由良はPC内の「edu-sandobox.pptx」という名前のファイルを開いた。パワポで作る必要なの内容な文字だけのメモ書きみたいなスライドだ。
「ICT教育サンドボックス」それが、由良の企画案だった。
サンドボックスとは、ゲームのジャンルの一つだ。ゲーム中に明確なクリア目標やクエストなどはなく、プレイヤーは思うがままにゲーム世界を生きる。文字通り砂場に自由に山や川、お城などを作るように、素材を集めてモノを作り、世界を構築していく。
世界的にヒットした、立方体の素材を組み合わせてあらゆるモノを創造する『Misterbrick』はこのジャンルの代表作だ。国内の老舗メーカー『人尽堂』の人気作『もりのスローライフ』シリーズも、広い意味ではサンドボックス的なゲームと言える。
由良の企画案は、そんなサンドボックスゲームにICT教育の考え方を組み合わせたものだった。
ICT教育とは、情報端末や通信技術を利用した教育手法だ。ゲームを遊んでいくうちに、小学校の教育課程レベルの勉強ができる、そういう流れを由良は考えていた。
例えば、麦の穂を拾ったとする。それを植えれば、より多くの麦が手に入る。そのためにはまず鉄を溶かして農機具を作る。それで土を耕し、畑を作る。そこに麦を植え、雑草や虫を駆除し、肥料を与え、風雨から苗を守る。
麦が収穫ができたら、製粉する。そのためには風車小屋、水車小屋が必要だ。
粉が出来たら、石窯でパンを焼く。パンは自分で食べてもいいし、街で売ることもできる。美味しいパンや栄養価が高いパンは高く売れるだろう。けど市場を独占すると、産業の発展スピードは遅くなる。
植物の成長、金属の状態変化、天気の変化、土のつくり、食べ物と生物の関係、農家の仕事、風や水のエネルギー、料理と栄養、初歩的な経済学……麦の穂からパンへ至る流れには、小学校の理科や社会、家庭科で習う知識が詰まっている。それらをゲームを通して有機的に繋げる。
もちろん麦だけでない。野菜や畜産物、木材、金属、など身近な物の背後に、様々な知恵と物語を描く。それは子どもたちに最高に楽しい『勉強』を届けてくれる。それが由良の考えだ。
〈現状、こんなものしかないですが、どうぞ〉
由良はチャットにそう書き込んでから、ファイルを堀部に転送した。それから5分後、返信があった。
〈午後イチで会議室予約したから、来てくれる?〉
「実は、アナナスさんがICT教育に興味を持ってるらしいんだ」
小会議室。会議卓の対面に座る堀部はそう言った。
「へ?」
「フェンリスの次の作品として、MODEL-ABCここでやらないかって打診が来てるんだけど、企画部内で話題になってない?」
由良は首を横に振ると、堀部は「そりゃそうか」といった表情を作った。まだ正式な話じゃないのなら、下に降りてこなくてもおかしくない。仮に降ろしても問題ない話だとしても、あの高野が降ろすとは思えない。
「堀部さんはどこからその話聞いたんです?」
「アナナスさんとの打ち合わせに出席してたんだよ。サーバー増設の件で意見を聞きたいってことだったから」
堀部は外注ではあるが、ゲームシステムの中核部分の設計に携わっているので、ちょくちょくアナナスとの会議に出ている。確かな実力のエンジニアとして、アナナスからも信頼されているようだ。
「でさ、さっきもらった企画なんだけど……」
「ど、どうでしたアレ?」
「うん……」
堀部は腕を組む。
「はっきり言って、今は企画の体をなしてない」
堀部の単刀がぐさりと由良の心臓に直入した。身も蓋もない。けど、堀部が「今は」と言ったことも聞き逃さなかった。あのファイルの質が低いことは、書いた本人がよく知っているので、心臓に刺さった刀はすぐに消える。それよりもその先の言葉を、由良は待ち構える。
「でもやりたいことはわかるし、上手くハマれば面白いんじゃないかと思わせるものがあった。方向性は悪くない」
「本当ですか!?」
「うん、だから呼んだんだ。あの企画は、アナナスの興味を引くと思う。きちんとした企画書を作れれば、の話だけど」
企画書……。表向き、この会社は誰が企画書を作ってもいい事になっている。高野さえなんとかすれば、アナナスに自分のやりたいことを届けられるかもしれない……?
