鬼の花嫁3~龍に護られし一族~


***

 玲夜はぐっすりと眠る柚子の寝顔を見ながら今日のことに思いを馳せる。
 仕事中、高道の電話が鳴ったかと思ったら、近くにいた玲夜にも聞こえるほどの声で桜子がなにやら怒っていた。
 普段声を荒げることのない桜子が珍しいと思いつつ仕事を進めていた玲夜は、漏れ聞こえてきた、柚子がミコトに叩かれたという話に思わず手を止める。
 小娘が大事な柚子に手を出すなどどうしてやろうかと考えていると、突然高道の焦った声に目を向けた。
「桜子!? 桜子、どうしたのです!?」
「高道、どうした?」
「分かりません。突然桜子の悲鳴が聞こえたきり返事がなくなってしまいまして。かすかに電話の向こうから誰かの悲鳴や騒いでいる声は聞こえてくるのですが……」
「桜子は大学だな?」
「はい」
「行くぞ」
 迷う時間などなく、玲夜はすぐに大学へ向かう決断をして動き出した。
 そして、大学へ向かう途中で柚子から電話がかかってきて、桜子の状態を知った。
 大学に着くと、柚子は青い顔をしており、玲夜を見てわずかにほっとした表情をしつつも体は強張っていた。
 血まみれの桜子の意識はなく、窓硝子の下敷きになったと説明されたが、それぐらいで鬼がここまで重傷を負うことはないと不審に思う。
 自然と玲夜と高道の顔が険しくなった。
 なにがあったのかと現場を確認したが、おかしな点は見つけられなかった。
 いや、おかしいと言えばおかしいのだ。
 なにもなく窓硝子が桜子に向けて飛んでくるはずもない。
 玲夜も、そして高道も、なに者かのあやかしの仕業を予想したのだが、霊力の残滓は見つけられなかった。
 そんな時だ、柚子が玲夜の名を叫んだのは。
 柚子は龍がいると言った。
 だが、玲夜にはなにも見えない。
 しかし、柚子の言葉を証明するように柚子の手には鎖のような赤い跡が残された。
 鬼である自分に感知することのできない存在。
 なぜ柚子にだけ見えるのかと不思議なことばかりだ。
 しかも、柚子の手を治そうとしたが治せなかったという事実。
 それはつまり玲夜の霊力では治すのには足りない、玲夜よりも霊力の強いなにかの影響を受けたということを示していた。
 屋敷に戻ってから再度治そうと試みたが駄目だった。
 だと言うのにだ、猫たちが舐めるとそれは綺麗さっぱり治った。
 猫たちが霊獣だということは玲夜も知っている。
 けれど、玲夜ですら治せない傷を治せるほどの霊力があることまでは分かっていなかった。
 思っていた以上にあの猫たちは強い力を持った霊獣なのかもしれないと玲夜は考える。
 そして、柚子が見た龍もまた玲夜以上の霊力を持っている可能性がある。
 だが、それがなんなのか龍を見ていない玲夜には判断ができない。
 分かるのは一龍斎になにかヒントがあるのではないかという可能性だ。
 一応今回のことは父親の千夜にも報告しているが、千夜でも分からない様子。
 いったいなにが起きているのか分からず苛立ってしまう。
 そんな玲夜のもとに子鬼がトコトコとやって来た。
「どうした?」
「いってる」
「まろとみるくがいってる」
 玲夜を前にそう口にする。
 いつからか突然言葉を発するようになった子鬼たち。
 玲夜はこの子鬼たちに話をするような力は与えていなかった。
 原因は霊獣である猫たちに瀕死の状況で霊力を分け与えられたからだと思われる。
 子鬼が話ができるようになったら、今以上に柚子が構い倒すと危惧した嫉妬深い玲夜は、子鬼たちに柚子の前では話さないようにと厳命した。
 今柚子は眠っているので大丈夫だと判断したのだろう。
「どういうことだ?」
「りゅうのしわざ」
「りゅう、おなじ。まろとみるくとおなじもの」
「柚子の見た龍は霊獣だと言いたいのか?」
 こくこくと子鬼がそろって何度も頷く。
 どうも子鬼たちはまろとみるくと意思の疎通が図れるらしい。
 玲夜には猫たちの言ってることは分からない。
 きっとそれもまた猫たちから霊力を分け与えられたからと思われる。
 子鬼たちは玲夜が作った使役獣だが、すでに純粋な使役獣とは違った存在になっているように玲夜は感じていた。
 あやかしとは似て非なる存在。
 より神に近い霊獣。
 その力によるものなのだろう。
 そしてそんなまろとみるくが告げた。
 龍は自分たちと同じものだと。
「他になにか言っていたか?」
「りゅう、つかまった」
「いちりゅうさいにつかまった」
「りゅうは、にげだいの」
「どういうことだ? そしてなぜ柚子にだけ見える?」
 もう少し詳しく聞きたい玲夜だったが、子鬼たちはこてんと首を傾げてから、首を横に振った。
「わかんない」
「そこまでおしえてくれない」
「そうか……」
 玲夜は、ベッドに寝ている柚子の足下で丸くなって寝ている二匹を見る。
 そもそもなぜ霊獣などという存在が柚子に懐いたのか。そこからしておかしなことではある。
「でも、みえるりゆうはしってる」
「まろとみるくがいってた」
「ゆずつながってる」
「ゆずのせんぞしらべる」
「柚子の先祖だと?」
 子鬼たちはこくりと頷く。
「ゆずそしつあった」
「だからみえる」
「だからまろとみるくきた」
「素質?」
 もうお終いというように子鬼たちは玲夜から離れ、まろとみるくのそばに寝っ転がった。
「柚子の先祖か……」
 玲夜はスマホを取り出し、使用人頭へメールを送った。
 本当は高道にと思ったが、今は桜子のこともあるので送るわけにはいかない。
 そんなことをすれば、高道のことなので玲夜を優先させることは目に見えていたからだ。
 必要なことを送った玲夜は、柚子の髪をそっと撫でると、こめかみに優しく口付けを落とす。
「おやすみ、柚子」
 そうして、玲夜は部屋を後にした。

 翌朝、目を覚ました玲夜の枕元には、報告書が置かれていた。
 昨日頼んでいた、柚子の先祖に関するものだ。
 一個人の情報を一夜で集めるその情報収集能力は、さすが鬼龍院といったところか。
 一龍斎のこともこれぐらい簡単に調べられれば苦労しないのだが。
 布団から出ないまま報告書に目を通した玲夜はその内容に目を見張った。
「これは……。なるほど、素質か……」
 朝食の席に着いた玲夜は、目の前に座る柚子に話を振った。
「柚子」
「なに?」
「柚子の祖母の家の先祖は、昔神事に関わっていたのか?」
「おばあちゃんの?」
 突然の問いかけに柚子は驚いた顔をしながらも、首を傾げて考え込んむと、「あー」と納得したように声を上げた。
「うん。そう言えばそんな話聞いたことあるかも。……って言っても、ずっと、ずーっと昔の話で、今はまったく関係ないらしいけど。それがどうかした?」
「どうやら、柚子の祖母の先祖は一龍斎の傍流の血を引いていたようだ」
「えっ! 本当に!?」
「ああ。だが、柚子が今言ったようにずっと昔のことだから血を引いていると言っても赤の他人と変わらないぐらいだろう。実際に、これまで一龍斎と関わりを持ったことはないのだろう?」
「うん。そんなこと知ってたら玲夜に言ってたし」
 確かにその通りだ。
 柚子は聞かされた今でも信じられない様子だ。
「これは俺の予想にすぎないが、柚子が龍を見ることができたのは、柚子がわずかばかりでも一龍斎の血を引いていたからではないか?」
「えっ……」
「龍は一龍斎を加護している。そんな龍だから俺や他の者には見えず、一龍斎の血を引く柚子には見えたと考えるれば納得がいく」
「でも、血を引いているって言っても、すっごく遠い血でしょう?」
