休みの日もほとんど休んだ気がしないまま月曜日がやってきた。
あたしは土日もまったりと氷メガネの自宅で過ごしてしまった。
本当は土曜日に家に帰るつもりだったのに、晴彦からもう一泊して来いとメールが入ったのだ。
…氷メガネの携帯に…だけど。
なんで母親じゃなくてアイツにするかな…。
あたしがその疑問を口にすると、氷メガネは
「恥ずかしいんじゃねーの?」
とだけ言って笑った。
確かにそうかもしれないけど…
でも、お泊りセット持ってけば、は言えるわけでしょ?
それとそんなに変わらないと思うけどな…。
あー…
なんか体が痛いんですけど…
腰が一番ヒドイわ…。
確かに金曜日の夜から日曜日の昼過ぎまで…
その…何度となく…みたいな?
そりゃ体も悲鳴あげるって。
あたしは車の運転席のシートの間に小さなクッションを挟んで、腰をいたわる。
営業所に着いてエレベーターを待っていると、麻美がやってきた。
「お!おはよっ!」
「あぁ…おはよ…」
「ちょっと、何よ?そのテンションの低さ!あぁー、もしかしてもう倦怠期とか?」
「なわけないでしょ」
あ…思わず言っちゃった…。
ヤバい…恥ずかしすぎる…。
「ふーん…。ラブラブって感じ?」
麻美がニヤついた顔で聞いてきた。
「…てわけでも…ないけど?」
あたしはシレッと嘘をついた。
でも麻美は一筋縄では行かない。
「またまた~!お肌がいい感じに潤ってるじゃない?満たされてるんだね~!ねぇねぇ、内務次長ってさ、どういうタイプ?やっぱりS?」
「ちょっと、朝からする話題じゃないでしょ!」
あたしはいい加減抑えられず、麻美に文句を言った。
「ごめん、ごめん。じゃあさ、今夜飲みに行こうよ。夜なら話してくれんでしょ?」
「はぁ?冗談言わないでよ!なんでアンタと飲みに行かなきゃいけないわけ?そんな時間あるんだったら…」
あたしはそこまで言いかけてやめた。
「何?あたしと飲みに行く時間あるんだったら…内務次長と会うってか?」
麻美は笑いながらそう言った。
あたしは自分がつい口をすべらせそうになった事を悔やむ。
一度咳払いをしてから麻美に言った。
「…とにかく…。来年からはちょっとは…その…ヒマになるからさ。そうなったらいつでも付き合うって」
「そだね。内務次長が異動になったら、滅多に会えなくなるんだもんね。寂しくなるねぇ~」
もう…麻美のやつ、絶対楽しんでる!
「冗談ばっか言ってないで、仕事仕事!」
あたし達は揃って営業所に入った。
矢部所長のハイテンションな朝礼が終わり、恒例の地区活動に出かけるため、麻美と一緒に営業所を出る。
二人一組で行う地区活動は、朝礼後の一時間を地区の家々にまわりアンケートをとったりする活動を言う。
誰とペアを組むか決めるのはマネージャーである麻美の仕事だ。
そしていつもあたしは麻美と組まされていた。
まあ、美晴と組むよかマシだけど…。
車の中で氷メガネの事をいろいろ詰問するのさえやめてくれればなぁ…。
麻美と向かった駐車場で、あたしは見た事のある人の姿に思わず足を止めた。
あれ…?
