翌日、なにごともなく退院をした柚子は屋敷へと帰ってきていた。
 昨夜部屋を出て行ってしまってから玲夜は柚子に顔を見せてはいない。
 柚子のことになると過保護なほどに心配性を発揮する玲夜ならば柚子のそばを離れずずっと付き添うかと思いきや、代わりに雪乃が着替えなどを持ってきてくれただけだ。
 玲夜のことを聞いたが、雪乃は困ったように分からないと言うだけで、玲夜がどこでなにをしているのか柚子には分からなかった。
 屋敷へと帰ってきても、玲夜はいない。
 まあ、ただ仕事をしているだけなのかもしれないが、あの玲夜が柚子よりも仕事を優先させたとしたら、それはそれで不思議でならない。
 なぜだかとてつもなく不安に駆られる。
 一日玲夜と会っていないだけだというのに、なぜこれほどに不安を感じるのか、柚子は分からなかった。
 せめて電話をして声を聞こうかと、スマホを取り出しから気付く。
 電源が付いていないことを。
 病院に行くからと電源を切ったままだった。
 退院したことを透子にも伝える必要があると、部屋に戻った柚子はスマホに充電器を差した。
「アオーン」
「ニャーン」
 まろとみるくが一日留守にした柚子のもとへ擦り寄ってくる。
 ご飯は雪乃があげてくれていたようだが、昨日は柚子だけでなくいつも一緒にいる子鬼も柚子についていたから寂しかったのかもしれない。
 いつも以上に、スリスリと体を擦り付けてくる。
「よしよし、いい子にしてた?」
 柚子はとりあえずまろとみるくの頭を撫でてやる。
 ついでに猫用のおやつを見せれば目を輝かせる。
 二匹がおやつに夢中になっているのを見計らって、柚子はスマホの電源を付けた。
 すると、そこには目を疑うような通知の数。
 思わずぎょっとした柚子は、誰からの通知かと確認すると、それはすべて浩介からだった。
 数十どころではない回数の通知に柚子はすぐに浩介に電話を掛けた。
「もしもし、浩介君?」
『柚子! 無事か!?』
 繋がるやいなや耳を突き抜けるような大声が通話口から響いてくる。
『おい、柚子? 柚子!?』
「う、うん。浩介君、私は無事だけど、どうして知ってるの? トラックにひかれちゃったこと。透子にでも聞いた?」
『はあ!? トラックだとぉ! 本当に無事なんだろな?』
 どうも浩介は初耳のようだ。
 それならばなぜ無事かなどと聞いてくるのか。
「幸いにも擦り傷だけだよ。透子に聞いたわけじゃないの?」
『違う。以前に俺が送った護符が破れたのを感じたから、柚子の身になにかあったんだろうなって思って。それで電話したら全然繋がらねぇし、マジで焦ったじゃねぇか』
「護符?」
 そう言えば確かに以前、浩介からお守りとして匂い袋が送られてきていた。
 柚子を守る護符を仕込んであるからずっと身に着けるようにと言われていたが、事故当時もポケットに入れていたはずだと思い出す。
「浩介君ちょっと待ってね」
『おう』
 柚子はスマホを耳から外して、雪乃を呼んだ。
 鬼の雪乃は耳がいいのか、柚子が呼べばすぐに部屋にやって来る。
「雪乃さん、昨日私が着ていた服のポケットに匂い袋が入ってませんでしたか?」
「ええ、服は擦り切れて汚れていましたので処分致しましたが、ポケットに入っていたものは保管してあります。少々お待ち下さい」
 そうしてすぐに戻ってきた雪乃に渡されたのは、引き裂いたように真っ二つになった匂い袋のなれの果てだった。
「浩介君、ごめん。匂い袋真っ二つに破れちゃった」
『それでいいんだよ。匂い袋が破れたってことは柚子の身に危険なことがあって、それが守ったってことの証だ。トラックにひかれてすり傷ですんだんだろう?』
「うん」
『恐らくそれが役に立ったんだろ』
「そうだったんだ」
 トラックにひかれたのに擦り傷だけとは運がよかったと思っていたのだが、どうやら浩介の護符のおかげらしい。
「ありがとう、浩介君」
『おう。けど、やっぱり俺の夢はただの夢じゃなかったってことだな。龍が関係してるのか?』
「多分。でも、玲夜はこのことに私を関わらせたくないみたいで……。きっと一龍斎が関係してるからだと思うんだけど」
『一龍斎って、あの有名な一龍斎か? 陰陽師も歴史だけは古いからな。昔は神事を執り行っていた一龍斎とは関わりもあった。今はあっちの力が大きくなりすぎて陰陽師なんて気にもとめられてないだろうけどな』
「私、龍のことをなんとかしたいの。けど、玲夜は私にはなにも相談してくれなくて……」
 自分の力のなさが憎らしい。
『そんなん当たり前だろう。自分の大事な女を守りたいと思うのはなにもあやかしだけじゃねぇぞ。その中でもあの旦那は特にその傾向が強そうだ。柚子は役立たずなんて自分を責めてるのかしらねえが、それはな、ただの男のプライドだ』
「プライド?」
『そっ、プライド。女の前では、男という生き物は格好付けたがるものなんだよ。それが好きな女の前だっていうならなおさらだ』
「そういうもの?」
『そうそう』
 軽い調子の浩介はどこか信用に欠ける。
「うーん」
 思わず唸り声を上げてしまう柚子。
『まっ、なるようになる。旦那に任せとけ。そういう専門外のことは歴史も古く力を持ってる鬼が一番対応の仕方を分かってる。素人が下手に口を挟むもんじゃねぇ』
 けれど、やっぱり玲夜の力になりたい。
 無言の柚子から察した浩介が、電話の向こう側で小さく笑う。
『相変わらず柚子は変なところで頑固だなぁ』
「だって……」
『まあ、とりあえずは追加の護符を送るから、またなにかあったら電話して来いよ』
「うん、ありがとう」
 そうして電話を切った柚子は、画面をじっと見つめた後、電話を掛けた。
 今一番声が聞きたい玲夜の連絡先に。
 コール音が何度も鳴る。
 けれど、玲夜が柚子の電話に出ることはなく、しばらく経ってもかけ直してはこなかった。
 いつもは電話に出られなかった時でも、少しすれば必ずかけ直してきていたのに。
 この日柚子がこの屋敷に来てから初めて、玲夜は帰ってこなかった。