「だが、血を引いていることは確かだ。例えわずかだとしても、なんらかの波長が合ったのか、柚子に神子としての素質があったのかもしれない」
「うーん……」
 とても納得ができないという様子の柚子は眉間に皺を寄せて難しい顔をしている。
 子鬼が猫たちから聞いたと言っても柚子は信じないだろうと思ったのでそこは言わないことにした。
「だが、まあ、これは予想の範疇を超えない。とりあえずは桜子に会いに行ってからだ」
「う、うん」
 朝食を終わらせたふたりは本家へと車を走らせた。
 高道はあのまま本家に行ったっきりで、屋敷に戻ってきてはいない。
 柚子にとっては二度目となる本家。
 玲夜からしたら、大人になって今の屋敷に移るまでは暮らしていた懐かしの我が家だ。
 桜子は鬼山の家ではなく、この本家の屋敷で療養しているらしい。
 柚子の手を引いて中に入れば、本家の使用人たちに出迎えられる。
「おかえりなさいませ、玲夜様」
「桜子の部屋に」
「かしこまりました」
 先導する使用人の後について歩く。
 物珍しそうにきょろきょろしている柚子がかわいらしく感じた。
 本家は玲夜の屋敷と同じ純和風の建物だが、大きさが違う。
 千夜はそんな広さだけではなく、広大な本家の敷地内のすべてをたったひとりの力で結界で覆っている。
 玲夜にできるかと言われたら可能ではあるが、千夜ほどの効力で維持するのはまだ玲夜には難しいと言わざるをえないだろう。
 改めて千夜との力の差を思い知らされる。
 あんなのほほんとしているが、その霊力はあやかしの中で最も強いのだ。
 あの高みに行くには、玲夜にはまだしばしの時間が必要だろう。
 案内された部屋の前。
 襖の奥に向けて声をかける。
「桜子、入るぞ」
 そう言えば、すぐにスッと襖が開き高道が顔を出す。
 頭を下げる高道の奥には、布団が敷かれて桜子が上半身を起こしていた。
「玲夜様、柚子様。このような姿で申し訳ございません」
「いい。加減はどうだ?」
「傷は跡形もなく。千夜様に治していただきましたおかげで、もう動いてもかまわないと言われております」
 玲夜の横で柚子がほっと息を吐いた。
「よかったです、桜子さん」
「ご心配をおかけして申し訳ございません。ですが、私も鬼ですので頑丈にできておりますから」
 柚子を安心させるために微笑んだ桜子の笑顔はいつもの桜子だった。
 桜子のそばに座った柚子の隣に玲夜も腰を下ろす。
「桜子、早速だが話を聞きたい。なにがあった?」
 桜子は笑顔を納め真剣な顔をに変わる。
「私が高道様に電話をしていたことはご存知のことかと思います」
「ああ」
「電話をしていますと、突然金縛りにあったように体が動かなくなったのです。一瞬なにが起こったのか分かりませんでした。藻掻いていましたら、近くの窓硝子がガタガタと揺れ始め私の方に飛んできたのです。動けなかった私は避けることもできず……」
「霊力で防げなかったのか?」
「金縛りで体が動かないので私も最初は霊力で対処しようと思いましたが、放出した霊力が押し返されたのです。なにかそれ以上の力によって」
 玲夜の顔が険しくなっていく。
「それ以上の力とはなんだ?」
「私には分かりかねます。強いなにかの力を感じたのは確かです。……それと、こんなことお伝えすべきか悩んだのですが、その時、かすかにですが龍を見た気がしたのです」
「龍だと?」
 柚子がはっとしたように玲夜を見上げるが、玲夜柚子に視線を向けることなく桜子を注視した。
 その言葉を聞き逃すまいとするように。
「私の気のせいかもしれません。本当に一瞬のことだったので。ですが、白銀に輝く龍だったように見えたのです」
 ここでもまた出てきた龍の存在。
 柚子が身を乗り出す。
「その龍って鎖が巻き付いてたりしませんでしたか?」
「鎖でございますか? ……いえ、そこまで詳細には見えませんでしたので」
「そうですか……」
 柚子はさっきまでの勢いをなくす。
「申し訳ございません。お役に立てず」
「いいえ! 桜子さんが無事でよかったです。……本当に、良かった」
 今回のことは柚子に予想以上のショックを与えてしまったようだ。
 またそのことで悩みを増やさないか玲夜は心配だった。
 なんでもかんでも背負いたがる柚子に、玲夜はいつもどう荷物を降ろさせるかで頭を悩ませるのだ。


「玲夜様、あの龍はなんだったのでしょう? なにかご存知ですか?」
 玲夜は少し逡巡した。
 言うべきか言わざるべきか。
 考えた末に玲夜は口を開いた。
「柚子も龍を見たと言っている。少し前から」
「まあ、柚子様も?」
 桜子から視線を向けられた柚子はこくりと頷く。
「その龍は一龍斎と繋がりがあるかもしれない」
 子鬼から伝えられた、まろとみるくが言っていた話。
 一龍斎に捕まったという龍。
 逃げたがっているという龍。
 まろとみるくと同じ霊獣だという龍。
 そして、素質があるという柚子。
 なんの素質かは玲夜には分からないが、まろとみるくの話を信じるならば、龍と一龍斎が関わっている。
 そして、素質があるという柚子に龍は助けを求めた。
 柚子を危険なものから遠ざけたいとありとあらゆる手段を講じている玲夜だが、今回ばかりは後手後手に回ってしまっている。
 分からないことが多すぎるのだ。
「では、桜子をこんな風にしたのは一龍斎ということですか?」
 控えていた高道が問う。
 冷静沈着な高道には珍しく、その声には怒気が感じられた。
 まあ、婚約者に重傷を負わされたのだから当然だろう。
 玲夜だったらもっと分かりやすく怒りを表に出しているところだ。
「それはまだ分からない。一龍斎は龍の加護を得ているというが、その龍が一龍斎の指示で動いている確証はない。桜子の件も、本当に龍が原因とは分からないしな」
「玲夜様、一龍斎を調べる許可を」
 一龍斎は鬼龍院並の権力を持っている。
 それ故、一龍斎に関しては下手に手出しをしないようにと千夜から言われていたのだ。
 なので、一龍斎を調べたいと思いつつも、調査させることは許していなかった。
 深く入り込みすぎて一龍斎の機嫌を悪くしないようにと。
 あやかしのトップである鬼龍院が、顔色を窺わねばならぬ一龍斎という家。
 これまでは特に関わりがなかったために問題なかったが、こうなってくると厄介なことこの上ない。
 思わず舌打ちが出そうになる。
 玲夜は高道に対して駄目だと言うほかなかったのが苛立たしい。
 高道は感情を表には出さなかったが、なにかを飲み込むように玲夜に頭を下げた。
 と、その時、襖の向こうから声がした。
「失礼致します。玲夜様、少しよろしいでしょうか?」
「分かった。少し席を離れる。柚子はここにいろ」
「うん」
 柚子を部屋に残し玲夜が部屋を出ると、この屋敷の使用人が少し困った顔をしながら声を潜めた。
「玲夜様にお客様がいらしております」
「俺に? 父さんではなく?」
「はい。それが、お客様というのが、一龍斎のお嬢様ということで。今は旦那様がいらっしゃいませんので本家に入れるべきか迷いましたので、敷地の外で待機していただいております」
 一龍斎と聞いて、分かりやすく玲夜の顔が険しくなる。
「いかがなさいますか?」
「会おう」
 このタイミングで会いに来たなにかがあるのではないと玲夜は警戒した。
 本家の敷地は広大だ。それ故、屋敷から車で敷地の外へと向かう。
 そこには一台の車があり、玲夜が姿を見せると、後部座席からミコトが嬉しそうに出てきた。
「玲夜様!」
 玲夜の元へ近付いてきたかと思えば、その胸に身を寄せそうとしてくる。
 それを玲夜は素気なく避ける。