「この企画書を完成させてみなよ。俺も協力するから。それでさ……」
堀部はまっすぐ由良の眼を見つめた。
「新企画のディレクターになってくれ。高野の独裁者の座から引き摺り下ろしてこの会社を変えるんだ!」
「会議室、何話してたの?」
会議室から戻ってくるやいなや、背後から声をかけられた。反射的に、背筋がビクリとこわばる。高野だ。つい今、堀部から打倒を頼まれたラスボスが、そこに立っていた。
「あ、高野さん、お疲れさまです」
「何話してたの?」
高野は挨拶を返さず、質問を繰り返した。この態度は、毎度のことだった。社内ですれ違う時などに「お疲れさまです」と会釈しても、この男がそれを返すことは絶対になかった。どんなにはっきりと、どんない大きな声で挨拶しても、無視を決め込む。そういう所も、コイツが嫌いな理由の一つだ。
「えっと、ちょっと相談事に乗ってもらったんです」
「相談事?」
高野は痩せぎすの身体を揺らしながら由良の顔を覗き込んできた。
「オレじゃなくて、プログラマの、それも外注の堀部さんに?」
その視線と目があった時、由良の二の腕にぞわっ鳥肌が立った。なんでだろう……すごく、濁っている。そう感じた。常に人を見下し、猜疑の眼差しでしか見ることが出来ない、そんな目だ。
「あっ! アレか!! オレの悪口?」
「そっそんなわけ無いじゃないですかー!」
即座にそう返した。高野の疑念をかき消すように、懸命に笑みを作って。
「そう? あー、よかった。パワハラで訴えられでもしたら大変だもんな」
そう言うと、高野はニタァっと笑った。限界だ。誰か助けてくれ。由良は心の中で救いを求める。
飲み会の席でもそうだったが、高野は事あるごとに「パワハラ」という言葉を持ち出してくる。塩谷を追い込んだことに、この男なりに負い目を抱いてるのか? けど、それで態度を改めるわけではなく、まるで予防線を張るようにその言葉を使うあたり、本当に救いがない。
「まぁいいや。そんなことより、バレンタインイベントのセリフテキスト、いつあがるの?」
「えっと、今ライターさんにリテイクしてもらってて、明日には上がるはずです」
「駄目。今日中」
「は?」
「どうせ、ライターなんて締め切り守らねーんだから。今日中だって言って追い込むんだよ。早くそのくらいやれるようになって」
「……はぁ」
「…………何?」
「いえ……わかりました」
由良が返事をすると、高野はやはり何の返答もせずに踵を返して自席へ戻っていった。
『独裁者の座から引き摺り下ろしてこの会社を変えるんだ!』
堀部の言葉。そうだ。誰かがやらないといけない。誰もやらないなら……アタシがやるしか無いんじゃないか?
「まずは今の企画案を、誰かにプレゼンしよう。それで、どんな反応が帰ってくるか試すんだ」
堀部の提案で、由良は何人かの社員にメッセージを送った。プログラマー、プランナー、デザイナー、職種は問わない。由良と一緒に作業をする機会が多く、気心が知れたスタッフを選んだ。
そして昼休みに食事に誘ったり、夕方の集中力が切れそうな時間にお菓子を持って休憩室に集まったりして、『大星プラン(堀部が命名した)』のプレゼンを行った。
けど……
『サンドボックス? やった事ないしなぁ』
うん、大丈夫です。アタシもやった事ないから。
『ていうか鬼のような仕様書にならない? 俺絶対書きたくないよ……』
まだ企画段階だし、そういう考えは一旦置いとこ?
『ここまで複雑にしないと駄目? 例えば小麦から作れるのはパンだけとか、あと市場で売るとか育成ゲーには必須じゃないですよね?』
んー……コンセプトをよく読んで欲しい。育成ゲーム作りたいわけじゃないんだ。
『これソーシャルでやりません? オレ、家庭用ソフトやったこと無いからよくわかんないですよねー』
んーー!ターゲットとかよく読んで欲しい!! 小学生相手にガチャでマネタイズする気!?
