先ほどより空気が柔らかくなったのを感じる。
 喧嘩をしても後に残さないのがふたりのすごいところであると、柚子は感心する。
「透子とにゃん吉君でも異性関係で揉めることもあるんだね」
 まるで熟年夫婦のような安定感を持っていたので、なんだか新鮮な気持ちだった。
 そんな柚子の肩を透子ががっしりと掴む。
「当たり前でしょう。いい、柚子! 柚子も浮気されたら浮気し返してやりなさい。主導権を相手に与えちゃ駄目よ」
「おいこら、透子。そいつに変なこと教えんな! 俺が鬼龍院様に消されるだろ!」
「なに言ってるのよ、こういうことはしっかりとどっちが上かはっきりさせとかないといけないのよ。分かった? 柚子!」
「う、うん。分かった……」
 玲夜が浮気している姿は到底想像できなかったが、ここは殊勝に頷いておく。
 柚子の返事に満足そうにした透子は、それ以上杏のことや東吉のヘタレた行動を口にすることはなかった。
 ちゃんと引き際はわきまえているのだ。

 そうしてホテルへと到着した柚子たちは車を降りて待ち合わせの場所へと急ぐと、すでに蛇塚の姿があった。
「ごめん、蛇塚君。遅れちゃって」
「にゃん吉のせいで、ごめんなさいね」
「俺が悪うございました……」
 蛇塚はきょとんとした後、ぶんぶん首を横に振った。
「大丈夫」
 東吉の昔からの友人である蛇塚は、人相はかなり悪いく言葉も少ないが、心根はとても優しい。
 かなり遅刻をしてやってきた柚子たちに対しても、嫌な顔ひとつしなかった。
「じゃあ、さっそくバイキングに行こっか」
 柚子がそう言うと、蛇塚はこくりと頷く。
 高級ホテルにあるレストランだけあって、内装は落ち着いた上品な雰囲気であった。
 並べられたスイーツも、女性でも食べやすいように小さく分けられており、ひとつひとつのクオリティが高い。
 まるで宝石のようにキラキラとしていて食欲をそそる。
 全種制覇せんと、片っ端から取っていく柚子と透子に対し、好きな物だけを取る東吉と蛇塚。
 皿に載せられたスイーツをとりあえず写真に撮って柚子は玲夜に送った。
 仕事をしているだろうに、すぐに既読が付き、『楽しんでこい』と返信が来た。
 それを確認してから、食べ始める。
 透子などは美味しさに手が止まらないようで、蕩けんばかりの表情で次から次へと皿をからにしていく。
「透子……。あんま食い過ぎんなよ」
 透子の食欲に東吉が呆れたようにしている。
「なに言ってんのよ、ここのスイーツバイキングって中々予約が取れないって有名なのよ。堪能しないと。ねえ、柚子?」
「うんうん。蛇塚君に感謝だね」
「ほんとほんと」
 スイーツバイキングが人気で予約が取れないこのレストランのオーナーは蛇塚なのだ。
 元々は蛇塚の父親の所有だったが、大学に入ったご祝儀代わりに蛇塚が引き継いだらしい。
 それをつい最近知った透子が、蛇塚に行きたいと強請ったのだ。
 折しも、透子の誕生日が近く、プレゼントはなにがいいかなどという話題をしていたところだったので、それならと蛇塚が席を用意してくれたのだ。
「それにしても、もうその年で家の仕事に関わってるのってすごいね」
 決してお世辞ではない心からの賞賛だ。
 衣食住を玲夜に頼る柚子からしたら、蛇塚がすごく大人に見える。
「オーナーって言っても名ばかりだから。それに家の仕事なら東吉だってしてる」
「そうなの?」
 柚子が問うと、「まあな」と東吉も頷く。
「高校までは好きにさせてもらってたが、大学を卒業したら本格的に家の仕事に携わるから、その予行演習みたいなもんだ」
「……なんか、にゃん吉君が大人に見える」
 なぜか悔しい。
「そうは言うがまだ手伝わされてるのは雑用ばっかだぞ?」
「それでも、ちゃんと仕事してるのはすごいよ。大学卒業してからのこともちゃんと考えてるんでしょ?」
「そりゃあな。俺には透子がいるし、ちゃんと養っていかないとな」
 それがすごいのだ。ちゃんと将来を見据えて今を生きている。
「私も大学卒業したら働いてみたいっ」
「無理だろ」
「無理じゃない?」
「無理……」
 希望を言っただけなのに、三人そろって否定された。
「どうして?」
「若様が許すわけないない」
 透子がそう言えば、東吉と蛇塚も何度も頷く。
「でも、透子だって大学卒業したら働いてみたいとか思わないの?」
「うーん。まあ、ないこともないけど……」
 透子はちらりと東吉を見る。その視線を受けた東吉は……。
「花嫁を持つあやかしってのは花嫁を外に出したくないもんなの。今鬼龍院様が柚子を自分の会社で働かせてるのだって異例中の異例なんだぞ。そこんとこもっとよく分かっとけ」
「これだからね。私は諦めてる」
 と、透子は肩をすくめた。
「う~……」
 不服そうな柚子。
 花嫁は基本家で囲われるものだ。
 そう何度となく周りから教えられてきたが、なにもしないでいるとただ飯食らいな気持ちになってしまうのは、生真面目な柚子の性格故だろう。
 玲夜がそんなことを気にしないことは柚子も分かっている。
 いるのだが……。
 柚子は大きく溜息を吐いた。
「はあ、大学で他の子が卒業後の進路のこととか話してるの聞いてるとなんか焦っちゃうんだよね」
「あー、分かる。居心地悪いのよね、そう言う時。あなたはどうするのって聞かれた時とか特にね」
 同じ立場の透子はさすがに柚子の気持ちが分かるようだ。
「別に好きなことしてればいいだろ。ただし、目の届かない所に行くのはなしだ」
「これだもん」
 やれやれといった様子の透子は、一拍の沈黙の後「あっ!」と声を上げた。
「つまり、柚子は家で大人しくしてるのが嫌なんでしょう?」
「うん。なにか玲夜の役に立ちたい」
「ならさ、若様専属の秘書になっちゃえば?」
「秘書?」
「こらこら、透子。また余計なことを言い出すんじゃねぇだろうな」
 口元を引き攣らせる東吉の横で、透子は名案だと言うように目を輝かせた。
「若様にさ、ずっとそばにいたいから玲夜の専属秘書にしてって上目遣いでお願いしたら、柚子に甘甘の若様ならコロリといっちゃうんじゃない?」
「なるほど……」
「いや、なるほどじゃねぇよ!」
 鋭い東吉のツッコミが炸裂するが、柚子は聞いていない。
「それなら勉強して秘書検定受けとくのもありかも」
「おいおい、頼むから透子が助言したなんて鬼龍院様に言うんじゃねぇぞ……」
 もう言っても聞きそうにない柚子を見て、東吉はがっくりとする。
 慰めるように、蛇塚がそっと東吉の肩に手を乗せていた。