瑶太が去った後、柚子は落ち込むのを隠しきれず、透子を心配させた。
「柚子、大丈夫? なんか落ち込んでる」
「私って駄目だなぁって思って」
「なに言ってるのよ。柚子が駄目なことなんてないわよ。まあ、ちょっとネガティブ思考はどうにかした方がいいと思うけどね」
 そう言ってバンバンと柚子の背中を叩く透子に、東吉から呆れた声で一言。
「お前はもう少し思い悩め。このポジティブ娘が」
「はん! そこが私の長所でしょ。私が柚子みたいにうじうじしてたら気持ち悪いわよ」
「気持ち悪い……」
 地味に傷付く柚子であった。
「あっ、私の場合よ。柚子は別だからね」
「気持ち悪いんだ」
「だーからー、私の場合だってば。もう、柚子~」
 透子が必死に柚子のご機嫌を取るそばでは、東吉と蛇塚が講義についての話し合いを始めた。
 そうしていつもの光景が戻ってくる。
 それ以後、幾度か菖蒲と顔を合わせる機会があったが、菖蒲が柚子に突っかかってくることはなくなった。
 瑶太が必死に説得したのだろう。
 というよりかは、子鬼の力が強いかもしれない。
 菖蒲は柚子の肩に乗る子鬼を目にすると、途端に怯えた顔をして挙動不審にその場から逃げるように行ってしまうのだ。
 その現場を見ていない柚子には分からなかったが、あやかしの中でも強い分類に入る妖狐にトラウマを植え付けるほどのことをしたことは分かった。
 柚子の肩では逃げていく菖蒲の背を見てニヤリと邪悪に笑う子鬼たちがいたが、幸い柚子の視界には入らなかった。
「子鬼ちゃん、今度はほどほどにね」
「あーい」
「あーい」
 元気よく手を上げる子鬼はどこまで理解しているのか分からない。
 最近はまったく悪さをしていなかったので、すっかり気を抜いてしまっていた。
 しかし、この子鬼たちは東吉が顔を引き攣らせる程度には強い霊力を持った使役獣なのである。
 今回のことはそれを思い出させる一件だった。
 しかし、元々喧嘩を売ってきたのはあちらなので、柚子は心の中でだけ菖蒲に謝るだけに留めた。
 そうして、嫌がらせもなくなりいつも通りの生活を取り戻した柚子の前に、第二の頭痛の種がやって来る。
 一龍斎ミコトである。
 できれば一生顔を合わせたくない人物第一位。
 けれど、現在気になる人物第一位でもある。
 あれから大学内で見かけなかったからか、件の龍も見かけなくなっていた。
 今日はあいにく龍の姿は見えなかった。
 見える時と見えない時とあるのはなにか理由があるのだろうか。
 そんなことを考えていた柚子に、棘のある言葉が浴びせられる。
「あら、まだあなたいらしたの? とっくに身の程を知って玲夜様から離れたと思っていたのに。見かけによらず随分とずうずうしい性格だったのね」
「ああん!?」
 今日はタイミングが悪いことに透子がそばにいた。
 柚子はすぐに悟る。
 このふたりは超絶に相性が悪いと。
 柚子は未だかつてないほどに頭をフル回転させるが、すべて空回りして結果が出てこない。
 いかにしてこのふたりを引き離すかべきか。
 そんな時に限って、東吉がいないのだ。
 透子の暴走を止めるのは今この場には柚子しかいない。
 柚子の焦りを放置して、ミコトは言葉を続ける。
「早く身の程知らずだということを理解して身を引いてくださらないと。いつまで経ったも私が玲夜様と一緒になれないじゃない。私もあまり気が長い方ではないの。あなたでは玲夜様を支えることはできないのだから、玲夜様には不必要な存在であることを理解しないと。後には私がいるのだから安心して身を引いてちょうだね」
「はあ!? 言わせておけばベラベラと」
「あら、あなたは?」
「柚子の親友よ!」
 柚子はミコトからの言葉など右から左に流れ、それよりも透子を止めることに頭がいっぱいになった。
 ミコトは上から下へと透子を観察したかと思ったら、ふっと鼻で笑った。
「平凡な女の友人も同じく平凡なのね。こういうのを類は友を呼ぶというのかしら」
 明らかに馬鹿にした笑い方に、透子の堪忍袋の緒が切れる音を聞いた気がした。
「そっちこそなに様だってのよ。若様には柚子がいるの。愛しい愛しい花嫁よ。あんたみたいな性格の悪い女はお呼びじゃないのよ。私が平凡だって? 平凡上等! あんたみたいに性格がねじ曲がった女よりはね。そんな女が若様に好かれると思ってるの? 産まれ変わって出直してきなさい! まあ、それぐらいで矯正されるとは思えないけどっ」
 息継ぎすることなくひと息で言い切った。
 息を荒くする透子に、ミコトは怒りで顔を赤くする。
 柚子は必死に透子の腕を引っ張るが、意に介した様子はない。
 怒りが勝っているようだ。
「なんて野蛮な方なの? こんな侮辱をされたのは初めてよ!」
「そうそれはよかったわね。よっぽど甘やかされて育ったのね。まあ、その性格の悪さを見てれば分かるけど」
 柚子は血の気が引くような気持ちだ。
 心の中で東吉の名を叫んだが、待ち人は現れない。
「この私を怒らせたことを後悔するのね」
「させてみなさいよ、この高慢ちき女が!」
 ミコトは柚子ではなく、透子をギッと睨み付けて去って行った。
 その後ろ姿に向けて、透子はポケットから小さなパケ袋を取り出し、中に入っていた白い粉を振りまいた。
「透子。その白いのなに?」
「お塩」
「なんで塩?」
「お昼のランチに入ってたゆで卵用のお塩。使うの忘れてたからポケットに入れてたのよ。まさかこんなところで活躍するとは思わなかったわ」
 柚子はがっくりと肩を落とした。
「それにしても、あれ誰よ。あんなあからさまに柚子に喧嘩売ってくるなんて。でも、どっかで見た顔なのよね」
 どうやら透子は忘れているようだ。
 そうだろうとも。
 そうでなければ一龍斎の令嬢に喧嘩を売るはずがない。
 得意げな透子には悪いが、教えなければならない。
「透子、ここで残念なお知らせがあります」
「なに?」
「さっきの子、一龍斎のご令嬢なのよ」
「一龍斎? ……一龍斎って」
 次第に理解してきたのか、透子の顔が引き攣ってくる。
「えっ、もしかしてヤバイことした?」
「ものすごく」
「にゃん吉に言わないと駄目……かな」
「言わないと駄目だね。あの一龍斎に喧嘩売っちゃったんだから」
「どうしよぉぉ。柚子~」
 今さらになって事態の深刻さが分かってきたらしい。
「とりあえずにゃん吉君と合流しよう」
「ヤバイヤバイヤバイ……」
 ヤバイを繰り返す透子を連れてカフェへと向かった。
 一龍斎に喧嘩を売ったのは確かにヤバイ。
 けれど、あのミコトに対してあれだけ言ってのける透子に、柚子は少しすっきりした気持ちだった。