彼女が首を振って否定の意を示したとき、僕は他の復讐相手が誰かなんて分からなかった。てっきり、そうだと思ったのだ。あの上司ならパワハラで訴えられても不思議じゃない。
「違うの」
 と彼女は言った。目が少しうるんでいた。
「復讐相手は、その人じゃない」
「じゃあ、誰なの」
 周囲の人が不審げにそばを通りすぎていく。僕はそんなことおかまいなく、彼女に耳を傾ける。
「一年前、駅のホームで私の声が聞こえたって、前に話してくれたでしょう?」
 彼女の声が高くなる。
 その瞬間を、僕は今でも鮮明に覚えていた。
 姿の見えない、誰かの声。
 立ちすくんでいる僕は、彼女の言葉をすくいとる。
「私も、あなたとまったく同じことをしていたの。でも、そのときは躊躇することなんてできなかった」
 聞こえるはずのない声が、胸の内側を揺るがせる。

「私――二年前に、あの場所でもう死んでるの」

 そんなはずはない、と僕は叫びたかった。
 でも、心のどこかでそれを知っている気もしていた。
 自殺しようとした、あの日。
 あの場所で聞こえたのはまぎれもなく彼女の声で、それが聞こえた瞬間、僕は彼女と繋がった。こうして話をすること自体、本当はあり得ないことだった。それなのに、彼女の存在を僕は初めから受け容れていた。周りには、僕がひとり言を言っているように思えただろう。どうりで奇異な目で見られるはずだ。
 彼女は僕を見あげる。
 死んでいるとは思えない、暗い眼差しが僕を射抜く。

 気づけば、彼女の胸には僕と同じ種類の社員証が下がっていた。『樋口詩子』という名前が、プレートには記されている。
「復讐したい人はね」
 彼女は僕を見あげたまま、その名前をハッキリと告げた。



「お前がこんな夜中に呼びだすなんてめずらしいな。なんだ、何かトラブルか?」
 そう言って現れた先輩の顔を、僕はまともに見られなかった。
 夜のフロアには誰もいない。ときどき数人残って仕事してたりもするけれど、今夜に限って言えば、人の姿は見られなかった。照明を落とした部屋は暗く、窓の外からのぞくビル灯りだけが鮮やかだった。
 これからどうすればいいかなんて、僕自身にも分からない。仕事に関して言えば、何度も助けられてきた。だから、本当は何も言うべきではないのかもしれない。何も見ないふりをして、聞こえなかったふりをして、すべてを「なかったこと」にして、このまま立ち去るべきかもしれない――けれど。
「あの、先輩は」
 勝手に口が言葉を吐きだす。
 彼女の揺らいだ視線。
 悲しみの底にあったもの。
 目をそらせなかった思い。
 色んなものが交錯して、視界を暗く濁らせる。
「樋口詩子っていう、女性社員を知っていますか」
 瞬間、先輩の目が異様に大きく見開かれる。
 その目には、驚きと――恐れが、ほんの少しだけ含まれていた。でも、その表情の変化は巧妙に覆い隠されていく。
「なんか部長にも聞かれたよ、それ」
「僕が話しましたから」
「お前が?」
 先輩は怪訝な顔をする。
――何の関係もないはずだろう?
 そう、その目が語っていた。
 そうだ、その通り。何の関係もない。
 関係もない、はずだった。
 彼女の叫びを全部無視して、通りすぎることだってできた。でも。
「彼女は、二年前に自殺したんですよね? 先輩のリベンジポルノのせいで」
 彼女が僕に告げたのは、「西川」という名字だった。西川亮介(りょうすけ)。 
 彼女は入社後、教育担当だった当時の先輩と付き合った。でも、激務をこなしながら「恋人」を続けるのは、体力的にどんどん難しくなっていったのだ。
『そのうち好意が薄れていって別れを切りだしたら、裸の写真を流すって言われて、それからが地獄の始まりだった』
 何より、自分が「自分じゃない何か」になって世の中に流出していって、好奇の目をむけられるのがとても耐えられなかった、と。
 そのすえ、彼女は深夜、すべりこんできた終着の電車に轢かれて亡くなった。ふたりの関係性を会社は把握していなかった。そのため、彼女の死は「本人の悩みによる」自殺として、俎上(そじょう)に載せられることもなかった。労災認定もされていない。彼女の望みは、ただひとつ。
「流したデータを全部消して、二度と繰り返さないでほしい」
「お前、本気で言ってんのか? 何の証拠もないんだろ」
「確かに、証拠はありません」
 僕は、あきらめて息をつく。
「でも、先輩が認めてくれないのなら、もっとひどいことになります」
「ひどいことって何だよ」
 僕は、息をとめる。
 先輩のわずかに怯えの混ざる視線を受けとめた後、僕はなるべくゆっくりと告げた。
 全然脈略のない言葉を。
「詩子さんに会いたいですか?」