あの人って、確か…
あたしが見つめているとその人は振り返り、あたしと目が合ってツカツカとこちらへ向かって来た。
「お久しぶりです…。飯田さん…」
そのロングヘアの彼女は…
香菜さん…だった。
呆然と立ち尽くすあたしに、麻美が驚いて尋ねる。
「ちょっと…尚美。誰なの…?」
「え…っと…」
あたしが答えられずにいると、香菜さんが微笑みながら麻美に言った。
「原口香菜と申します。敏生さん…伊藤内務次長の…婚約者です」
「えぇっ!?」
麻美はわかりやすく驚きの声をあげた。
「飯田さん、その節はどうもありがとうございました」
まるで人形のように、美しいけれどもどこか作ったような笑みを張り付けたまま、香菜さんはあたしに礼を言った。
「いえ…こちらこそ…」
そして香菜さんは今度はあたしの隣にいる麻美に向かって言った。
「申し訳ありませんけど、少し飯田さんをお借りしてもよろしいですか?どうしてもお話しておかなければならない事がありまして」
笑みを湛えてはいるものの、その言い方はどこか有無を言わせない雰囲気を纏っていて。
あたしはその香菜さんの氷のような冷たい雰囲気に背筋がゾッとするのを感じていた。
もぅ…
嫌な予感しかしないじゃない…。
そしてそんな香菜さんを前に、麻美も従うしかないと思ったのだろう。
香菜さんとは正反対の弱々しい声で返事をした。
「どうぞ…」
「ごめんね…麻美。ちょっと…行ってくる」
心配そうな瞳を向ける麻美にそう言って、自分の車に香菜さんと二人で乗り込んだ。
営業所の駐車場で話すわけにはいかないからとりあえず車を出す。
しばらく無言のままあてもなく走り続ける。
だけどいつまでもむやみに走らせているわけにはいかない。
あたしはフロントガラス越しの前方に視線を向けたまま尋ねる。
「あの…どこに行けば…?」
あたしの質問に香菜さんは淡々と言い放つ。
「敏生さんのマンションに行って」
「えっ?」
驚くあたしに香菜さんは続ける。
「知ってるんでしょう?敏生さんのマンション」
「…………」
「いいわ。それなら、敏生さんの会社へ行って」
「それは…」
あたしはどうしたらいいのかわからず答えられない。
「どうして行けないの?あなたたちが秘密のお付き合いをしているってバレるのが怖い?」
「それは…そんな事は…ありません」
一体この人は、何がしたいんだろう…。
あたしの事が憎いのは…間違いないと思うけど…。
「何が…目的なんです…か?」
あたしは恐る恐る尋ねた。
「何が?決まってるじゃない!あたしの敏生さんを奪っておきながら!返してよ!元々あの人はあたしのものなの!小さい時からずっと、あたし達は結婚するって決まってたのよ!それをあなたが…いきなり現れて…」
香菜さんはその大きな瞳から涙をポロポロと溢れさせた。
泣き出した彼女に驚いたあたしは、見えてきた家電量販店の駐車場に車をとめた。
そして香菜さんの顔は見ずに前方に視線を向けたまま続けた。
「あなたが…氷…内務次長の婚約者だという事は、聞きました。でもそれは親同士が決めた事で、彼はそのつもりはないと…」
あたしのその言葉を聞いた香菜さんの視線が、見ていなくてもキツくなっているのだろう。
嫌と言うほど身体に突き刺さるように感じる…。
「それは…あなたのせいよ…。あなたが現れなかったら、あたしと結婚してた」
キッパリと言い切る香菜さんの言葉にあたしの胸は抉られたかのように痛んだ。
確かに以前はそうだったかもしれない…。
でも…今は明らかに状況が違う。
あたしは怯みかけた気持ちを奮い起たせて言った。
「そう…かもしれませんね…。でも…今は、もう無理じゃないですか?」
「それはどうかしら?あたしが敏生さんを取り戻せばいいだけの話でしょ」
少し口角を上げながら言い放った香菜さんの顔は、恐ろしい程余裕に満ち溢れている…。
そんなに濃いメイクを施していない目元がかえってその瞳の鋭さを強調させていた。