 ミコトは不満げにむくれているが、そんな顔をしても玲夜のなににも響かない。
「なんの用だ?」
「玲夜様、私とデートしてください」
 途端に玲夜は苛立ちを露わにする。
「くだらない。そんな話をしに来ただけならすぐに帰れ」
 普通の女性ならば玲夜にそんな顔と言葉を浴びせられたら泣いて帰りそうなものだが、ミコトは不敵に笑った。
「私にそんなことを言っていいんですか? また犠牲者が増えますよ」
「どういうことだ?」
「……あの鬼の方、大怪我をされたようですね。でも、あやかしですもの、あれぐらいなんともないですよね」
 意味深な言葉。
 あの鬼と言うのが桜子のことだと玲夜はすぐに察した。
「桜子のあの怪我はお前の仕業か?」
「私は一龍斎の神子。龍はなーんでも私の願いを叶えてくれるんです。あの方私に向かってとっても偉そうでしたから、少しお仕置きをしてさしあげたのですよ」
 クスクスと笑うミコトが薄気味悪く感じた。
 しかし、ミコトの言葉で、龍と一龍斎が繋がっていたことが判明した。
 ミコトが龍に命じて龍が行ったと。
「きさま、桜子に手を出すということは鬼を敵に回すことと同義だと分かっているのが?」
「あら、脅しているおつもりかしら? そんなものは私には通じませんよ。だって、私には龍の加護があるんですもの」
 ミコトがスッと手を上げた。
 その瞬間、息をするのも苦しい威圧感が玲夜を襲う。
「うっ……」
 思わず胸元を押さえた玲夜に、それは見えた。
 ミコトの後ろに、ミコトを護るように存在する白銀の龍を。
 圧倒的な力の差。
 自分では敵わないと玲夜は理解させられるほどの強大な霊力。
「ふふふふっ、これで分かっていただけましたか?」
 ミコトが手を下ろすと龍は姿を消し、同時に玲夜を襲っていた威圧感も消え去った。
「まだ気持ちの整理はできないでしょうから、まだあの女を花嫁としてそばに置いておくのは許してあげます。けれど、まずはデートをしてくださいな」
「断る。俺が柚子を手放すことはない」
 玲夜が変わらずミコトを拒否する姿勢を崩さないでいると、ミコトはムッとした顔をした。 
 しかし、すぐに口角を上げる。
「その意思を貫き通せるでしょうね。私の願いが叶わなかったことはないんでから」
 ミコトはポケットから一枚のメモを取り出すと、それを玲夜に無理矢理持たせる。
 玲夜がそれを広げて見れば、電話番号が書かれていた。
「気が変わったらご連絡ください」
「こんなもの不要だ」
「あなたは必ず連絡をくださるわ。きっとね」
 意味深な笑みを残して、ミコトは車に乗って去って行った。
 玲夜は手に残された紙をぐしゃりと握り締めた。

 五章


 部屋で桜子と他愛ない話をしていた柚子。
 しばらくすると玲夜が戻ってきた。
 しかし、どこか様子がおかしいと柚子は気付く。
「玲夜?」
「なんだ?」
「なんだはこっちのセリフ。どうかしたの?」
「いや、なんでもない……」
 とてもそうは見えなかったが、玲夜がなにかを語ることはなかった。
 それからだ、時々思い詰めたように考え込む玲夜を見かけるようになったのは。
 その度に柚子はなにがあったのかと問いかけたが、決まって玲夜は大丈夫だと微笑むのだ。
 柚子を心配させまいとしているのがなんとなく分かる。
 けれどそれは、自分では役に立たないのかと柚子を落ち込ませた。
 役に立たない。
 以前誰かが柚子に言った言葉が頭をよぎる。
 力になりたいと思うのに、自分では玲夜の役に立てない。
 玲夜も柚子を頼ろうとはしてくれない。
 柚子が玲夜を頼ることはあっても、その逆はないことを思い返す。
 それは自分では役に立てないと思っているからなのではないかと、柚子は思い悩んだ。
 そんな心が弱っている時に限って、追い打ちをかけようとしてくる出来事が起きるのだ。
 瑶太の幼馴染みという菖蒲。
 彼女と大学内でばったりと顔を合わせてしまった。
 今は悪意のある言葉を聞きたくなかった柚子は、なにもなかったように横を通り過ぎようとしたが、菖蒲はそれを許さなかった。
「あんたはいいわよね、幸せそうに笑っていられて」
 正直、今の柚子は幸せに笑っていられる心境ではなかったが、反論する余裕もなかった。
「あんたのせいで瑶太はどんどん弱ってるわ。花嫁をなくしてしまったんだもの、当たり前だわ。きっと、花梨ちゃんも今頃瑶太と同じように悲しんでる。それなのに、あんたはなにごともなかったかのように振る舞って……っ」
 柚子は浴びせられる言葉を素直に受けた。
 菖蒲は怒りに震えているが、柚子ではどうすることもできない。
「なんとか言いなさいよ! 私は小学部の頃からふたりを見てきたの。仲がよくて、このままふたりは結ばれるんだと思って楽しみにしてたのに。なのに、あんたの存在がふたりもの人を不幸に落とした。あんたなんていなければよかったのに!」
「……っ」
 柚子はぎゅっと唇を引き結んだ。
「あなたを花嫁に選んだ鬼龍院様も後悔しているんじゃないの? あんたみたいななんの役にも立たない平凡な女を選んだことを。鬼龍院様なら他の器量も見目もいい人が相応しいわよ」
 それは今の柚子には言って欲しくない言葉だった。
 菖蒲の言葉がナイフで切りつけるように柚子を傷付ける。
「一龍斎の子との騒ぎだって、あなた鬼山様に守られるばかりでなんにもしないじゃない。ほんと、花嫁じゃなかったらなんの価値もないわね」
 柚子はこらえるように手をぎゅっと握り締める。
 ただただ、この時間が過ぎるのを待つことしかできない。
 言い返そうかと思った。
 ほとんど初対面に等しい相手になぜここまで言われなければならないのか。
 確かに花梨の友人なのかもしれないが、これは家族の問題で、菖蒲には無関係のことだ。
 口を挟む権利など菖蒲にはない。
 そう、口から出そうになったが、言ったところでなんになるのか。
 柚子を悪としている彼女に、なにを言っても受け入れようとはしないだろう。
 それに、玲夜のことで思い悩んでいた柚子にとって、菖蒲の言葉は予想外に深く突き刺さった。
 抜けるどころかどんどん深く沈んでいく言葉に、反論する気が起きない。
 ずっとうつむいて耐えるだけだった柚子の前からは、いつの間にか菖蒲は消えていた。
「あーい」
「あいあい」
 子鬼が心配そうに柚子に声をかける。
「大丈夫」
 無理矢理作った笑顔が少し引き攣っていたことに柚子は気付いていない。
「あーい」
「あーい!」
 身振り手振りで子鬼同士が話し合いを始めたかと思ったら、黒髪の子鬼がコクコクと頷いてから柚子の肩から飛び降りて、すたこらと行ってしまった。
「えっ、子鬼ちゃん!?」
 慌てて追いかけようとしたが、もう片方の肩に乗っていた白髪の子鬼が柚子の服を掴んで柚子を行かせまいとする。
「追いかけないでいいの?」
「あーい」
 子鬼はにっこりと笑顔を浮かべてこくりと頷いた。
 子鬼がそう言うならと、柚子は追いかけなかったが、いつまで経っても帰ってこない子鬼に、柚子は気が気でない。
 講義中も大丈夫かと心配していた柚子だったが、講義が終わると共に子鬼はひょっこりと戻ってきて、定位置の柚子の肩に乗った。
「あーい?」
「あーい!」
 なにごとか問いかける白髪の子鬼に対し、どこかへ行っていた黒髪の子鬼がピースサインをしてドヤ顔をしていた。
「なにしに行ってたの?」
 問う柚子に向かって、子鬼たちはそろってピースサインをするだけだった。
 まったく意味が分からない。


 講義が終わり、透子と待ちあわせのカフェに行くと、東吉と蛇塚がすでに席を取ってくれていた。
