しばらく医務室で透子と東吉で話をしていた。
頬を冷やしていたタオルが温くなってもまだ桜子は戻ってこなかった。
すぐに戻ってくると言っていたのに。
「桜子さん遅いな」
「きっと若様に告げ口してるのよ。存分に言ってほしいわ」
「っか、なんか騒がしくねえか?」
注意して耳を澄ましてみると、なにやら扉の外が騒がしい。
さすがに気になった東吉が椅子から立った時、医務室の扉が開いた。
「気を付けて運ぶんだ!」
「救急車は呼んだか?」
「それより止血だ。包帯を取ってくれ!」
「待て、硝子が刺さってるかもしれない」
複数の大人が入ってきたかと思えば、慌ただしく声を荒げる。
それと共に誰かが運ばれてくる。
赤いなにかが見えて、無意識に注視していた柚子は、それが血だと理解すると息をのんだ。
そして、全身を染めるほどの赤い血にまみれたその人物が、前を通り過ぎた時にその顔が見えた柚子は顔色を変える。
「っ、桜子さん!?」
「えっ!?」
柚子の叫びを聞いた透子も驚いて声を上げる。
「どうして、桜子さん……。なにがあったんですか!?」
用事があると言って少し席を外した桜子。
先程までいつも通りだった桜子が血まみれの変わり果てた姿でいることに、現実のことかと我が目を疑った。
意識はなく、ぐったりとしている。
どうしてこんな状態になったのかと、桜子を連れて来た人たちに問う。
桜子をベッドに寝かせ、数人が大慌てで動き回る中、ひとりが柚子の問いかけに答えた。
「それが……突然廊下の窓硝子が吹き飛んで彼女の上に降り注いだんだ。他に怪我人はいないが彼女だけがそれの下敷きになってこの有様だ」
それを聞いた東吉が話に割り込んでくる。
「ちょっと待て、彼女は鬼だぞ? しかも鬼龍院の筆頭分家だ。そんな鬼が窓硝子が飛んできたぐらいでこんなになるか? ってか、なんで急に窓硝子が吹っ飛ぶんだよ。竜巻でも起こったってのか?」
「それがなにがなんだか、俺たちにも分からないんだよ。気付いた時には窓硝子が割れて、彼女が下敷きになって。分かっているのはそれだけだ」
そう言うと、その人は医務室から出て行った。
柚子は慌てて鞄を漁りスマホを取り出した。
「柚子、どうしたの?」
「玲夜に連絡しないと」
柚子は震える指で画面を操作して玲夜に電話する。
早く早くと気が急く中、幾度かのコール音の後に玲夜が出た。
「玲夜! 桜子さんが大変なの!」
事情を説明すると、少しして玲夜と高道が学園にやって来た。
予想よりも早い到着に驚く。
「玲夜」
駆け寄る柚子に、玲夜は柚子の頬に指を滑らせた。
「まだ少し赤いな」
桜子のことですっかり忘れていた叩かれた頬のことを言っていると気付いたが、今はそんなことはどうでもよかった。
「そんなのどうでもいいよ。桜子さんがっ!」
「分かってる。桜子は高道と電話をしていたとこらだったんだ」
「そうなの?」
「ああ。柚子と一龍斎の娘とのことを報告してきていた。その途中で桜子の声が途切れて通話が切れたから、なにかあったのではと学園に向かう途中で柚子から連絡があった」
ふたりが予想より早い到着だった理由が分かった。
柚子と玲夜が話してるそばでは、高道が一緒に連れて来た人たちに指示を出していた。
「桜子は本家に移動させてください」
「かしこまりました」
「気を付けてくださいね」
「勿論です」
そっと桜子が運び出されていくのを柚子は見ていることしかできなかった。
「おい」
玲夜は医務室にいた学園の者に声を掛けた。
掛けられた方は、あたふたしながらも玲夜に返事をする。
「は、はい!」
「桜子が怪我した所へ案内しろ」
「は、はい! こちらです!」
玲夜は高道に目配せをして歩き出すと、高道は玲夜のの後ろについて歩く。
