「…わかった、データの同期をする。部屋に行こう」

「マリアを連れていく」

「別にいなくたっていいだろ、いつもは」

「余計な知恵ついてるって、データいじられたら困る」

「俺信用ないなあ」

 初めから、ジュンイチは「キヨハ」が無条件にジュンイチを信用して愛して素直に言う事を聞くように設定しておけばよかったのだ。
 それならこんなふうに欠損データがどうこうなんて言われることだってなかっただろうに、そこまで考えていなかった?こんなに頭のいい男がその先を見据えていないなんてことがあるんだろうか。

 もしわざとなら?私がこういいだすことまでさえも想定していたなら?それは、考えるだけで恐ろしい話だ。神様じゃないか。身震いする。やはりこの人の考えが分からない。

 ◆

「あんたねえ、下手したらクビよクビ。キヨハが理性的でよかったわね」

「キヨハの感情レベルはまだ低めだからね」

「そういうこと言ってんじゃないわよ。キヨ、このバカは日本語で言わないとわかんないのかしら?」

「マリアもそんなに怒らないで」

「だってこっちはエミュレーションの必要分は終わったって報告してんのよ?」

「必要分は終わってたさ、嘘はついてないよ」

「すべてのデータ移行をもって必要分と呼ぶのよ、このドアホ」

 背中にコードをつなぎ、頭頂部をがばっと開けてそちらにもコードをつないでいる様が窓にうつりこんでいる。こういうときだけは、自分の人間っぽさがなくなるので少し安心する。

 もちろん見た目にはかなりグロテスクなのだけど、体を解体したところで私には血液も髄液も神経も存在しない。人工臓器として大きく機能しているのは舌と心臓と肺だけで、痛覚はタッチパネルが静電気に反応するのと同じ要領で稼働しているだけ。私に血管とか胃とか膵臓、腎臓はない。食べ物を食べるという動作が可能なように一応胃に見立てた部分は存在するけれど、栄養の吸収はしない。酸によって消化を行うから排泄もない。

 物理的な中身がこれなのに、私は「彼女」の入れ物だ。人間っていうのは本当にこんな方法の延命を望んでいるんだろうか。
 人間の体だから尊ぶわけじゃなく、問題なのは精神論や記憶の部分だとでも、だとしたら自我を発達させる研究と並行すべきじゃなかっただろうに。ジュンイチは歪んでいる。彼が本当に作りたいものっていったいなんなのだろう。

「キヨハ、準備いい?」

「いつでもどうぞ」

「1TBくらいだから二十分もあれば終わると思うんだ」

「1TB?」

「うん、ほんとにこれで全部だよ」

 思っていたよりだいぶ少ない。YBまでなくともZBかEBくらいは覚悟していたのだけれど、たかだか1TBとは。
 足りないと思っている抜け落ちた感覚とデータ量があまりに見合わない感じがして違和感を覚える。かといってマリアまで連れてきたのだからここでジュンイチが嘘を重ねる理由はない。本当にそれしかないんだろう。なんでそんなに少ないんだろう。

「はーい、じゃあいくよ」

「タカシロ キヨハの更新を行います、コードを外さないでください。設定しています。ファイル、ミナヅキ アカリを確認しました。データの同期を開始します」

 私がそう告げると、体内のコンピュータの核がいっぺんに動き出す。こういう作業の時は不備が起きないように私は自発的に動けないように設定されている。麻酔と拘束服の状態なんだな、と思ってもらえばそれが一番近いんじゃないだろうか。とはいっても体の中をいじってるときに話そうとかは思わないけれど。

 意識はあるし、視覚と聴覚…厳密に言うとカメラとマイクと音声認識は作動しっぱなしなので何を話しているかとかは全部見えるし聞こえている。といってもこれは私がこっそり設定しただけだからみんなは停止していると思っているようだけど。ジュンイチすらも。

「そういえばジュンイチ、キヨの音声ってどこから作ったの?」

「ベースはミナヅキ アカリだけど、そこに俳優、声優、アイドルなんかを無差別に八千人分のデータが入れてあってそれが自我の発達に引っ張られる形で自動生成されていくようになってる。だからこれは提供者がいるんじゃなくてちゃんとキヨハの声なんだ」

「はやりの音声合成ソフトみたいなのとはまた違うのね」

「音響機材なんかと繋ぐと強制的な変更もできるけどね」

「しないけどね、キヨハはキヨハよ。この子は、大事な研究材料で、家族だわ」

「ルイさんが言ってたよ、たまに自分とキヨハだとキヨハのが人間らしく見えるって」

「私たちの生活は数字がすべてだものね」

 二人の会話のその部分がおかしくて仕方がない。仮停止状態でよかった、普通にしていたらきっと笑ってしまっていた。私のが人間らしいのは当然だ、なんせ私は人間の思い描いている理想の人間像を遂行するように作られているから外側がそう見えていないとおかしい。

 ロボットらしさ、機械らしさが滲み出てはいけない、そういう風にできている。だから、そう思っているジュンイチやマリアやルイさんは人間だ。その感性は人間しか持ちえない。私は、スーパーコンピューターのような自動計算はしないし、円周率やフェルマーの定理を解きなおさない、四色定理の真髄を追求しない、ラグランジュの群論のGとHを理解しない、だけどそれはそうするように命令されていないから。命令されたことしか私はやらない。

 そんな私のほうが人間らしいだなんて、二人とも大切なことを忘れている。
 私の中身はミナヅキ アカリでできている。
 この世界のどこにも、タカシロ キヨハなんて人間はいない。

 流れ込んできたデータが展開するのを感じる。また彼女の追体験が始まるのだ。カメラとマイクの通信を切る。集中しよう。彼女が、どこで何をしていたのか、なぜそれをジュンイチは隠そうしたのか。

 最初に見えたのは、研究室だった。私の生まれた、あの部屋へ足を踏み入れた瞬間。雑多な様子は変わりないけれど差異はある。彼女は研究室を訪れたことがあったのか。時計を見る。午後十二時五分。日付は六月七日の木曜日。つまり三年前の彼女。ああそうか、この三年間の記憶だけだから容量が少ないのか。

 二十七歳のわたし、もといミナヅキ アカリの視界には学生たち。「何か御用ですか」目の前で驚いたようにこちらを見ている青年は、二十四歳のジュンイチだった。

 私は、いや彼女は嬉しそうに、紙袋を、ああ、お弁当箱が入っている。忘れ物かな、渡すのか、誰に、ああ、いや、ちがう、ジュンイチじゃない、彼はそう、私ができた時には研究員ではなくて、ちがう、なぜ、どうして。

 ミナヅキ アカリの、すべての記憶を私は初めて知った。今。今になってやっと。