「私ちょっと行ってくるわね!」
「えっ、今ですか?」
「早いに越したことはないのよ」
そう言うと、あっという間に沙良は行ってしまった。
あの行動力はぜひとも手本にしたいと思う柚子だった。
「玲夜のお母さんはパワフルですね」
「あれくらいでなくては当主の妻ではいられないのかもしれませんね。頑張って下さいね、柚子様」
「えっ、私が玲夜のお母さんみたいになるのは無理があるかも……」
かも、ではなく絶対に無理だと思う。
なにかとネガティブ思考に陥りがちな柚子と、ポジティブを体現しているかのような沙良とでは、そもそもの性格が違う。
けれど、あの強さと明るさは憧れる。
「……そうだ、桜子さんにお礼を言いたかったんです」
「なんでしょうか?」
「大学内で広まってた私の悪い噂、抑えてくれたでしょう? 本当は自分でなんとかすべきだったのに、ありがとうございます」
柚子は桜子に向かって深々と頭を下げた。
「鬼龍院に仕える者として、花嫁である柚子様を守るのは当然のことです。礼など不要ですよ」
にこりと微笑む桜子のその顔には揺るぎのない信念のようなものが見えた。
鬼龍院の筆頭分家の娘としての矜持。次期当主の婚約者に選ばれた矜持。
そして今は、側近である高道の伴侶としての矜持。
それらが桜子の揺るぎなさの根源なのかもしれない。
では、自分にはなにがあるのか。
揺るぎのないなにかはあるのだろうか。
考えてみたが、柚子にはなにもない。
流されるようにして今までやってきた。
勿論、最終的に自分で選び決めたことではあるが、それらはすぐにゆらゆらと揺れてしまう。
大学に入って、花嫁のことを勉強すればなにかが変わるかと思ったが、それ以前の自分となにひとつ変わってはいない。
そのことを誰よりも柚子自身が分かっていた。
分かっていても、それ以上どうしたらいいのかは分からないのだ。
けれど、きっとこの答えは誰かに教えてもらえるものではない。
柚子の心だから、柚子の心が変わらない限り変わることはない。
強さが欲しい。
揺るぎのない強さが。
玲夜を支えることのできる強さが。
「桜子さんが羨ましいです」
ぽつりと思っていたことが口から漏れ出た。
「なにをおっしゃるのですか。玲夜様に選ばれたあなたこそ、どの女性からも羨ましがられる立場でしょうに」
「でも、私は桜子さんのように玲夜の役には立てない……」
「あら、じゅうぶんに役に立っておりますよ」
「えっ?」
柚子はきょとんと首を傾げる。
「柚子様は玲夜様の冷酷さをご存じないのです。きっと知れば裸足で逃げ足してしまわれるでしょう。それぐらい玲夜様は他人には冷たいお方なのですよ」
「それはなんとなくは分かってます」
「いいえ、全然分かっておりません。玲夜様は柚子様の前ではとんでもなく大きな猫を被っておいでです!」
それはもう力強く言い切った。
「柚子様の思っている百倍は酷いと思ってくださらないと」
百倍は言いすぎではないかと柚子は思うが桜子は真剣だ。
「それが、柚子様がそばにいらっしゃると玲夜様は優しくなられます。それがどれだけ周囲の助けとなっていることか!」
「そうですか?」
「そうなのです。柚子様がアルバイトで会社に行かれる時などは特に、あからさまに玲夜様の機嫌がよくて、社員から柚子様は救世主や女神と言われておいでですよ。ご存知ないでしょうが」
「は、初耳です……」
救世主とはどういうことだ?と柚子は困惑する。
「お父上の千夜様と違って、玲夜様は昔から人を寄せ付けない空気をまとっておいででした。威厳と言えば聞こえはよいですが、必要な者ですら近寄りがたかった。兄などはそれを憂慮されておりましたわ。触れたら切れそうな空気は他者だけでなく玲夜様ご本人も傷付けてしまわれないかと。それが、柚子様と出会われて穏やかな空気を持つようになられ、そのお心も優しさを感じるようになりました」
桜子は優しく微笑みながら柚子の手を取った。
「それは他の誰にもできなかったこと。それを柚子様はやってのけたのですよ」
「私はなにもしてないです。ただ、そこにいただけで……」
「それでよいのですよ。それこそが他の誰でもない柚子様にしかできないこと。柚子様だけに許されたことなのです」
桜子の手が柚子の手を温かく包む。
「玲夜様は安住の地を見つけられた。それが玲夜様に心の余裕を与えているのです。どうか柚子様はありのままで玲夜様のそばにあり続けてください」
柚子はなにもしていない。
そばにいるだけ。
だが、それこそが役に立っていると桜子は言う。
本当だろうか?
そんなことでいいのだろうか?
疑問は浮かぶが、自分の存在を許されたような気がして、なんだか柚子は泣きたくなった。
できることなら、玲夜のそういう存在でありたいと、柚子は心から願った。