『……けて!』
 その声にハッとした柚子は周囲を見渡す。
 突然の柚子の行動に透子たちが不審そうな顔をしている。
「どうしたの、柚子?」
「今、声がしなかった?」
「声? そりゃあしてるでしょ。これだけ周りに人がいるんだし」
「ううん、そういうのじゃなくて、なんかこう切羽詰まったような。頭に響いてくるような……」
 柚子も上手く説明はできなくて、透子も東吉も蛇塚もきょとんとして目を見合わせた。
「ふたりは聞こえた?」
「いや、別に気になる声は聞こえなかったが、蛇塚は?」
 蛇塚も首を横に振っている。
「そう……。気のせいかな?」
 けれど、最近よく聞いている声な気がして、柚子の中にしこりを残した。
 そしてふと視線を向けると、女性がカフェに入ってくるところだった。
 それは以前にスイーツバイキングを食べにホテルに行った時に見かけた人だ。
 随分前のことだが、彼女の後ろに見えた龍の姿が忘れようと思っても脳裏に焼き付いて離れなかったのでよく覚えていた。
 そう言えばあの時も声が聞こえたなと柚子は思い出す。
 その時と同じで、彼女の周りにはスーツを着た人たちがいて、守られるようにしていた。
「彼女……この大学の生徒だったんだ……」
 ぽつりと呟いた言葉を透子が拾った。
「柚子の知り合い?」
「ううん、全然知らない人」
 そのはずだ。
 なのになぜだろうか。すごく気になった。
 すると、彼女を見た東吉が驚いたように言葉を発した。
「あれ、一龍斎の令嬢じゃねぇか」
「にゃん吉君、あの子知ってるの?」
「ああ。蛇塚も知ってるよな?」
 蛇塚はこくりと深く頷いた。
「あれは一龍斎ミコト。鬼龍院があやかしのトップだとしたら、一龍斎は人間側のトップだな。一龍斎の現当主の孫娘で、かなり溺愛されてるって話だ。俺たちよりひとつ年下だったはずだから、今年からかくりよ学園に入ってきたのか」
「一龍斎なら私も聞いたことあるわ」
 透子が昼ご飯をつつきながら話す。
「戦後鬼龍院の力が強くなって影に隠れてるけど、その影響力は鬼龍院にも負けていないって。唯一鬼龍院に対抗できる家とも言われてるらしいわよ」
「そんなすごい家なんだ」
 大学で政治経済のことを学ぶようになったが、まだまだその辺りのことに疎い柚子は興味深く聞いていた。
「日本経済の影のドンとまで言われてるらしいわよ」
「へぇ」
 感心する柚子にさらに東吉が情報を与える。
「他にも一龍斎の家の歴史は古くて、色々な逸話がある。初めてあやかしの花嫁を輩出したのが一龍斎だとか。一龍斎は龍に護られていて、龍の加護により絶大な権力を手に入れたとかな」
「龍……」
「どこまで本当か知らないけどな」
 と、肩をすくめる東吉。
 柚子の脳裏に浮かんだのは、彼女の後ろに一瞬だけ見た龍の姿。
 あれが一龍斎を護る龍だとでも言うのだろうか。
 けれど、その姿は誰も見ていない。
 そばにいた子鬼ですらも。
 やはり気のせいなのだろうか?
 だが、柚子はあの龍が気になって仕方がなかった。
 じろじろ見るのは失礼だと思いながら、席に座り食事を取っているミコトのことを観察していると……。
 その後ろに、あの日も見た大きな龍の姿が現れた。
 目を大きく見開いて声もなく驚く柚子。
 今度は間違いない。
 その体はうっすらと透けていて朧気だが、確かに柚子は見たのだ。
 龍の周りにはまとわりつくようにある金色の鎖が少し気になった。
 白銀に輝く龍はじっと見ていた柚子に視線を向け、その目が合った。
 一瞬だったが、柚子にはその時間がとても長く感じた。
 まるでその場には柚子と龍しかいないような感覚に陥る。
 その時……。
『たすけて……』
 確かに聞いた。
 最近聞こえていたあの声を。
 龍は柚子に訴えかけるようにじっと柚子を見つめている。
 その目はどこか悲哀な色を宿しており、柚子は知らぬ内に胸元の服をぎゅっと握り締めていた。
「あなたは……」
『たすけて……』
 龍が柚子の方へ向かってこようとする。
 柚子もゆっくりと立ち上がる。
「柚子?」
 透子がうろんげに声をかけたが、柚子には届かない。
 柚子の目は白銀の龍に釘付けだった。
 龍が柚子の元へ来ようとミコトから離れたその時。
 龍にまとわりついていた金色の鎖が龍に巻き付き締め上げるように拘束した。
『ああぁぁぁ!』
 悲痛な声を上げて悶え苦しむ龍に、柚子は思わず手を伸ばした。
 だが、次の瞬間には龍は跡形もなくその場から消え去っていた。
「あっ……」
 柚子は決して届かなかった手を伸ばしたまま立ち尽くした。
「……柚子!」
 ハッと我に返った柚子は声のした方に振り返った。
 すると、透子だけでなく、東吉や蛇塚もが心配そうな顔をしていた。
「柚子、どうしたの急に。なにかあった?」
「なにかって……。見えなかったの?」
「見えなかったって、なにが?」
 あれだけ大きな龍がカフェに現れたのだ。
 大きな騒ぎになっていてもおかしくないというのに、カフェにいる生徒たちはそんなことなかったかのように普通にしている。
「龍が……いたの」
「龍?」
「おい、柚子なに言ってるんだ。大丈夫か?」
「……皆には見えてないの?」
 そう呟いた柚子は再びミコトの方を見たが、龍の姿がいた痕跡はどこにもない。
「おいおい、本当に大丈夫か?」
「う、うん。大丈夫……」
 静かに元の席に座り直した柚子だったが、それからは龍のことしか頭になく、午後の講義は上の空だった。