 東吉は柚子を見るや、「ちょっとそこ座れ」と告げる。
 透子とふたり、不思議に思いつつ席に座ると、東吉が爆発した。
「柚子! おっ前、子鬼たちになに命令したんだ!?」
「へ?」
 柚子は意味が分からなくて首を傾げる。
「なに怒ってるのよ、にゃん吉?」
 透子もわけが分からない様子で問いかけると、東吉が深い溜息を吐いた。
「柚子が頼んだんじゃないのか……」
「なんのこと?」
 蛇塚を見れば、苦笑を浮かべている。
「さっき俺たちの講義に子鬼がきた」
「えっ?」
「なんで?」
 東吉たちとは別の講義を受けていた柚子と透子は驚いた。
 確かに、黒髪の方の子鬼は講義中姿を消していたが、どこに行ったかまで知らなかった。
 東吉たちの講義に行っていたことが、ここで判明する。
「にゃん吉君に会いに行ってたの?」
 子鬼にそう問うと、子鬼は首を横に振る。
「あーい」
「あいあい!」
 子鬼が興奮しながらなにか言っているが、柚子にはさっぱり分からない。
 仕方なく東吉に答えを求める。
「こいつ、講義中にやってきたと思ったら、突然狐の一族の女に鉄拳制裁しやがったんだよ」
「てっけんせいさい?」
 柚子は意味が分からない。
 いや、鉄拳制裁の意味は分かるが、どうしてそんなことをしたのか分からない。
 そもそも、誰に?
「狐の一族の女って誰?」
「お前の妹が花嫁やってた相手のあやかし。狐月瑶太の幼馴染みの女だよ。お前、知り合いだったか?」
「えーと……」
 それは柚子の思い違いでなければ、菖蒲で間違いないだろう。
「そいつ、以前に柚子の悪評流してた、妹の友人のひとりでもあるんだよ。だからてっきりそのことへの制裁かと思ったが、あの噂が鎮火してからだいぶ経ってるし、なんで今なのかって思ったんだが」
「あー、それは……」
 思い当たる節はある。
 というか、ものすごく覚えがある。
「子鬼ちゃん、やっちゃったの?」
「あーい」
「やー」
 子鬼は満足そうににぱっと笑う。
「そう、やっちゃったのか……」
 柚子はすっかり失念していた。
 柚子を守るためにと付けられた子鬼たち。
 そんな子鬼たちが、ひたすら柚子を罵られて黙っているはずがなかったのだ。
 子鬼がどこかへ行ってしまった時に気付くべきだった。
 しかし、子鬼は怒れない。
 子鬼は玲夜に言われた通り柚子を守ろうとしただけだ。
 上手く対処できなかった柚子が悪い。
「うーん……」
 眉間を親指で揉みほぐす。
「ち、ちなみにだけど、子鬼ちゃんに制裁された彼女はどうなったの?」
「医務室に連れてかれた」
 柚子は頭を抱えた。
 やりすぎだ。しかし、子鬼は怒れない。
「あう~、どうしよう。謝りに行くべき?」
「というか、そもそもなんで子鬼ちゃんがそんなことしたのかよ」
 透子がそう疑問を口にしたため、説明しないといけない空気になってしまっている。
 仕方なく、柚子は講義前に菖蒲とのやり取りを話すことに。
 すると、案の定、透子が怒髪天を突いた。
「ああん? そんなやつ制裁されて当然じゃない! せっかく噂が流れた時に鬼山のご令嬢が穏便に鎮火させたってのに、また喧嘩売ってくるとか、子鬼ちゃんが怒っても自業自得よ。謝りに行く必要なんてないわよ、柚子は。むしろ、若様直々に手をくださなかったことをありがたく思うべきだわ」
「いや、待て。これで終わったと決まったわけじゃないぞ。これが子鬼から鬼龍院様に伝わったら……」
 などと東吉が恐ろしいことを言う。
「再起不能かしらね」
 否定する者は誰もいなかった。
 なんとなく沈黙が支配するその場に、声が落ちる。
「少しいいか?」
 聞いたことのあるその声に振り向くと、そこには瑶太が立っていた。
 どことなく以前よりさらにやつれたような気がしなくはない。
 瑶太と分かるや、透子と東吉が警戒する。
 特に透子のあからさますぎる態度には苦笑を禁じえない。
「なにか?」
「いや、その……。すまなかった!」
 そう言って深々と頭を下げた瑶太に柚子たちは目を丸くする。
 顔を上げた瑶太は必死に弁明を始めた。
「また菖蒲がなにかやらかしたのだろう? 前にも君は悪くないと伝えたんだ。けれど菖蒲は少し頑固なところがあって、俺の話を受け入れようとしなくて……」
 あわあわとする瑶太の顔色は悪く、まるで柚子の方が虐めているようだ。
「あいつと花梨はすごく仲がよかったんだ。いや、そんなこと君には関係ないが、そのせいで花梨への同情でいっぱいになってるんだ。今後君には迷惑をかけないよう俺がちゃんと言い聞かせる。頼むから鬼龍院様には黙っていてくれないか!?」
 どうやら瑶太は、玲夜からの制裁を怖がっているよう。
 まあ、前回はそれにより花梨という花嫁と引き離されたのだから彼が玲夜の動きを怖がるのは仕方がないかもしれない。
 正直、むかつく気持ちはある。けれどそれ以上に気になった。
「あなたは……」
「え?」
「あなたは私を恨んでいないの? 私がいたから花梨とあなたは引き離されることになった。私がいなかったら今もずっと花梨といられたのに」
 自分を卑下するような物言いをした柚子に、透子の顔が険しくなる。
 なにか言おうと口を開こうとしたが、東吉が止める。
 気まずい沈黙が落ちる。
 言ってしまってから、言うんじゃなかったと柚子は後悔した。
 恨みがないはずがないじゃないかと。
 そんな中で、瑶太は静かに口を開く。
「恨みがないといったら噓になってしまう……」
 やはりそうだろう。
「君さえいなければ今も花梨は俺のそばにいたのにと考えたことは一度や二度じゃない。けれど、それと同時に君が悪いわけではないということも理解している。俺は花梨からしかあの家族を見ていなかったから違和感なんてなかった。けれど、君から見たらあの家族は違和感でしかない。それが分かるぐらいの分別はある。あるはずなのに、当時の俺は花梨がすべてだった。他の人間がどうなっていようとかまわなかった。その狭い世界が花梨を手放す原因になってしまった」
「…………」
「まあ、こんな風に思えるようになったのも最近だ。最初は君と鬼龍院様への呪詛の念しか言葉にできなかった。それを撫子様が根気強く諭してくださった。素晴らしいお方だよ。こんなどうしようもない俺なのに見捨てたりしなかった。だから、俺も前を向ける。君も、菖蒲の言葉など気にしないでくれ」
 純粋に驚いた。
 瑶太の想いや、考え、苦しみを聞いて
 やつれた顔をしてはいたが、その表情は憑きものが落ちたかのように明るく晴れていた。
 それは柚子の知る瑶太よりもずっと大きく見えた。
「彼女のこと、玲夜には黙っておきます。もし伝わったとしても、ちゃんと止めますから安心してください」
「ありがとう」
 恐らく初めて見ただろう、柚子にむけられた笑顔に柚子はしばし動けなかった。
 人は変わる。
 あやかしも、人間も。
 自分も変われるだろうか。
 瑶太のように、過去に囚われることなく強く。
 柚子も気付いていた。
 これほどに玲夜の役に立つことや、自分の価値を気にするのは、過去に囚われているからだ。
 自分を愛してはくれなかった両親。
 その輪の中に入るためには役に立つ存在でなくてはならなかった。
 家の手伝いを率先して、テストでいい点を取って、いい子でいようと努力した。
 自分には価値があるのだと、役に立つからここにいていさせてくれと、柚子の中の小さな子供が泣いている。
 もう関係ないなどと言いつつも、まだそこに囚われている自分がいた。
 玲夜は役に立たない無価値な自分でもそばに置いてくれる?