「あーーもう!! 企画段階なのに、なんで皆やれるかどうかの話しかしないの!?」
品川駅の焼き鳥屋。前回と同じカウンター席についた由良は、ホッピーのジョッキ片手にボヤいた。この3日間でヒアリングできた内容の殆どが、ネガティブなものだ。このゲームをうちの会社で作れるか、自分にどんな作業が回ってくるのか、そんな観点から出てきた言葉ばかり。
「最初はそんなもんさ。みんな企画を立ち上げることに慣れてないんだよ」
「そういうもんですか?」
「下手なこと言うと、面倒くさい作業を押し付けられるかもって怖がってるんだよ。今のフェンリスの体制だと、仕事ってのは負担でしかないからな」
「うーん……」
またしても高野か……。あの不信感で濁った視線が脳裏に浮かび上がる。
「けど、同時に大星さんのせいでもある」
「アタシですか?」
思わぬ不意打ちに、思わず堀部の顔を見た。
「発展的な想像を促す説明ができてないんだよ。いい企画ってのは、イメージを芽生えさせるのが上手いんだ。1を語ることで、スタッフやクライアントの胸の中に10に膨らんだものを想像させる。そのためにはどうすればいいかを考えてみな」
「1を語ることで……」
雲をつかむような話だ。何をどうすればよいかまるで見当がつかない。
「けど、少しは輝くものもあったでしょ?」
「あ、ハイ。それは確かに」
出てきた意見の全てがネガティブというわけでもない。手応えを感じるようなレスポンスも確かにあったのだ。
『パンが作れるなら果物も欲しいね。ジャムを作りたい』
『水車や風車で発電もできるね。小学生の息子が、最近クリーンエネルギーについて学校で習ってるらしいよ』
そんな新たなアイデアの種もメモ帳の隅にメモしてある。
「大星さんの言葉から、発展的なイメージが出来たっていう事だ。そうだな……例えるならクリケットだ」
「は?」
『クリケット』はダーツのルールの一つだ。的の15~20までのエリアと中心部のブルを取り合う、陣取りのようなゲーム。ひとつのエリアを3回マークすると、そこは自陣となって4回目以降は数字と同じだけ得点が入る。けど、相手も同じエリアを3回マークすると、その陣地はクローズされてしまい点を取る事ができなくなる。
「建設的な意見が出る場所は、大星さんがオープンした自陣。そこからは色々な意見が引き出せる。そのエリアをどうやって取ったかを分析するんだ。それを、他のエリアにも応用してより多くの自陣をオープンする!」
「堀部さん……」
由良は思ったことを率直に堀部にぶつけた。
「例え下手っスね……!」
「んなっ!?」
「言いたい事はわかりますけど、クリケットで例える必要無い気がします」
「うう……」
堀部の顔が凍りつく。例えを披露している時、ちょっとドヤ顔気味だったのでギャップがたまらない。不躾ながら「かわいいなコイツ」とか思ってしまった。
「ま、まぁ、それはともかく!!」
照れ隠しのためか、堀部の声が少しだけ大きくなる。
「大切なのはイメージだ。受け手の想像を広げることを意識する。部分的でもそれが出来ているんだから、大星プランはポテンシャルがあるよ。良い部分を少しずつ広げていこう」
「…………」
「なんだよ? なにか言ってよ?」
「堀部さん、本当にプログラマーですか?」
またしても堀部の顔が固まった。
「さっきからキミ、ちょっとひどいな!」
「いや、なんか考え方が企画職っぽいなーって思ったんで」
堀部は紛れもなくプログラマーだ。それもベテランの。けどここ数日、企画部のどの先輩よりもプランナーとして有益なことを教えてくれている。
「まぁ、昔ディレクターやってたしな」
「そうだったんですか!?」
衝撃の事実。
「ほんの一瞬だけどね。憧れてたポストだったから、挑戦したんだ」
「何でやめちゃったんです?」
「身も蓋もなく聞いてくるなキミ……。まぁ、そうだな。単純に向いてなかったって感じかな」
堀部は手にしているグラスに視線を落としながら言った。
「……その、アタシは向いてると思います?」
「見どころはあるよ。今みたいに何でもズケズケ聞けるのは強みだし、打倒高野を目指して動いてるのは凄いと思う。行動力は何よりも重要な武器だ」
「そうは言っても、アタシだって堀部さんの焚き付けがなかったら動いてませんよ?」
「動ける時点で凄いよ。 なかなか出来ることじゃない。あの環境なら尚更ね」
その次の日。
「えっと……何コレ?」
昼休みの休憩室。由良は一晩考えた大星プランの修正案を堀部に見せた。すると、彼の眉毛がハの字にねじれた。
「昨日帰ってから考えたんです。麦の例えが長すぎたんじゃないかって。やりたいことを全て言葉で説明すると、どうしても回りくどくなっちゃいますから」
麦を植えてからパンを売るまでの過程と、それぞれで必要となる理科社会家庭科の知識。それをちゃんと説明できないと、ICT教育というこの企画の真意を伝えられない。
けど、長すぎる説明は、イメージする仕様を必要以上に難解で膨大なものに思わせ、聞いてる人間を尻込みさせてるのではないか?
