした。今度議案を持ってくるときは、しっかりと礼部で吟味して今回よりもましな内容にしろと周尚書に伝えておけ」
相談したい議案があるとわざわざ出向いてみれば、まるで中味のない案件だった。龍宗の質問にろくに答えることもできずにあたふたする礼部尚書をおいて、龍宗は早々に用意された部屋を退出したところだ。
飛燕も、首をひねる。
「おかしいですね。確かに新しい教育機関のことについては次の議案書に入れる予定でしたので、その精査だと思ったのですが……」
「あれでは、議論に値するとも思えない。一体周尚書は何を考えて」
「まあ、龍宗皇帝陛下」
ふいに声をかけられて、龍宗は振り向いた。
そこにいたのは、数人の侍女を連れた三人の女性だった。彼女たちは龍宗の姿を見て、優雅にその場で礼をとる。
「お初におもめじいたします。この度淑妃として入宮いたしました、周玉祥と申します」
「徳妃の、孟明貴です」
「賢妃、朱素香にございます」
女性たちはそれぞれあでやかに笑むと、龍宗に頭を下げた。
その顔ぶれを見て、龍宗の顔から表情が消える。背後で飛燕がぼそりと呟くのが聞こえた。
「なるほど。こういうことですか」
龍宗は、軽く舌打ちをする。
(淑妃は、周尚書の娘か。孟、朱、は確か同期の……)
どうやら、なかなか後宮に足を向けない龍宗に業をにやした官吏たちが、妃たちと顔を合わせるように仕組んだらしい。
「陛下、わたくしたちこれからあちらの庭園でお茶会ですの。どうぞ陛下もご一緒に」
「俺は」
「それはいいですね。ぜひ、ご一緒させてください」
即答で断ろうとした龍宗の言葉を遮って、飛燕が答える。じろりと睨まれて、飛燕は龍宗に耳打ちした。
「皇后様以外に通えとお勧めはいたしませんが、こちらの方々は官吏ともつながりが深い方もございます。せめて、お茶くらいはつきあってさしあげてくださいませ。あまり無下に断られるのも、今後の皇后様のお立場を考えれば得策ではないかと思います」
璃鈴のため、と言われれば、龍宗も弱い。確かに飛燕の言うとおり、後宮内の管理は皇后である璃鈴も大きくかかわっている。
しぶしぶついていくと、あざやかな迎春花がきれいに並んでいる庭に、すでに豪華な卓が用意されていた。
なにもかもがお膳立てされていたと知って、龍宗は苦虫をかみつぶしたような顔になる。飛燕はそれを後ろでひやひやしながら見ていた。
龍宗を座らせると、玉祥は当然のようにその隣に座る。龍宗の前には、見事な細工物の食器がずらりと並び、ところせましと色とりどりの菓子などが並べられていた。
皮肉交じりに龍宗が聞く。
「このような立派な茶会に、皇后は一緒ではないのか?」
「ええ。お誘いしたのですけれど、そっけなく断られてしまいましたわ。わたくしたちはみな皇后様とも懇意になりたいと思っていますのに、案外と冷たいお方ですのね」
憂う表情で玉祥が悲し気にまつげを震わせる。大人の色気を放つ艶やかな美妃だった。
周尚書の娘だということでただの縁故の入宮かと思っていたが、どうやらそれだけでもないらしい。さすがに淑妃に選ばれただけのことはある、と、他人事のように龍宗は感心する。
無言で自分を見つめる龍宗に気をよくした玉祥は、正面に座っていた明貴に声をかけた。
「孟徳妃は、舞の名手でございますのよ。明貴、どうです? 陛下のために一指し舞って差し上げては」
「まあ、玉祥様。わたくしの舞など、雨の巫女である皇后様に叶うものでは」
「雨を呼ぶなどと言われますが、そんな陰気な舞よりもずっと明貴の舞の方が華やかで美しいわ」
璃鈴を小馬鹿にしたような物言いに、龍宗は気色ばむ。だが、隣に座っている玉祥も正面にいた明貴も舞の話に夢中で、龍宗が気を悪くしたことに気づいていなかった。
「では、朱賢妃の琵琶があれば」
明貴が顔を向けると、素香が黙ってうなずいた。元来、無口な質らしい。すぐに侍女が、調節済みの琵琶を素香に渡す。
ちょうど卓から見やすい位置には、舞うのにちょうどいい場所が開いている。舞の件も、思いついて口にしたわけではなく、おそらく最初から仕組んであったものだろう。
椅子を持ってくると、素香はぽろんと琵琶を奏で始めた。それに合わせて、扇子を持った明貴が舞い始める。
最初は斜にかまえて見るともなしに見ていた龍宗だが、その見事な舞と音色についつい顔をあげていた。