「柚子、私たちは先に帰ってるわね」
「うん、またね」
透子と東吉に手を振って、柚子も玲夜の後を追った。
桜子が怪我をしたという場所は騒然としていた。
硝子が飛び散り、窓にはあるはずの窓硝子はなくなっている。
硝子だけではない。
窓枠ごと床に落ちているではないか。
そして、そこにはおびただしい血が落ちており、いかに桜子が大怪我をしたかが分かる。
それにしても、窓硝子が割れただけならまだ理解できる。物がぶつかったとか劣化していたとか。だが、窓枠ごと外れて桜子に向かって吹っ飛ぶなどありえるのものか。
外の天気は快晴で台風も竜巻も起こりそうな気配はない。
勿論、地震なども起きていない。
これが普通でないことは、無知な柚子でも分かった。
玲夜と高道は恐ろしいほど真剣な顔でひとつひとつを確認していく。
柚子は少し離れて見ていた。
嫌でも視界に入る血の量に足がすくんだとも言える。
そんな柚子の顔色は悪く、肩にいる子鬼がしきりに声を掛けなければ、立っていることもままならなかっただろう。
そんな柚子に声が聞こえた。
『たす、けて……』
あの声だと思った時にはその姿を探していた。
そして見つける。
金色の鎖に囚われた白銀の龍を。
『解放してくれ』
龍は柚子の目を見てそう訴えた。
今度は手が届きそうなほどに近い。
柚子はそっと手を伸ばした。
『鎖を……』
「鎖を外すの?」
答えは返ってこなかったが、そうだと言っているように感じた。
柚子は龍に絡みついている金色の鎖に触れた。
すると……。
「痛っ」
まるで強い静電気に弾かれるような衝撃と、焼けるような痛みを感じ手を離した。
見れば、鎖に触れた手のひらが火傷をしたように鎖の形に赤くなっている。
柚子では鎖を外せない。次の瞬間には助けを求めていた。
「……っ。玲夜!」
龍から目を離さず玲夜を呼べば、事故現場を観察していた玲夜が急いで柚子の元へ来た。
「どうした?」
「あれ。龍があそこに……」
驚いた顔をした玲夜がすぐに柚子が指差す方を見る。
目を細め、じっとなにかを探すように視線を動かした。だが……。
「なにも見えない」
「嘘!? だってあんなにはっきり……あっ」
そう言っている間に、龍の体は空気に溶けるように消えていった。
「消えちゃった……」
跡形もなく消えてしまった龍。
「玲夜には見えなかったの?」
「ああ、なにも」
「どうして……」
柚子は手のひらを見る。
そこにある焼けた跡が、龍の存在が幻覚ではないことを物語っていた。
「柚子、その手はどうした?」
「龍に巻き付いた鎖を取ろうとしたの。龍が外してほしそうだったから。そしたら弾かれて……」
玲夜を見上げた柚子は訴える。
「噓じゃないの」
「分かってる」
変わらず玲夜が信じてくれることに柚子ははっとすると同時に、龍が気になった。
「解放してくれって……。どういうことだろう」
「今はそれよりその傷を治すのが先だ。手を……」
「うん」
玲夜に手を差し出すと、柚子の手のひらの上に玲夜が手を乗せる。
血のように紅い玲夜の瞳がさらに鮮やかさを増し青い炎が柚子の手を包む。
炎が消え、玲夜が手を外すと、そこには先程と変わらぬ火傷の跡。
「消えてない」
「なんだと?」
柚子よりも玲夜の方が驚いているようだ。
再度試みたが、やはり火傷の跡は癒えない。
さすがに申し訳なくなって手を引っ込めた。
「玲夜、大丈夫だよ。そこまで痛くないし」
「……」
しかし、柚子に傷が残っているのが許せないのか、玲夜の表情は険しい。
「それよりも、あっちを調べてあげて」
いまだ高道が検分しているが、なにかが見つかった様子はない。
「目の届くところにいるんだぞ」
「うん」
そうして、高道の所に向かった玲夜だが、結局理由は判明しなかった。