一章


『たすけ……て』 
『助けて』
 声が聞こえる。
 苦痛にかすれる切なる想いがこもった声が。
 こちらの身が痛みを感じるほどの苦しみが伝わってくるような声。
 柚子は手を伸ばす。
 暗闇の中で助けを求めるそれに向かって、必死に手を伸ばす。
 しかし、その手は空を切り、段々と声が遠くなっていく。
 柚子は必死に叫ぼうとする。
 待って、待って!と。
 けれど柚子の口から声は出てこず、それは遠くへ消えていった。
 直後、ぷにっとしたものが頬に乗せられ、柚子ははっと目を開けた。
 しばらく呆然としていた柚子は、ずっとぷにぷにと頬を押してくるなにかに視線を向けると、そこにはまろのどアップがあった。
「アオーン」
「まろ……」
 よくよく周囲を見渡してみれば、そこは柚子のいつもの部屋だった。
「……夢?」
 その割には随分と現実味があった。
「変な夢」
「アオーン」
 ぼんやりとしていると、黒猫のまろが早く早くと急かすように前足でタッチしてくる。
 おそらくご飯が欲しいのだろう。
「はいはい。今起きるから」
 ベッドから起きてお皿にご飯を入れてやると、まろだけでなくベッドの上で丸くなって寝ていた茶色い猫のみるくも勢い良く駆けてきた。
 そのままガツガツと食べるみるくと、のんびりと食べるまろを見て、込み上げてきたあくびをかみ殺す。
「なんか寝た気がしないな。でも、準備しないと」
 時計を見て時間を確認する。
 今日は休みだったが、友人の透子と遊びに行く約束をしていた。
「あいあーい」
 叱り付けるような声に振り返ると、みるくがまろのご飯までに手を付けようとしているのを、子鬼がふたりでみるくを止めているところだった。
 この手のひらサイズの黒髪と白髪のふたりの子鬼は、柚子を花嫁に選んだ玲夜が柚子のために作った使役獣である。
 みるくは食い意地がはっているのか、よくまろのご飯にまで手を付けようとするので、よく子鬼に叱られている。
 このまろとみるくという猫は、猫の姿をしているがただの猫ではなく霊獣という、神に近い特別な生き物なのだ。
 にわかに信じがたいが、人の言葉を理解していると思わせることが多々ある上、以前子鬼たちが霊力を失って弱っていた時には、霊力を分け与えて救ったというのだから信じざるを得ない。
 それ故か、仲のいい二匹とふたりだが、こと食に関するとみるくは子鬼たちでも止めるのは至難の業だ。
 必死でみるくを止めて、まろの食事時間を死守している。
 もはや毎日の光景となっているそれに、柚子は手を出すことなく子鬼たちに任せ、着替えをすべくクローゼットへと向かった。
 クローゼットの中は玲夜が鬼龍院の財力を存分に見せつけるかのように、びっしりと高級品で埋め尽くされている。
 華美なものは苦手な柚子の好みに合わせた、シンプルかつ大人可愛いデザインで揃えられていた。
 決して柚子は玲夜に好みを話したことがないはずなのだが、それを揃えてくるあたり、柚子への愛の強さが分かる。
 何故知っている、などと愚問を言うわけにはいかない。
 そんなことをすれば藪から蛇が出てきかねないからだ。
 そんな疑問を特に抱くことなく素直に受け入れている柚子は、きっと愛の重いあやかしの花嫁としては正解を引いているのかもしれない。
 花嫁の中には、そのあやかしの重すぎる愛を受け入れられずに悲劇を生み出す者も少なくないのだ。
 その点で言えば、両親からの愛に飢えていた柚子にとって、玲夜の重すぎる想いは釣り合いが取れているのかもしれない。
 しかし、控えめな性格の柚子は未だにその玲夜からの想いの大きさを分かりかねているふしがある。
 その度に、それを焦れったく感じる玲夜に理解させられることになるのだが、柚子の生い立ちを考えると柚子がすべてを受け入れるには時間が掛かることも玲夜は理解していた。
 だから今はまだ真綿で包むように……。
 柚子が愛されることに慣れるのを待っている最中なのかもしれない。
 そんな玲夜の努力により、柚子も少しずつ玲夜に甘えるということを覚え始めていた。
 柚子がこの家に来てからしばらくが経つ。
 高校三年生の時に来てから、柚子はもう少しで大学二年に進学する。
 それだけの時をかける玲夜はきっとあやかしの中では気が長い方だと、玲夜の秘書の高道は常々言っている。
 それもこれも、玲夜が柚子を思えばこそなのだが、人間である柚子にそのすべてを理解するのは少し難しいのだろう。
 少しずつ、けれど確実に玲夜に染められていっていることを柚子はいつか気付くだろう。
 その時にはきっと囚われた後だ。