「確かににそうかも知れないな。……で、これは?」
「図にしてみたんです。畑から始まって、パン屋に並ぶまでのロードマップと言った所ですかね」
堀部の持つ紙には、いくつもの丸や四角が並べられ、それらが矢印で結ばれている。左上の植え付けから始まって、矢印をたどっていけば右下のパン屋にゴールする、双六のような図なのだが……
「ゴメン、何がどうなっているのか全然わからん……」
「ええ!? 嘘でしょ。だってホラこれ、ちゃんと畑を耕している所から始まってるじゃないですか」
由良が指差すスタート地点には、○の下に大の字がぶらさがっているような絵が描かれている。いわゆる針金人間って奴だ。その右手には、アルファベットのLを逆さにしたような棒が……
「ああ! これクワか!!」
「どこからどう見てもクワでしょう!?」
由良の致命的な弱点があらわになった。完膚なきまでに絵心がない……。スタート地点の絵の正体が分かったとして、その先の四角や丸の中には更に難解な現代アートが待ち受けていた。
「大星さん、デザイン部の人にお願いしてコレを清書してもらおう……話はそこからだ」
「はぁ……」
由良は釈然としない表情で答えた。けどまぁ、プロのデザイナーに描いてもらった方がイメージしやすくなるのは確かだ。
「それでしたら、この前プレゼンした人の誰かに描いてもらいましょうか?」
「そうだな」
と、その時
「あのー」
二人が座るテーブルに、一人の男が寄ってきた。
「あ、斧田さん、お疲れさまです」
デザイン部の斧田だ。由良の3年先輩の正社員で、塩屋が抜けたあとのフェンリスヴォルフのキャラデザを担当している。
「よかったらその清書、僕がやろうか?」
「へ? 斧田さんが、ですか?」
斧田には、大星プランのプレゼンはしていない。というか、これまであまり接点のなかった社員の一人だった。
「大星さんが面白そうなことやってるって聞いてさ。よかったら加えてくれないかなーって」
「いいんですか? でも、斧田さんキャラデザで忙しいんじゃ?」
「へーきへーき! ほとんど、高野さん御命令通りに手を動かすだけの作業だしさ」
斧田の声にはうんざりだと、いいたげな色が浮かんでいた。
「いい加減、クリエイティブな事したいんだよ。だから図の清書だけでなく、アイデア出しとかも協力するよ!」
「えーっと……」
由良は堀部の顔を見る。
「いや、決めるのは大星さんだよ?」
うん、確かにそうだ。このプランはアタシのものなんだから。決定権はアタシにある。
「わかりました! よろしくお願いします、斧田さん!」
由良は斧田の手をガシッと握った。
大星プランに斧田を合流させたことを、由良は早くも後悔していた。
由良の図の清書については問題なかった。ヒエログリフの解読よりも難解な由良のイメージ図を分かりやすい形にブラッシュアップしてくれた。堀部も、斧田版のロードマップを見て、ようやく由良が言いたかったことを理解できた。
問題は、企画そのものに対する関わり方だ。
その日、高野はアナナス本社での会議のため、午後から外出して直帰の予定だった。鬼の居ぬ間に洗濯とばかりに、由良は大星プランの相談をしていたメンバーを集めた。
堀部と二人だけでの会議室使用すら、猜疑の目を向けてくる高野のことだ。奴の目が届く所で7~8人も人を集めたら、面倒くさい事になりかねない。だからこれまで、個人的な相談という形でしか話を進められていなかったけど、ようやく大人数で検討会を開くことが出来た。
メンバーたちも同じ思いだったようだ。高野さんがいない今なら、とばかりに快く招集に応じてくれた。
検討会はブレスト形式で進めた。由良は自分の企画のコンセプトは明確にしていたけど、それを体現するにはアイデアが不足してると考えていたからだ。
『ブレストは前準備を入念にな。スタート地点の足並みを揃えるのが大切だ』
