「――はあ……」
ここは山梨県のとある地方都市。
秋も深まったある日、一人セーラー服姿の女子中学生が、学校帰りに盛大なため息をつきながら田んぼの畦道をトボトボと歩いていた。
それは決して、テストの成績が悪かったから……ではない。彼女の成績は、学年ではトップクラスでいいのだから。
彼女の悩みはもっと深刻なのだ。進路決定を控えた中学三年生にとって、進学するか就職するかは一大事である。
彼女は進学を望んでいる。けれど、それが難しいことも分かっている。
なぜなら、彼女は幼い頃から施設で暮らしているから。
彼女――相川愛美は、物心つく前から児童養護施設・〈わかば園〉で育ってきた。両親の顔は知らないけれど、聡美園長先生からはすでに亡くなっていると聞かされた。
〈わかば園〉は国からの援助や寄付金で運営されているため、経営状態は決していいとはいえない。そのため、この施設には中学卒業までしかいられない。高校の進学費用なんて出してもらえるわけがないのだ。
進学するとなると、卒業までに里親を見つけてもらうか、後見人になってくれる人が現れるのを待つしかない。
卒業まであと半年足らず。そういう人が、そんな簡単に見つかるとは思えないけれど……。
「進学したいなあ……」
愛美はまた一つため息をつく。高校に進学することが普通じゃないなんて――。
学校の同級生はみんな、当たり前のように「どこの高校に行く?」という話をしているのに。
(どうしてわたしには、お父さんとお母さんがいないんだろう?)
実の両親は亡くなっているので仕方ないとしても、義理の両親とか。誰か引き取ってくれる親戚とかでもいてくれたら……。
「――はあ……。帰ろう」
悩んでいても仕方ない。施設では優しい園長先生や先生たちや、〝弟妹たち〟が待っているのだ。
様々な理由で〈わかば園〉で暮らしている子供たち。愛美はその中で一番のお姉さん。血は繋がっていないけれど、みんな同じ施設に暮らす弟たち・妹たちだ。
大して荷物は入っていないけれど、心もち重いスクールバッグを肩にかけ直し、愛美は重い足取りでまた畦道を歩き始めた――。
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「ただいまぁ……」
〈わかば園〉の門をくぐると、愛美は庭で遊んでいた弟妹たちに声をかけた。
そこにいるのはほとんどが小学生以下の子供たちだけれど、そこに中学一年生の小谷涼介も交じってサッカーをやっている。
「あ、愛美姉ちゃん! お帰りー」
「……ただいま。ねえリョウちゃん、先生たちは?」
「先生たちは、園長先生の手伝いしてるよ。今日、理事会やってっから」
「そっか。今日、理事会の日だったね。ありがと」
この施設では毎月の第一水曜日、この〈わかば園〉に寄付をしてくれている理事たちの会合があるのだ。
ここの子供の中では最年長の愛美は、毎月自主的に園長や他の先生たちの手伝いをしている。――〝手伝い〟といっても、お茶を淹れたりするくらいのもので、理事たちの前に出ることはめったにないのだけれど。
「――さて、わたしも着替えて手伝おう」
玄関で靴を脱ぎ、散らかっている子供たちの靴と一緒に自分の靴も整頓してから、愛美は階段を上がって二階の六号室に向かった。
ここは彼女の一人部屋ではなく、他に五人の幼い弟妹たちも一緒に暮らしている部屋。
幸い、この部屋のおチビちゃんたちは食堂でおやつの時間らしく、部屋には誰もいなかった。
(今日は進路のこと話すヒマなさそうだな……。園長先生、忙しそうだし)
そんなことを思いながら制服からブルーのギンガムチェックのブラウスとデニムスカート・白いニットに着替えた愛美は、一階に下りておチビちゃんたちがおやつ中の食堂を横切り、台所に入る。
「先生たち、ただいま! わたしもお手伝いします!」
「あら、愛美ちゃん。おかえりなさい。いつも悪いわねえ。――じゃあ、理事会の人たちにお出しするお茶、淹れてもらえる?」
「はーい」
施設の麻子先生にお願いされ、愛美はテキパキと動き始めた。
急須にお茶っ葉を量って入れて、その上からお湯を注ぐ。しばらくすると、いい香りのする美味しい緑茶ができ上がった。
「今日は何人の方が来られてるんですか?」
「えーっと……、確か九人だったかな。だから、園長先生の分も合わせて一〇人分ね」
「分かりました」
ということだったので、上等な湯飲みを一〇人分食器棚から出してお盆に載せ、急須から出でき立ての緑茶を淹れていく。
「できました! わたし、運んできます!」
「いいから、愛美ちゃん! ありがとう。あとは私たちでやるから、部屋で休んでていいわよ。晩ごはんの時間になったら呼ぶから」
「……はーい」
愛美はしぶしぶ頷いた。本当は「お茶を運ぶ」という口実で、理事たちの顔を確かめたかったのだけれど……。
毎月こうなのだ。愛美が「お茶を運ぶ」と言うたびに、先生たちに止められる。そのため、愛美はこの施設の理事がどんな人たちなのか、全然知らないのである。
――ただ一つ、ハッキリしていることがある。
(……まあ、お金持ちなんだろうな。こういう施設に寄付できるくらいなんだから)
愛美はそういうお金持ちとか、セレブとかいわれている人たちの生活を知らない。学校の友達にもいないし、どれだけ想像力を働かせても思い浮かばない。
彼女は幼い頃から、本を読むのが好きだ。想像力も豊かで、将来は小説家になりたいと思っている。その豊かな想像力をもってしても、具体的なイメージが浮かばないのだ。
――窓際の学習机で学校の宿題を終わらせ、一息ついた愛美は何げなく窓の外に視線を移す。
もう夕方の六時前。外は暗くなり始めている。
理事会は終わったらしく、門の外には黒塗りの高級リムジン車やハイヤーが何台も列を作っている。
「いいなあ……。わたしも乗ってみたいな」
愛美はちょっと憧れを込めた眼差しでその光景を眺め、机に頬杖をつきながら想像してみた。――ピカピカに磨かれた高級リムジンに乗り込む自分の姿を。
高級ブランドスーツに身を包み、後部座席にゆったりもたれてお抱え運転手に「家までお願い」とか言っている――。そう、自分はお金持ちの令嬢だ。
そして高級リムジンは立派なゲートを抜け、大豪邸の敷地内へ入っていく――。
けれど。愛美の空想はそこまでで止まってしまった。
「……あれ? 大豪邸の中ってどんな感じなんだろう?」
一度も入ったことのない、大きなお屋敷の間取りがどんな風になっているのか、インテリアはどんなものなのか? 全くもって想像がつかない。
友達の家に遊びに行ったことはあるけれど、そこだってごく普通の民家。〝豪邸〟と呼べるほど立派な家ではないのだ。
「はあ…………」
なんだか虚しくなった愛美は、空想を打ち切った。ちょうど、おやつタイムが終わったおチビちゃんたちが戻ってきたからでもある。
――これが愛美の現実。高級リムジンで送迎してもらえるようなお嬢様にはなれないし、そんな人たちと自分は住む世界が違うんだ。彼女はそう思っていた。
――この日の夜、聡美園長先生から思いがけない話を聞かされるまでは……。