さすがに、後宮の四妃に選ばれるだけの女性達だ。官吏のつながりが強いというだけではなく、一人一人が十分に皇帝の妃としてその役割を果たせるだけの能力を持っていた。いや、むしろそのためにあらゆる教育を受けて育てられたのだろうと、龍宗は気づく。
一通りの舞が終わると、龍宗は素直に感嘆の言葉を口にした。
「流麗だな」
「恐れ入ります」
「日龍伝か。輝加創記では、三指にはいる有名な舞だが、舞にしろ琵琶にしろ、ここまで仕上げられるものは国でもそうはいまい。素晴らしかったぞ」
明貴は得意げに顔を上げた。
「お褒めの言葉をいただき、光栄ですわ。周淑妃の水姫伝も実に見事でございます。ぜひ、次の機会にご覧になってくださいませ」
「ほう」
感心する龍宗に礼をすると、二人はそれぞれの席へと戻る。龍宗はその様子から、三人の力関係を推し量ることができた。
「わたくしたち、後宮でもよくこのように共に舞を楽しんだりしておりますの。ぜひ今度陛下もいらっしゃってください」
豊かな胸元を龍宗に押し付けて、玉祥がしなだれかかってきた。自分の色香を熟知した仕草にも、龍宗は笑みも浮かべずに立ち上がる。
「考えておこう」
それだけ言うと、飛燕と一緒にその場を後にした。
残された玉祥たちの前に、影から様子をうかがっていた一人の官吏が現れる。
「どうだ。陛下の様子は」
それは、礼部の周尚書だった。
「他愛もないですわ、お父様」
玉祥は、手にした梨を口に入れながら答えた。
「あっさりと私の色香に落ちましてよ? 頑固だ短気だと聞いておりましたが、あれはたんに女慣れしていないだけではありませんこと?」
龍宗に対していた態度から一変して、玉祥は冷たい声で言った。
「そうかもしれんな。だからあんな子供のような皇后に熱をあげているのだろう」
「私たちがいれば、皇后などもう目に入らなくなるのも時間の問題ですわ。ねえ、明貴、素香」
二人もそろってうなずく。明貴は、ふん、と鼻をならした。
「陛下ったら、玉祥様の魅力にあっという間に落ちて、鼻の下をのばしておられましたわ。でれでれとにやけた顔で胸元をのぞかれて。おじさまのお話からどんな堅物かと思っていましたけど、たいしたことないではありませんか」
「明貴、口が過ぎるぞ。どこで聞かれているかわからないのだから、後宮にいる間はおとなしくしておれ」
あわててあたりを見回して言った周尚書に、明貴は口を閉じる。
「でも、私たちのことを、ちゃんと見てくれた」
ぽつり、と素香が言った。
「あの方は、愚鈍ではない」
「そう? 結構単純そうだったけど」
素香に反論された明貴は不満そうに答えて、卓の上から小さなまんじゅうをとって口に放り込む。
「とにかく」
周尚書は、玉祥をみすえる。
「お前たちなら、陛下を籠絡することは簡単だろう。頼むぞ、玉祥」
言いながら、周尚書は明貴と素香にも視線を走らせる。
彼女たちの実家は、それぞれすでに周尚書の息がかかっていた。これで玉祥が後宮の実権を握れば、これから入ってくる妃嬪たちの家にも周尚書の影響を与えることができる。それは、輝加国内での権力の強さをも意味するのだ。
「わかってますわ。後宮内のことは私たちにお任せください」
玉祥は、嫣然と微笑んだ。
☆
秋華は、ぼんやりと一人で池の淵に立っていた。胸のあわせから小さな包みを取り出すと、じ、とそれに視線を落とす。
それは、先ほどのことだった。
-------------
「来たか」
人目をはばかるように秋華がおとずれた部屋には、周尚書と中年の女性が待っていた。
「どうだ。最近の皇后の様子は」
「特に、変わりは。ですが、疲れたとこぼすことが多くなってまいりましたので、体調を崩すのも時間の問題かと」
「そうか。陛下に怪しまれてはまずい。ことは慎重に運べ。まだ妊娠の兆候はないか」
「はい」
淡々と答える秋華に、周尚書は顔をしかめた。
「嘘をついてもすぐわかるぞ」
「本当でございます」
「早く他の妃にもお通いになればよろしいのに」
いまいましげに口を挟んだのは、尚宮として後宮を管理している李伝雲だ。冬梅の上司にあたる。
「仕事仕事ばかりで、少しは御子のことも目を向けて欲しいものですわ」
「まだ皇后が珍しいのだろう。神族の娘という事で、気を使っているのかもしれない」
「そんな必要ありませんのに。万が一これで皇子を授からなければ、輝加国の未来に関わります」
「なに、すぐに飽きよう。そろえたのはいずれも美妃と評判の娘ばかりだ。若い皇帝が放っておくものか」
