四章


 大学のカフェで課題をしていた柚子は、深く溜息を吐いた。
 柚子への陰口は桜子の働きによってなくなりはしたが、時折感じる悪意のある視線まですべてをなくすことはできていなかった。
 しかし、まあ、ただ視線を向けられるだけなので実害はない。
 勉強に集中していれば気にならない程度の問題だ。
 今柚子を悩ませているのは龍のこと。
 玲夜は近付くなと言った。
 しかし、同じ大学内にいてまったく鉢合わせないことなど不可能だった。
 特にミコトはお付きの人を常に複数名そばに置いているので目立つのだ。
 そうすると自然と柚子の視線も向かう。
 そして彼女を見れば龍のことを思い出さないはずがなかった。
 あれから龍を見ることはなかった。
 けれど、あの声と姿は強烈に柚子の中に残り、忘れさせてはくれない。
 だからと言ってなにができるというわけでもないのだが、それがさらに柚子の心をヤキモキとさせる。
 思わず「わぁぁ!」と叫びだしたいような気持ちを抑え込んで、テーブルに突っ伏す。
「……課題しよう」
「あーい」
「ありがとう、子鬼ちゃん」
 諦めて勉強に集中しようと子鬼から渡されたペンを持ったその時。
「少しいいかしら?」
「はい?」
 声を掛けられて後ろを振り返った柚子は、先程まで頭を悩ませていた一龍斎ミコトがいることに、ぎょっとした。
「えっ?」
 動揺が隠しきれない。
 柚子はミコトを一方的に知ってはいるが、ミコトと話をしたことはなく、ミコトが柚子を知ることはない。
 そのはずなのだが、なぜか彼女が目の前にいる。
 龍と同じで幻覚かと思ったが、間違いではない。
「あなたが柚子? 鬼龍院玲夜様の花嫁っていう?」
「そうですけど……。えっと、なにか?」
 この邂逅は柚子も予想外だ。
 一瞬玲夜が頭をよぎった。
 近付くなと言われたが、これは自分から近付いたわけではないのでノーカウントだろうか?
 それともこれも怒られる?
 そんな余計なことが柚子の頭の中を回った。
「ふーん。あなたがねぇ……」
 ミコトはじっくりと見定めるように柚子の顔を見つめる。
 そして、彼女は柚子を見ながら馬鹿にするように鼻で笑った。
「平凡な女ね」
「は?」
 一瞬なにを言われたか分からなかった。
「聞こえなかった? 平凡な女だと言ったのよ」
 それは分かっている。
 平凡なこともわざわざ言われずとも柚子自身が誰より分かっているが、それを初対面の相手に言われることではない。
 これが透子だったらすぐに臨戦態勢に入っていたところだが、柚子はなぜミコトが柚子に接触してきたかということで頭がいっぱいだ。
「私になにか用ですか?」
 柚子から思った反応が返ってこなかったからか、ふんっと鼻を鳴らす。
 どうやら柚子が想像していたより勝ち気な性格のようだ。
 いつも守られるようにしたいたので、桜子のようなお嬢様を想像していたのだが違うよう。ちょっぴり柚子はショックだった。
 見た目は深窓のご令嬢という感じなのに。
 そもそもなぜこんなにも敵対心を露わにされているのか柚子にはさっぱり分からない。
 けれど、次の言葉で理解する。
「私はいずれ玲夜様のお嫁さんになるのよ。今はあなたが花嫁って呼ばれているみたいだから一応挨拶をしておこうと思ったの。私自ら来てあげたのだからありがたく思ってちょうだいね」
「玲夜のお嫁さん……?」
 どういうことかとそう呟いた瞬間、バチンと頬を叩かれた。
 一瞬なにが起こったか分からなかったが、頬の痛みが柚子に状況を理解させる。
 柚子は唖然としながらミコトを見上げる。
「馴れ馴れしく私の玲夜様を呼び捨てにしないでくださる?」
 ミコトは柚子を叩いた手を見て、嫌悪感を露わにする。
「ああ、嫌だ。こんな庶民を叩いたせいで手が汚れてしまったわ」
「お嬢様、こちらを」
「ありがとう」
 すかさずお付きの人が差し出したハンカチで手を拭う。
 それをゴミでも捨てるように床に落とした。
「あーい!」
「あいあい!!」