 それを問うのが怖くて、必死になって役に立つ方法を考えている。
 いつまで経っても弱い自分が、柚子は嫌になった。

 瑶太が去った後、柚子は落ち込むのを隠しきれず、透子を心配させた。
「柚子、大丈夫? なんか落ち込んでる」
「私って駄目だなぁって思って」
「なに言ってるのよ。柚子が駄目なことなんてないわよ。まあ、ちょっとネガティブ思考はどうにかした方がいいと思うけどね」
 そう言ってバンバンと柚子の背中を叩く透子に、東吉から呆れた声で一言。
「お前はもう少し思い悩め。このポジティブ娘が」
「はん! そこが私の長所でしょ。私が柚子みたいにうじうじしてたら気持ち悪いわよ」
「気持ち悪い……」
 地味に傷付く柚子であった。
「あっ、私の場合よ。柚子は別だからね」
「気持ち悪いんだ」
「だーからー、私の場合だってば。もう、柚子~」
 透子が必死に柚子のご機嫌を取るそばでは、東吉と蛇塚が講義についての話し合いを始めた。
 そうしていつもの光景が戻ってくる。
 それ以後、幾度か菖蒲と顔を合わせる機会があったが、菖蒲が柚子に突っかかってくることはなくなった。
 瑶太が必死に説得したのだろう。
 というよりかは、子鬼の力が強いかもしれない。
 菖蒲は柚子の肩に乗る子鬼を目にすると、途端に怯えた顔をして挙動不審にその場から逃げるように行ってしまうのだ。
 その現場を見ていない柚子には分からなかったが、あやかしの中でも強い分類に入る妖狐にトラウマを植え付けるほどのことをしたことは分かった。
 柚子の肩では逃げていく菖蒲の背を見てニヤリと邪悪に笑う子鬼たちがいたが、幸い柚子の視界には入らなかった。
「子鬼ちゃん、今度はほどほどにね」
「あーい」
「あーい」
 元気よく手を上げる子鬼はどこまで理解しているのか分からない。
 最近はまったく悪さをしていなかったので、すっかり気を抜いてしまっていた。
 しかし、この子鬼たちは東吉が顔を引き攣らせる程度には強い霊力を持った使役獣なのである。
 今回のことはそれを思い出させる一件だった。
 しかし、元々喧嘩を売ってきたのはあちらなので、柚子は心の中でだけ菖蒲に謝るだけに留めた。
 そうして、嫌がらせもなくなりいつも通りの生活を取り戻した柚子の前に、第二の頭痛の種がやって来る。
 一龍斎ミコトである。
 できれば一生顔を合わせたくない人物第一位。
 けれど、現在気になる人物第一位でもある。
 あれから大学内で見かけなかったからか、件の龍も見かけなくなっていた。
 今日はあいにく龍の姿は見えなかった。
 見える時と見えない時とあるのはなにか理由があるのだろうか。
 そんなことを考えていた柚子に、棘のある言葉が浴びせられる。
「あら、まだあなたいらしたの? とっくに身の程を知って玲夜様から離れたと思っていたのに。見かけによらず随分とずうずうしい性格だったのね」
「ああん!?」
 今日はタイミングが悪いことに透子がそばにいた。
 柚子はすぐに悟る。
 このふたりは超絶に相性が悪いと。
 柚子は未だかつてないほどに頭をフル回転させるが、すべて空回りして結果が出てこない。
 いかにしてこのふたりを引き離すかべきか。
 そんな時に限って、東吉がいないのだ。
 透子の暴走を止めるのは今この場には柚子しかいない。
 柚子の焦りを放置して、ミコトは言葉を続ける。
「早く身の程知らずだということを理解して身を引いてくださらないと。いつまで経ったも私が玲夜様と一緒になれないじゃない。私もあまり気が長い方ではないの。あなたでは玲夜様を支えることはできないのだから、玲夜様には不必要な存在であることを理解しないと。後には私がいるのだから安心して身を引いてちょうだね」
「はあ!? 言わせておけばベラベラと」
「あら、あなたは?」
「柚子の親友よ!」
 柚子はミコトからの言葉など右から左に流れ、それよりも透子を止めることに頭がいっぱいになった。
 ミコトは上から下へと透子を観察したかと思ったら、ふっと鼻で笑った。
「平凡な女の友人も同じく平凡なのね。こういうのを類は友を呼ぶというのかしら」
 明らかに馬鹿にした笑い方に、透子の堪忍袋の緒が切れる音を聞いた気がした。
「そっちこそなに様だってのよ。若様には柚子がいるの。愛しい愛しい花嫁よ。あんたみたいな性格の悪い女はお呼びじゃないのよ。私が平凡だって? 平凡上等! あんたみたいに性格がねじ曲がった女よりはね。そんな女が若様に好かれると思ってるの? 産まれ変わって出直してきなさい! まあ、それぐらいで矯正されるとは思えないけどっ」
 息継ぎすることなくひと息で言い切った。
 息を荒くする透子に、ミコトは怒りで顔を赤くする。
 柚子は必死に透子の腕を引っ張るが、意に介した様子はない。
 怒りが勝っているようだ。
「なんて野蛮な方なの? こんな侮辱をされたのは初めてよ!」
「そうそれはよかったわね。よっぽど甘やかされて育ったのね。まあ、その性格の悪さを見てれば分かるけど」
 柚子は血の気が引くような気持ちだ。
 心の中で東吉の名を叫んだが、待ち人は現れない。
「この私を怒らせたことを後悔するのね」
「させてみなさいよ、この高慢ちき女が!」
 ミコトは柚子ではなく、透子をギッと睨み付けて去って行った。
 その後ろ姿に向けて、透子はポケットから小さなパケ袋を取り出し、中に入っていた白い粉を振りまいた。
「透子。その白いのなに?」
「お塩」
「なんで塩?」
「お昼のランチに入ってたゆで卵用のお塩。使うの忘れてたからポケットに入れてたのよ。まさかこんなところで活躍するとは思わなかったわ」
 柚子はがっくりと肩を落とした。
「それにしても、あれ誰よ。あんなあからさまに柚子に喧嘩売ってくるなんて。でも、どっかで見た顔なのよね」
 どうやら透子は忘れているようだ。
 そうだろうとも。
 そうでなければ一龍斎の令嬢に喧嘩を売るはずがない。
 得意げな透子には悪いが、教えなければならない。
「透子、ここで残念なお知らせがあります」
「なに?」
「さっきの子、一龍斎のご令嬢なのよ」
「一龍斎? ……一龍斎って」
 次第に理解してきたのか、透子の顔が引き攣ってくる。
「えっ、もしかしてヤバイことした?」
「ものすごく」
「にゃん吉に言わないと駄目……かな」
「言わないと駄目だね。あの一龍斎に喧嘩売っちゃったんだから」
「どうしよぉぉ。柚子~」
 今さらになって事態の深刻さが分かってきたらしい。
「とりあえずにゃん吉君と合流しよう」
「ヤバイヤバイヤバイ……」
 ヤバイを繰り返す透子を連れてカフェへと向かった。
 一龍斎に喧嘩を売ったのは確かにヤバイ。
 けれど、あのミコトに対してあれだけ言ってのける透子に、柚子は少しすっきりした気持ちだった。


 透子を伴ってカフェにやって来た柚子は東吉と合流し、先ほどあった出来事を説明した。
