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体の呪縛が解けたとき、目の前には先輩が横向きのまま倒れていて、本当に殺してしまったんじゃないかと思って血の気がひいた。
彼女が「乗り移った」瞬間、僕は少し離れた場所で、ふたりの攻防を眺めていた。といっても、彼女が一方的に近づいて、先輩に情け容赦ない一撃を加えただけなのだけど。おそらく『生身の肉体』を彼女は欲していたのだろう。ずっと何らかの形で、彼に「復讐」したかったのだ。
それが果たされて良かったのか、悪かったかは分からない。彼女にとっては、間違いなく「良かった」と言えるのかもしれない。それでほんの少しでも、未練が消えてなくなるのなら。
一方、僕にしてみれば、安易に「良かった」とは言えない。どんな経緯があるにしろ、深夜、仕事とまったく関係のないことで呼びだして、失神させてしまったのだから。でも、先輩は僕ではなく、『彼女』の姿を見ていただろう。だから、あんなに怯えたのだ。それに、先輩のしたことを僕も許せそうになかった。そう思ってしまうくらい、僕は彼女に惹かれていた。そう自覚したところでどうすることもできなくても、僕は全力で彼女の役に立とうと決めたのだ。はたから見れば、全面的に僕が悪いと思われても。
しかし、一度露呈した物事は明るみに出るものなのか、ほどなくして先輩は前の彼女から「公表罪」で訴えられることになる。被害者本人が通告すれば、それは立派な犯罪として世に問われることになる。そうすることは相当の勇気が必要だったはずだ。泣き寝入りすることの方が圧倒的に多いだろう。僕は、名前も知らない誰かの健闘をひっそりと祈った。
会社の方では、先輩が告訴されたことに対してゴタゴタした処理が続き、上司は数分に一回の頻度で「くそったれ」とわめいていた。先輩が会社で伸びていたことは、誰にも知られずじまいだった。床で寝てるところを見られたら怪しまれると思い、ソファの上に移動させておいて正解だった。おかげで、徹夜したようにしかとらえられなかったのだろう。
先輩も僕とのいざこざを吹聴する暇もなく、長期間の休職が決まった。そのまま辞めるのか、戻ってこられるのかは分からない。
僕は、物事の一部始終を人ごとのように眺めながら、相変わらず残業している。でも、前より少しだけ、吹っ切れたような気持ちだった。と同時に、寂しさも抱えていた。復讐を終えた彼女がいずれ消えてしまうことを、僕は予感していたから。
「満足できた?」
昼休み。
公園のベンチに現れた彼女にむかって尋ねると、彼女はまた少しだけ、悲しそうな顔をした。
「私、自殺する直前、『耐えられない』って思ったの。とても生きていけないって」
彼女の言葉は風にのって、どこかへ吸いこまれていく。言葉にならない傷口を、僕だけがきっと知っている。種類は違っても、僕も同じ痛みを抱えていた。
《この日々を乗りこえた先に、いったい何があるんだろう》
ずっと、そう思っていた。
そして、一年前。駅のホームにやってきた電車に魅せられるように近づいたとき、切実な彼女の声を聴いた。記憶を共有したように、静かに彼女が話し始める。
「重なって見えたんだ、私と。だから思わず叫んでいた。声が届くとは思わなかった。あなたは飛びこむのをやめた。偶然だと思った。何の繋がりもないことだって。でも、社員証を見つけたとき、あなたには私が見えていた。それまで、他の誰にも見えていなかったのに」
確かに、とても不思議だった。
あのとき、僕は「普通に生きている人」と同じ感覚で接していた。
「誰かの体を使ってあいつに復讐しようって、思ったのもその頃だった。あなたを利用しようか迷った。だって、そしたら『現実のあなた』に迷惑をかけてしまうから。でも、あきらめきれないまま会社の近くにいたら、もう一度会うことができて、それであなたを見た瞬間、頼んでみようと思ったの」
そして、僕は了承した。
否応ない力に抗うすべがないように。
今思えば、当たり前だ。彼女の声を僕は、どうしようもなく知っていた。暗い死の瀬戸際で、彼女に救われていたのだから。
「たとえ何をしても許せないと思ってたのに、情けなく伸びてるあいつを見たら、どうでもよくなっちゃった」
「じゃあ、復讐はもうおしまい?」
「うん。そうなるのかな……」