 斎藤にそう聞かれたとき、何を言われたか分からなかった。
(何を言ってるんだ? こいつは)
 そもそも、なんで斎藤の口から『樋口詩子』の名前が出てくるのか分からなかった。社内の誰にも関係はバレていないはずなのに。
 それどころか――斎藤は『裸の写真を流出させた』ことまで、なぜか知っていた。いったい誰に聞いたのだろう。誰にも明かしていないはずだ。どこから情報が漏れたのだろう。
 でも、その一切は沈黙でごまかすしかなかった。余計なことを後輩に話すつもりなど少しもない。むしろ、これは名誉棄損で訴えられる事案なんじゃないか、と西川は自分を奮い立たせる。

 彼女の死をきっかけに、西川は社内の人間に手を出すのをやめたのだ。そこまで追いつめていたとは、正直思っていなかった。でも、やめようと思わなかった。やめることなどできなかった。西川には実際に触れられる体が必要だった。どんな手段を使ってもひきとめておきたかったし、できれば自分が優位に立てる条件をそろえておきたかった。隠し撮りをすることに罪悪感は湧かなかった。むしろ、そうすることで性的な快楽は高まった。
 別れを切りだされたとき、相手の秘部を所持することで西川は安心していられた。そこから得られる優越は、現実のストレスを和らげた。ストレス解消だったのだ。それによって、会社用の外面を保つことができた。どれだけ理不尽な物事が目の前に立ちふさがっても、その愉悦さえあれば、正気で生きていけたのだ。そのための餌を、西川は日常的に欲していた。

 樋口詩子と関係を持ったのは一度きりだった。それでも、撮った画像を拡散するのにそんなに時間はかからなかった。
『消してほしい』
 あのとき、彼女は確かそう言った。
 西川が聞き入れないでいたら、
『もう、消えてしまいたい』
 そう言葉を残したきり、本当に彼女は自殺した。
 遺書は残されていなかった。それは、西川にとっては幸いだったというべきだろう。彼女の死を受けて残業時間が一時問題になったものの、会社の根本は変わっていない。世間なんてそんなものだ。
 知られていないはずだった。流した画像は顔の一部が映ってしまったものもあるが、『樋口詩子』だと特定できる人間は少ないだろう。それなのに。

 何も言い返せないまま数分が経ったのち、斎藤は西川をまっすぐ見つめた。否、西川を「見つめた」のは、あのときと同じ眼差しだった。
 あのとき。
 彼女が最期に残した言葉。
『消えてしまいたい』と言ったときの。

「「『私』を返してくれないのなら、ここで私が終わらせます」」
 
 それは――斎藤の口から出た言葉のはずだった。
 しかし、『樋口詩子』が喋ったような気がして、瞬間、西川は動けなかった。
 金縛りにあったように、指一本動かせない。
(俺は、こいつに殺されるのか。自殺した彼女の亡霊に)
 西川には、彼女の姿がすでにハッキリと見えていた。あり得ないことのはずなのに、『彼女』の前に対峙していた。

 ――待ってくれ。
 そう言いたいのに、口のなかがカラカラに乾いて、何も言葉にすることができない。
 ――全部消すから。もう二度としないから。

 ――だから、殺さないでくれ。

 間近に迫った眼光のなかに、怯えている一人の男の影を西川は見た。そこには、恐怖に呑まれて動けない自分自身が映っている。
 息の根がとまりそうな一瞬。
『彼女』は、西川の足の付け根を容赦ない動きで蹴りあげた。直後――西川はその場に倒れこみ、失神して動かなくなった。