 子鬼が、柚子を叩いたミコトに対して怒りを露わにしているが、ミコトの存在ごと無視をしている。
「なにを、言ってるの?」
 なにがなんだか分からず、柚子の声が震える。
「あら、これだから理解力のない女って嫌だわ」
 不愉快そうな顔を隠しもせず柚子を見下ろす。
「玲夜様とは先日お見合いをしたのよ」
「えっ……」
 柚子には初耳だった。
「とっても素敵な方だったわ。あれほど私の旦那様になるのに相応しい方はいないわね」
 ミコトはうっとりと頬に手を添える。
「だから私は玲夜様の花嫁になることに決まったの」
「玲夜の……玲夜の花嫁は私です」
「また玲夜様の名前を呼んだわね。……まあ、いいわ。そうやって呼ぶことができるのも今の内だけだもの。私は慈悲深いから少しの間のことは目を瞑って差し上げる」
「今の内って……どういう……」
 ミコトの言葉はまるで別の世界の人の言葉のように、うまく頭の中で処理できない。
「ほんと、分からない人ね。玲夜様の花嫁は私になるの。この一龍斎ミコトがね。あなたはお役御免ということよ。これまで私の代わりをしてくれてご苦労様」
「なん……なにを言ってるの。玲夜の花嫁は私です!」
 ようやく頭が回り始めた柚子は声を荒げる。
「あなたが花嫁でいて、玲夜様のなんの役に立つの?」
「……」
 柚子は咄嗟に返すことができなかった。
 それを見てミコトはさらに柚子を見下す。
「なにも持ってない庶民のあなたじゃあ、玲夜様の役に立たないどころか、足しか引っ張らないわ。それに引き換え私は一龍斎の娘。玲夜様の公私共にお支えすることができるわ。玲夜様だって、なにも秀でた物のないあなたより、私が花嫁でいてくた方が嬉しいに決まっているでしょう? ねえ?」
「その通りでございます。お嬢様」
 付き人の言葉に、ミコトは得意げに微笑む。
「勝手なことを言わないで!」
 再びミコトが柚子の頬を平手打ちする。
「っ……」
「あい!」
 黒髪の子鬼が慌てて柚子の頬を撫で、白髪の子鬼が臨戦態勢に入った。
「勝手なのはあなたでしょう。あなたじゃ、なんの価値もないじゃない。それなのに玲夜様のそばにいようとするその傲慢さを恥ずかしいと思わないのかしら」
「……」
 なにか言い返さなければ。
 そう思うのにうまく言葉が出てきてくれない。
 価値がない。
 恥ずかしい。
 やはりそうなのだろうか。
 分かっている。そんなこと。
 けれど……。
「あーい!」
 子鬼がミコトを攻撃せんとしたまさにその時。
「柚子様!!」
 はっと顔を上げると、焦りを滲ませて桜子が走ってくるのが見えた。
「柚子様!」
「桜子さん……」
 桜子は柚子の赤くなった頬を見て顔色を変える。
「なんてことっ。柚子様……」
 桜子は柚子の様子を確認した後、柚子を庇うようにミコトの前に立ち塞がった。
「鬼龍院の花嫁にこのような真似をなさって、いくら一龍斎家の方と言えど許されることではありませんよ」
 これまで聞いたことのない桜子の厳しい声。
 それを前にしてもミコトは表情ひとつ変えなかった。
「あら、あなた。庇う相手が違いましてよ」
「なにも間違いはございません」
「あなたが味方をすべきは玲夜様の花嫁となる私だと言っているの」
 先程から何度となく告げているミコトの言葉に桜子の目が険しくなる。
「ご安心下さい。次期ご当主たる玲夜様の花嫁はこの世でただおひとり。柚子様以外にいらっしゃいません。あなたはどうやら夢でもご覧になったのでは? そうでなかった気が触れたとしか思えませんね」
「なんですって!?」
 柚子と同じように桜子に手を振り上げたミコトに対し、桜子は毅然とした態度で接した。
「私は筆頭分家鬼山の娘。私に手を出そうというのなら、鬼龍院を敵に回すとご理解くだされば幸いです」
 にっこりと目の笑っていない笑みを浮かべる桜子からは言い知れぬ迫力があった。
 それに負けたのはミコトの方。
「っ、行くわよ」
 負け惜しみのようにひと睨みした後、付き人たちを引き連れて去って行った。