拝啓、あしながおじさん。


(今日は進路のこと話すヒマなさそうだな……。園長先生、忙しそうだし)

 そんなことを思いながら制服からブルーのギンガムチェックのブラウスとデニムスカート・白いニットに着替えた愛美は、一階に下りておチビちゃんたちがおやつ中の食堂を横切り、台所に入る。

「先生たち、ただいま! わたしもお手伝いします!」

「あら、愛美ちゃん。おかえりなさい。いつも悪いわねえ。――じゃあ、理事会の人たちにお出しするお茶、淹れてもらえる?」

「はーい」

 施設の麻子(まこ)先生にお願いされ、愛美はテキパキと動き始めた。
 急須にお茶っ()を量って入れて、その上からお湯を注ぐ。しばらくすると、いい香りのする美味しい緑茶ができ上がった。

「今日は何人の方が来られてるんですか?」 

「えーっと……、確か九人だったかな。だから、園長先生の分も合わせて一〇(じゅう)人分ね」

「分かりました」

 ということだったので、上等な湯飲みを一〇人分食器棚から出してお盆に()せ、急須から出でき立ての緑茶を淹れていく。

「できました! わたし、運んできます!」

「いいから、愛美ちゃん! ありがとう。あとは(わたし)たちでやるから、部屋で休んでていいわよ。晩ごはんの時間になったら呼ぶから」

「……はーい」

 愛美はしぶしぶ(うなず)いた。本当は「お茶を運ぶ」という口実(こうじつ)で、理事たちの顔を確かめたかったのだけれど……。
 毎月こうなのだ。愛美が「お茶を運ぶ」と言うたびに、先生たちに止められる。そのため、愛美はこの施設の理事がどんな人たちなのか、全然知らないのである。

 ――ただ一つ、ハッキリしていることがある。

(……まあ、お金持ちなんだろうな。こういう施設に寄付できるくらいなんだから)

 愛美はそういうお金持ちとか、セレブとかいわれている人たちの生活を知らない。学校の友達にもいないし、どれだけ想像力を働かせても思い浮かばない。

 彼女は幼い頃から、本を読むのが好きだ。想像力も豊かで、将来は小説家になりたいと思っている。その豊かな想像力をもってしても、具体的なイメージが浮かばないのだ。

 ――窓際の学習机で学校の宿題を終わらせ、一息ついた愛美は何げなく窓の外に視線を移す。
 もう夕方の六時前。外は暗くなり始めている。
 理事会は終わったらしく、門の外には黒塗りの高級リムジン車やハイヤーが何台も列を作っている。

「いいなあ……。わたしも乗ってみたいな」

 愛美はちょっと(あこが)れを込めた眼差しでその光景を眺め、机に頬杖(ほおづえ)をつきながら想像してみた。――ピカピカに磨かれた高級リムジンに乗り込む自分の姿を。
 高級ブランドスーツに身を包み、後部座席にゆったりもたれてお抱え運転手に「家までお願い」とか言っている――。そう、自分はお金持ちの令嬢だ。
 そして高級リムジンは立派なゲートを抜け、大豪邸の敷地内へ入っていく――。

 けれど。愛美の空想はそこまでで止まってしまった。

「……あれ? 大豪邸の中ってどんな感じなんだろう?」

 一度も入ったことのない、大きなお屋敷の間取りがどんな風になっているのか、インテリアはどんなものなのか? 全くもって想像がつかない。
 友達の家に遊びに行ったことはあるけれど、そこだってごく普通の民家。〝豪邸〟と呼べるほど立派な家ではないのだ。

「はあ…………」

 なんだか(むな)しくなった愛美は、空想を打ち切った。ちょうど、おやつタイムが終わったおチビちゃんたちが戻ってきたからでもある。

 ――これが愛美の現実。高級リムジンで送迎してもらえるようなお嬢様にはなれないし、そんな人たちと自分は住む世界が違うんだ。彼女はそう思っていた。

 ――この日の夜、聡美園長先生から思いがけない話を聞かされるまでは……。


「――ごちそうさまでした」

 晩ごはんの時間。愛美は半分も食べないうちに、箸を置いてしまった。今日のメニューは、大好物のハンバーグだったというのに。

「あら、愛美ちゃん。もういいの?」

 照美(てるみ)先生が、心配そうに愛美に()いた。

「うん、なんかあんまり食欲なくて……。先に部屋に行ってます」

「そう? あとでお夜食に、おにぎりが何か持って行ってあげましょうか?」

「ううん、大丈夫です。ありがとう」

 ぎこちなく笑いかけて、愛美は食堂を出た。重い足取りで階段を上がっていく。

(……結局、園長先生に進路のこと話せなかったなあ)