高野とともにアナナスへ行くため、堀部は出席できなかったのだが、事前にアドバイスしてくれた。それに従って、前日までにひとりひとりに説明して回った。麦のロードマップが良かったのか、検討会の前半は、みんなが思い思いに意見を出してくれた。
雲行きが怪しくなったのは、斧田が挙手してからだ。
「そもそも、これってサンドボックスでやるような事なんですか?」
思ってもない言葉が飛んできた。
「サンドボックスってクエストとかクリア目標とかが無くて、プレイヤーが自由にできるゲームですよね? それって、決まったことを勉強しなきゃいけない小学校の教育と相性悪くないですか?」
「いや、そこは最初はクエスト用意して誘導してやる必要があるんじゃない?」
メンバーの一人が言った。
「じゃあ、サンドボックスじゃないですよねコレ」
束の間、場が沈黙しする。
「今はそんなジャンルの話はよくない? それよりも……」
「いやいや大切でしょ。それでコンセプト変わってきますよ?」
沈黙が良くない流れを作ると感じた別のメンバーが話しを変えようとするが、斧田は即座にそう答えた。嘘でしょ……由良は愕然とする。コンセプトならはっきりしているだろう。それをイメージしてもらうための麦のロードマップだったのに、清書した本人にすら伝えられていなかったのか? いや、今はそれどころじゃない。議論が変な方向へ向かっている。
「自由度殺してミッションで繋げていくなら、パズルとか、SLGとか、別ジャンルにしたほうが良くないですか?」
「ちょっとまって。じゃあ、このせっかく用意したこのイメージ図も白紙に戻すってこと?」
「必要とあれば、やるべきでしょう。清書した僕が言うのもなんですが、あらゆる可能性を模索すべきかと」
ちょっと……ちょっとまってよ。平衡感覚が崩れ、地面がグラグラと揺れるような感覚を覚えた。少なくとも、アタシの中では目指したい場所は決まっている。そこへたどり着くために皆を頼ったつもりだったのに、ゴール自体が変わるの……?
「大星さん、どう思う? 発案者の意見を聞きたいんだけど?」
会議室内のすべての視線が由良に集中した。
「えっと……」
斧田の言葉は、聞こえ方だけなら正論のようにも聞こえる。けどこれは違うはずだ。ここから一度全てをひっくり返すというのが正しいとは思えないし、何よりアタシ自身が納得できない。
「いいものを作るためにも、広い視野を持って欲しい、大星さん!」
どうすればいい……? なんて言えば?
「……すみません。ちょっと……ちょっとだけ考えさせてください」
そういうのが精一杯だった。
「いるんだよな。そうやって前提ひっくり返すのが、出来るクリエイターだ! みたいに思っているのが」
いつもの焼き鳥屋で、由良は堀部に敗戦報告をしていた。
「特に斧田は、ずーっと高野の下でそういうのを見てきたしなぁ」
「その後、場もシラけちゃって……」
勢いづいた斧田はとまらなかった。建設的意見にダメ出しをして、出鼻をくじく。そこから持論へ繋げていく。その繰り返しで、他のメンバーの気力は確実に削がれていった。
「大星さんもよくなかったな。企画者は我を押し通す胆力も必要だぜ?」
「わかってます。けど……その根拠がなければ高野と一緒だなと思ったら何も言えなくて……」
「その高野なんだけどさ……やられたよ」
堀部は、忌々しげにジョッキの中身を喉に流し込む。
「今日の件、どーも仕組まれてたみたいでさ」
「へ?」
「移動中に言われたんだ。大星さんが何かやってるらしいから、斧田を参加させて間接的に『サポート』するって」
「はァ!?」
思わず上半身が椅子から浮いた。
「あの顔、俺たちがやってることはお見通しだ、と言いたげだったな」
「てことは斧田さんは、高野の指示でアタシたちを引っ掻き回しに来たんですか?」
何で? 怒りとか嘆きとか以前に、純粋な疑問が浮かんできた。何の意味があるそんな事に?