彼女の体は前よりも薄くなっているようだった。
ユウレイを見たのは初めてだけど、彼女は少しも怖くなかった。悲しみの消えない青色を、瞳のなかの静けさを、いつまでも見ていたかった。
「君みたいに、何らかの未練を残したまま死んでいった人たちは、世の中にたくさんいそうだね」
そうだね、と彼女はつぶやく。
気づけば敬語が外れていた。
彼女が生きていた世界に、僕は行ってみたかった。あのまま彼女が働いていたら、今、同じ場所で日々を過ごしていたんだろうか。そう思うと、胸の奥がとげで刺されたように痛む。でも、そしたら僕はひきとめられることもなく、どこまでも暗い死の淵へ吸いこまれていっただろう。
色んな偶然が重なって、消えない思いにとらわれて、無視することもできなくて、彼女の復讐に手を貸した。こんなふうに――誰にも気づかれないまま、一顧だにされないまま音もなく消えていく人々は、おそらく無数にいるのだろう。
名もなき世界の裏側で、彼女がほんの少しでも救われたならいいと思う。そしたら、同じ温かさを返せるような気がするから。
「生きているうちは、生きているだけでもういいんだよ」
消えそうな彼女の背後から、傾いた日が差していた。その光にまぎれるように、彼女の声だけがする。
「私は、死んでそれが分かった」
すべての悲しみをいっぺんに吐きだすかのような声。
「生きているだけで途方もなく尊い光のようなものを、みんな放っているんだよ」
まるで、祈るかのように。
それがまぎれもない真実だと歌うように、彼女の口調は揺るぎない。
「そうかな」
今を生きている僕は、そんなの実感できなかった。
『会社の役に立たないと』『数字をつくらないと』『業績を上げないと』『上司を納得させないと』
色んな形のない『〇〇しないと』に縛られて、身動きがとれなくなっていた。ただ「生きていればいい」なんて、それだけで尊いなんて、まるで絵空事だった。たとえそれが変わらない本当の真実だとしても。働く以上求められる『存在意義』のようなもの。
数字が取れなければ、契約に繋がる企画書をあげることができなければ、すべて無価値とされるような、暴力的な圧力で大人の世界はあふれている。
先輩のやったことは、まぎれもない犯罪だ。
でも、その罪すらも、告発しなければすべて「なかったこと」になってしまう。被害者だけがいつまでも、まるで消えない呪いのように「さらされた自分の画像」に蝕まれていくのだろう。それを訴えられるのは、本当にごく一部の人だ。特にリベンジポルノだと、事実が公になることで二重に傷つくこともある。
そういう野蛮な無意識が誰かをおとしめることを、忘れないでいたいと思う。僕だって、知らぬ間に誰かを痛めつけてしまうかもしれない。痛みに同調することはできても、本当に「自分のこと」として考えられることは少ない。自戒を込めて、そう思う。彼女の「聞こえない声」に耳を傾けられたように、傷ついた人にはそっと寄り添うことができたらいい。
――素敵な心がけだね。
彼女がそう笑った気がした。
いつのまにか、彼女の姿は風景のなかに溶けていた。それを止めるすべはない。
今度こそ、本当に彼女はこの世界から旅立つのだろう。復讐が少しでも果たされたことの、小さな光を胸に宿して。
――ありがとう。
そんな声が風にのってどこかから聞こえた気がしたけれど、空耳かもしれなかった。
僕は、これからも心のままに生きることなんてできないだろう。時にやめたくなるような仕事と格闘しながら、日々は過ぎていくんだろう。でも、その果てに『自分』を手放したいと思ったときは、彼女の言葉を思いだす。
彼女が残してくれた思いを、「生きているだけでいい」なんて途方もなく思える祈りを、そっと抱きしめて歩くんだろう。
その記憶は永遠に消えない光を宿したまま、きっと現実を照らしだす。理不尽なことはたくさんある。投げ捨てたくなる日々も、容易に終わらない仕事も。でも、その現実を保てなくなったそのときは、立ちどまることができたらいい。自分に立ち返れたらいい。
何かに――姿を見せない悪意に、形のない暴力に、自分の存在意義のすべてを奪われていってしまう前に。
《僕はここにいる》
それだけが確かな真実で、そんな簡単なことさえも分からなくなってしまう前に。
昼休みが終わろうとしていた。
僕は目をつむる。
吹きぬけていった風は、もう冬のにおいがした。