そんな香菜さんの強い視線を跳ね返すだけの目力がないあたしは、強ばる顔を無理矢理笑顔に変えながら負けずに言い返す。
「だったら…わざわざあたしに会いに来る必要なんてないんじゃないですか?直接彼に会いに行って、なんとかすれば」
「…すごい余裕ね…。いいの?ほんとにするわよ?」
香菜さんは不敵な笑みを浮かべながら、そう言った。
この人が何を言おうとも…
あたしはアイツを信じてる…。
そう言い聞かせる事で、あたしは自分で自分を洗脳しようとした。
黙ったままでいるあたしに香菜さんがイライラを隠す事もせずに言い放つ。
「もういい。わかったわ。これ以上お話する事はないようね。一応、正々堂々と宣戦布告したかっただけなの。裏でコソコソするのは趣味じゃないから。申し訳ないけど、駅まで送ってくださる?」
そう言われたあたしは無言のまま駅へ向かい、ロータリーで止めると香菜さんも無言のまま車を降りた。
そして真っ直ぐ駅へ向かって歩き出した。
膝丈のスカートから伸びる足は、筋肉など全くついていないキレイな足で。
あたしのように営業で毎日ヒールで歩き回っている足とは比べ物にならない。
あたしは颯爽と歩いて行く香菜さんの背中を見ながらため息を落とした。
きっと今から氷メガネに会いに行くんだろう…。
でも、大丈夫。
あたしは折れそうになる気持ちを立て直そうと、自分に言い聞かせる。
絶対に彼女になびく事はない…
そう、思いたい…。
そのまま営業所に戻ると、まだ出かけずに残っていた麻美が心配そうな顔で近づいてきた。
「ちょっと…尚美…だいじょぶだったの?」
「うん…ごめんね。心配かけて…」
心配する麻美にあたしは香菜さんと話した事を隠さずにすべて打ち明けた。
きっと麻美はあたしの味方でいてくれるから…。
麻美はあたしの話を聞いて真剣な顔で呟いた。
「そっか…。とうとう来たわね…この日が…。覚悟はできてるよね…尚美?」
「うん…。あたしもいつか来ると思ってたから。このまま全部がスムーズに行くわけないしね…。晴彦が認めてくれただけでも、ありがたいよ」
ほんとに、そうだ。
少なくとも八方塞がりじゃない。
あたしには…味方がたくさんいる。
そういう人たちに恵まれているんだ。
「とにかくさ。ポジティブに考えよっ!今の尚美にできる事を精一杯やればいいのよ!昔もそうだったじゃん。正しい事をしていれば、おのずと道は開けてくるのじゃ!」
「"じゃ!"ってアンタ、何モンなのよ、一体…」
エヘヘと笑う麻美に、ありがたい思いでいっぱいになる…。
一生懸命おちゃらけてあたしを励まそうとしてくれる親友の姿に、あたしも頑張ろうと気持ちが固まった。
今日一日の仕事を終えて駐車場に向かったのはちょうど六時だった。
今から買い物をして帰ると晴彦にメールを入れる。
すると晴彦からすぐに返信が来た。
『買い物してこなくていーから。敏生さんが今から来てメシ作ってくれるんだって。絶対そっちの方がうまいから^m^』
なんだって…?
なんで氷メガネがうちに…?
だって、今は香菜さんが来てるはずじゃ…。
もしかしたら晴彦の勘違いかもしれない。
あたしはそう思って晴彦に電話を入れた。
『もしもし?なんだよ?メールしたけど見なかった?』
「見たわよ…。それで、アイツから連絡来たのっていつ頃?」
あたしは逸る気持ちを抑えながら晴彦に尋ねた。
『いつ…って。母さんからのメールが来る三十分くらい前かな?なんだよ…敏生さんからなんも聞いてねーの?』
「う…うん…」
『あれ、もしかしてサプライズのつもりだったのかな?ヤベ…俺、しゃべっちゃってマズったかもな…』
晴彦はゴチャゴチャ言ってるけどあたしはそれどころではなかった。
とにかく帰るとだけ言って、あたしは車を発進させた。
家に着いた時には既にアイツの高級車が駐車場にとまっていた。
あたしは香菜さんの事が気になったが、それを顔に出してはいけないと思い、平静を装って玄関を開けた。