 理事会はもう終わっているはずなのに、園長先生は晩ごはんの席にも来なかった。その前にでも、話そうと思っていたのに。

 部屋に戻ると、愛美はしおりが挟まった一冊の本を手に取った。
『あしながおじさん』――。彼女が幼い頃からずっと愛読している本で、もう何度読み返したか分からない。

 この本の主人公・ジュディも愛美と同じように施設で育ち、ある資産家に援助してもらって大学に進学。作家にもなった。

 ――もし、この本みたいなことが自分にも起こったら? 進学問題だって簡単に解決できちゃうのに……。

「……まさかね。そんなこと、あるワケないか」
 愛美は一人呟く。これではあまりにも妄想(もうそう)が過ぎる。
 それは、ジュディが物語のヒロインだから起こり得た奇跡だ。現実に起こる確率は限りなくゼロに近いと思う。

「……でも、ゼロだとも言えないよね」

 希望は捨てたくない。自分の境遇(きょうぐう)(うれ)いて、手を差し伸べてくれる人がきっと現れる――。いつもそう思っているから、愛美はこの本を読むことをやめられないのだ。

 ――弟妹たちが食堂から戻ってきたことにも気づかず、愛美が読書に夢中になっていると……。

「――愛美姉ちゃーん! 園長先生が呼んでるよー!」

 部屋の外から涼介の声がした。愛美はすぐ廊下に出て、彼に(たず)ねる。

「園長先生が? わたしに何のご用だろう?」

「さあ? オレはそこまで聞いてないけど。ただ『呼んできて』って頼まれただけだよ」

「……そっか、分かった。ちょっと行ってくるね。ありがと、リョウちゃん」

 涼介はこの施設の子供の中で、愛美と一番(とし)が近いので、話も合うし仲がいい。だからこうして、たまに愛美の呼び出し係にされることもある。
 でも、彼は「イヤだ」と言わない。彼にとって愛美姉ちゃんは、血は繋がっていなくても実の姉のような存在だから。〝姉ちゃん〟の役に立てることが嬉しくて仕方ないのだ。

 ――それはさておき。

(園長先生、わたしにどんな御用なんだろ……?)

 一階まで階段を下りながら、愛美は首を(かし)げた。これといって思い当たることがないのだ。
 叱られるようなことは何もしていない。……少なくとも愛美自身は。
 でも、同じ六号室の幼い弟妹たちの誰かが、理事さんに失礼なことでもしていたら……? それは一番年上の愛美の責任でもある。

(ああ、どうしよう……?)

 ――でも。もしも、そうじゃなかったとしたら。

(もしかして、わたしの進路の話……とか?)

 愛美は今日、学校で担任の先生と面談したのだ。卒業後の進路について、まだ決められないのでどうしたらいいか、と。
 その連絡が、園長先生に入っていてもおかしくない。この施設の園長が、愛美の保護者にあたるのだから。

(……いやいや! まさか、そんなこと――)

 愛美は首をブンブンと横に振った。
 もしそうだとしたら、この展開は愛美の愛読書・『あしながおじさん』のエピソードにそっくりじゃないか!

 でも、「ない」と否定しきれない自分がいて、愛美はソワソワしながら暗くなった一階の職員用玄関の前を通りかかった。
 ――と、そこには一人の人影が見える。
 暗いので顔は見えず、見えるのはシルエットだけ。その後ろ姿から分かることは、背の高い男性だということだけだ。
 
(……わ、すごく背の高い人だなあ。それに……結構若い?)