 すると……。
「こんのアホがぁ!!」
 東吉の雷が落ちる。
 透子は頭を抱えて嵐が過ぎ去るのを待つしかできない。
 グチグチとひたすらに説教を垂れ流した後、東吉は崩れ落ちた。
「ああ、これで猫田家は終わりだ。すまん、親父。俺の代に変わる前に潰してしまうかもしれない……」
「本当にすみませんでした!」
 テーブルの上に手をついて深々と頭を下げる。
 下げすぎてテーブルにおでこがついてもなお、頭を下げ続ける透子。
「にゃん吉君、向こうがどう出るかは分からないけど、一応玲夜になにかあったら助けてくれるように頼んでみるから、透子を責めないであげて。透子も私のために怒ってくれたわけだし」
「ああ……。もう今さら怒っても仕方ないしな。まあ、向こうが家を潰しにかかってくるとは限らないし。鬼龍院様のこともあまり期待しないでいるよ。なにせ相手は一龍斎だし」
 深い深い溜息を吐いて、それ以上のことを口にすることは止めた。
 後から来た蛇塚にも経緯を説明すると、それはもう憐憫を含んだ眼差しを向けられ、透子は頭を抱えた。
「止めて! そんな残念な子を見る目で見ないでぇ」
 地味にダメージを受けているようだが、透子の喧嘩っ早さが原因なので、東吉も慰めることはしない。
 代わりに柚子が慰める。
「ほらほら、透子、元気出して。気分転換に帰りにクレープでも食べに行かない? さっきのお礼に奢るから」
「生クリーム増し増しで……」
「はいはい」
 ちゃっかりしている透子に、柚子は笑った。
 そうして、講義が終わると、大学の近くにあるクレープ屋に向かった。
 歩いて五分ほどの場所である。
 迎えの車は大学の駐車場で待っていてもらい、東吉も引き連れて歩いて向かった。
 蛇塚は用事があるようで先に帰った。
 大学終わりで親の仕事を手伝っている蛇塚は案外忙しいのだ。
 東吉も似たようなものなのだが、今日は家の手伝いもないらしい。
 まあ、あったとしても、透子がやらかした後なので柚子が一緒とは言え、放置しないだろう。
「な~ににしようかな~」
「お前はもう少し落ち着きを身に着けろ。さっきまで落ち込んでたのはなんなんだ」
「いつまでも同じことをうだうだ悩んだって仕方ないでしょう。もう終わっちゃったことだし」
「お前のそのポジティブさが羨ましいよ」
 東吉は額に手を当てて呆れかえった顔をしている。
 そんなやり取りをしながら歩いているふたりを後ろから見ていた柚子は、ふたりの仲のよさに自然と笑みを浮かべた。
「仲良しさんだねぇ」
「あーい」
「あいあい」
 柚子も玲夜にあんな風に遠慮なくポンポン言えるようになれたらいいのにと、少しふたりの関係が羨ましく感じた。
 柚子としては気を使ってると言うわけではないが、どこかで遠慮する気持ちがないわけではない。
 きっとそれは玲夜の方も。
 最近の玲夜を見ていると、透子と東吉のような熟年夫婦のような気安さにはほど遠いことを思い知らされる。
 なにが玲夜を悩ませているのか、玲夜は柚子に欠片も見せようとはしない。
 それは玲夜のプライドなのかもしれないが、柚子は弱味こそ自分に見せて欲しいと思うのだ。
 玲夜の性格からしたらそれは少し難しいのかもしれないが、いつかは遠慮なんて見えない壁を破れる間柄になりたいと強く思う。
「おぉー、クレープ屋をはっけーん!」
 透子のテンションが無駄に高いのは、先ほどの失敗からの落ち込みの反動だろうか。
 道路の向こう側のクレープ屋を見つけて目を輝かせている。
 すると、横断歩道の信号が点滅を始めた。
「あっ、ほら赤になるから急いで、柚子、にゃん吉」
「次に青になるの待てばいいだろう」
「クレープは逃げないよ」
 柚子と東吉は目を合わせ、互いにやれやれという表情を浮かべる。
 仕方なく、途中まで渡っていた透子が戻ろうとする。
 ほんの数歩の距離だ。
 だが、その数歩の途中で透子の動きが止まる。
「おい、透子。早く戻ってこい」
 信号は点滅から赤へと変わろうとしていた。
 しかし、透子の様子がおかしい。
「透子?」
「……かない」
「えっ?」
「体が動かないの!」
「はあ?」
 信じていない東吉は呆れたようにしながら「早くしろ」と言っている。
 幸いに車は来ていない。
「なにしてんだよ」
「だから、動かないんだってばっ」
 そう焦りを滲ませる透子の足下に、柚子はなにかが通り過ぎたのを見た。
 一瞬気のせいかと思ったが、よく目をこらしてみると、それは白銀に輝く尻尾だった。
 はっと息をのむ柚子に、次第にその姿がはっきりと見えてくる。
 それは、幾度となく柚子が目にした白銀の龍。
 やはり体には金色の鎖が巻き付いていた。
『やめろ……やめろ……』
 それは苦しげに助けを求めた。
『誰か……。誰か止めてくれ……』
 龍に目を奪われていた柚子は気付くのが遅れた。
 横からトラックが走ってくるのを。
 トラックがクラクションを鳴らしたことで気付いたが、トラックは透子の姿が見えているはずなのにその速度を落とそうとはしない。
 その時になってようやく東吉が焦り始めたが、間に合わない。
 頭で考えるより先に体が動いた柚子が東吉より一拍早く動き出す。
 柚子は透子の手を掴むと、ぐるりと遠心力をかけるように透子を振り飛ばした。
 飛ばされた透子は東吉が受け止め、代わりに柚子が道路に飛び出す形になってしまう。
 そこからはスローモーションのようだった。
 スピードを落とさず迫ってくるトラックが目の前に来て、そのままトラックが柚子の体にぶつかり吹っ飛ばす。
 空中に投げ飛ばされた柚子は、地面に何度かバウンドした後にゴロゴロ転がり倒れた込んだ。
 トラックはそのまま電柱にぶつかって動きを止めた。
「柚子ー!!」
 透子の叫びが響き渡る。
「うそうそ、やだ、柚子!」
 いつの間にか体の動きを取り戻した透子が地面に横たわる柚子に駆け寄る。
 そして、柚子に触れようとしたその時。
「触るな!」
 怖いほどの厳しい声で透子を怒鳴りつける東吉。
 一龍斎に喧嘩を売ったと叱り付けた時ですらこれほどのきつい言い方はしなかっただろう。
 その声に透子は体を震わせる。
 そんな透子の手を優しく握る東吉は透子を片腕で引き寄せる。
「頭を打ってるかもしれない。動かすのはまずい」
「あ……」
 東吉に言われてからそのことに思い至った透子は顔を強張らせた。
 そして、よろよろと足下をふらつかせながら柚子のそばに座り込む。
「柚子……。柚子……っ」
 ただひたすら呼び掛ける透子に顔を歪め、東吉はすぐにスマホを取り出し救急車を呼んだ。
「……すぐに救急車が来る。絶対に動かすな」
 透子は顔面蒼白で静かに頷いた。
 その時。
「うっ……」
 小さくうめき声を上げて、うつ伏せになっていた柚子がゆっくりと体を上げた。
「柚子!?」