うつむいたまま、秋華はその会話を聞いていた。
「秋華、これを」
名を呼ばれて、秋華は顔をあげる。秋華の差し出した手に小袋を渡しながら、周尚書は渋い顔つきになった。
「そろそろ一ヶ月になるか。何かしらの症状がでても良い頃なのだが……」
「ずいぶん元気な皇后ゆえ、効きが弱いのかもしれません。なにしろ、毒を飲んだと本人やまわりに気づかれては元も子もないですから。ですが、確かにもう少し反応が欲しいところですわね。今までより多めに混ぜなさい、秋華」
「はい」
覇気のないその声に、伝雲が眉をひそめた。
「お前、ちゃんと皇后の食事にこれを混ぜているだろうね?」
「もちろんでございます」
受け取った小袋をぎゅ、と握りしめて秋華は答えた。その様子に、周尚書は不敵な笑みを浮かべる。
「仲間だった娘を裏切るのがつらいか?」
「いいえ」
暗い目をして、秋華は笑んだ。
「おそれながら璃鈴様はまだすべてに幼く、この国を任せられるような妃にはございません。私の方が、ずっと皇后にふさわしい。かならずやあの娘を弑して、私が皇后の座についてみせましょう」
「頼もしいな。その時は、私がまとめる貴族一派すべて、お前に付き従おう」
「ありがとうございます。周尚書」
秋華が部屋を出て行くと、二人は顔を見合わせた。
「ああは言ってますが、本当に大丈夫なのでしょうか、あの娘」
周尚書は、腕を組んで考え込む。
「皇后よりは与しやすかろうと思ってこちらに引き込んだが、やはり皇后に情を残しているのかもしれん」
伝雲は、思い切り眉をしかめた。
「だからあんな得体の知れないところからきた娘たちなど、皇后にするべきではないと陛下に何度も申し上げたのです。神族の巫女などと崇め奉ったところで、しょせん昔話。やはり皇后にはそれ相応の地位にあるものがふさわしいでしょう」
「当然だ。しかし、後宮を掌握するためには、どうしても皇后は懐柔する必要がある。秋華には、新しい皇后となって欲しいところだが……」
「玉祥様の方のご様子はいかがです?」
「いまだ陛下は誰の元にも通っていないようだ」
苦々しく周尚書が言った。
娘たちを後宮に入れたはいいものの、待てど暮らせど龍宗は誰のもとにも通わない。姿さえ見せれば皇帝の興味をひけるかと、顔をあわせるように画策もした。だが、それからも龍宗は一向に誰の元にも訪れない。
いや。足しげく後宮に通うのは、皇后のもとのみだった。
最近の周尚書は、矜持を折られたと憤慨する玉祥の八つ当たりの的になっている。
「あまり時間をかけて、皇后に子でもできたら面倒だ」
「では」
伝雲が思わせぶりに言うと、周尚書はうなずいた。
「次の手を打つとしよう。あの娘には、皇后もろとも死んでもらう」
-----------
「秋華?!」
急に名前を呼ばれて、は、と気づいた秋華は、あわててその包みを胸のあわせに戻して振り向く。
「璃鈴様」
渡り廊下の端から、璃鈴が驚いたようにこちらを見ていた。
「なにしているの? 濡れるじゃない!」
言われて気付いたが、いつのまにか雨が降り始めていた。
秋華に駆け寄ってきた璃鈴は秋華を引っ張って屋根の下に駆け込むと、袂から手巾を取り出して秋華の濡れた体を拭く。
「ああもうこんなに濡れて。なんであんなところに立ってたのよ」
宮城から戻るところだった秋華は、璃鈴の顔を見る気になれずに、なんとなくふらふらと庭を歩き出してしまった。ぼんやりと池を見ている秋華に璃鈴が気づいて、急いで呼びにきたのだ。
「何かあったの?」
心配そうに璃鈴が聞くと、秋華はにこりと笑う。
「いえ。少し考え事をしていました」
「そう? 心配なことでも、あるの?」
「ありませんよ。それよりすみません。璃鈴様まで濡れてしまいましたね」
「これくらい平気よ……あら?」
秋華の衣を拭いていた璃鈴は、胸のあたりで硬い感触に触れる。は、と秋華は体をひいた。
「何か……」
「私、濡れた衣を着替えてきます。璃鈴様は、お部屋に戻っていてくださいね」
早口で言って踵を返すと、秋華は急ぎ足で後宮へと戻った。
(気づかれたかしら……)
秋華は、胸元にいつも入れている短剣を、衣の上からぎゅ、と押さえる。
「秋華……?」
その背を、璃鈴は戸惑いながら見ていた。
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