 どうしてそう思ったのかは、愛美にもよく分からない。けれど、何となく「この人、そんなに年齢(とし)いってないんじゃないか」と思ったのである。

 愛美が彼の後ろ姿にしばらく見入っていると、外が一瞬パッと明るくなり、愛美は(まぶ)しさに目がくらんだ。外に迎えの車が停まり、ヘッドライトで照らされたらしい。

 次に彼女が目を開けた時、目にしたのは壁に映ったヒョロ長い影――。

(……えっ!? 待って! これって……同じだ!)

 愛美にはピンときた。『あしながおじさん』の本の中に、同じシチュエーションが登場するのだ。
 あの時、ジュディはそのコミカルな影を目にして笑い出した。愛美も笑顔になったけれど、理由は違う。

(もしかして、奇跡……起きちゃうかも!)

 ジュディのような幸運が、自分にも待っていそうな気がして嬉しかったのである。

****

「――失礼しまーす……」

 家と同じなので、愛美がノックせずに園長室のドアを開けると、園長先生はニコニコ笑って彼女を待っていた。

「愛美ちゃん、待ってたのよ。お座りなさいな。急に呼んじゃって悪いわねえ」

「はい。――園長先生、わたしに何かご用ですか?」

 愛美は応接セットのソファーに、聡美園長と向かい合う形で浅く腰かけた。
 若葉(わかば)聡美園長は六十代半ばの穏やかな女性で、愛美を始めとするここの子供たちにとっては優しいおばあちゃんのような存在である。 

「ええ。あなたに大事な話があるの。――その前に、今しがたお帰りになった方、愛美ちゃんも見かけたかしら?」

「あ、はい。後ろ姿だけチラッとですけど……。あの方、理事さんなんですか?」

「ええ。二年くらい前に理事になられて、この施設に多額の援助をして下さってる方なの。ただ、ご事情がおありだとかで、本名は伏せてほしいって言われてるんだけれど」

「はあ……、そうなんですか」

 愛美は面食らった。先ほど見かけただけのあの理事は、聞いた限りではちょっと変わり者のようだ。
 けれど、園長先生だってわざわざ「あの理事さん、変わっててねえ」なんて世間話をするためだけに愛美を呼んだわけではないだろう。

「あの方、これまでここの男の子たちには目をかけて下さって、二人ほどあの方のおかげで進学できた子がいるの。ただ、女の子はその対象からは外れてたのよ。理由は分からないけれど、もしかしたら女の子が苦手なのかしらねえ」

「はあ……」

 愛美が何だかよく分からない相槌(あいづち)を打っていると、園長はガラリと口調を変え、真剣そのものの表情で愛美に訊いた。

「愛美ちゃん。あなたは確か、進学を希望してるんだったわね?」

「……はい。難しいっていうのはよく分かってますけど」

 愛美もいよいよ本題に入ったのだと察し、姿勢を正して答えた。

「実は今日、あなたの担任の先生からお電話を頂いてね。今日の理事会でも、あなたの進路について急きょ話し合うことになったの」

「はい……」

 一体、どんな話し合いがされたんだろう? ――愛美は固唾(かたず)を飲んで、園長先生の話の続きを待った。

「愛美ちゃんも知ってるでしょうけれど、この〈わかば園〉は経営が苦しくて、愛美ちゃんの高校の費用を出してあげられないの。それ以前に、ここには中学校を卒業するまでの間しか置いてあげられない」

「それは分かってます」

 愛美が堅い表情で頷くと、園長先生は表情を少し和らげ、申し訳なさそうに続けた。

「愛美ちゃん、あなたには本当に感謝してるし、申し訳ないとも思ってるのよ。私たち職員の手が回らない分、小さい子たちのお世話や施設の仕事も手伝ってもらって」

「いえ、そんな! わたしが進んでやってることですから、気にしないで下さい!」

 それは、弟妹たちやこの施設が大好きだから。ただみんなの役に立ちたくてやっているだけだ。

「そう? それならいいんだけれど……。でもね、私はあなたの夢を知ってるし、応援してあげたいの。だから、進学はするべきだと思うわ」

「えっ!? でも――」

「話は最後まで聞きなさい、愛美ちゃん」 

 言っていることが矛盾(むじゅん)している、と抗議しかけた愛美を、聡美園長がたしなめる。

「私が理事会のみなさんにそう言ったらね、先ほどのあの方が私に賛同して下さって。『彼女の文才をこのまま埋もれさせるのは()しい』って」