「……っ。透子……」
 起き上がった柚子を見て、透子はボロボロと涙を流した。
「柚子ぅぅぅ!」
「透子、無事?」
「それはこっちのセリフでしょぉぉぉ」
 おいおいと本気で泣きに入った透子は顔がすごいことになっているが、柚子はなんともなさそうな透子を見て安堵していた。
「あーい……」
「う~……」
「子鬼ちゃん」
 恐らく柚子の下敷きになったいたらしい子鬼もなんとか立ち上がった。
「子鬼ちゃんたちが守ってくれたの?」
 ぐしゃぐしゃの顔で透子が問う。
「そうなのかな? よく分かんない」
「おいおい。どっか怪我してたりおかしなところはないか? トラックにひかれたんだぞ、お前」
 あまりに普通にしている柚子に対し、東吉が心配そうに問うと、柚子は自分の体を確認し始めた。
 すると、足に痛みを感じて見てみると、膝が擦りむき血が滲んでいた。
 しかし、それ以外はトラックにひかれたとは思えないほどにピンピンしている。
 すると、電柱にぶつかったトラックから運転手が降りてきた。
 どうやら電柱にぶつけた影響で扉が変形して中々出て来られなかったよう。
「す、すみません!! お怪我は大丈夫ですか!?」
「大丈夫かじゃねえぞ、おっさん。ひとつ間違えたら死んでたんだぞ!」
 東吉が目をつり上げて抗議する。
「どこ見てやがったんだ!」
「すみません! けど、突然ブレーキがきかなくなって……」
「そんなんで言い訳になると思ってんのか!」
「すみません、すみません!」
 トラックの運転手は平身低頭で頭を下げ続けた。
 そうこうしている内に、東吉が呼んだ救急車が到着した。
 すぐに柚子はストレッチャーに乗せられたのだが、正直
「別に救急車に乗らなくても擦りむいただけなんだけど……」
「駄目よ、柚子!」
「透子の言う通りだ。気付いてないだけで、脳や内臓に影響が出てるかもしれない。ちゃんと精密検査受けとけ」
「分かった」
 東吉の言う通りなので、大人しく言われる通りに救急車に乗って病院に運ばれることになった。


 病院に着くと、柚子は色々な検査を受けることとなった。
 結果は、膝の傷以外問題なし。
 けれど、トラックにひかれたということで、念のために一日入院することとなった。
 なんともないことを透子と東吉に伝えると、ふたりはそろって安堵の顔を浮かべた。
「私は一日入院しなくちゃならないみたいだから、ふたりはもう帰って大丈夫だよ」
「若様が来るまではここにいるわ」
 どうも責任を感じている透子の様子から、てこでも動かなそうだったので素直に受け入れる。
「うん、ありがとう」
「なに言ってるのよ。ありがとうは私のセリフでしょう。本当だったらトラックにひかれてたのは私だったのに」
 透子は肩を落として落ち込む。
「別に気にしないでよ。私が勝手に飛び出したんだから」
「ゆ、柚子ぅぅ!」
 透子は再び目を潤ませて、柚子に抱き付いた。
「無事でよかったぁぁ!」
 柚子は透子が無事でよかったと思いながら、透子の背をポンポンと優しく叩いて慰める。
 顔を上げると東吉と目が合った。
「柚子、本気で助かった。お前がいなかったら今頃透子が死んでた。俺がもう少し早く動けてたらお前も怪我しなかったのに……。悪い」
 東吉のその手は微かに震えていた。
 目の前で透子が危険な目にあったのだ。花嫁を大事にするあやかしなら当然だろう。
「にゃん吉君が悪いわけじゃないでしょう。事故なんだから」
「ああ。だが、これだけは言わせてくれ。透子を助けてくれてありがとう」
 東吉は深く頭を下げた。
「どういたしまして」
 柚子は笑顔でそれを受け入れた。
 入院する部屋に移動してしばらくすると、バンッと部屋の扉が開けられる。
 入ってきたのは、珍しく息を切らし焦りを表情に表した玲夜だった。
「玲夜……」
 玲夜は柚子の全身を上から下へと確認する。
「怪我は?」
「足を擦りむいただけ。他はなんともないよ。大丈夫」
 そう言って笑ってみせると、玲夜は柚子をかき抱いた。
 苦しいほどの力で抱き締めらる。
「よかった……」
 そこには、柚子が無事であることへの安堵と恐怖が感じられた。
「心配させてごめんなさい」
「いや、いい。柚子が無事なら」
 少しして落ち着きを取り戻した玲夜がゆっくりと離れる。
「なにがあった?」
「えーと。どこから話せばいいか……」
 柚子が頭の中で話をまとめようとしていると、先に透子が声を上げた。
「私が悪いんです! 私が道路の真ん中で動けなくなって、そこにトラックが走ってきたから、柚子が私を助けて代わりにひかれちゃって……」
「どうして動けなくなった?」
「突然金縛りにあったみたいに体が動かなかったんです。なぜか分からないけど、ほんと突然に」
「金縛り?」
 玲夜が眉をひそめる。
「それで、トラックは止まらなかったのか?」
 それには東吉が答える。
「運転手はブレーキもハンドル操作も突然きかなくなったと言っていました。しかし警察から聞いた情報だと、どこも故障していなかったと」
「高道。詳しく調べろ」
「かしこまりました」
 いつの間にか室内にいた高道に玲夜が命じると、部屋を出て行った。
「透子、にゃん吉君。玲夜も来たからもう大丈夫だよ。付き添ってくれてありがとう」
「私こそありがとう。じゃあ、私たちは帰るね。退院したらまた連絡して」
「うん。またね」
 部屋を出て行く透子と東吉に手を振って見送る。
 扉が閉められると、再び玲夜は柚子を腕の中に閉じ込め、上向かせた柚子の顔にキスの雨を降らせる。
 柚子はただされるがままに身を任せた。
 少しして満足した玲夜は柚子を横抱きにしてベッドに腰を下ろす。
 その間にも玲夜柚子の髪や頬に触れていた。
 まるでそうすることで柚子の存在を確認するかのように。
 そんな玲夜に柚子は透子たちの前では話さなかったことを話し始めた。
「ねぇ、玲夜」
「なんだ?」
「またね、龍を見たの」
 髪を撫でていた玲夜の手が止まる。
「透子が動かないって言ってたでしょう? 透子とにゃん吉君には見えてなかったみたいだけど、透子の足に龍が尻尾を絡ませて動けないようにしているようだった。ブレーキがきかなかったっていうトラックの方も、もしかしたら龍のせいなのかも」
「…………」
「でもね、龍は嫌がってるみたいだった! 誰か止めてくれってって苦しんでるようで。玲夜は関わるなって言ったけど、やっぱり気になるの」
 柚子は思っていることがある。
 それは桜子のこと。
 桜子もまた金縛りになり大怪我を負った。
 その時に桜子は龍を一瞬見たと言っていた。
 もしかしたらあれも龍のせいなのではないかと柚子は考えていた。
 けれど龍はそれを望んでいるようには見えなかった。
 あの龍の身になにが起こっているのか、柚子は知りたい。