「いや、斧田の口ぶりに引っ掻き回してるって自覚はなさそうだ。どちらかというと高野が『けしかけた』って感じだろう。こうなる事を想定してたんだ」
下衆すぎる。まだ直接「潰せ」と命じる方が可愛げがある。
「これからも斧田は、事あるごとに場を混乱させるぞ」
「そんな……」
「切り捨てるのも手だ。今なら出血は少なくて済む。俺から斧田に言ってもいい」
なるほど、そういう考え方もあるか。斧田とは揉めるだろうけど、このまま大星プランをズタズタにされたくはない。せっかく声をかけた他のメンバーに軋轢が生じるのも嫌だ。今のうちに、ベテランの堀部さんから言ってもらえれば、確かに被害は最小限に押さえられる。
でも……
「斧田さんだって、10年近くこの業界でやってきた人です。きっと、この企画に大切なピースを隠し持ってると思います。それに……」
都合が悪いものを拒絶する。そのやり方で、仕事も家族も健康も失った人がいた。アタシはそのやり方を選びたくない。
堀部は、由良の口から出てくる信念に耳を傾けた。そして
「そうか……。なら、会ってみるか?」
「え、誰にですか?」
「斧田にデザイナーのいろはを教えた人だ。そのピースとやらがわかるかも知れないぞ」
大江戸線光が丘駅。ラインで教えられた住所を目指し、駅前の巨大な団地と公園を通り抜ける。
由良のアパートがある新江古田からも近いこの街に、かつての塩谷家はあった。一度だけ、彼の家族と会ったことがある。それぞれの最寄り駅の中間にある豊島園でだ。由良は映画を観に、塩谷家は娘のおもちゃを買うために訪れて、改札前の広場でばったり遭遇したのだ。
あの時は、数年後にあんな事になるなどと思ってもいなかった。塩谷さん本人もそうだったに違いない。
「大星さん! 久しぶり」
「ご無沙汰しています。急にご連絡してすみません」
「いいよ。ちょうど東京に戻ってた所だったし」
久しぶりに見た塩谷の人相は、変わっていた。
顔の輪郭が一回り膨らんだように見える。特に顎の線が明らかに一年前と違う。メンタルの薬は太りやすくなる、なんて話を聞いたことがあるけどそれが原因か?
まぶたの下や頬もやや垂れ下がり、年齢以上に老けて見える。そして何より、髪の所々に見える白い毛の本数に、由良はショックを覚えた。
「これ、どうぞ」
昨日、池袋のデパ地下で買ったお菓子の紙袋を渡す。
「ありがとう。さぁ入って。見ての通り、何のおもてなしも出来ないんだけど」
そう言って、塩谷は段ボール箱に囲まれた部屋に迎え入れた。
「嫁も娘も出ていったし、この部屋は引き払うことにしたんだ。俺もほとんど実家ぐらしで、もう誰も使ってないからね」
「ご実家って、どちらでしたっけ?」
「伊豆の西側の方。何もないけど休むには良い所だよ。嫁には逃げ出したって思われたらしいけど、東京は息が詰まりそうでさ……」
塩谷は一度封をしていたらしい段ボールから、カップを二つ取りだして紅茶を注ぎ入れた。そして由良が持ってきた焼き菓子とともにテーブルに並べる。
「……で、聞きたいことって?」
「あ、はい……」
由良は口ごもる。大星プランについて、斧田について、本当にこの人に話していいのか? いや、そもそもここに来るべきではなかったのでは?
堀部の提案を聞いた後、由良はずっと迷い続けていた。自分のやりたい事を通すためとはいえ、あんな目に遭った人を利用するのは許される事なのか?
「言い辛そうにしてるって事は……会社の事だよね? 高野さんとか?」
塩屋の声は穏やかだった。まだ由良が入社して間もない頃、デザイン画の修正ポイントを聞き出すときも、この人はこんな口調だった。
「はい。けど、高野さんは直接は関係ありません」
ここまで押しかけていて何も言わずに帰りでもしたら、それこそこの人に失礼だ。かつての恩人そっとしておく、そんな選択肢を既に捨てている由良がやるべきことは一つしか無い。
「実はアタシ、今企画書を書いているんですけど……」