「透子に、桜子さん。これだけ周りの人が龍によってなにかが起こされてる。放ってはおけないよ。また誰かが犠牲になるかもしれないのに」
「…………」
 返事のない玲夜の顔を覗き込む。
「玲夜?」
 玲夜は最近よく見る、なにかを思い悩んだような表情を浮かべていた。
 玲夜はベッドを降りると、抱いていた柚子をベッドに乗せる。
 そして頬に軽く触れるだけのキスをして、柚子を抱き締める。
 玲夜の胸に顔を押し付つける形の柚子に玲夜の表情は見えなかった。
「柚子はなにも心配する必要はない。俺がなんとかする」
「玲夜!」
 違う。そうではないのだ。
 柚子は玲夜になんとかしてほしいのではない。
 自分も力になりたいのだ。
 けれど、柚子がそれを告げる前に、玲夜は部屋を出て行ってしまった。
「玲夜……」
 柚子の声が虚しく部屋の中で消えていった。

 翌日、なにごともなく退院をした柚子は屋敷へと帰ってきていた。
 昨夜部屋を出て行ってしまってから玲夜は柚子に顔を見せてはいない。
 柚子のことになると過保護なほどに心配性を発揮する玲夜ならば柚子のそばを離れずずっと付き添うかと思いきや、代わりに雪乃が着替えなどを持ってきてくれただけだ。
 玲夜のことを聞いたが、雪乃は困ったように分からないと言うだけで、玲夜がどこでなにをしているのか柚子には分からなかった。
 屋敷へと帰ってきても、玲夜はいない。
 まあ、ただ仕事をしているだけなのかもしれないが、あの玲夜が柚子よりも仕事を優先させたとしたら、それはそれで不思議でならない。
 なぜだかとてつもなく不安に駆られる。
 一日玲夜と会っていないだけだというのに、なぜこれほどに不安を感じるのか、柚子は分からなかった。
 せめて電話をして声を聞こうかと、スマホを取り出しから気付く。
 電源が付いていないことを。
 病院に行くからと電源を切ったままだった。
 退院したことを透子にも伝える必要があると、部屋に戻った柚子はスマホに充電器を差した。
「アオーン」
「ニャーン」
 まろとみるくが一日留守にした柚子のもとへ擦り寄ってくる。
 ご飯は雪乃があげてくれていたようだが、昨日は柚子だけでなくいつも一緒にいる子鬼も柚子についていたから寂しかったのかもしれない。
 いつも以上に、スリスリと体を擦り付けてくる。
「よしよし、いい子にしてた?」
 柚子はとりあえずまろとみるくの頭を撫でてやる。
 ついでに猫用のおやつを見せれば目を輝かせる。
 二匹がおやつに夢中になっているのを見計らって、柚子はスマホの電源を付けた。
 すると、そこには目を疑うような通知の数。
 思わずぎょっとした柚子は、誰からの通知かと確認すると、それはすべて浩介からだった。
 数十どころではない回数の通知に柚子はすぐに浩介に電話を掛けた。
「もしもし、浩介君?」
『柚子! 無事か!?』
 繋がるやいなや耳を突き抜けるような大声が通話口から響いてくる。
『おい、柚子? 柚子!?』
「う、うん。浩介君、私は無事だけど、どうして知ってるの? トラックにひかれちゃったこと。透子にでも聞いた?」
『はあ!? トラックだとぉ! 本当に無事なんだろな?』
 どうも浩介は初耳のようだ。
 それならばなぜ無事かなどと聞いてくるのか。
「幸いにも擦り傷だけだよ。透子に聞いたわけじゃないの?」
『違う。以前に俺が送った護符が破れたのを感じたから、柚子の身になにかあったんだろうなって思って。それで電話したら全然繋がらねぇし、マジで焦ったじゃねぇか』
「護符?」
 そう言えば確かに以前、浩介からお守りとして匂い袋が送られてきていた。
 柚子を守る護符を仕込んであるからずっと身に着けるようにと言われていたが、事故当時もポケットに入れていたはずだと思い出す。
「浩介君ちょっと待ってね」
『おう』
 柚子はスマホを耳から外して、雪乃を呼んだ。
 鬼の雪乃は耳がいいのか、柚子が呼べばすぐに部屋にやって来る。
「雪乃さん、昨日私が着ていた服のポケットに匂い袋が入ってませんでしたか?」
「ええ、服は擦り切れて汚れていましたので処分致しましたが、ポケットに入っていたものは保管してあります。少々お待ち下さい」
 そうしてすぐに戻ってきた雪乃に渡されたのは、引き裂いたように真っ二つになった匂い袋のなれの果てだった。
「浩介君、ごめん。匂い袋真っ二つに破れちゃった」
『それでいいんだよ。匂い袋が破れたってことは柚子の身に危険なことがあって、それが守ったってことの証だ。トラックにひかれてすり傷ですんだんだろう?』
「うん」
『恐らくそれが役に立ったんだろ』
「そうだったんだ」
 トラックにひかれたのに擦り傷だけとは運がよかったと思っていたのだが、どうやら浩介の護符のおかげらしい。
「ありがとう、浩介君」
『おう。けど、やっぱり俺の夢はただの夢じゃなかったってことだな。龍が関係してるのか?』
「多分。でも、玲夜はこのことに私を関わらせたくないみたいで……。きっと一龍斎が関係してるからだと思うんだけど」
『一龍斎って、あの有名な一龍斎か? 陰陽師も歴史だけは古いからな。昔は神事を執り行っていた一龍斎とは関わりもあった。今はあっちの力が大きくなりすぎて陰陽師なんて気にもとめられてないだろうけどな』
「私、龍のことをなんとかしたいの。けど、玲夜は私にはなにも相談してくれなくて……」
 自分の力のなさが憎らしい。
『そんなん当たり前だろう。自分の大事な女を守りたいと思うのはなにもあやかしだけじゃねぇぞ。その中でもあの旦那は特にその傾向が強そうだ。柚子は役立たずなんて自分を責めてるのかしらねえが、それはな、ただの男のプライドだ』
「プライド?」
『そっ、プライド。女の前では、男という生き物は格好付けたがるものなんだよ。それが好きな女の前だっていうならなおさらだ』
「そういうもの?」
『そうそう』
 軽い調子の浩介はどこか信用に欠ける。
「うーん」
 思わず唸り声を上げてしまう柚子。
『まっ、なるようになる。旦那に任せとけ。そういう専門外のことは歴史も古く力を持ってる鬼が一番対応の仕方を分かってる。素人が下手に口を挟むもんじゃねぇ』
 けれど、やっぱり玲夜の力になりたい。
 無言の柚子から察した浩介が、電話の向こう側で小さく笑う。
『相変わらず柚子は変なところで頑固だなぁ』
「だって……」
『まあ、とりあえずは追加の護符を送るから、またなにかあったら電話して来いよ』
「うん、ありがとう」
 そうして電話を切った柚子は、画面をじっと見つめた後、電話を掛けた。
 今一番声が聞きたい玲夜の連絡先に。
 コール音が何度も鳴る。
 けれど、玲夜が柚子の電話に出ることはなく、しばらく経ってもかけ直してはこなかった。
 いつもは電話に出られなかった時でも、少しすれば必ずかけ直してきていたのに。
 この日柚子がこの屋敷に来てから初めて、玲夜は帰ってこなかった。